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一番嫌いで、一番好きな君を救うために、俺は何度でも世界をやり直す  作者: 妙原奇天


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第20話「それでも、世界を選ぶ」

 剣先が、俺の喉に触れていた。

 冷たさが、皮膚の上を滑るんじゃなく、内側まで染み込んでくる。息を吸うたび、刃が少しだけ沈む気がした。飲み込もうとすると、喉が拒む。唾が、うまく落ちない。

 中央ホールは、崩れかけたまま固まっている。

 さっきまで飛んでいた悲鳴も、足音も、途中で止められた動画みたいに薄い。灰粒子が漂う速度だけが遅く、逆にそれが目立つ。小さな紙片みたいな灰が、照明の光を受けて、どこにも落ちずに浮いている。

 俺の鼓動は、止まらない。

 ドクン、ドクンと鳴るたび、空の裂け目が応える。白紙の裂け目はホールの天井を貫き、上空へ繋がっている。その向こうは、書かれる前の余白。そこから降る灰は、世界が削れている証拠だ。

 少し離れた場所で、クロウが黙って見ていた。

 見物人の顔をしている。俺たちの生死を決める瞬間を、いい席で眺めている。腹の奥が、熱くなりかけて、すぐ冷えた。怒りに乗ると、今の俺は簡単に崩れる。

 レナの声がした。

「あなたを殺せば、世界は止まります」

 言葉は淡々としているのに、剣を握る手が、わずかに震えている。震えを止めようとして、指に力が入る。刃が、喉に少しだけ押し込まれる。

「あなたを生かせば、世界はまた……あなたを苦しめるかもしれません」

 苦しめる、という語のところで、レナの喉が小さく引っかかった。音にならない引っかかり。俺はそれを聞いてしまった。

 世界が止まっているみたいに見えても、俺の中だけは進んでいる。

 さっきまでの戦いが、まだ腕に残っている。殴るたび、息が詰まり、こめかみが脈打ち、視界の端が白くなる。因果反転。攻撃した事実が過去に送られ、今の俺が削られる。

 このまま続けば、俺は勝てない。

 勝てないなら、レナの選択は合理的だ。

 合理的で、正しい。

 だから、嫌だ。

 喉に触れている刃より、頭の中の計算の方が、俺を刺してくる。

 俺はゆっくり息を吐いた。吐いた息が、刃に当たる。レナの手が一瞬だけ強張る。俺は、そこに合わせて言った。

「俺、もう十分死んだ気がするんだよな」

 声が、自分の耳に遠い。

 死んだ回数を数えるのを、やめたのはいつだったか。車に轢かれた。崩落したビルに潰された。胸を貫かれた。爆発に巻き込まれた。断片が勝手に再生され、終わるたびに喉の奥が苦くなる。

 十分だ。

 十分過ぎる。

「だからさ」

 俺は少しだけ笑った。笑ってる場合じゃないのに、口角が上がる。逃げじゃない。今は、ちゃんと相手に向けた笑いにしたかった。

「今度くらい、生きるために選んでもいいだろ」

 レナの剣先が、ほんのわずか浮いた。喉の皮膚が、ようやく呼吸を許す。俺はそこに息を通した。吸い込んだ空気が、ざらついている。灰粒子が混じっているのかもしれない。

「この世界がどんな形になっても」

 俺はレナの目を見た。薄い世界の中で、レナの目だけがはっきりしている。記録の光。境界で見た、あの揺れ。

「お前が覚えててくれるなら、それでいい」

 言った瞬間、胸の奥で何かが緩んだ。

 その緩みが、怖いとか、安心とか、そういう単語じゃ足りない。肩が少し落ちた。指先の力が抜けて、掌が汗で滑る。

 レナの手から、剣の力が少しずつ抜けていく。

 抜けていくのに、落とさない。

 落とさないで、揺れている。

 レナは視線を落とした。俺の喉じゃなく、剣先の先を見ている。刃の先に、自分が何をしようとしていたかが映っているみたいに。

 クロウが、静かに笑った。

「美しいね。英雄が死を拒むのは、とても珍しい」

 その一言が、嫌だった。

 俺はクロウに視線を向けないまま返した。

「美しいとか言うな。吐き気がする」

「吐き気を感じるうちは、人間だ」

 クロウは肩をすくめた。

 余裕がある。負けていない顔だ。今、俺が生きると選んだ瞬間ですら、こいつの手のひらの上に見える。

 レナが、小さく息を吸った。

 吸った息が震えた。震えを誤魔化すように、背筋を伸ばす。いつもの動きだ。いつもの、整った姿勢だ。だからこそ、指先の震えが隠れない。

「……天城くん」

 レナが俺を呼んだ。

 その呼び方が、いつも通りで、俺の胸を突く。

 俺はうなずいた。

「うん」

 短く返すしかできない。

 長く言うと、俺の方が崩れそうだった。

 レナは剣を下ろした。

 刃が床に触れる前に、止める。音を出さない。あくまで静かに。世界の最後の瞬間を、無駄な音で汚さないみたいに。

 そしてレナは、制服の内ポケットから、観測ノートを取り出した。

 黒い表紙。

 角が少し丸まっている。何度も開いて、閉じて、握りしめられた形。

 俺は、そのノートを見た瞬間、腹の奥が締まった。

 あの中に、俺の死がある。

 俺の生も、きっとある。

 レナの指が、表紙を撫でた。撫でるというより、確かめるみたいに。そこから逃げないように押さえるように。

 クロウが目を細めた。

「まさか」

 レナは答えなかった。

 代わりに、ノートを開いた。

 ページがめくれる音が遅れて聞こえる。世界がまだ遅延している。それでも、その紙の音だけがやけに鮮明だった。

 俺の名前。

 日付。

 場所。

 死因。

 短い記録が、規則正しく並んでいる。

 黒いインクが、淡く滲んでいるところもある。濡れた跡じゃない。握りしめた指の汗が移った滲みだ。

 レナはそのページを見つめた。

 瞬きを、しない。

 瞬きをしたら、崩れるから。

 俺は、レナの横顔を見た。

 頬の筋肉が引きつっている。口元が少しだけ上がっているのに、笑っていない。泣きたい顔でもない。どっちにも行けない顔。

「私の記録がある限り」

 レナが言った。

「世界はあなたの死を参照し続けます」

 参照。

 その言葉が、レナらしい。感情じゃなく、機能で世界を語る。世界が壊れても、仕組みの言葉で整理しようとする。

 でも、その声は少し掠れている。

「だから」

 レナはページの端をつまんだ。

 紙の角が、わずかに震える。

「ここで全部、私が捨てます」

 捨てる。

 その語が落ちた瞬間、ホールの灰粒子が一斉に震えた。

 空の裂け目が、ひゅう、と息を吐くみたいに広がりかけて、止まる。世界が反応している。

 レナはページを破いた。

 紙の繊維が裂ける音が、遅れて、きちんと届いた。破れる瞬間、インクの線が一瞬だけ光った気がした。記録が、抵抗しているみたいに。

 レナは二枚目も破く。

 三枚目。

 四枚目。

 ページが、灰粒子に変わっていく。破られた紙片が落ちる前に、空へ溶ける。溶ける灰は、上空へ吸い込まれるんじゃない。逆だ。裂け目の白紙が、少しずつ色を失い、細くなっていく。

 閉じる。

 閉じていく。

 俺は息を止めて見た。

 こんなことが、できるのか。

 記録者が、記録を捨てる。

 世界を維持するために、積み上げたログを、自分の手で壊す。

 クロウの顔が歪んだ。

 笑みじゃない。

 驚きでもない。

 負けを受け入れる前の、認識のズレ。

「……そうか」

 クロウは苦笑した。

「記録者が記録を捨てたか。前の世界にはなかった選択だ」

 前の世界。

 その言い方が、決定的だった。

 こいつはやっぱり知っている。知っていて、ずっとこの瞬間を待っていた。

「君たちの勝ちだよ、今のところはね」

 クロウは肩をすくめる。

 そして、次の瞬間、体が灰粒子に崩れた。

 崩れるというより、最初から灰でできていたものが形を保つのをやめたみたいに。輪郭がほどけ、微かな笑みだけが残り、最後に目が細く光った。

 その光が消えたとき、ネメシスの残骸も、ノイズみたいに散っていく。

 床に残るはずのものが、残らない。

 それが、勝利の証拠だと信じたくない。残らないものほど、戻ってくる気がする。

 裂け目が閉じきると、空気が戻った。

 ホールのざらつきが薄れる。遅れていた音が、正しい位置に戻る。誰かの叫びが、ようやくタイミング通りに出る。教師の怒鳴り声が、リアルすぎて逆に安心する。

「何だ今の! 避難! 避難だ!」

 先生が走り回っている。

 生徒たちは、混乱している。

 でも、その混乱は、さっきの終末の混乱じゃない。

 天井が裂けて、灰が降って、世界が薄くなっていたことを、誰も言わない。

 言えない。

 認識できない。

 最初からなかったことになっていく。

 俺はその光景を見て、口の中に苦いものが戻ってくるのを感じた。

 救われたのに、誰も知らない。

 俺とレナと、クロノだけが知っている。

 それは、寂しいというより、重い。

 重いのに、どこかで肩が軽くもある。

 俺は生徒の波を避けて、レナの手首を掴んだ。

 掴んだとき、レナが小さく息を呑む。痛かったわけじゃない。驚いたんだ。

「行くぞ」

 俺が言うと、レナは短くうなずいた。

「はい」

 いつものやり取り。

 それが、今はやけに嬉しい。

 廊下へ出ると、世界は普通に見えた。

 普通に見えるのに、俺の目だけが変わってしまった気がする。色が少し薄い。輪郭が少しだけ頼りない。境界を見た人間の目は、戻りきらない。

 校庭の砂を踏む。

 砂はちゃんと音を立てる。

 音が立つだけで、息が楽になる。

 校門を出ると、街も普通だ。

 信号が変わる。

 車が走る。

 看板が光る。

 人が笑う。

 どれも、何事もなかったみたいに。

 俺は空を見上げた。

 裂け目はない。

 白紙もない。

 ただ、青がある。

 青があるだけで、胸の奥が少し熱くなる。

 翌朝。

 教室のドアを開けると、いつもの騒がしさが飛び込んできた。

「おっせーぞユウ! お前昨日どこでサボってた!」

 トオルが机の上に足を乗せる勢いで叫ぶ。担任が入ってきた瞬間に慌てて下ろす。慌て方が雑で、椅子がガタッと鳴った。

「足を乗せるな。ここは居酒屋じゃない」

 先生が寝癖を盛大に立てたまま言う。

 誰かが小声で「先生こそセット失敗してる」と呟いて、笑いが起きる。

 俺は思わず口元を押さえた。

 笑うと、変なところで涙が出そうだった。

 先生は出欠を取る。

 いつもの名前。

 いつもの返事。

 欠けていた席は、今日はちゃんとある。

 最初からあったみたいに。

 最初からそうだったみたいに。

 それが、救いであり、怖さでもある。

 昼休み、クロノが俺の机に肘をついた。

「生きてる?」

「見れば分かるだろ」

「いや、見ても分からないレベルで死にかけてたからさ」

 クロノは笑う。

 いつも通りの軽口。

 でも、目が笑っていない。俺と同じ薄さを、目の奥に抱えている。

 俺はクロノの手元を見た。

 白いノートが一冊ある。

 表紙も白い。

 新品みたいに、真っ白だ。

「それ」

 俺が言うと、クロノは肩をすくめた。

「新しい観測ノート。空白って落ち着くでしょ」

「落ち着くかよ」

「落ち着く。少なくとも、誰かの死が並んでない」

 俺は息を吐いた。

 その吐息が、普通に教室の空気に溶ける。

 溶けるだけで、まだ生きている気がした。

 放課後。

 俺は屋上へ行った。

 風が吹いている。

 風はちゃんと冷たい。

 ちゃんと冷たいのに、痛くない。昨日までの世界は、冷たさにも棘があった。

 フェンスの向こうで、レナが立っていた。

 髪が揺れる。

 揺れる髪が、ちゃんと色を持っている。

 レナは振り返って、一礼した。

「おはようございます、天城くん」

 言ってから、少しだけ眉が動いた。

「……は、今の時間にはおかしいですね」

 その小さな崩れ方が、レナらしくなくて、俺は笑った。

「じゃあ」

 俺はフェンスに寄りかかって、空を見た。

 青がある。

 裂け目はない。

 それでも、俺の胸の奥には、まだ白紙が残っている。

 残っているから、選べる。

「またって言うか」

 俺はレナを見た。

 レナの指先が風で揺れて、すぐ握られる。癖みたいに。震えを隠す癖。

 俺はその癖を見て、言った。

「また、ここから」

 レナは少しだけ目を伏せて、すぐに頷いた。

「はい。……また」

 遠くで、クロノがこちらを見ているのが分かった。

 白紙のノートを胸に抱えて。

 誰も覚えていない世界で、俺たちだけが覚えている。

 それが罰なら、抱える。

 それが救いなら、手放さない。

 世界はもう、二度と同じ形では壊れない。

 それでも、何度でも選べる。

 俺と、一番嫌いで、一番好きな人で――また、ここから。


【了】


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