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一番嫌いで、一番好きな君を救うために、俺は何度でも世界をやり直す  作者: 妙原奇天


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第7話「歪んだログ」

 朝の教室は、昨日より少しだけ騒がしかった。

 誰かが大声で笑って、誰かが机を叩いて、窓の外の警備ドローンがいつも通りの高さで通り過ぎる。ミレニアは相変わらず忙しそうで、学園も相変わらず「普通」を保っている。

 俺だけが、その普通に遅れている気がした。

 昨日の夕方、レナに言われた。

 お前はもう何度も死んでいる。

 言葉の意味が分からないまま、分からないことだけが確かに残った。眠れば忘れるかと思ったけど、そんな都合のいい話じゃなかった。

 俺は自分の右腕を見下ろす。

 傷はない。包帯もない。

 それでも、皮膚の内側が熱を持っている。何もないところが、いつでも痛める準備をしているみたいに。

「……天城くん、だよね?」

 声をかけてきたのは、前の席の女子だった。

 名前は知っている。たぶん、あいつも俺の名前を知っているはずだ。普段は普通に話す。同じ班になったこともある。俺のことを「天城」って呼ぶのが当たり前のやつだ。

 なのに、今の言い方は確認だった。

 本人も「間違えたくない」と思っている顔をしている。

「そうそう、天城だよ。覚えといて」

 俺は笑って返した。

 冗談っぽく言って、空気を軽くして、何事もなかったみたいに終わらせる。こういう時、俺はそうするのが一番楽だと知っている。

「ごめん、なんか……一瞬、名前が出てこなくて」

「あるある。朝だし」

「だよね」

 女子は安心したみたいに笑って、自分の席に戻った。

 周りは気にしていない。トオルも「お前、存在薄いからじゃね?」とか言って笑う。

「おい、俺を透明人間扱いすんな」

「いや、透明人間は透明人間で強いだろ。スパイだぞ、スパイ」

「お前のスパイは全部うるさい」

 いつものやりとり。

 それで済むならよかった。

 けど、俺の視線は窓際へ行ってしまう。

 神代レナが、こちらを見ていた。

 見ていたというより、俺の周りの空気を見ているような目だった。表情は変わらない。いつも通りの静けさ。

 でも、目の奥が暗い。

 俺が名前を忘れられた瞬間だけ、レナのまぶたが少し下がった。

 それが、妙に重かった。

 ホームルームが始まって、授業が始まって、朝の時間割は淡々と進んだ。

 数学の時間。

 教師が黒板に数式を書いていく。いつも通りの白いチョーク。いつも通りの書き癖。少し右上がりの文字。黒板の端に粉が残って、教師が手の甲で払う。

 俺はノートを開いて、ペンを持った。

 ここまでは普通だった。

 教師が黒板に、ある式を書いた。

 チョークが擦れる音がして、腕が動いて、確かにそこに文字ができたはずだ。

 なのに。

 俺の目には、黒いままだった。

 チョークの跡だけが残っている。

 線が引かれたはずの部分が、うっすら白く曇っているだけで、肝心の文字が見えない。

 俺は瞬きをした。

 見ようとした。

 目を凝らした。

 黒板は黒いまま。

 教師は平然と続ける。

「ここで、xを代入して――」

 クラスメイトはノートを取っている。

 ペンが動いている。誰も首を傾げない。誰も「先生、文字が消えてます」とは言わない。

 つまり、みんなには見えている。

 俺だけが見えていない。

 背中に汗がにじんだ。

 喉が乾く。息が浅くなる。

 黒板を見続けると、視界の端が少しだけ揺れた。画面の解像度が落ちるみたいな感覚。世界の輪郭が細かい砂みたいに崩れそうになる。

 俺は視線を落として、ノートを見た。

 白い紙はちゃんと白い。

 ペン先はちゃんと黒い。

 文字は書ける。

 書けるけど、写せない。

 俺は、周りのノートを盗み見た。隣のトオルのノート。

 そこには普通に数式が書かれている。

「お前、ノート綺麗だな」

 俺はとっさに言った。

 変な声になった気がする。

「は? 急に何だよ」

「いや、写すの早いなって」

「当たり前だろ。俺、テスト前だけ本気出すから」

 トオルは笑って、またノートに戻った。

 俺は笑えなかった。

 黒板が見えない。

 それはただの寝不足とか、目の疲れとかじゃない。もっと嫌な種類のズレだ。

 世界が、俺にだけ情報を渡していない。

 授業が終わるまで、俺はずっと黒板の「跡」だけを見ていた。

 書かれたはずの場所が黒いまま。

 チョークの粉だけが残って、そこに確かに何かがあったと主張している。

 何かがあった。

 俺だけが見れない。

 休み時間になっても、胸の奥が落ち着かなかった。

 トオルが「昼、購買行く?」とか言ってる。俺は適当に頷いて、席を立つ。

 廊下へ出たところで、背後から声がした。

「ねえ、天城ユウ」

 名指しだった。

 振り返ると、クロノがいた。

 昨日、情報統括室の前で会ったやつ。中性的な顔に、落ち着いた目。制服は綺麗に着ているのに、どこか「この場所に馴染む気がない」雰囲気がある。

「お前、どこから出てくるんだよ」

「観測点から」

 意味が分からない返事をして、クロノは俺の横に立った。

 レナも少し遅れて廊下に出てくる。クロノを見ると、わずかに肩を固くした。

 クロノは気にしない。

「きみの周り、ログの穴が広がってる」

 クロノは言った。

 言い方が軽いのに、内容は重い。

「ログの穴?」

「世界を記録するノートがあるとしてさ。普通は、昨日のページの上に今日のページが重なっていく。だけど、きみの周りだけ紙が破れていく感じ」

「例えが雑だな」

「雑な方が伝わる。数学は美しいけど、現実は汚い」

 クロノは肩をすくめて、端末を取り出す。

 画面には昨日見せられた波形のデータがある。

 黒いノイズの部分が、増えていた。

「ほら。欠損が広がってる」

「……これ、俺のせいなのか」

「副作用じゃない」

 クロノは即答した。

 俺が何か言う前に、クロノが続ける。

「巻き戻しは、普通なら世界をきれいに戻す。だけど、これは戻すんじゃなくて削ってる。きみの存在が、上書きされてない部分として浮いてきてる」

「上書きされてない?」

「君がここにいるのに、世界の方が君を保存しない。保存できないのか、したくないのか。どっちにしても、良くない」

 クロノは淡々と語る。

 レナの目がわずかに揺れた。

 俺はそれを見て、嫌な確信が生まれる。

 レナは知っている。

 クロノが言ってることが、ただの妄想じゃないと。

「つまり何だよ。俺が消えるってことか」

「消えるか、奪われるか」

 クロノはさらっと言った。

 その言い方が怖い。たとえば今日の昼飯の候補を言うみたいな軽さで、命の話をする。

「ネメシス、動いてる」

 クロノが言った瞬間、レナが一歩前に出た。

「その名前を、軽々しく口にしないでください」

「軽々しくは言ってないよ。重々しく言ってる」

 クロノは笑った。

 笑ったまま、俺を見る。

「きみ、帰り道、気をつけた方がいい。昨日の死が一回目だと思ってるなら、それもズレてる」

 俺の右腕がうずいた。

 ないはずの痛みが、確かにそこにある。

「……お前、何を知ってる」

 俺が聞くと、クロノは少しだけ目を細めた。

「知ってることは、知ってる。知らないことは、まだ知らない。でも、穴が広がる速度は知ってる。今のままだと、次に落ちるのは大きい」

「落ちる?」

「世界の床が抜ける」

 クロノの比喩は、いつも変なところだけ具体的だった。

 昼休み、俺は購買に行くふりをして、トオルと別れた。

 別れていいのか、と思ったけど、トオルに変な顔を見せたくなかった。

 レナは俺の後ろを歩いていた。

 距離が近い。

 昨日の「離れないでください」のせいだ。

「神代、俺、別に大丈夫だって」

 俺は言った。

 レナは首を横に振る。

「大丈夫ではありません」

 即答だった。

 それ以上言わない。

 言わないのに、言っている。

 今日も死ぬ、と。

 俺はその予感を振り払うように、笑った。

「俺ってそんなに死にやすいのか? 紙みたいだな」

「紙ではありません」

「じゃあ何」

「……あなたです」

 レナはそれだけ言った。

 真面目に。

 冗談の入り込む余地がない声で。

 俺は返す言葉が見つからなくて、前を向いた。

 放課後。

 学校から出て、いつもの帰り道へ向かう。歩道橋が見える。夕方の光が街のホログラム広告と混ざって、妙に眩しい。

 歩道橋の階段を上っている時、端末が震えた。

 通知が出ていない。

 非通知。

 それだけで嫌な予感がした。

 俺は立ち止まって、端末を見た。

 動画ファイル。

 送信者不明。

 画面のサムネイルは黒い。ノイズの粒だけが揺れている。

「天城」

 レナの声が低くなる。

 俺は頷いて、再生した。

 画面がノイズだらけのまま、音だけが先に来た。

 低い機械音。

 人間の声を、わざと削ったみたいな響き。

「英雄候補へ」

 画面の中央に、影が浮かぶ。

 人のシルエット。顔は見えない。輪郭だけがぼやけて、背景と溶け合っている。

 声は続いた。

「世界の歪みは限界に近い。巻き戻しは代償を払わせる」

 俺の喉が乾いた。

 耳の奥が冷える。

「英雄候補、天城ユウ。我らの元へ来い」

 名前を呼ばれた。

 それだけで、世界が一段階近づいた気がした。

 遠い噂じゃない。

 画面の向こうが、俺を見ている。

 ノイズの中に、一瞬だけ文字が走った。

 NE MESIS

 昨日、メールで見たやつと同じ。

 動画はそこで切れた。

 画面は黒くなった。

 俺は端末を握りしめた。握りしめた手が冷たい。

「……俺、英雄候補らしい」

 俺は笑って言った。

 笑わないと、息が止まりそうだった。

 レナは笑わなかった。

 レナの目が、いつもより少しだけ赤い。泣いてはいない。泣けない顔だ。

「見ましたか」

「見た」

「見てしまいましたか」

 レナの言い方が、後悔みたいだった。

「英雄候補って、俺のことだよな? 誰かと間違えてんじゃね?」

 俺は軽口を叩く。

 いつもの癖だ。空気を軽くして、自分を軽くして、重いものから逃げる。

 レナは逃がしてくれなかった。

「間違えていません」

「……どうして分かる」

「あなたが、そうだからです」

 レナの答えはいつも抽象的だ。

 抽象的なのに、断言する。

 俺は笑えなくなる。

「神代。ネメシスって、何なんだよ」

 レナの口が、ほんの少しだけ開いた。

 言おうとして、言えない。

 その間に、俺が先に言葉を足してしまう。

「ただのハッカー集団じゃない。昨日のドローンも、今日の動画も、全部同じ匂いがする。あいつらは……俺を狙ってる」

 レナは頷いた。

 そして、言った。

「あなたがネメシスに奪われれば、世界は二度と戻りません」

 その一言が、足元を冷やした。

 世界が戻る。

 戻るって言い方を、レナはもう当たり前みたいに使う。

 俺の中ではまだ、現実感が薄い。死んだ。目が覚めた。それは夢でも説明できる。

 でも、レナの言い方は夢じゃない。

 毎日繰り返す天気予報みたいな確かさで、世界のルールを言う。

「戻らないって、どういうことだよ」

「戻れない、です」

 レナの声がわずかに震えた。

 震えたのに、すぐに押し殺した。

「あなたの能力は、世界の奥に繋がっています。だから狙われる」

「俺の能力って何だよ。俺、自分のこと何も分かってねえんだけど」

 俺は自嘲する。

 この状況で一番ダサいのは、主役の俺が設定を知らないことだ。ラノベの主人公としてどうかと思う。

 でも、現実はそうだ。

 俺は死んで、戻って、名前を忘れられて、黒板が見えなくなって、動画で呼び出された。

 自分が何者かも分からないまま。

 レナは俺を見た。

 目が、まっすぐだ。

「今は、あなたが生きることが先です」

「生きるって……」

 言いかけた瞬間、右腕がうずいた。

 熱が走る。

 俺は反射的に腕を押さえる。

 傷はない。それでも痛い。

 レナの指先が、俺の腕に触れそうで触れない距離で止まった。

 触れたら、何かが壊れるみたいに。

「……また」

 レナが小さく言った。

 その一言が、胸の奥を締め付けた。

 帰宅して、部屋の灯りをつけた。

 ミレニアの夜は明るい。窓の外のネオンが、カーテンの隙間から部屋を染める。端末の充電ランプが点滅して、冷蔵庫が低い音を出す。

 生活の音。

 普通の音。

 それがあるから、俺は何とか息ができた。

 ベッドに腰を下ろして、背中を倒す。

 天井を見る。

 白い天井。

 ただの天井。

 ……のはずだった。

 視界の端に、細かい粒が走った。

 最初は、目の疲れだと思った。瞬きをして、目をこすって、それでも消えない。

 粒は増える。

 天井の白が、ざらついていく。

 砂嵐みたいに。

 テレビの受信が悪い時の、あのノイズ。

 俺は息を止めた。

 心臓が一拍遅れて、強く打った。

 視界のノイズが、部屋全体に広がる。

 天井だけじゃない。壁も、窓も、机も。輪郭が崩れていく。

 世界が、処理落ちしている。

 俺は理解してしまった。

 これが、巻き戻る前の感覚だ。

 前に死んだ時、最後に見たのもこれだった。

 視界が白くノイズ化して、音が遠のいて、世界がほどけた。

「……また、来るのかよ」

 俺は声に出した。

 声は震えていないはずなのに、喉が乾いて掠れた。

 俺は起き上がろうとした。

 ベッドから降りて、窓を開けて、外の空気を吸って、何とか今を繋ぎ止めようとした。

 でも、体が重い。

 布団が鉛みたいに腕に絡む。

 指先が冷たくなる。

 呼吸が浅くなる。

 ノイズが増える。

 天井の白が消えて、黒い粒が逆回転するみたいに流れていく。

 耳の奥で、心臓の音が数えられる。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 俺は唇を噛んだ。

 死にたくない、とは言わなかった。

 言えば言うほど、現実になる気がした。

 ただ、頭の中にレナの声が浮かんだ。

 今日だけは、離れないでください。

 俺は笑って返した。

 今日は離れない。

 約束したのに。

 俺は今、一人でベッドに沈んでいる。

 心臓が、もう一度だけ強く打った。

 そして、音が止まる気配がした。

 視界の砂嵐の向こうで、世界がほどけていく。

 俺は薄れていく意識の中で、最後に思った。

 こんなふうに消えるなら、明日の朝、俺の名前はもう誰も覚えていないかもしれない。



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