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捨てられ貴族と山暮らしの少年  作者: 花鶏
§ 山の暮らし §
10/24

文字を教える 1


 ナイフの手入れを終えたラタが椅子に座る。


「終わった。字、教えて」

「おっ、まかせろ」


 イラクサの束を脇に寄せ、ゆっくり机に移動する。

 だんだん足に負担をかけない動き方が身についてきた。


 ラタに外で探してきてもらった、薄く平たい大きな黒石と、いくつかの小さな白石。

 軽い白石で黒石を擦ると、すっと白亜の線が引け、強く擦れば消える。

 天然の筆記具だ。


「とりあえず、ラタの名前と、俺の名前かなー」


 黒い石板に『Rata』と書きかけて『RATA』と書き直す。

 先ずは大文字からだ。


「これがラタの名前」


 指で示され、ラタはその形を見下ろす。


 手にとった小石でそのまま真似る。

 線は歪み、角度も位置もちぐはぐだが、それらしく書けている。


「おぉ。R以外は完璧じゃん。初めてでこれだけ書けたら上出来」

「アールってなに」

「ひとつめの字の名前」


 その言葉に、ラタはもう一度、最初から書き直した。

 どうにも曲線が上手くいかないようだ。


「できた」

「惜しい。斜めの線は、ここのカーブを突き抜けない」


 何度か繰り返すと、最初はできていたところが失敗していたりする。


「もう少し大きく書くといいよ。

 ……地方によっては、RじゃなくてLで書くところもあるから、そっちにするか?」

「エルってなに」

「こういう文字。直線だけだからRより書きやすいだろ」


 ラタは合槌もうたず、ただ黙ってもう一度自分の名前を書いた。


「左右が逆だよ。……Rがいいのか?」

「文字が、おれが書けなかったから変わるのは、おかしい」

「確かに」


 カイルは身分を隠して町に降りるのが好きだ。

 『ただのカイル』として酒場で飲み、チェスを指し、市場で買い食いをする。


 時折、仲良くなった町の子どもに字を教えることがある。

 彼らは五回やってできないことは投げ出しがちなので、カイルは先ずは続けさせることを優先していた。


 いや、大人にも教えたことがあるが、大人だって半分は投げ出す。

 彼らはラタよりも、日常で文字の便利さを感じているはずなのに。


「嫌になったりしない? 大丈夫?」

「初めてのことができないのは、当たり前のことだ」

「うわ。ラタ君、かっこよすぎん?」


 だから、ラタはカイルが失敗しても怒らないのだろうか。


「少し練習したら、別の単語をやろう。

 こういうのは、毎日ちょっとずつやった方がいいんだ」


 たくさんの失敗を擦って消す。


 新しいスペースに『KYLE』と書いてみせる。


「これが俺の名前」


 直線ばかりで書きやすそうだ。

 ラタは自分の名前より、カイルの名前を先に書けるようになってしまうかもしれない。そんなことを考えてから、ふと気づく。


(……あれ?)


 カイルは静かに息を呑む。


(……もしかして、ラタって、……俺の名前、一度も呼んだこと……ない……?)


 普通におしゃべりして、食卓を囲んで、生活を共にしている。


 なのに、記憶の中のラタが口にする言葉は、いつも「金持ち」か「おまえ」だ。


 ぶっきらぼうだけど優しいラタは、カイルの中ではもうしっかりと『ラタ』になっているのに。


(……え、待って、ほんとに? 一度も? ただの一度も?)


 心臓が冷えて、急に指先が冷たくなる。

 カイルは慌てて石板の自分の名前を消した。


 白い線が綺麗には消えきらず、動揺を隠すようにその上にガリガリと意味のない線を引く。

 黒石に消えない傷が付く。


「あ、ほら、強く書きすぎると、こんな風に、撫でても消えなくなっちゃうから、気をつけて」


 動揺を隠して無理矢理笑顔を作る。


「えっと、ラタは、何か書いてみたい言葉はある?」

「ない」

「そう? ……あ、お祖父様の名前は? なんていうの?」

「しらない」


 ラタの答えに、カイルは自分の名前を消していた手を止める。

 動揺のせいで聞き間違えたのかと思い、聞き直す。


「……お祖父様の、名前……」


「忘れた」


 書き付けを見せてくれた時。山柳の薬を作った時。

 ラタの「じいちゃん」という声に違和感を感じることはなかったように思う。


 カイルは慎重に言葉を選ぶ。


「……あんまり、仲良く、なかった……?」

「名前が分からなかったら、仲良くないことになるのか?」


 真顔で聞き返されてカイルは返答に詰まる。


(……だって……もし俺が、お祖父様の名前を忘れたなんて言う時は、怒られて拗ねてる時くらいで……)


 ラタはいつものように淡々と話す。


「じいちゃんは、じいちゃんだ。

 そうやって呼んでたから、名前は忘れた。

 知ってたかもしれないけど、たぶん、ひとりになってしばらく大変だったから、忘れた」


 カイルは先日の話を思い出す。


 ラタの祖父はだいぶ前に亡くなり、以来は一人暮らしだと言っていた。――だいぶ前とは、いつのことだろう。


 ラタは、いったい何歳から、ひとりで生きているのか。


「……そっか。じゃあ、書き付けにある単語からやってくか」


 そうしてカイルは短い植物の名前をみっつ選んで見本を大きく書き、ラタは指示通りに書き取りをした。


 書き取りを終えたラタは、珍しく疲れて見えた。


 カイルは先ほどの焦燥に突き動かされるように早口で言う。


「慣れないことって疲れるよな。

 あ、薪の補充、俺がやっとくよ。裏から持ってこればいい?」

「いらない。足に悪い」


 いつもの素っ気ない、けれどカイルの足を気遣う言葉に少し安堵する。


「もうだいぶ良いんだよ。ラタは座ってて」

「いらない。足を治す気がないなら、出ていけ」

「またまた、そんな意地悪言って」


 立ちあがろうとするカイルに、ラタはちらりと視線を向ける。


「出ていくのか? 食糧、少しなら持っていっていい」


 紐の作り方を説明するときと変わらない口調。


 当たり前のことのようなラタの様子に、カイルの背中を、ざわりと冷たいものが駆けあがった。



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