第18話「誰も知らない、最後のループ」
目が覚めた瞬間、まず時計を見た。
癖みたいなものだ。起きたら時間を確認する。遅刻したら面倒だし、レナに余計な顔をさせたくない。
デジタルの表示は、06:00。
次の瞬間、06:01。
その次に、また06:00。
秒は動いているようで、動いていない。
ピッ、と小さく鳴るはずの音も鳴らない。
俺は枕元のスマホを掴んだ。
画面がつく。通知はない。時刻は同じく06:00と06:01の間で揺れている。
指でスワイプすると、ちゃんと動く。
俺だけが動ける。
その事実が、肌の内側を冷やした。
布団から起き上がる。
床に足をつける。
いつもなら一瞬だけ冷たいフローリングが、今日はずっと冷たいままだ。
冷たさが戻ってこない。
耳を澄ますと、家の音がない。
冷蔵庫の低い唸りも、外の車の遠い走行音も、隣の家の生活の気配も。
全部、切り取られたみたいに消えている。
俺は部屋のドアを開けた。
廊下も静かだ。
階段を下りるとき、自分の足音だけが響く。
コツ、コツ。
その音が妙に大きくて、俺はつい足を止めた。
止めても、誰も振り向かない。
誰もいないわけじゃない。いるはずだ。母さんは朝早い。父さんは出張が多い。誰かしらの動きがあるはずなのに、今日はない。
玄関の鍵に手をかけた。
鍵はいつも通り回る。
ドアを開けると、外の空気が流れ込む。
冷たい。
でも、その冷たさが軽い。
風が、何かを持っていくように軽い。
俺は外に出た。
朝の街は、色が薄い。
モノクロに近いわけじゃない。ちゃんと信号は赤いし、コンビニの看板は派手だ。
それなのに、全体の彩度が落ちているみたいに感じる。
歩き出すと、異様な光景が目に入った。
通学路の角にいる犬が、吠えない。
吠えないどころか、犬そのものが止まっている。
口を開けたまま、前足を上げたまま、目だけがガラスみたいに固まっている。
犬の隣を通り過ぎようとすると、飼い主の女性も止まっていた。
片足を一歩踏み出したまま、バッグの紐を握ったまま。
まるで静止画だ。
俺は息を吸った。
吸った空気が肺に入るのに、抵抗がない。
軽すぎて、吸った気がしない。
俺は歩いた。
通学路を、そのまま。
人がいる。自転車がいる。車もいる。
全部、止まっている。
信号は点滅もしない。青のまま。赤のまま。
音がない。
鳥の声もない。エンジン音もない。
自分の足音だけが、この街に残っている。
コツ、コツ。
コツ、コツ。
その反復が、心臓に似てきて嫌だった。
空だけが動いていた。
雲が、ゆっくりと形を変える。
変えるというより、崩れて落ちてくるみたいに見える。
雲の崩れ方が、記憶の崩れ方に似ていた。
思い出そうとした瞬間に、指の隙間から砂がこぼれるみたいな。
俺は足を止めて、空を見上げた。
そのまま見上げ続けると、涙が出るはずなのに出ない。
乾きが、目の奥に残る。
喉も乾く。
唾を飲み込む音が、やけに響いた。
俺は歩き出した。
学校に行く理由はもうない。
でも、この道を歩くのは癖だ。
癖は、世界が壊れても残る。
残るのが怖い。
街を抜けていくと、巨大スクリーンが見えた。
ミレニア中心部の広場。いつもなら人で埋まって、ニュースや広告が流れて、ざわつきが落ちない場所。
今日は静かだ。
人々がスクリーンを見上げたまま固まっている。
誰かが笑った顔のまま止まっている。
誰かがスマホを掲げたまま止まっている。
俺はその間を歩いた。
肩がぶつからない。
ぶつからないのに、背中がざらつく。
空気が硬い。
世界が固まっているのに、俺は柔らかいまま歩いている。
俺は何かに触れたくなった。
ベンチの背もたれに手を置く。
木の感触がある。
でも、その感触が薄い。
紙の上をなぞっているみたいだ。
俺は手を引っ込めた。
自分の指先が、ほんの少し震えている。
震えている理由が分からない。
怖いと言ったら簡単だ。
でも、怖いの種類が多すぎて、どれが本物か分からない。
街を歩きながら、俺は思い出していた。
授業中の退屈。
黒板の粉の匂い。
屋上の風。
クロノの笑い方。
レナの視線。
あの視線は、ずっと俺を見ていた。
見ている理由が、今は分かりかけている。
守るため。
保存するため。
記録するため。
その言葉のどれもが、レナの顔に重なる。
重なって、苦くなる。
俺は広場の中央に立った。
スクリーンが目の前にある。
映像は止まっていた。
ニュースのキャスターが口を開けたまま。
字幕が途中で切れている。
その切れ方が、世界の切れ方に似ていた。
「最後のループのサービスだよ」
声がした。
俺は振り向かなかった。
振り向く前から、誰の声か分かった。
クロウ。
背中に冷たい気配が刺さる。
俺はゆっくり振り向いた。
クロウがいた。
人混みの中で、クロウだけが動いている。
制服じゃない。いつもよりきっちりした服装で、教師みたいな顔をしている。
でも、教師じゃない。
あいつの影が、妙に遅れてついてきていた。
クロウが一歩動くと、影が半拍遅れて滑る。
見ているだけで、目が疲れる。
「君と話がしたくてね」
クロウは笑った。
笑い方は柔らかい。
でも、その目が冷たい。
俺は言った。
「お前がやったのか」
「やった、というより。起きてしまった、という感じかな」
クロウは肩をすくめた。
その動作がやけに自然で、逆に気持ち悪い。
止まった世界の中で、自然に動くやつは、異物だ。
俺も異物だ。
俺は自分の足元を見た。
影がある。
俺の影は遅れていない。
その違いが、腹の奥をざらつかせる。
「これは何だ」
「最後のループ」
クロウはあっさり言った。
最後、という単語が、舌に残った。
俺は息を吐く。
吐いた息が白い。
白い息が、止まった空気の中でゆっくり散っていく。
「君だけが動ける世界。正確には、動ける者が限られた世界」
「俺だけじゃないって言い方だな」
クロウは笑った。
「勘がいい。君はそういうところだけ、前の君に似てる」
前の君。
その言葉が、胸の奥を叩いた。
千回以上。
何百回も死んで。
都市を救って。
笑わなかった。
クロウが前に言った言葉が、反射みたいに戻ってくる。
俺は拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
痛みがある。
痛みがあるのに、現実感が薄い。
「お前の目的は何だ」
俺が言うと、クロウは一拍だけ間を置いた。
間の取り方が、わざとらしくない。
わざとらしくないのが腹立つ。
「世界を壊したいわけじゃない」
クロウは言った。
「君の想像より、僕はずっと現実主義なんだ」
「じゃあ、何だ」
「解放したい」
クロウは指を一本立てた。
「ループから。君を。世界を」
俺は笑えなかった。
笑えないのに、喉の奥がひくつく。
クロウは続ける。
「君が死ぬたびに、世界は少しずつおかしくなる」
「……」
「それでも記録者は続けさせる」
クロウの目が細くなる。
「だから、君を奪う」
奪う。
その単語が冷たい。
俺の背中に、境界の白紙が触れた気がした。
戻れなくなる。
死んだら終わり。
あの壁の前でレナが言った言葉が、頭の中で反復する。
「お前が言う解放ってのは、俺を殺すってことか」
俺は言った。
言いながら、喉が乾いていくのが分かる。
クロウは否定しない。
「殺す、という言い方は君の言葉だね」
「回りくどいんだよ」
「回りくどさが、世界を長持ちさせる」
クロウは軽く言った。
軽く言うのに、内容は重い。
「君はね、ずっと頑張りすぎた。君だけが代償を払ってると思ってた?」
クロウは広場の周りを指した。
止まった人々。
止まった街。
止まった時間。
「これが代償だよ。世界が疲れ果てた姿」
「……レナは」
口を出た。
俺はすぐに唇を噛んだ。
クロウの目が少しだけ光る。
「やっぱり君は、彼女の名前を先に出す」
クロウが言う。
「記録者は優秀だ。優秀すぎる。だから延命ができた。でも延命は治療じゃない。壊れた骨を、そのまま上から包帯で巻いてるだけだ」
その比喩が、妙にリアルで、嫌だった。
一理ある。
一理あるのが、もっと嫌だった。
俺はすぐに否定できなかった。
言い返せない沈黙が、口の中に溜まる。
沈黙の間に、俺の心臓だけが動く。
ドクン。
ドクン。
その音が、止まった街に染み込んでいく気がした。
「君がやめれば、世界は助かるかもしれない」
クロウは言った。
「君が戻らなければ。君が死んでも戻らなければ。世界はやっと終われる」
終われる、という言い方がひどい。
救われるじゃない。
終われる、だ。
俺は唇を開いた。
何かを言おうとした。
その瞬間、背後から声がした。
「そこまでです」
レナの声。
俺は振り返った。
レナがいた。
広場の端。
止まった人々の間を、レナだけが歩いてくる。
息が白い。
髪が少し乱れている。
走ってきたのだと分かる。
分かるのに、足音はほとんどしない。
レナは俺の横まで来て止まった。
距離が近い。
昨日の夜、昇降口で掴まれた袖の感触がよみがえる。
レナの手が震えていた。
今も、震えている。
震えが小さすぎて、見落としそうなのに、俺には見えた。
レナはクロウを見た。
「あなたは、天城くんの言葉を利用している」
レナの声は平らだ。
平らなのに、吐く息が少しだけ早い。
クロウは楽しそうに笑った。
「利用するのは君の得意分野だろう、記録者」
レナは反応しない。
反応しないまま、俺を見た。
その目が、いつもより深い。
記録の光が揺れる。
揺れているのに、逃げない。
「ここから先は」
レナは言った。
「天城くんの意思で決めてもらいます」
俺は喉が鳴った。
意思。
選択。
選ぶな、と言われた言葉が、胸の奥で反転する。
選ぶなと言われたからこそ、選ぶことが重くなる。
クロウが両手を広げた。
「ほらね。選択の時間だ」
クロウは、まるで司会者みたいに言った。
「このループが終われば、次はない」
クロウは淡々と続ける。
「君が死ねば、世界も止まる」
「君が生き残れば、世界は形を変える」
俺は息を吸った。
吸った空気が冷たい。
肺が痛い。
痛いのに、身体は動く。
動くのに、世界は止まっている。
その矛盾の中で、俺はレナを見た。
レナの指が、自分のスカートの裾を掴んでいる。
掴んだ指が白い。
昨日と同じだ。
昨日のレナは俺の袖を掴んだ。
今日は自分の裾を掴んでいる。
掴む対象が変わっているのに、必死さは同じだ。
俺はクロウを見た。
クロウの影が遅れて揺れる。
その遅れが、世界の歪みそのものに見えた。
俺は言った。
「それでも」
声が思ったより低い。
低いのに、震えていない。
「決めるのは俺だ」
クロウが笑った。
レナが小さく息を止める。
その瞬間だった。
世界が、急に動き出した。
止まっていた人が、同時に息を吸う音がした気がした。
ざわ、と空気が戻る。
遠くで車のエンジン音が走り出す。
鳥の声が戻る。
信号が点滅する。
世界が息を吹き返す。
その戻り方が、異様に乱暴だった。
巻き戻しでも再生でもない。
切れていたフィルムを無理やり繋いで再生したみたいな、ぎこちなさ。
俺は足元が揺れるのを感じた。
揺れの中で、自分の心臓の音がはっきり聞こえた。
ドクン。
ドクン。
それが世界の揺れと重なる。
レナが俺の腕に触れた。
触れた指が冷たい。
でも、触れた感触ははっきりある。
現実が戻ったせいだ。
戻った現実は、重い。
重い現実の中で、俺は思った。
これは、誰も知らない最後のループだ。
俺だけが覚えている世界の終わりの、その始まり。




