第19話「君を殺して、君を救う」
空が裂けた。
そうとしか言いようがなかった。
学園の屋上に出た瞬間、頭上の青が、白い紙で上書きされたみたいに剥がれている。
裂け目の向こうは、白でも黒でもない。
何も書かれていない余白。
境界の奥で見た、あの巨大な白紙が、今は空に露出していた。
灰みたいな粒子が降ってくる。
雪ほど軽くない。雨ほど濡れない。
触れた瞬間、皮膚がざらつく。
俺は指先を見た。
灰粒子が付くと同時に、色が抜けていく気がした。
遠くのビル群が、輪郭だけになりかけている。
窓の反射も、看板の派手さも、薄い線に戻っていく。
街が、描き途中のラフみたいに。
その下で、人は動いている。
動いてはいるけど、遅い。
誰かが上を見上げるまでに、何秒もかかる。
驚きが顔に届くのが、遅れている。
時間が、傷んでいる。
「ユウ、聞こえる?」
イヤホン越しにクロノの声が刺さった。
観測室にいるはずのあいつは、いつも通り軽い声をしている。
軽い声で、軽くないことを言う。
「崩壊速度が限界を超えた。今、学園の上が一番薄い。ここから街全体に広がる」
俺は屋上のフェンスに手をついた。
金網の冷たさが薄い。
薄いのに、手のひらは汗ばんでいる。
喉が乾く。
「レナは?」
「そっちにいる。たぶん、もう見えてる」
俺は視線を横に動かした。
屋上の出入り口の影に、レナが立っている。
髪が揺れているのに、風の音は聞こえない。
彼女の目だけが、薄い世界の中で、はっきり光っていた。
レナは俺を見て、小さくうなずいた。
余計な言葉はない。
いつも通りだ。
いつも通りに見せている。
だから、余計に怖い。
「……来る」
レナが言った。
その声が、いつもより短い。
俺は階段の方を見た。
屋上への扉が、勝手に開いた。
ノックもない。
足音もない。
それなのに、空気が沈む。
影が入ってくる。
クロウだった。
学園の屋上に似合わないのに、妙に馴染んでいる。
こいつはずっと、ここにいたみたいな顔をする。
クロウの背後で、白紙の裂け目が、ゆっくり脈打っている。
俺の心臓と、同じリズムで。
「やあ、英雄候補」
クロウは笑った。
その笑みが、綺麗すぎて気持ち悪い。
「天城ユウ。ここで君を回収し、世界を終わらせる」
言い方が、宣言というより手続きだ。
終わらせる、という言葉に、救いの匂いが混じっているのが腹立つ。
クロウの後ろに、人影がいくつも現れた。
ネメシス。
制服でもスーツでもない、黒い服。
顔の印象が薄い。目線が定まっていない。
人なのに、人形みたいだ。
時間のラグのせいか、動きがわずかに遅れて見える。
それが、余計に不気味だった。
レナが俺の隣に来た。
肩が触れる。
触れた感触がはっきりある。
現実が戻ってきたみたいに、体温が伝わる。
それが、逆に逃げられないことを教えてくる。
「学園中央ホールに降りる」
クロウが言った。
「見せ場は日常の中心に置いた方がいい。君もそう思うだろう?」
俺は答えない。
答える代わりに、息を整えた。
息を整えるほど、空気がざらつく。
灰粒子が肺に入っていく気がした。
「行くぞ」
俺が言うと、レナはうなずいた。
「はい」
その一言が、やけに重い。
屋上から階段へ走る。
階段の踊り場で、時間が一瞬、跳ねた。
足が空を踏む。
次の瞬間、床が戻ってくる。
俺は膝をつきそうになって耐えた。
レナが腕を掴む。
掴む指が冷たい。
冷たいのに、震えている。
俺はそれを見ないふりをした。
見たら、足が止まる。
止まったら、終わる。
中央ホールに出ると、いつもの光景が壊れていた。
吹き抜けの明るい空間。
掲示板。
購買の匂い。
昼休みの喧騒。
その全部が、遅延している。
人の声が、少し遅れて届く。
誰かが叫んだ顔が、次の瞬間に声を出す。
映像と音が噛み合っていない。
その中心に、クロウが降りた。
降りた、というより、最初からそこに立っていたみたいに。
ネメシスが後ろに並ぶ。
教師が駆け寄ろうとして、途中で止まる。
止まってから、自分が止まったことに気づいて、また動く。
世界が、人の意思に追いついていない。
「天城ユウ」
クロウが俺を指した。
「君だけは、遅れない」
俺は自嘲しそうになって、やめた。
今は、軽口でごまかせる空気じゃない。
レナが一歩前に出た。
クロウはそれを見て、口角を上げる。
「記録者。君は今日も彼を守る」
レナは言った。
「守るのは、世界です」
その言葉が嘘じゃないのは分かる。
でも、全部でもない。
俺は知っている。
レナは俺も守っている。
守りたいから守っている。
それを認めたら、俺の足が揺れる。
俺はネメシスに向けて走った。
最初の一人。
右から来る。
肩を落として、拳を振る。
俺は半歩引いて、拳を空振りさせる。
肘を当てる。
相手の身体が横に流れる。
次。
左からナイフ。
刃が光る前に、俺は手首を掴んで捻る。
ナイフが落ちる。
床に当たる音が遅れて聞こえる。
その遅れが、気持ち悪い。
レナが俺の背後に立つ。
彼女の動きは最小だ。
手を伸ばすだけで、空気が固くなる。
ネメシスの足が止まる。
止まったまま、彼らは自分が止まっていることに気づかない。
それが、レナのやり方だ。
記録を上書きする。
行動のログをずらす。
だから、派手じゃない。
派手じゃないのに、確実に守っている。
俺は前に出る。
前に出た瞬間、背中が軽くなる。
守られている。
それが腹立つ。
腹立つのに、安心する。
矛盾が、俺の中で渦を巻く。
ネメシスの三人目。
足を払ってくる。
俺は跳ぶ。
跳んだつもりが、世界が遅れて、足が空を踏む。
落ちる。
落ちる前に、レナが肩を押した。
俺の体が半歩ずれる。
足が床に着く。
助かった。
助かった事実が、遅れて胸に刺さる。
「ユウ、前に出すぎ」
クロノの声が飛んだ。
観測室からの通信。
「そっちは今、壁が薄い。下手に踏み込むと落ちる」
「落ちるって何だよ」
俺は息を吐きながら言った。
「境界に吸われる。戻ってこれないタイプのやつ」
クロノは軽い声で言う。
軽い声で、致命的なことを言う。
俺は視線を上げた。
天井の一部が、薄い。
薄いというより、書きかけで止まっている。
白い線が見える。
そこから灰粒子が降る。
俺は自分の掌を見た。
汗がにじむ。
汗がにじむのに、冷たい。
ネメシスを片付ける。
一人、二人、三人。
レナの支援で動きが鈍る。
俺が体を入れる。
倒す。
無力化する。
それを繰り返す。
繰り返すうちに、俺の身体が勝手に動く瞬間が増えた。
見たことがない動きなのに、知っている。
角度。
距離。
相手の癖。
死んだ経験が、筋肉の底に残っている。
思い出したくないのに、役に立つ。
役に立つのが、嫌だ。
最後の雑兵が倒れたとき、ホールの空気が変わった。
軽くなる。
軽くなってから、もっと重いものが来る。
クロウが拍手した。
拍手の音が、遅れて響く。
「いい連携だ」
クロウは言った。
「君はやっぱり、前の君のままだ」
俺は睨んだ。
「黙れ」
「黙るのは難しい。君の世界が、喋れと言ってる」
クロウが一歩近づく。
影が半拍遅れてついてくる。
その遅れが、空間を裂く刃みたいに見えた。
レナが俺の前に出る。
庇う。
その動きが、反射になっている。
いつからだ。
何回目からだ。
俺は、レナが庇うのを見慣れてしまっている。
慣れてしまったことが、怖い。
「クロノ」
俺はイヤホンに向かって言った。
「こいつの狙いは俺だな」
「うん。超シンプルに言うと、回収」
クロノは言う。
「それと、重要なこと言っていい?」
「今それ以外ある?」
「ここで君が死んだら、もう戻れない」
その言葉は、ホールの騒音の中でもはっきり聞こえた。
俺の心臓が、強く鳴った。
ドクン。
ドクン。
世界の裂け目が、それに合わせて脈打つ。
俺は口の中が乾くのを感じた。
「なんで知ってる」
俺が言うと、クロノは少しだけ間を置いた。
その間が、珍しく重い。
「前の世界で、一度だけ見たから」
一度だけ。
その言葉が、俺の背骨を撫でた。
クロノも、知っている側だ。
俺とレナとクロウだけじゃない。
世界が壊れる前に、どこかでこれを見て、生き残った誰かがいる。
その事実が、少しだけ救いで、すぐに呪いになった。
知っているなら、もっと早く言えよ。
でも、言えなかったんだろう。
言えば、俺が揺れる。
揺れたら、崩れる。
クロウが指を鳴らした。
音は鳴らない。
鳴らないのに、空気が反転する。
俺は気づいたときには、喉が締まっていた。
呼吸が合わない。
息を吸うときに、吐く感覚が混じる。
心臓の音が、前後にずれる。
「因果反転」
クロウが言った。
技名じゃない。
現象の名前だ。
俺は踏み込んで殴った。
拳が当たったはずだ。
当たった感触があった。
相手は後ろに下がった。
それなのに、俺のこめかみが痛んだ。
痛みが遅れてくるんじゃない。
痛みが、先に来る。
視界がにじむ。
息が浅くなる。
俺はもう一度踏み込む。
蹴る。
蹴った瞬間、腹の奥が冷える。
吐き気が上がる。
俺は膝をつきそうになった。
レナが肩を支える。
支える指が、また震えている。
「殴るほど、君が削れる」
クロウは淡々と言った。
「攻撃した事実ごと、別の時間に送っている。君の過去に、ね」
俺は歯を食いしばった。
過去の俺に蓄積する。
だから今の俺が苦しくなる。
バカげている。
バカげているのに、身体は正直だ。
息が合わない。
鼓動が乱れる。
俺は拳を握る。
握るだけで、痛みが走る。
俺は笑いそうになった。
笑えないのに、口角が上がりそうになる。
自嘲。
いつもの逃げ道。
でも今は、その逃げ道が必要だった。
「俺、殴るの向いてないのかもな」
俺が言うと、クロウは少しだけ目を細めた。
「君は殴るために生まれたわけじゃない」
「じゃあ何のためだよ」
「終わらせるため」
クロウの答えは平坦だった。
平坦なのに、刺さる。
レナが一歩前に出る。
俺の前。
盾みたいに。
その背中が小さい。
小さいのに、世界を背負っているみたいに見える。
クロウが、レナの耳元にだけ届く距離で言った。
「君が彼を殺せば、ループは閉じる」
レナの肩が、一瞬だけ跳ねた。
跳ねたのは一瞬。
すぐに戻る。
戻るのが、余計に怖い。
レナは手を伸ばした。
床に落ちていたネメシスの刃を拾う。
拾う動きが、遅い。
遅いのに、指先だけはやけに正確だ。
刃を握る手が、震えている。
震えを止めようとして、握りしめる。
指が白くなる。
その白さが、境界の白紙に似ていた。
「レナ」
俺が呼ぶと、レナは振り返らなかった。
背中のまま言う。
「……天城くん」
その呼び方が、いつも通りで、逆に壊れそうになる。
「やめろ」
俺は言った。
「そんなこと」
言いかけて、言葉が詰まる。
やめろって何だ。
世界を救うために、俺が死ぬ。
それが正しいかもしれない。
正しいかもしれないのが、嫌だ。
レナはゆっくり振り返った。
目が光っている。
泣いていない。
泣いていないのに、涙より重いものがそこにある。
レナは言った。
「私が、あなたを殺します」
言い切る声が、細い。
細いのに、逃げない。
俺の喉が鳴った。
乾いた音。
俺はレナの手元を見た。
刃が震えている。
震えているのに、落とさない。
俺は笑った。
笑ってしまった。
笑いの形が、たぶんひどい顔だった。
「いいよ」
俺は言った。
その二文字が、俺の中で何かを折った。
折れたものが、落ちていく。
落ちていく音が聞こえない。
代わりに、世界のざらついたノイズが耳の奥で鳴る。
クロウが満足そうに息を吐いた。
「美しい選択だ」
レナの手が、さらに震える。
震えが止まらない。
止められない。
レナは、刃を握ったまま小さく首を振った。
「違います」
その声が掠れる。
「美しくなんてない」
俺はレナの目を見た。
目の奥に、境界の白紙が映っている気がした。
戻れなくなる。
次はない。
それを分かったうえで、レナは刃を握っている。
握っている指が、俺の袖を掴んだ夜と同じ白さだ。
クロノの声が割り込んだ。
「ユウ、選ぶなら早く。上が、もう落ちる」
天井の薄い部分が、さらに白くなる。
灰粒子が増える。
ホールの床の模様が、線に戻りかけている。
俺は一歩前に出た。
レナと向き合う距離。
腕一本分。
刃の先が、俺の胸に届く距離。
レナの呼吸が浅い。
吐く息が震える。
それでも、目は逸らさない。
俺は言った。
「託す」
レナの瞳が揺れる。
揺れた瞬間、世界も揺れた。
白紙の裂け目が広がる。
俺の鼓動がそれに重なる。
ドクン。
ドクン。
レナの指が、刃を少しだけ持ち上げた。
世界を救うために、君が俺を殺す。
そんなバカげた選択肢しか残っていないのだとしたら――それでも、俺は君に託したかった。




