第8話「ネメシス幹部、来訪」
朝の商店街は、いつもなら平和だ。
パン屋の焼けた匂いが流れてきて、魚屋の氷が砕ける音がして、通学する生徒の足音が交じる。ミレニアの朝は騒がしいのに、その騒がしさが安心だった。
今日は違った。
まず、車が二重に見えた。
交差点を曲がってきた配送車の輪郭が、ほんの一瞬だけずれて、残像みたいに横に伸びた。目が疲れてるのかと思って瞬きをしたら、今度は信号機の表示が遅れて切り替わった。
青が青のまま止まって、次の瞬間いきなり赤になる。
「朝から手品かよ」
俺は小さく言って、歩幅を変えずに進んだ。
笑っておかないと、喉が詰まりそうだった。
次に、遠くの会話が遅れて聞こえた。
俺の前を歩く制服の女子二人が、何か話して笑っている。唇は動いているのに、音だけが数秒遅れて俺の耳に届く。映像と音がずれる。端末で古い動画を見たときの、あの嫌な感じだ。
俺は足を止めずに、耳の奥を押さえる。
当然、治らない。
最後に、人の歩き方がカクカクした。
向かいから来たサラリーマンが、一歩踏み出して、戻って、また同じ一歩を踏み出す。ループ再生みたいに、同じ動きだけが繰り返される。
周りの誰も気づいていない。
誰も「今の見た?」と言わない。
俺だけが、ずれている。
昨日の夜、視界が砂嵐みたいになって、世界がほどけていく感覚があった。寝て起きたら、戻っていた。戻っているのに、戻りきっていない。
それが、今日の朝だった。
学園の門が見える。
門前にはいつも通りの警備システムと、いつも通りの教師の見張り。いつも通りの生徒の列。
だけど、空気が重い。
薄い膜が一枚、世界にかぶさったみたいに。
「天城」
声が後ろから来た。
振り返ると、レナがいた。
神代レナ。相変わらず背筋が伸びていて、歩き方が静かで、目だけが鋭い。
今日は、いつもより距離が近い。
俺の背後にぴったりつくような位置。昨日の「離れないでください」がまだ効いている。
「大丈夫ですか」
「大丈夫に見える?」
「見えません」
即答だった。
俺は笑って誤魔化そうとした。
「まあ、朝から世界がカクカクしてるだけだよ。ゲームなら再起動だな」
レナは笑わない。
視線が門の向こうへ向く。何かを探している目だ。
俺も同じ方向を見る。
学園の中庭が見えた。
そして、そこで初めて、俺は気づいた。
灰が降っていた。
雪みたいに細かい粒子が、空気の中を舞っている。太陽の光を受けてきらきらするわけじゃない。光を吸うように鈍く落ちる。
風の向きと関係なく、真下に沈んでいく。
学園の中庭だけ。
周囲の木々の葉に触れた灰は、そこに残らない。
触れた瞬間に、消える。
俺は手を伸ばした。
掌に灰が落ちる。冷たくはない。熱くもない。何もないのに、皮膚の表面がざらつく感覚だけが残る。
次の瞬間、粒子は消えた。
触れた事実だけが残る。
レナの顔色が一段階落ちた。
「……侵入されました」
その声は小さいのに、妙に響いた。
「侵入って、誰が」
俺が聞くと、レナは答えなかった。
答えられないんじゃない。答える前に、確信がある顔をしている。
俺の右腕が、軽く疼いた。
ない傷が、そこにあるみたいに。
中庭を抜けて、学園中央ホールへ向かう途中、生徒たちがざわつき始めた。
「何これ、灰?」
「演出? 訓練?」
「また防災訓練じゃね?」
昨日のドローン暴走が頭をよぎる。
俺は自然に足を速めた。レナも同じ速度でついてくる。あいつは走らない。走っても崩れないように、最短の動きで前へ出る。
中央ホールは広い。
白い床。高い天井。壁面に学園の紋章が浮かぶホログラム。朝礼や式典に使う場所だ。
そこに、生徒が集まり始めていた。
教師もいる。
警備ドローンもホールの上部を旋回している。
空気の中を灰粒子が漂って、光の筋が見えた。
その中央に、誰かが立っていた。
灰色のローブを羽織った男。
背が高い。細身。動きが無駄に滑らかで、周囲のざわめきを切り離しているみたいに見える。
顔は半分、仮面で覆われていた。
白い仮面。口元は見える。笑っているのかどうか分からない薄い表情。
年齢は二十代後半くらい。
整った顔立ちで、肌が白い。目が冷たい。街にいればモデルか俳優でも通りそうなのに、ここにいる理由だけが異物だった。
教師が前へ出る。
「君、ここは関係者以外立ち入り禁止だ。すぐに身分を――」
男は教師を見るより先に、床に落ちた灰粒子を指先でつまんだ。
つまんだはずの粒子は消える。
男はその指先を眺めて、ふっと息を吐いた。
そして、教師の結界に手を伸ばした。
教師が展開した透明の壁。生徒を守るための防御結界。昨日、ドローンのビームを弾いたやつ。
男の指が、その壁に触れた。
音がした。
ガラスが割れるような、乾いた音。
透明の壁にひびが走って、次の瞬間、霧みたいに崩れた。
教師の顔が青ざめる。
生徒たちのざわめきが一段階上がる。
俺は背中が冷えた。
あれを素手で。
男はようやく、こちらを見た。
視線が、群衆の中を滑っていく。
俺に止まった。
その瞬間だけ、俺の耳の奥が妙に静かになった。
「やあ」
男は軽く言った。
友達に挨拶するみたいな声で。
「前の君は、もっと怖かったよ」
俺は瞬きをした。
意味が分からない言葉なのに、心臓が嫌な跳ね方をした。
前の君。
前の俺。
レナが一歩前に出た。
剣を抜いた。
いつもは背負っているだけのあの剣を、迷いなく抜く。鋼の音がホールに響く。灰粒子がその音に震えたように見えた。
「退いてください」
レナの声は低い。
「この場はあなたの遊び場ではありません」
男は楽しそうに眉を上げた。
「遊び場? 違うよ。ここは舞台だ。僕らはいつも、舞台に呼ばれる」
レナはその返事を待たずに踏み込んだ。
床を蹴る音が小さい。なのに距離が一気に詰まる。レナの剣が一直線に男の喉元へ走る。
男は避けない。
ほんの少しだけ体をずらす。
剣が空を切る。
レナは続けて二撃、三撃。
剣の軌跡が光の線みたいに見えた。夕方でもないのに、レナの銀髪が灰の中で浮く。あれは絵になる瞬間だ。見惚れる余裕なんてないのに、目が離せない。
男は笑っている。
余裕がある。
レナの剣が男のローブを掠めても、布が裂けるだけで、本人は無傷。
男は片手で、空気をなぞった。
灰粒子が集まる。
それが壁みたいになって、レナの剣を弾く。
金属音が鳴った。
レナが少しだけ体勢を崩す。
男はその隙に、レナの耳元へ言った。
「相変わらずだね、記録者。何百回繰り返しても、君は彼を守りたがる」
レナの動きが止まった。
止まったのは一瞬。
けど、その一瞬が致命的になり得る。
「あなたは……前世界で……」
レナは言いかけて、言葉を切った。
唇が震えたわけじゃない。声が掠れたわけでもない。なのに、言えないものがあると伝わってくる。
男は満足そうに肩をすくめる。
「そうだよ。君が知っている通りだ」
レナは歯を食いしばる。
また踏み込もうとする。
俺はその背中を見て、初めて気づいた。
レナが戦っているのは、敵だけじゃない。
言葉。
記憶。
それを抱えたまま、剣を振っている。
その背中が、妙に小さく見えた。
俺は足を動かしていた。
考える前に。
レナの横へ出ようとした。
「ユウ、来ないで」
レナが言った。
振り返らずに。
俺のことを見ずに。
それだけで、胸の奥に熱いものが走った。
守られるのが嫌だとか、男のプライドだとか、そんな綺麗な理由じゃない。
結果だけが嫌だった。
レナが俺のために、ひとりで痛い顔をするのが。
男が俺を見て、笑った。
「動けるのはいい。でも、前の君ほど鋭くない」
「前の俺って、誰だよ」
俺は言った。
声がいつもより低い。
「俺は俺だろ」
「そうだね。今の君は、君だ」
男は頷くように言った。
俺を評価するみたいな目で。
その視線が腹立たしかった。
「じゃあ名乗れよ。誰だよ、お前」
男は少しだけ首を傾げた。
そして、笑った。
「灰冠。クロウとでも呼んで」
クロウ。
名前を聞いた瞬間、周囲の教師が息を飲んだのが分かった。
知っているのか。
学園側も、知っている。
この男がただの侵入者じゃないことを。
クロウは、俺に向き直った。
「君の再誕は世界の基幹だ。君を奪えば、この世界は僕らの意のままになる」
再誕。
昨日から耳に入っている単語。
なのに、意味がつかめない。
「俺が世界?」
俺は思わず言った。
「そんな大層な役、俺は頼んでない」
クロウは小さく笑った。
「やはり、前の君のようにはいかないか」
失望したみたいに。
期待していた玩具が思ったより動かないと知ったみたいに。
俺の右腕が痛んだ。
見えないナイフが刺さるみたいに、皮膚の内側が裂ける。
俺は拳を握って、痛みをごまかす。
レナがクロウの前に立つ。
剣を構え直す。
肩が少しだけ震えている。
それでも、目は折れていない。
「あなたは、ユウに触れないでください」
レナは言った。
その言い方が、お願いじゃなく命令に聞こえた。
クロウは愉快そうに頷く。
「触れないよ。今日はね」
クロウは一歩、後ろへ下がった。
灰粒子が、彼の周囲に集まる。
ローブの裾が揺れる。
「いずれ迎えに来る。君は鍵だ。鍵は持ち主のところへ戻る」
クロウの言葉が、ホールの空気を汚した。
教師が前へ出ようとする。
でも、足が止まる。あの結界を割られた記憶が、体を縛っている。
警備ドローンが距離を詰める。
クロウはそれを見ても、眉ひとつ動かさない。
灰粒子が一気に濃くなる。
まるで、空間が削られていくみたいに。
クロウの輪郭が薄れる。
灰の中に溶ける。
最後に、彼の視線が俺に刺さった。
そして消えた。
残ったのは灰粒子だけ。
それも、数秒で消えた。
ホールはざわめきで満ちた。
「今の何」
「やばくない?」
「結界、割れた……」
教師が叫ぶ。
「落ち着け! 全員、動くな! 情報統括室へ連絡を――」
学園側の対応が遅い。
というより、追いついていない。
俺はその場で立ち尽くして、レナを見た。
レナは膝をついた。
床に手をついていない。崩れたわけじゃない。自分の体を保つために、わざと膝を折った。
首だけが少し下がる。
銀髪が肩に落ちる。
拳が白くなるほど握られている。
声は出ない。
でも、息が乱れている。
唇が少しだけ開いて、閉じる。言葉にならない音が漏れそうで漏れない。
俺は近づいた。
レナの前にしゃがむ。
肩に触れた。
軽く。
触れた瞬間、レナの体がわずかに震えた。
俺はそれを見て、胸の奥が痛くなった。
俺は今まで、レナを強いと思っていた。
強いのは事実だ。
でも、強いから平気じゃない。
強いから、毎回ひとりで抱える。
「……また狙われる」
レナが絞り出すように言った。
涙は落ちていない。
睫毛の先が湿っているかどうかも分からない。
ただ、喉の奥が硬くなっているのが見えた。
呼吸が浅い。
指先が冷たい。
泣いていないのに、泣いている。
俺は肩に置いた手に力を込めた。
「大丈夫だ」
俺は言った。
言葉が軽くならないように、ゆっくり。
「俺はここにいる」
レナの目が上がった。
俺を見る。
その目は、昨日までと違った。
何かを知っている目。
何かを見送ってきた目。
それでも今、俺を見ている目。
俺は思った。
守られるのは、もう嫌だ。
レナが俺を守るために、ひとりで崩れるのが嫌だ。
俺は俺のことをまだ何も知らない。
再誕が何なのかも、世界の鍵が何なのかも。
でも、ひとつだけ分かった。
あいつらはレナを利用する。
レナが俺を守ろうとすることを知っていて、そこを刺す。
だから、俺は。
俺はレナを守らないといけない。
それが、俺の中で初めて形になった意識だった。
レナは何も言わなかった。
ただ、俺の手首を掴んだ。
力は弱い。
でも、離さない力だった。
ホールの外で教師が走り回り、警報が遅れて鳴り、情報統括室へ繋ぐ声が響く。
学園には裏の権限がある。
それを使う時が来たらしい。
俺は、レナの指先の冷たさを感じながら、心の奥で静かに確信した。
ネメシスは、もう噂じゃない。
そしてクロウは、俺の「前」を知っている。
なら。
次に会う時、俺は今のままじゃいられない。
俺はレナの肩から手を離さずに、もう一度だけ言った。
「絶対、死なせない」
誰を、とは言わなかった。
たぶん、両方だ。
自分も。
レナも。
その言葉の重さを、俺はまだ測れなかった。
でも、言った瞬間に世界が少しだけ静かになった気がした。
嵐の前の静けさみたいに。




