動滑車
数日が経ち、カイルは松葉杖があれば歩き回れるようになった。
ラタがキノコ狩りに連れて行ってくれるというので、カイルはラタの祖父の書き付けでキノコの予習をする。
初めて文字を教えた日から、ふたりは毎日寝る前に暖炉の灯りで勉強をしている。
ラタは半月で大文字と小文字を全て書けるようになり、それぞれが音と対応していることを理解した。
不規則な綴りには首を傾げるし、祖父の字とカイルの字が違うことに多少混乱していたが、教えてない単語を読めるようになってきている。
書き付けを読むという目標のためもあろうが、利発だし、何より記憶力が抜群に良い。
(書き付けしか読むものないの、勿体無いな……)
ラタがそれ以外を望んでいないのだから、そんなことはカイルの勝手な感傷なのだけれど。
キノコ狩りは思ったよりも楽しかった。
勝手に籠に入れようとして、毒キノコだと言われて肝を冷やしたり、町では高級なキノコを見つけたり。
収穫にほくほくして帰路につく。
普段の半分の速さでしか歩けないカイルに合わせているので、進みはゆっくりだ。
ふと見ると前の方で、野草を摘みながら歩いていたラタが崖下を覗き込んでいた。
「何みてるんだ?」
カイルもそちらに足を向け、同じように慎重に覗きこむ。
崖の下、僅か三メートルほどの岩棚に、転落したらしき鹿が横たわっていた。
ラタがぐっと目を凝らす。
「まだ目が黒い。死んだばかりだ」
「ああ……足でも滑らせたのかな」
可哀想に、と思うカイルの横で、ラタが呟く。
「鹿肉……」
ぎょっとしてカイルはラタを見る。
「あ、ああ、そうか、そうだな」
ラタはリスクを計算しているような渋い顔でとんでもないことを言いだした。
「縄はあるけど、重すぎるな。脚だけでも切っていきたい」
「切るって、あんな斜面でか? もし落ちたら、」
「死ぬな」
「だろ! だめだって!」
「よし、行ってみる」
「ラタさん! お願い! 聞いて!」
懇願するカイルに、ラタは淡々と宣告した。
「危ないこと何もしないでいたら、食べるものがない」
「いや、でも! じゃあせめて、命綱を」
「余計に危ない」
ラタは腰の荷物を下ろして準備を始める。
こんな無茶を、いつもしていたのだろうか。
カイルという食い扶持が増えたせいなのか。
カイルが怪我さえしていなければ、縄をかけてふたりで引き上げる方法もあったかもしれないのに。
カイルは松葉杖を地面に置いて、迫り出した地面から、手をついてそっと崖下を覗く。
崖の底まで、城の物見台と同じくらいの高さ。
大動物の脚の切断は身体の反動が大きい。危なすぎる。
ぎゅっと目を閉じる。
「――ラタ、あれ、……もし、丸ごととれるかもしれないって言ったら、どう思う?」
ラタはぱちぱちと目を瞬いて、端的に回答した。
「すごいと思う」
カイルは失敗できない交渉のために、慎重に言葉を選ぶ。
「その代わり、失敗したら全部落ちて、脚もとれない。
正直、成功するかは全然分からない。
でも俺の考えでは、いけるはず」
ラタはちらりと鹿を見てから、迷いなく頷いた。
「やろう」
カイルは自分の提案が正しいのか自信が持てずに、嫌な冷や汗をかく。
この方法も安全とは言えない。
だが崖で解体作業をするよりはマシなはずだ。
ナイフでベルトを切ってバックルを外し、麻縄を通す。
真鍮の枠は厚く、これなら滑車の「芯」として使えるはずだ。
もう少し丸い形が理想的だが贅沢は言えない。
「バックルが上に出るようにこれを鹿に巻き付けて、絶対とれないように括ってきて」
「ん」
ラタは短く頷くと、するすると崖を降りていった。
慎重なようにも見えないのに全く危なげがない。
(野生動物みたいだな……)
ラタの足が外れた場所から小石が崖下へ乾いた音を響かせて吸い込まれていく。
最悪の結果が脳裏を掠め、歯を食いしばる。
(神様。いつも祈るふりばかりでごめんなさい。
ラタを守ってください。
無事にグランフォードに帰れたら、今後は多分、ちょっとは奉仕活動します……!)
ラタが鹿の後脚の付け根に麻縄を巻き終える。
カイルはもう一本の縄を白樺の幹に括りつけ、強く引いて確認してから、ラタの近くに垂らした。
「それをバックルに通したら、端を持ったまま上がって……あ、縄持ってると危ない? えっと」
迷っていると、ラタは手近な石に縄を縛り、投げてよこしてきた。
また岩壁を伝って無事にカイルのところに戻ってくる。
安堵でほっと息をつくカイルに、ラタは首を傾げた。
「……これを引くのか?
あれは大人の男くらいある。
おれじゃ、重くて上げられない」
カイルは気を取り直して指示を出す。
「何か表面の滑らかなもの……あの倒木、持ってきて」
パリパリと音をたてる樹皮を一箇所だけ剥ぐ。
ぬるっとした樹液で木身は濡れている。
それを崖の縁と麻縄の間に噛ませる。
動かないように岩で位置を調整して、全体重をかけて固定する。
「よし、ラタ、後ろの木に足掛けて、体重かけて引っ張れ」
疑わしい顔をしながらもラタは縄に体重を預ける。
鹿の身体がふわりと浮き上がった。
驚いた様子のラタが、ぐいぐいと縄を引いていく。
(やった!)
カイルが喜んだ瞬間、支点にしたバックルが、きぃ、と軋む。
「ラタ、急いで! 壊れる!」
崖の縁まできた鹿を、カイルが麻縄を掴んで引く。
重さで崖の端に引きずられそうになり、心臓が凍る。
駆け戻ってきたラタが縄を掴んで、ふたりで一気に引き込む。
鹿は草地に転がり落ちた。
バックルは完全に歪み、もはや原形を留めていなかった。
崖に落ちそうになった恐怖で止まった呼吸を大きく再開する。
ラタは横たわる鹿を不思議そうに見つめ、鹿に巻いた縄を掴んで持ち上げようとするが、その身体が浮くことはなかった。
「重い……」
その呆然とした声に、カイルは尻餅をついたまま、ふはっと笑った。




