文字を教える 2
カイルは掠れそうな声を精一杯隠して、腹に力を入れた。
「…………もしかしてそれ、……冗談じゃ、なくて?」
「なにが」
「……いや、冗談っていうか、……、
心配してくれてるときの、言い方なのかなって、思ってて」
いつも、怒っている風でもなかったから、照れ隠しのようなものだと思っていた。
ラタはぱちぱちと真っ黒な目を瞬いてから、困ったように眉を下げた。
「……足を治す気がないなら出ていけって、何度も言った」
「……うん……」
カイルはラタを直視できず、床を見つめる。
自分が、一番初めから、前提を間違えていたのだと悟る。
行き倒れていたところを助けてもらって、ラタのことを山での守護者のように感じてしまっていた。
(……だって、親切の見返りも求めないし、迷惑かけても全然怒らないから……)
厄介者として虐げられたなら、「出ていけ」という言葉を冗談などとは思わなかった。
家族のように迎えられたから、家族のような甘えが許されると勘違いしてしまったのだ。
立ち尽くすカイルを、顔を顰めて見ていたラタは、しばらく何かを考えるように黙っていた。
それから一度手元に視線を落として、カイルに向き直る。
「……足に悪い。座れ」
断頭台に上げられる気分でカイルはラタに向き合って座り直す。
ラタはゆっくりと、今までで初めて、長い言葉で説明した。
「おまえの足は、たぶん、ちゃんとすればひと月くらいで治る。
春だから、ひと月なら面倒見れると思った。
だけど無理をすると治らない。
長い期間は、おれは、ふたりぶんはできない。
ふたりとも死ぬ。
だから、おまえが足を治す気がないなら、おれはおまえを助けられない。
助けられないなら、おれは、おまえの面倒はみない」
おそらくラタも、カイルがそんなことも分かっていなかったことに、今気づいたのだろう。
説明された事実が胸に重く落ちる。
カイルは、自分がこんなに頭が悪いと思ったのは、人生で初めてだった。
「……ごめん」
「おまえは寝てろと言ったら寝てた。
だから、分かってなかったことは、もういい。
これから、どうする。足を治して出ていくのか、今出ていくのか、おれを追い出してこの家を奪うのか」
みっつめの選択肢に愕然とする。
一瞬、そんな風に思われていたのかという悲しさが湧く。
それから、本当に何も分かっていなかった自分に落ち込む。
ラタにとっては、カイルは、触れば袋叩きにされるかもしれない対象だった。
連れ込めば棲家を奪われることもありうる。
そんな中で保護してくれたというのに、自分は何を甘いことを考えていたのだろう。
「……ごめん。ちゃんと、足を治す」
「分かった」
ラタの返事は、いつも通りの素っ気ないものだった。
翌朝もラタはいつも通りカイルの包帯を巻き直してくれた。
乾燥中の野草の手入れの仕方を説明して、紐にするイラクサを寝台の横に山盛りにして、外へ出かけて行った。
昨日までと同じ距離感で、昨日までと同じように世話を焼いてくれる。
それが名前を呼ぶほどでもない関係だったことに、勝手にカイルの胸が沈む。
ここはカイルの父が治める土地ではない。
もし本当にカイルを拐ったのがバルモア伯爵だとすれば、カイルを匿ったことでラタはとばっちりを受ける可能性さえある。
勝手に仲良くなれた気がして、それが嬉しくて、そんなことにすら思い至らなかった。
(早く足を治して出ていくのが一番ラタのためになる。
日々の些細な手伝いなんか、それに比べたら……)
仲良くなったつもりだった相手に、いなくなることが一番喜ばれるのだという事実は、流石のカイルにも重かった。
ぐっと口を引き結んで、カイルは黙々と野草をかき混ぜ、紐を撚る。
今は、それしかできない。
だから、それだけは、やるのだ。
昼食を温めたあとも、ひたすら紐を撚る。
暖炉の火に灰を被せていると、ふと昨日の石板が目に留まる。
いつの間に書いたのか、ラタの名前と、三つの植物の名前がいくつか増えている。
(……俺がいるうちに、お祖父様の書き付けがある程度読めるようになると、いいな……)
忙しいのにひとりで練習をしたラタも、そう考えたのかもしれない。
そんなことを思いながら石板を見つめていると、単語の群れの中にひとつだけ見慣れない綴りがある。
『IXXLE』
見たことのない単語だ。
「……? イッ……クスル……? イクスレ?」
何かの記号だろうか。
IXX――ここで既に規則が崩れる。
少なくとも、カイルの知る言語ではない。
そもそも、昨日カイルは、練習されている四つの単語しか見本を書いていない。
「I、X、X、L、E……」
もしかしたら、LEもアルファベットではないのかもしれない。
(――あ、)
その白い線を、単語ではなく形として捉えてみて、カイルは昨夜、石板に書いた単語を思い出す。
ラタ、
シダ、
マツ、
ヘザー、
それから――
(……『KYLE』、だ)
黒を背景にした拙い白亜の直線が、唐突に自分の名前を結ぶ。
息を詰めるように、カイルはもう一度最初から読む。
指でなぞって消してしまいそうになり、慌てて手を引いた。
一度見ただけのカイルの名前を、ラタが綴ろうとしていた。
――カイルはそれだけで、もう十分だと思った。




