第9話「記録者の告白(未遂)」
朝は、同じ形をしている。
同じ音で始まって、同じ匂いがして、同じ顔が目の前を通り過ぎる。そういうものだと思っていた。
でも、今日は違った。
商店街の角を曲がると、いつもなら店先で新聞を広げている老人がいない。代わりに、段ボールを積んだ配達員が立ち止まっていて、通行人がその横を避ける。
俺は足を止めずに、視線だけを横に流した。
空気が薄く引っかかる。
昨日から、ずっとそうだ。世界が、ほんのわずかに噛み合っていない。
「おはよう、天城」
後ろから声が飛んできた。
トオルだ。いつも通りの声。いつも通りのテンション。
俺は振り返りながら手を上げた。
「おはよう。今日は早いじゃん」
「いや、俺がいつも早いんだよ。お前がだいたいギリだろ」
「そうだっけ」
「そうだっけじゃねえよ」
トオルが笑う。
俺も笑う。
笑えるうちは、平気だと思う。
だけど、その直後に来た一言で、笑いが喉に引っかかった。
「……あれ? お前、今日髪切った?」
「切ってねえよ」
「え、マジ?」
トオルは俺の頭をじっと見る。
髪はいつもと同じ長さだ。朝に整えたわけでもない。寝癖が残っているくらいだ。
「切ってない。寝癖だろ」
「寝癖にしては妙にスッキリしてるっていうか」
「お前、目悪くなった?」
「お前よりはマシだわ」
軽口を叩く。
いつも通りの朝の会話。
なのに、胸の奥が変に冷えた。
髪を切ってないのに、切ったと言われる。
昨日までは、こういうズレは俺だけが感じるものだった。見えるはずの文字が見えないとか、音が遅れるとか。
人の記憶まで、ずれてきている。
学園の門が近づく。
校門の警備が今日も淡々と生徒を通している。金属探知、端末認証、いつもの手順。
それが妙に安心する。
同じ手順があるだけで、世界はまだ保っていると思える。
昇降口へ入ると、いつもの匂いがした。ワックスと、濡れた傘の残り香と、靴箱の木の匂い。
俺は靴を履き替えながら、レナを探した。
神代レナは、最近ずっと俺の近くにいる。
近くにいるのに、手が届かない感じがする。
見つけた。
廊下の向こう、窓際を歩いてくるレナは、いつも通り背筋が伸びている。歩幅が小さい。音がしない。
目が合う。
レナは一瞬、息を止めたみたいに見えた。
それでもすぐに、普段の顔に戻る。
「おはようございます」
「おはよう。今日も元気そうだな」
俺が言うと、レナは返事の代わりに少しだけ眉を寄せた。
それだけで、元気じゃないのが分かる。
教室に入ると、空気がいつもと違った。
いつもなら、もう来ているはずのやつがいない。席が空いている。
誰だっけと一瞬考えて、そこで自分に嫌な感覚が走った。
俺は、あいつの名前をちゃんと思い出せない。
いつも一番に来て、机に突っ伏してスマホをいじってるやつ。
顔は浮かぶのに、名前が出てこない。
俺は自分の席に座って、ペンケースを開けた。
そのとき、教室の扉が勢いよく開いた。
「すみません、ギリセーフ!」
走り込んできたのは、さっき名前が出なかったやつだ。息を切らしている。額に汗。
クラスが笑う。
「珍しー」
「お前遅刻するかと思ったわ」
「朝の電車がさ、なんか変でさ!」
本人が言い訳を始める。
俺はその声を聞きながら、やっと名前が出た。
出たのに、遅い。
記憶が、引っかかる。
先生が入ってくる。
ドアが開くタイミングは、いつもと同じだと思った。だけど、今日は違った。
先生が教壇に上がる前に、チョークを落とした。
白いチョークが床に転がって、乾いた音が二回鳴った。
普段なら、あの音は一回だ。先生は落とさない。落としても一回。
俺は音の回数を数えてしまった自分に気づいて、奥歯を噛んだ。
こういう細部が気になるのが、嫌だ。
俺がおかしいみたいだ。
「はい、席つけー。ホームルーム始めるぞー」
先生の声はいつも通りだ。
なのに、教室のざわめきの順番が違う。いつも先に笑うやつが後から笑う。いつも先に席につくやつが最後まで立っている。
いつもの朝が崩れている。
俺は机の上のペンを握って、力を抜いた。
それでも指先が冷たい。
昼休み、端末が震えた。
画面を見る。
レナからのメッセージ。
短い文章だった。
「お話したいことがあります。屋上に来てください」
俺は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
レナが、こういう呼び出し方をするのは珍しい。
いつもは言葉を削って、必要なことだけを伝えるのに、今日は「お話したい」と書いてある。
俺は立ち上がった。
トオルが箸を持ったまま言う。
「どこ行くんだよ。パン半分やるから座れ」
「屋上。ちょっと用事」
「屋上? 告白か?」
「うるせえ」
「照れてる」
「照れてない」
軽口はいつも通りに返せた。
返せたけど、足の裏の感覚が薄い。
階段を上がる。
踊り場の窓から、街が見える。
遠くのビル群、その向こうの空。雲は薄く、青が広い。光が眩しいのに、冷たい。
屋上の扉を押すと、風がぶつかってきた。
強くはない。けれど、温度が低い風。
フェンスの近くにレナがいた。
髪が風で揺れて、銀色が光る。制服の襟が少しだけ浮く。
背中がまっすぐで、フェンスにもたれているのに崩れていない。まるで、体の中に一本筋が通っているみたいだ。
レナは俺に気づくと、すぐにこちらを向いた。
目が、逃げない。
「来てくれて、ありがとうございます」
「呼び出したのはそっちだろ」
俺は屋上の端まで歩いて、レナの横に立った。
空が広い。
街の音が遠い。校庭の掛け声、グラウンドの笛、窓から漏れる笑い声。それらが一枚の膜越しに聞こえるみたいだった。
レナは少しだけ口を開いた。
言葉を出す前に、息を吸う。
その吸い方が、普段より浅い。
「あなたは、今の世界が最初だと思っていますか」
いきなり核心みたいな質問だった。
俺は笑ってごまかそうとしたが、口がうまく上がらなかった。
「最初って、何の?」
「あなたが今、歩いているこの世界です」
レナの目は揺れない。
揺れないのに、目の奥が疲れている。
俺は屋上のコンクリの床を見た。
ひび割れの形まで、記憶にある気がする。
そういう感覚が、最近増えた。
「最初かどうかは分かんねえけど、変なのは分かる」
「変、というのは」
「順番が違う。人の言うことが違う。昨日と同じ朝のはずなのに、同じじゃない」
俺は自分で言いながら、喉が乾いているのに気づいた。
舌がうまく動かない。
レナは小さく頷いた。
その動きだけで、俺の言葉が正しいと認めたのが分かった。
レナはフェンスから体を離した。
両手を前で組む。
指先が白い。
「私は……」
レナの声が少しだけ擦れた。
たぶん、言ってはいけないことを言おうとしている。
「私には、あなたに言わなければならないことがあります」
「今さらだな」
俺は言った。
軽口のつもりだったけど、声が妙に真剣になった。
「お前、俺に隠してること多すぎる」
レナはほんの少しだけ目を伏せた。
風が髪を持ち上げる。
銀の糸が空に散って、また肩へ落ちる。
「ごめんなさい」
その謝り方が、俺の胸を刺した。
謝らなくていいと言いたくなる謝り方だった。
レナは顔を上げる。
そして、言った。
「私は……何度も、あなたが死ぬところを見ました」
屋上の風の音が、遠くなった気がした。
俺は反射的に、笑おうとした。
冗談として処理すれば、頭が楽になる。
でも、できなかった。
レナの目の色が、冗談を許さない。
俺は喉の奥が硬くなるのを感じた。
「……何言ってんだよ」
声が低くなった。
レナの肩が、ほんのわずかに揺れた。
泣いたわけじゃない。
怒ったわけでもない。
ただ、体が耐えきれていない揺れ。
レナは拳を握った。
爪が掌に食い込んでいるのが分かる。指の関節が浮いて白い。
「あなたが倒れる瞬間も」
レナは続けようとした。
「あなたの声が途切れる瞬間も」
「やめろ」
俺は言った。
止めたかったわけじゃない。
言わせたいのに、言葉が勝手に出た。
聞くのが怖いのかもしれない。
俺の中で、何かが形になってしまうのが怖い。
レナは唇を噛んだ。
噛んだまま、言葉を飲み込む。
そのときだった。
チャイムが鳴った。
全校放送の、あの音。
屋上まで届く高い電子音が、レナの言葉を切った。
俺は天を仰ぐ。
最悪のタイミング、ってやつだ。
放送が始まる。
「全校生徒に連絡します。これより体育館に集合してください。本日、特別な模擬戦イベントを行います」
先生の声は淡々としている。
模擬戦。
今、このタイミングで。
レナは顔を伏せた。
髪が顔の横に落ちて、表情が隠れる。
肩が少しだけ沈む。
「最悪のタイミングです……」
レナが小さく言った。
俺は歯を食いしばって、息を吐いた。
「おい、さっきの話。何の話だ」
俺は放送が終わる前に聞いていた。
レナが言ってしまった言葉を、放置できなかった。
レナは顔を上げた。
その目は、さっきより冷静に戻ろうとしている。
戻ろうとして、戻れていない。
「いずれ、必ずお話しします。今ではありません」
「今じゃなきゃいつなんだよ」
俺は強い口調になりそうで、わざと軽く言った。
「俺、今の話、信じろって言われても信じられねえけどさ」
レナは少しだけ眉を寄せた。
「信じなくてもいいから教えてくれ、って言ったら?」
風が吹く。
レナの髪が揺れる。
その揺れの中で、レナはほんのわずかに目を閉じた。
目を閉じた時間は一瞬なのに、長く感じた。
「今ここで言ってしまえば」
レナの声が小さくなった。
「あなたは……」
言葉が途中で止まる。
レナは首を振った。
否定じゃない。
自分を止める動きだ。
俺は思わず、言った。
「怖いなら、一緒に怖がるからさ」
言ってから、俺は自分の台詞が青臭いと思った。
でも、取り消せなかった。
俺は真面目だった。
レナは一瞬だけ目を見開いた。
その後、視線を逸らした。
逸らす動きが早い。
早すぎる。
泣きそうに見えた。
泣かないのに、泣きそうに見える。
「ありがとう」
レナは言った。
笑わない。
でも、言葉の端に熱が滲んだ。
「でも、今ではありません」
それだけだった。
放送がもう一度鳴った。
「繰り返します。全校生徒は体育館に集合してください」
俺は屋上の空を見た。
青い空は、何度見ても同じ青いはずなのに。
今日の青は、薄い。
色が抜けたみたいに見える。
俺たちは屋上を出た。
廊下に戻ると、生徒が体育館へ向かって流れていく。足音が増えて、声が増えて、空気が熱を持つ。
レナは俺の横を歩く。
距離が近い。
なのに、さっきより遠い。
俺は何度も口を開きかけて、閉じた。
言いたいことは山ほどあるのに、言葉にすると崩れそうだった。
階段を下りる途中で、背後から声がした。
「いいところだったのにね」
耳元に囁かれるような声。
俺は振り返った。
クロノがいた。
相変わらず中性的な顔で、相変わらず楽しそうに笑っている。目だけが冷たい。
この状況を面白がっている笑いではない。
知っている者の笑いだ。
「お前、どこから聞いてた」
「さあ?」
クロノは肩をすくめる。
「屋上って風が通るから、声が運ばれやすいんだよ。数学的にもね」
「数学の使い方が雑なんだよ」
俺が言うと、クロノはニコニコしたまま頷いた。
「続きは、模擬戦の後で、かな」
その言い方が、決めていたみたいで腹が立った。
レナが露骨に警戒する。
体の向きがクロノに対して斜めになる。剣を抜ける角度だ。
クロノはそれを見ても気にしない。
「怖い顔しないでよ、記録者。今はまだ、壊れてない」
レナの目が一瞬だけ鋭くなる。
「あなたは、どこまで知っているのですか」
「知ってることは知ってるし、知らないことは知らないよ」
クロノは曖昧な答えを、平気で言った。
そして俺を見る。
「天城ユウ。きみは、思ってるよりずっとおかしい」
俺の右腕が、また疼いた。
ない傷があるみたいに。
俺は拳を握った。
「おかしいのはお前だろ」
「そうかもね」
クロノは軽く笑って、群れの中へ戻っていった。
俺はその背中を見送りながら、喉が乾いていくのを感じた。
レナが横で、何も言わない。
言えないのかもしれない。
言わないのかもしれない。
体育館が近づく。
扉の前に教師が立って、列を整えている。
中からは、声が反響して聞こえる。生徒のざわめき。床を踏む音。準備の気配。
俺は扉の前で立ち止まりそうになった。
ここから先に入ったら、何かが決まってしまう気がした。
でも、レナが一歩先に進んだ。
俺はその背中を追った。
体育館の扉が開く。
光が差して、音が膨らむ。
俺たちは中へ入る。
扉が閉まる。
重い金属の音が、最後に残った。
ガチャン。
その音が、何かの合図みたいに耳に残った。




