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一番嫌いで、一番好きな君を救うために、俺は何度でも世界をやり直す  作者: 妙原奇天


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第17話「一番嫌いで、一番好きな人」

 境界から戻った瞬間、街はちゃんと色を取り戻した。

 青い空は青いまま。

 アスファルトは黒いまま。

 信号はいつもの赤と青で、知らない顔が流れていく。

 なのに、俺だけが薄い。

 輪郭の内側が、少しだけ透けているみたいだった。

 風が頬を撫でる。触れているのに、触れた感触が浅い。

 さっきまで、白紙の壁に耳を当てていたせいだ。

 あの場所の無音が、まだ耳の奥に貼りついている。

「……今日は、ここまでにしましょう」

 レナは工業区画の角で立ち止まって言った。

 声は平らだった。いつものレナの声。

 でも、靴先がほんの少しだけ内側を向いていた。

 逃げたいのか、踏みとどまりたいのか、分からない向き。

「分かった」

 俺は頷いた。

 頷きながら、喉が鳴った。

 言うべきことがある気がするのに、言葉が喉の奥で引っかかって出てこない。

 境界で聞いた「戻れない」の一文が、まだ胸の骨に刺さっていた。

「……俺さ」

 口が勝手に動きかけた。

 レナが目を上げる。

 あの目だ。

 記録の光が揺れている目。

 俺はそこで止まった。

 止まった理由は、分からない。

 分かるのは、今ここで何かを言ったら、今の俺は壊れるということだけだ。

「ちょっと、一人にしてくれ」

 俺は言った。

 言った瞬間、舌が自分のものじゃない感じがした。

 レナの表情は崩れない。

 でも、睫毛が一度だけ強く揺れた。

 レナは小さく頷いて、背筋を伸ばした。

「分かりました」

 それだけ言って、一礼した。

 礼の角度がきれいすぎて、余計に刺さる。

 レナは背を向けて歩き出した。

 歩幅が一定。

 一定のまま、少しずつ遠ざかる。

 夕方の光が、影を伸ばす。

 俺とレナの影は、同じ方向に伸びるのに、途中で離れていった。

 足音が二つ。

 だんだん一つになる。

 俺は立ち尽くして、指先を握った。

 握ると、爪が手のひらに食い込む。

 痛みは、まだ俺のものだった。

 自分の足が動かないのをごまかすみたいに、靴のつま先で小石を蹴った。

 転がった小石が、側溝の蓋に当たって乾いた音を立てる。

 その音だけが、やけに現実だった。

 レナの背中が見えなくなるまで、俺はそこから動けなかった。

 それから、どれくらい歩いたか。

 気づいたら河川敷の土手に座り込んでいた。

 草の匂いがする。

 土の匂いもする。

 いつもなら落ち着く匂いなのに、今日は胸の奥がざらつく。

 空は暗くなりかけていた。

 水面が光を引き伸ばして、長い線になる。

 俺は石を拾って、川に投げた。

 ちゃぽん。

 音が小さい。

 もう一つ投げた。

 ちゃぽん。

 水面に輪が広がる。

 輪が消える。

 また投げる。

 輪が広がる。

 消える。

 輪が広がる。

 消える。

 そうやっていれば、胸の中のやつも一緒に消えてくれる気がした。

「それ、石を虐待してる?」

 声がした。

 右隣に、いつの間にか誰かが座っている。

 クロノだった。

 制服の上着のボタンを外して、土手に肘をついている。

 こいつの登場は、いつも足音がない。

 今日も、なかった。

「……お前、いつからそこに」

「君が二個目の石を投げたあたりから」

「最初からじゃねえか」

 俺は石を投げるのをやめた。

 やめた代わりに、手の中の小石を指で転がす。

 クロノは笑っているような、笑っていないような顔で川を見ていた。

「で、記録者と喧嘩?」

「喧嘩ってほどじゃ……」

 言いかけて、止めた。

 喉が乾いていて、言葉が擦れる。

 クロノは俺の顔を見ずに言った。

「君の顔、分かりやすいよ。世界が薄くなったときの紙みたい」

 俺は眉をひそめた。

「例えが嫌だな。もっとこう、イケてるやつにしろよ」

「じゃあ、透けるチョコレート」

「余計に嫌だ」

 クロノは肩をすくめた。

 軽口なのに、目が笑ってない。

 こいつはこういうやつだ。

 冗談の形で、いちばん痛い場所を指で押してくる。

「タイムリミット、知ってる?」

 クロノが言った。

 その声のトーンが、少しだけ落ちた。

 俺の指が止まる。

「……何の」

「世界崩壊まで」

 クロノが言った。

 そして、一拍置いて、続ける。

「残り二日だよ」

 その一文だけ、空気が変わった。

 川の音が遠のく。

 草の揺れる音も薄くなる。

 俺の耳の中に、境界の無音が戻ってくる。

「……二日?」

 俺は自分の声が低いのを感じた。

 クロノは頷く。

「二日。君とレナが仲直りするには短いし、君がもう一回死ぬには長い。ちょうど嫌な長さ」

「死ぬとか、簡単に言うな」

 言った瞬間、自分の口の中が苦くなる。

 俺がいちばん簡単に言ってきた言葉だった。

 クロノは何も言わず、俺の手元の小石を奪った。

 それを川に放る。

 ちゃぽん。

 輪が広がる。

 輪が消える。

「君が死ぬたびに、輪は広がって消える」

 クロノがぼそっと言った。

「でもさ。輪が消えたように見えても、水は同じじゃない。どこかに残る。どこかが濁る」

 俺は唾を飲み込んだ。

 喉が鳴る。

 クロノは立ち上がって、制服の裾についた草を払った。

「ま、僕は観客だから。続き、楽しみにしてる」

「趣味悪いな」

「趣味が良い観客なんていないよ」

 クロノは笑った。

 その笑い方が、さっきまでの軽さと違って、妙に乾いていた。

 そして、振り返りもせずに去っていった。

 俺は土手に残されたまま、川を見た。

 残り二日。

 その数字が、頭の中で何度も反復する。

 残り二日。

 残り二日。

 呼吸が浅くなる。

 胸の奥が、紙みたいに薄い。

 俺は立ち上がって、家に向かった。

 帰り道の街灯が、やけに白く見えた。

 夜。

 部屋の天井はいつも通りだ。

 でも、天井の白が境界の白に近い気がして、目を逸らした。

 ベッドに倒れ込む。

 シーツが肌に擦れる。

 その感触が、ちゃんとあるのが逆に怖い。

 俺は目を閉じた。

 寝れば、朝が来る。

 朝が来れば、また同じ日が始まる。

 いつもなら、そこに少しだけ安心があった。

 今日は、安心がない。

 目を閉じた瞬間、映像が走った。

 車のライト。

 衝撃。

 体が浮く。

 音が遅れて割れる。

 視界が回る。

 痛みの前に、空気が抜ける。

 次。

 崩れるビル。

 コンクリートの粉。

 口の中に砂が入る。

 息が吸えない。

 喉が焼ける。

 次。

 胸の奥に冷たいものが入ってくる。

 貫かれる感触。

 呼吸が逆流する。

 口の中に鉄の味。

 次。

 爆音。

 鼓膜が破れる前の圧。

 光。

 熱。

 皮膚の内側が先に焦げる。

 次。

 次。

 次。

 短い。

 長い。

 短い。

 長い。

 どれも、最後は白に溶ける。

 白紙の壁。

 白。

 白。

 その白の端に、いつも同じ影が映る。

 泣いているレナ。

 顔の全体は見えない。

 髪が揺れる。

 肩が上下する。

 手が震えて、何かを掴もうとしている。

 掴めない。

 掴めないまま、白になる。

 俺は目を開けた。

 天井がぐにゃりと歪んで見える。

 胃がせり上がる。

 俺はベッドから転げ落ちて、床に手をついた。

 手のひらが冷たい。

 冷たいのに汗が出る。

 口の中が唾液で満ちて、苦い。

 吐き気が止まらない。

 俺は膝をついて、呼吸を整えようとした。

 整わない。

 心臓が早い。

 早いのに、どこかで一拍遅れている気がする。

 境界のズレが、まだ残ってる。

 俺は立ち上がった。

 水を飲もうとして、コップを掴む。

 手が滑って、コップが少しだけ鳴る。

 その音が、やけに大きい。

 俺は水を飲んだ。

 冷たい。

 喉を通る。

 通ったはずなのに、喉の乾きが残る。

 俺は気づいた。

 このまま部屋にいたら、映像は止まらない。

 止まらないなら、動くしかない。

 外は寒い。

 でも、寒さならまだ我慢できる。

 俺は上着を掴んで、家を出た。

 夜の学校は、昼よりも音が少ない。

 校門の鉄が風で鳴る。

 街灯が白い円を地面に落とす。

 俺は門の前に立って、息を吐いた。

 吐いた息が白い。

 それが現実っぽくて、少しだけ落ち着く。

 俺は校舎の影に足を踏み入れた。

 どうやって入ったか、覚えていない。

 鍵が開いていたのか。

 それとも、俺が覚えているルートがあったのか。

 考えようとすると、また映像が割り込んできそうでやめた。

 昇降口の前に立った。

 ガラス越しに見える靴箱が、暗い。

 そこに、人影があった。

 最初から待っていたみたいに、そこに立っている。

 レナだった。

 制服のまま。

 上着を着ているのに、肩が少しだけ濡れて見える。

 汗なのか、霧なのか、分からない。

 レナは俺を見ると、小さく頷いた。

「来ると思っていました」

 その言い方が、胸を突いた。

 まるで、何度もこの場面を見てきたみたいに。

 俺は喉を鳴らした。

「……ここ、どうやって」

「今日は、開いていました」

 レナの答えはそれだけだ。

 それ以上は言わない。

 言えないのか、言わないのか。

 俺は昇降口の中に入った。

 床が冷たい。

 蛍光灯の光が白い。

 白い光が、境界の白に似ていて、目が痛くなる。

 レナは俺から一歩離れた場所に立った。

 距離がある。

 でも、逃げていない。

 俺は言った。

「……俺、さっき」

「大丈夫です」

 レナが即座に言った。

 大丈夫と言いながら、指が制服の袖を掴んでいる。

 掴んだ指の関節が白い。

 力を入れすぎている。

 俺は息を吐いた。

「大丈夫じゃねえだろ」

 レナは返事をしない。

 唇がほんの少しだけ開く。

 閉じる。

 開く。

 閉じる。

 言葉が喉の手前で何度も引っかかっている。

 俺は待った。

 待つと、心臓の音が耳に届く。

 俺の鼓動。

 レナの呼吸。

 学校の無音。

 全部が同じリズムに寄っていく。

 やっと、レナが口を開いた。

「あなたが死ぬたびに」

 声が少し擦れている。

「私は記録を取りました」

 記録。

 その言葉が、いつもより重く聞こえた。

 レナは続ける。

「忘れないために。見失わないために。崩れないために」

 言葉が短い。

 短いのに、背中がじわっと冷える。

「本当は」

 レナの指が袖を離れた。

 代わりに、両手が宙で迷う。

 掴むものがなくなって、手が震える。

「もう、やめてほしい」

 レナは言った。

 その一文に、飾りがなかった。

 言い訳もなかった。

 俺は喉が詰まるのを感じた。

 詰まるのに、涙は出ない。

 涙が出る余裕がない。

 レナは少しだけ息を吸って、続けた。

「けれど」

 間があった。

 その間に、蛍光灯が一度だけ小さく鳴った。

 ジ、と。

 世界の補正音に似た鳴り方。

「やめてほしくない、とも思ってしまう」

 レナの声が小さくなった。

 小さくなるのに、逃げなかった。

 俺は一歩だけ近づいた。

 足音が、昇降口の床に響く。

 レナの肩がほんの少しだけ上がる。

 怖がったのか、踏ん張ったのか、分からない。

 レナは俺を見た。

 目の光が揺れる。

 記録の光が揺れる。

 そして、言った。

「あなたは」

 そこで、レナの喉が鳴った。

 唾を飲み込む音。

 細い首が動く。

「一番嫌いで、一番好きな人です」

 俺は言葉を失った。

 嫌い。

 好き。

 その二つを一緒に言うのは反則だ。

 どっちかにしてくれ、と言いたいのに、どっちかにされたら息ができなくなる気がした。

 レナは、視線を逸らさない。

 逸らしたら崩れるから、逸らさない目だ。

 俺は息を吸った。

 吸った空気が冷たくて、肺が痛い。

「……嫌いってのは」

 俺が言うと、レナが小さく頷いた。

 頷き方が、きっぱりしている。

「あなたは、何度も自分を壊します」

「……」

「止めても、止まりません」

 レナの言葉は短い。

 短いのに、全部刺さる。

「好きってのは」

 俺は続けた。

 続けながら、指先が震えているのが分かった。

 俺は両手を握りしめて、その震えを抑えた。

 レナは少しだけ眉を寄せた。

 その眉の寄せ方が、ほんの少しだけ子どもっぽい。

「それでも、あなたを守りたいからです」

 レナが言った。

 守りたい。

 その言葉を言うときだけ、レナの声がほんの少しだけ温度を持つ。

 俺は、胸の奥がぐらつくのを感じた。

 世界が薄い。

 俺が薄い。

 薄いまま、レナの言葉だけが重い。

 俺は黙って、レナを見た。

 言うべきことがある。

 言うべきことがありすぎて、どれから言えばいいか分からない。

 残り二日。

 クロノの声が頭の中で反復する。

 残り二日。

 残り二日。

 俺は、やっと言葉を選んだ。

 選ぶというより、吐き出した。

「だったら」

 俺は言った。

「俺は、死にかたを自分で選ぶ」

 レナの瞳が一瞬だけ大きくなった。

 呼吸が止まる。

 止まった呼吸が、次に荒くなる。

 レナは反射的に一歩近づきかけて、止まった。

 止まるのが遅い。

 遅いのに、止める。

「馬鹿です」

 レナが言った。

 声がかすれている。

 喉が乾いているときの擦れ方じゃない。

 もっと深いところが震えている擦れ方。

「世界のために死ぬなんて、馬鹿です」

「世界のためじゃねえよ」

 俺は言った。

 自分の声が、思ったより真っ直ぐだった。

「誰かのためでもない」

 俺は一度息を吸って、続ける。

「お前のために、選びたい」

 レナの肩が、ほんの少しだけ落ちた。

 落ちたのに、膝が崩れない。

 崩れないまま、目の光が変わる。

 救われたとか、そういう言葉は使えない。

 でも、あの目の揺れ方は、今まで見たことがなかった。

 レナは唇を噛んだ。

 噛んだ唇が白くなる。

「そんなの」

 レナは言いかけて、止めた。

 止めた代わりに、俺の制服の袖を掴んだ。

 強く。

 強く掴むのに、指が冷たい。

 冷たいのに、震えている。

 俺はその手を見て、喉が鳴った。

「……やめてほしいって言っただろ」

 俺が言うと、レナは小さく首を振った。

「やめてほしいです」

 言い切る。

「でも」

 レナの指が、さらに強くなる。

「やめてほしくない、とも思ってしまう」

 同じ言葉の反復。

 さっきと同じ形。

 でも、今は違う。

 今は、レナの指が俺の袖を掴んでいる。

 逃げないように掴んでいる。

 俺は自分の手を上げて、レナの手首の近くに触れた。

 触れる直前で止めた。

 触れたら、何かが決定する気がしたからだ。

 でも止めたまま、レナの体温が伝わってくる気もした。

 俺は笑おうとして、笑えなかった。

 代わりに、息を吐いた。

「俺さ」

 俺は言った。

「戻れなくなるの、怖い」

 怖いという言葉を使うのは、ずるい気がした。

 でも、これだけは言わないといけなかった。

 怖い。

 その一語の代わりに、今の俺はもう何も出せない。

 レナの指が、一瞬だけ緩む。

 緩んで、また強くなる。

「私もです」

 レナは言った。

 たったそれだけ。

 その一文で、俺の胸の奥のざらつきが少しだけ静まった。

 俺たちは昇降口に立ったまま、しばらく動けなかった。

 蛍光灯の音。

 遠くの車の音。

 校舎の沈黙。

 その全部の中で、レナの指の感触だけがやけに鮮明だった。

 残り二日。

 数字が重い。

 でも、重いなら、持てるだけ持つしかない。

 俺はレナを見た。

 レナも俺を見た。

 嫌いで、好き。

 その矛盾を抱えたまま、俺たちはここに立っている。

 そして俺は思った。

 一番嫌いで、一番好きな人のために死ぬなら、それは生きることと同じ意味を持つのかもしれない。


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