第6話「繰り返した朝、ひとりだけ違う目」
朝の空気が、いつもより軽い。
そう感じたのは、俺の頭が死にかけたせいでおかしくなってるからだと思った。昨日――いや、昨日じゃない。昨日“だったはずの”日。
俺は自分の右腕を見下ろす。
包帯はない。傷もない。なのに、皮膚の内側だけが薄く熱を持っている。触れても何もないくせに、そこに何かが残っているみたいだ。
ミレニアの朝は忙しい。空に浮く広告ホログラムが眩しくて、通学路の端末画面が点滅して、警備ドローンが一定の高さを横切る。
全部、いつも通り。
なのに、俺の中だけが落ち着かない。
学園門が見えてきたところで、いつもの顔が手を振った。
「おはよう、天城!」
トオルだ。俺と同じクラスの、勢いだけで生きてるみたいな男。気づいたら隣にいて、気づいたら面倒な話を持ってくる。
「おはよう」
「……ん?」
トオルは俺の頭を見て、首を傾げた。
「あれ? 髪切った?」
「切ってねえよ」
即答した。俺は朝にそんな余裕のあるタイプじゃない。
「え、嘘。絶対ちょっと短いって」
「寝癖だろ。お前の目が寝てんだよ」
「ひどい」
トオルは笑いながらも、まだ納得してない顔で俺の髪を見続ける。こいつのノリに合わせるのはいつも通りなのに、背中に薄い違和感が残った。
髪なんて切ってない。
でも、トオルは本気だった。
嘘をつく時の顔じゃない。適当に話を盛る時の表情でもない。確認するみたいな目だった。
俺は門をくぐりながら、もう一度だけ自分の髪を触った。
何も変わらない。
変わってないはずなのに、変わったと言われる。
それが気のせいで済むならいい。けど、俺の中の何かが「これで終わらない」と言っていた。
教室に入ると、いつものざわめきがある。
端末をいじるやつ、昨日の騒ぎを大げさに語るやつ、昼の弁当の話を始めるやつ。平和で、うるさくて、どうでもよくて。
その中で、窓際の席だけが妙に静かだった。
神代レナ。
銀髪が朝の光を拾って、肩のラインが薄く光る。こっちを見るわけでもないのに、存在感だけは勝手にそこにある。
俺が席に座ると、レナがわずかに視線を動かした。
言葉はない。
けど、目が言っている。
離れるな、と。
昨日、レナは俺にそう言った。いや、昨日じゃない。俺の中で昨日になってる日だ。
ホームルームが始まった。
担任の声が、黒板と机の間を淡々と流れていく。出欠確認。連絡事項。いつもの段取り。
「それから、提出期限の変更な。今日中にレポート出せ。放課後までだ」
教室が一瞬だけざわついた。
「え、今日?」
「無理だろ」
「昨日言ってたじゃん」
誰かがそう言った。
昨日言ってた。
その言葉が、俺の耳に刺さる。
俺は思わず周囲を見回した。トオルも頷いてる。クラスの空気は「うわ面倒」だけで、驚きは薄い。
俺だけが置いていかれている。
昨日、そんな話はなかった。
昨日――俺が刺されて死んだ、あの放課後の前に。レポートの話なんて一言もなかったはずだ。
いや、俺が聞き逃した? そんなことあるか。
俺はそこそこ真面目な方だ。面倒な提出物の話を聞き逃すほど、授業中に寝落ちするほど、器用じゃない。
なのに、クラスは「昨日言ってた」の空気で進んでいく。
担任は何も気にしない顔で続ける。
「質問あるか。ないなら――」
何もないことになっていく。
世界が、俺だけを置いてきぼりにして、普通のふりをしている。
俺の喉が乾く。
ペンを握った指先に汗がにじんだ。
授業が始まって、黒板に文字が増えていく。
理解はできる。内容は普通だ。
でも、右腕がうずいた。
最初は、痒みみたいな軽いものだった。次に熱。次に、針が刺さるみたいな痛み。
何もしてないのに。
机に置いた右腕が、急に自分のものじゃなくなる。
俺は息を飲み込んで、腕を軽くさすった。
痛みは皮膚の上じゃなく、もっと奥。筋肉の内側。骨の近く。
昨日刺された場所と、同じところだ。
頭の中に、冷たい刃が滑り込む感覚がよみがえる。あの瞬間の息の抜け方。世界が遠のく感じ。
俺は思わず視線を落とした。
何もない腕。傷はない。包帯もない。
それでも痛い。
机の上のノートの文字が一瞬だけ滲んで見えた。
隣のトオルが、俺の様子に気づいたのか小声で聞いてくる。
「天城、顔色悪くね?」
「……平気」
平気と言った瞬間、痛みが跳ねた。
俺は奥歯を噛む。呼吸が浅くなる。
その時、レナがこちらを見た。
ほんの一瞬、視線が腕に落ちる。
そして、小さく口が動いた。
「……やはり」
聞こえたのは、たぶん俺だけだ。
俺は言葉を返そうとして、飲み込んだ。授業中に話すのは目立つ。目立つのは嫌だ。
けど、それ以上に、今の「やはり」が怖かった。
レナは知っている。
俺の身体が、死を覚えていることを。
昼休み、俺はレナに声をかけた。
教室の端で、誰にも聞こえないくらいの距離で。
「神代。ちょっと」
レナは頷いて、机から立つ。
一緒に廊下へ出る。窓の外は、いつも通りのミレニア。浮く広告。巡回ドローン。遠くの訓練場から聞こえる金属音。
そこに、情報統括室の入口が見えた。
学園の内部でも特別扱いされてる区画だ。通るだけで、監視カメラの赤い点が視線みたいに感じる。
「昨日のレポートの話、俺、聞いてないんだけど」
俺は単刀直入に言った。
レナは表情を変えない。ただ、まぶたがわずかに下がる。
「そういうことが起きます」
「起きます、って……」
「完璧に戻るわけではありません」
レナの声は静かだ。説明してるのに、説明してない。俺の方が勝手に補って理解しろ、と言われてるみたいだ。
俺が言葉を探していると、背後から拍手みたいな乾いた音がした。
「へえ。面白い」
振り返ると、知らない顔がいた。
背が高いわけでもない。制服の着こなしは整っていて、髪も短い。男女どちらとも取れる顔立ちで、目がやけに落ち着いている。
その目が、俺を見て笑った。
「きみ、少しずれてるね」
「……誰だよ」
「クロノ」
名乗り方が軽い。苗字も学年も言わない。そもそも聞いてないのに、答えだけ置いていく。
レナがわずかに眉を寄せた。
「あなた、ここに入れないはず」
「入ったんじゃなくて、出たんだよ。ほら、ドアあるし」
クロノは指で入口を示しながら、平然と言った。
情報統括室の扉は閉まっている。鍵もある。許可が必要なはずだ。
俺は、笑うべきか警戒すべきか迷った。
その迷いを、クロノは楽しんでいるみたいだった。
「この街、巻き戻ってるよ。気づいてないの?」
クロノは声を落として囁いた。
耳に届く距離。軽い口調。内容だけが重い。
俺は喉が乾いて、言葉が出なかった。
レナが一歩前に出る。
「あなたは、どこまで知っているのですか」
「知ってるっていうより、見えるんだよね。ズレとか穴とか」
クロノは肩をすくめる。
「それに、きみたちの顔がさ。昨日より少しだけ違う。細かいけど、見れば分かる。普通の人は気づかないけどね」
「普通じゃないって言いたいのか」
俺が言うと、クロノは笑った。
「うん。きみ、普通じゃない」
言い切り方が嫌に自然だった。悪意がないのが余計に腹立つ。
レナは黙っている。黙っているけど、指先がわずかに硬い。警戒している。
「証拠あるなら見せろよ」
俺は言った。
クロノは待ってましたみたいに端末を取り出し、画面をこちらに傾けた。
波形のデータ。細い線が上下して、ある部分だけが黒いノイズで塗りつぶされている。
文字は少ない。意味の分かる単語だけが浮いている。
因果ログ。
時系列。
欠損。
「昨日の昼あたり、真っ黒でしょ」
クロノは指で黒い部分をなぞった。
「ここ、普通はこんな穴にならない。一回だけの巻き戻しなら、もっと綺麗に戻る。けど、これは違う。大穴だよ」
「……大穴?」
「もっと大規模な何かが起きてる」
クロノは淡々と言った。
「で、きみはその中心にいるっぽい。データがうるさい。存在がうるさいっていうか」
「悪口か?」
「観測結果だよ」
レナが画面を見つめる。目の奥が冷たくなる。感情を押し殺す時の顔だ。
「どこでこれを見たのですか」
「見たっていうか、拾った。こういうの、落ちてるんだよ。街の端とか、ネットの裏とか」
クロノは言葉を濁す。
濁してるのに、確信だけはある。
俺は端末の黒いノイズを見つめた。
そこに、あの瞬間が埋まってるのか。
刺されて、息が止まって、世界がほどけた瞬間。
それが「欠損」として残ってる。
背中に薄い寒気が走る。
「じゃあ、俺が……巻き戻したのか?」
俺が聞くと、クロノは少しだけ目を細めた。
「それ、きみが決めることじゃない? でも、きみが関係ないわけはない」
レナが口を開く。
「これ以上は――」
言いかけて、止まる。
レナの呼吸が一瞬だけ乱れた。胸が上下するのが分かる。レナはそれを隠そうとして、背筋を伸ばす。
俺はその動きに、何かを感じた。
レナは焦っている。
焦る理由がある。
そして、その理由は俺の死と繋がっている。
「クロノ」
俺は名前を呼んだ。
「何」
「お前、俺のこと知ってるのか」
クロノは少しだけ黙った。
その沈黙が短いのに、嫌に長く感じた。
「今は、知らないことにしておく」
クロノは軽く言って、端末をしまう。
「知りたいなら、きみがもう少しちゃんと生き残って。そうしたら話せる」
「……何だそれ」
「忠告」
クロノは踵を返した。
情報統括室の扉の前で、何かの認証をするでもなく、すっと向こう側へ消えるように歩いていく。
扉は開かないはずなのに。
クロノの影が、扉の縁で一瞬だけ薄く滲んで、次の瞬間、いなくなった。
俺は目を瞬いた。
レナが小さく息を吐く。
「知っている人ですか」
俺はレナに聞いた。
レナはすぐには答えない。視線を床に落とす。まつげが揺れる。
「……危険です」
「知ってるか知ってないか、どっちだよ」
俺が少し強く言うと、レナの肩がわずかに震えた。
「今は、答えられません」
レナはそう言った。
答えられない、じゃなくて、答えない、でもなくて。
答えられない。
俺の中に、怒りより先に嫌な予感が湧く。
夕方。
中庭は、放課後の匂いがする。芝生の湿り気と、遠くの焼けた金属の匂い。風が制服の襟を撫でる。
俺はレナと二人で歩いていた。
話さないまま歩くのが、いつの間にか普通になっている。普通じゃないのに。
レナが足を止めた。
俺も止まる。
レナは俺の右腕を見た。そこに傷はない。それでも、俺の腕はまだ時々うずく。
レナの指先が、何かを触れたいのに触れられない距離で止まっている。
「天城」
レナが俺の名前を呼ぶ。
いつもより低い。いつもより、揺れている。
「何だよ」
俺は軽く返した。軽く返さないと、壊れそうだった。
レナは息を吸う。吐く。言葉を選ぶ仕草。
「あなたは……もう何度も死んでいます」
俺の背中が冷たくなった。
風が通り抜ける。葉の擦れる音が耳に残る。
「……は?」
俺は笑おうとした。笑えない。
「何言ってんだよ」
声が乾いていた。
レナは目を逸らさない。逸らさないけど、まぶたがわずかに震えている。涙はない。涙を落とす余裕もない顔だ。
「昨日だけではありません」
レナは続けた。
その言い方が、断言だった。冗談じゃない。脅しでもない。事実だ、と言っている。
俺は息を飲み込む。
喉が痛い。乾きすぎて、飲み込む動作が引っかかる。
「じゃあ、俺は……何回、死んだんだよ」
聞いた瞬間、後悔した。
答えが返ってきたら、もう戻れない気がした。
レナは一瞬だけ目を閉じた。
そして、開いた。
「……今は、言えません」
またそれだ。
答えられない。
俺は苛立ちより先に、恐怖が来た。
言えない理由がある。
言った瞬間に壊れる何かがある。
それはたぶん、俺の心じゃない。レナの方だ。
「神代」
俺は呼んだ。
レナの肩が、ほんの少しだけ揺れる。
俺は続けようとして、言葉を探して、見つけられなかった。
代わりに、レナが言った。
「今日だけは、離れないでください」
同じ台詞。
同じ言い方。
同じはずなのに、今回は違う。
願いじゃない。
命令でもない。
祈りより、もっと切迫している。
俺は笑ってごまかす癖を発動させた。
「……限定じゃなくて、ずっとにしろよ」
自分でも何を言ってるのか分からなかった。
レナの目が揺れる。
揺れて、それでも落ちない。
「ずっと、は……」
レナはそこで言葉を切った。
切ったまま、何も言わない。
俺はその沈黙を埋めるために、空を見上げた。
夕焼けが、学園のガラスに反射している。赤い光が伸びて、風に揺れて、いつも通りに綺麗だ。
いつも通り。
それが、今は一番怖い。
俺は右腕を握りしめた。
痛みはないはずなのに、指先が冷たかった。
死んで、戻って、少しだけ違う朝が来る。
その繰り返しの中で、俺だけが知らないまま進んでいる。
そしてレナだけが、全部覚えている。
俺は、自分の声で言った。
「……分かった。今日は離れない」
レナは頷いた。
その頷きが、救いみたいで。
同時に、終わりの合図みたいだった。




