第5話「死の瞬間、世界はほどける」
右腕が、朝からうるさい。
包帯の中が熱くて、脈を打つたびにじわりと痛みが広がる。昨日の切り傷のはずなのに、まるで今日も同じ場所で切られたみたいに新鮮だ。
学園都市ミレニアの朝は、いつも通りに騒がしい。空に広告が浮いて、通学路には制服が流れていく。なのに俺だけ、片腕の感覚が現実の手触りを強調してくる。
「まだ熱が残ってるな」
独り言が喉で乾いた。
前を歩く生徒の背中に視線を置きながら、包帯を軽く押さえる。押さえた瞬間、痛みが跳ねた。指先に汗がにじむ。
「無理をしないでください」
背後から声がした。
振り返るより先に分かる。神代レナの声だ。落ち着いていて、余計な音が混ざらない。なのに今日は、少しだけ急いでいる。
レナが俺の横に並ぶ。昨日より近い。歩幅が小さく、足が地面を探るみたいに動いている。
「そんなに心配しなくても」
俺は軽く言ったつもりだった。
「心配します」
レナは即答した。
まっすぐで、逃げ場がない返事だった。俺は言葉を選びそこねて、視線を前に戻す。
「昨日、あれだけ派手にやっといてさ。今日も何かあるって?」
「……あるかもしれません」
「曖昧だな」
「曖昧にしか言えません」
レナの言い方は、そこに線を引くみたいだった。踏み込むといけない場所がある。俺はそれを理解したふりをして、理解できていないまま歩く。
校門が近づく。警備ドローンが巡回している。昨日の騒ぎのせいで、目に見える警戒が増えていた。結界発生器の光が薄く脈打ち、警備員の視線が鋭い。
でも、こんなのは対策のふりだ。
本気で守るなら、もっと根本から変えないといけない。
そんなことを考えていると、レナが一瞬だけ足を止めた。
俺も止まる。
「どうした」
レナは校舎の影を見ている。何もないはずの場所。けれど、その瞳が追っているのは空気の揺れだ。昨日のノイズを思い出して、喉が乾いた。
「大丈夫です」
そう言って、レナはまた歩き出す。
大丈夫じゃないのは、俺の方だ。
ホームルームが始まった。
担任の声が教室の空気を揺らす。いつも通りの出欠確認。いつも通りの注意事項。いつも通りの小言。
そのはずなのに。
先生の声が、二重に聞こえた。
遅れてくる。
0.5秒くらい。ほんの少し。けれど、確実に遅い。誰かが口を動かして、言葉が追いかけてくる。映像と音がずれたみたいに。
俺は眉を寄せる。
隣の真鍋ハルは何も気にしていない。端末を開いて、机の下で何かを見ている。クロノは、相変わらず無表情で窓の外を眺めていた。
俺だけが変なのか。
ペンを握った指先が汗で滑り、ペンが机から落ちた。
カツン。
落ちたはずの音が、遅れて聞こえた。
耳の奥で、時間が伸びたみたいな感覚。背中がぞくりと冷える。
俺はペンを拾いながら、自分の心臓の音を聞く。速い。速いのに、どこか遠い。身体の内側に薄い膜が一枚あるみたいだ。
先生が何か言っている。
言っているのに、言葉が遅れて届く。
世界が、処理落ちしている。
そんな馬鹿な、と思う。思うのに、目の端の景色が一瞬だけ砂嵐みたいに滲んだ。
レナの方を見る。
レナは教卓ではなく、俺を見ていた。
視線が合う。
レナは何も言わない。ただ、まぶたがほんの少しだけ下がる。警告の合図みたいに。
俺は笑ってごまかしたくなる。
でも、笑えなかった。
放課後。
昨日の事件のせいで部活は一部停止。訓練も当面中止。校内は妙に静かで、騒ぐ理由を失った生徒が廊下に溜まっている。
「なあ天城、今日ゲーセン行こうぜ。昨日のせいで俺のストレスが限界」
真鍋が言う。
「お前のストレスは昨日なくても限界だろ」
「そこは否定しない。でも行こう」
「俺は今日は……」
断ろうとして、言葉が詰まった。
レナが教室の入口に立っていた。俺を探している目。だけど、近づいてこない。距離を保って、こちらの反応を待っている。
今日だけは、離れないでください。
まだ言われていないのに、その言葉が先に頭に浮かんだ。
気味が悪い。
同時に、なぜか安心する。
「天城?」
真鍋が首を傾げる。
「今日はパス。腕、これだし」
俺は包帯を軽く見せた。真鍋が大げさに顔をしかめる。
「うわ、まだ痛いの? それもう呪いじゃね?」
「呪いなら、呪いって名前の賞があれば応募する」
「意味分かんねえ」
クロノが机の上の教科書を閉じながら言った。
「異能学園都市で一番怖いのは、呪いより事務処理だよ」
「今のさらっと社会派ぶっこんだな」
「褒めてない」
真鍋が笑う。俺も少し笑う。
その笑いが、喉で引っかかった。
教室の隅の空気が、ほんの少しだけ冷たい。温度差みたいなものが、肌に触れる。
レナが近づいてきた。
「一緒に帰りましょう」
レナの言葉は丁寧だ。でも、指先がわずかに固い。握りしめているのが分かる。
「今日は大丈夫だろ」
俺は軽く返した。
「大丈夫ではありません」
レナはそこで止まった。言い切った後、わずかに息を吸う。言葉を続けるべきか迷っている。
俺は助け舟を出すつもりで言った。
「じゃあ、神代がいるなら大丈夫だ」
冗談のつもりだった。
レナの瞳が揺れた。揺れて、揺れが戻らない。
「……それは、違います」
「え」
レナは視線を落とす。俺の右腕の包帯に。
「私がいても、あなたは……」
言いかけて、止める。
その止め方が、怖かった。言葉が喉で噛み切られたみたいに不自然で、痛い。
「何だよ」
俺は笑ってごまかそうとした。出来なかった。
「帰ろう。ほら、駅の方で――」
そこで、レナの端末が短く震えた。
レナは画面を見ない。見るより早く、顔色が変わった。
俺の背中が冷たくなる。
「……ごめんなさい」
レナが小さく言った。
「何が」
答えは返ってこない。
俺たちは昇降口へ向かった。廊下の端で、教師が生徒を誘導している。昨日の件の後始末が続いているらしい。警備員も増えていた。
なのに。
校舎の外へ出た瞬間、空気が変わった。
音が、薄い。
遠くの喧騒が布越しみたいに鈍る。視界の端が少しだけ滲む。さっきのホームルームと同じ、遅延の感覚。
俺は足を止めた。
「……神代」
レナは返事をしない。俺の背後に回り込む。守る位置だ。
「ここ、やばい」
俺が言った瞬間、影が落ちた。
昇降口の柱の影から、フード姿の人間が滑り出る。昨日の仮面とは違う。仮面はない。顔は影で見えない。だが、手に持つものが見えた。
ナイフ。
刃が、細かく震えている。
震えているのに、音がしない。いや、音が遅れて来る。空気を裂くはずの音が、時間差で耳に届く。
俺は一歩下がる。
右腕がズキンと痛む。包帯の中が熱い。動かすたびに、熱が広がる。
「天城ユウ」
フードの声は若い。男か女か分からない。声が機械みたいに平坦だ。
「何だよ、名指しかよ。ファンレターならもっと可愛くしろ」
口が勝手に軽口を叩く。怖さを押し込むための癖。
フードが笑わない。
「君は起きる必要がある。英雄候補」
その単語がまた来た。
俺の奥歯が噛み合う。喉が乾く。舌が張りつく。
「英雄とか知らねえ。帰宅部だ」
「帰宅は許されない」
フードが踏み込んだ。
ナイフの震えが増す。刃が空気を削り、見えない波が飛んでくる感じがした。俺は反射で身を捻る。
刃が頬の横を通った。
遅れて、空気が裂ける音が耳を叩く。
やばい。
このナイフは、普通じゃない。震動で物体を加速している。刃の接触時間が短い分、切断力が増えている。理屈は分かる。分かるのに、身体が追いつかない。
俺は距離を取ろうとする。
右腕が悲鳴を上げた。
痛みが走る。走った痛みが、遅れて来る。遅れて来る痛みが、もう一度来る。二重。世界の遅延が、俺の感覚を壊す。
「っ……」
息が浅い。胸が固い。
レナが後ろで動く気配がする。剣を抜く音。金属が空気を撫でる澄んだ音。
「来ないで」
俺は叫んだ。
自分でも驚くくらいの声だった。
レナを巻き込むな、と思った。
でも、レナは止まらない。
「離れないでくださいと言ったのは、私です」
レナの声が冷たい。冷たいのに、熱がある。
フードが笑った気がした。
「世界記録者」
レナの肩がわずかに揺れる。怒りか、焦りか、どちらでもいい。今は、目の前の刃を止めなきゃいけない。
フードが俺を狙う。
俺は左手を前に出し、距離を詰める。近距離なら、ナイフの加速を封じられるかもしれない。そう考えた。
考えた瞬間、刃が跳ねた。
刃の震えが一段上がる。空気が震える。俺の皮膚が先に痛みを感じる。切られる前に、切られる予感が来る。
次の瞬間。
右腕が、動かなかった。
包帯の中の熱が、痛みを引きずり出す。昨日の傷が、今日の傷になる。そういう感覚。
刃が、俺の脇腹に滑り込んだ。
深い。
皮膚の下が裂ける感覚は、意外と静かだった。音よりも先に、身体が冷えた。血が出ているのに、熱より冷たさが勝つ。
俺は息を吸った。
吸ったはずなのに、空気が入ってこない。
「あ……」
声が出た。
出た声が、自分の声に聞こえない。
フードが囁く。
「前と同じだ」
前。
その言葉が、頭の中で何かを叩いた。
前。前ループ。前に刺された場所。
俺は知らないはずなのに、知っている気がした。
ここだ。
ここで刺されて。
ここで倒れて。
ここで息が止まった。
そんな映像が、脳裏に一瞬だけ走った。
視界が白く滲む。
ノイズが広がる。砂嵐。音がフェードアウトする。遠くの風景が引いていく。目の前のフードの輪郭が崩れる。
足の力が抜ける。
膝が床に触れた。
冷たい。コンクリートの冷たさが、皮膚から骨に上がってくる。
レナが叫んだ。
叫んだはずだ。
でも、声が届かない。
俺は自分の喉の奥で言葉を作った。
「ああ、俺……死ぬんだ」
口に出したのか、頭の中で言ったのか分からない。
心臓が、やけにうるさい。
1。
2。
3。
数えるつもりはなかった。勝手に数えていた。
4。
心臓の音が止まった。
止まった瞬間、世界がほどけた。
背景が粒子になって崩れる。黒い粒が視界いっぱいに広がり、逆向きに流れる。時間が巻き戻るみたいに、音が逆再生される感覚。
視界が暗転する。
次に来たのは、布団の匂いだった。
自室の天井。
朝の光。
目覚まし時計の電子音が、いつも通りに鳴っている。
俺は息を吸った。
空気が普通に肺に入る。喉が乾いている。汗が背中に張りついている。
「……夢?」
言った声が震えていた。
腕を動かす。
右腕が、軽い。
包帯がない。痛みもない。肌が滑らかで、昨日の切り傷も見当たらない。
俺は起き上がって、右腕を何度も曲げ伸ばしした。熱も痛みもない。ありえない。
なのに。
心のどこかに、痛かったな、という感触だけが残っている。
皮膚の下に、刺された冷たさが残っている。
俺は無意識に脇腹に手を当てた。そこにも何もない。なのに、触れた瞬間、背中に薄い寒気が走った。
通学路を歩く。
空に広告。制服の流れ。ミレニアの朝。さっき見た景色と同じ。
同じなのに、俺の指先が汗ばむ。喉が乾く。歩く足の裏が、地面の感触をやけに強く拾う。
教室に入る。
真鍋がいつも通りに騒いでいる。クロノが窓を見ている。
ホームルーム前のざわめき。
全部、昨日と同じ……いや、さっきと同じだ。
俺は席に座った。
その瞬間、窓際のレナが見えた。
レナは端末を見ていない。
俺を見ていた。
泣きそうな顔。
泣いていない。涙は落ちていない。けれど、まつげの先が濡れているように見える。頬の筋肉が、耐えるみたいに固い。
俺の胸が嫌に重くなる。
「……どうした?」
俺が声をかけると、レナは一瞬だけ息を詰めた。
「いえ」
すぐに言い直す。
「また……いえ、何でもありません」
また。
その単語が刺さる。
「またって何だよ」
俺は笑ってごまかそうとした。笑えない。
レナは画面を閉じる仕草をした。閉じる必要のない画面を。手がほんの少し震えている。
俺は視線を外せなくなる。
この子は、何かを知っている。
そして俺は、何かを忘れている。
ホームルームが始まる。
先生の声は普通に聞こえる。遅延はない。世界は普通だ。普通のはずなのに、俺の脳裏に、さっきの心音が残っている。
1。
2。
3。
4。
止まる音。
喉が乾く。
その時、レナが席を立った。
教卓の前ではない。俺の机の横に来る。
近い。
昨日より、さらに一歩。
レナは周囲の視線を無視して、俺にだけ聞こえる小さな声で言った。
「今日だけは、離れないでください」
「……え」
意味が分からない。
分からないのに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
俺は笑って誤魔化す癖を発動させた。
「今日だけって、限定なのが逆に怖いんだけど」
レナは笑わない。
ただ、目だけが揺れる。
「お願いします」
その言い方は、頼みというより祈りだった。
俺は喉の奥で息を飲み込む。
「……分かったよ」
俺が返事をした瞬間、レナの肩がほんの少しだけ落ちた。
安心したみたいに。
その安心が、俺には怖い。
レナは、今日俺が死ぬことを知っている。
そんな馬鹿な、と否定したいのに。
否定する材料が、俺の中に一つもない。
俺は机の上のペンを握った。
指先が少し震えている。
大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
でも、レナの言葉が残る。
今日だけは、離れないでください。
その言葉が、俺の中のどこかに引っかかって、外れない。
まるで、何度も繰り返された台詞みたいに。




