第16話「境界へ」
放課後の昇降口は、いつもなら騒がしい。
部活の掛け声がして、靴箱が鳴って、誰かの笑い声が廊下に跳ね返る。
今日は、その音が遠い。
レナと並んで靴を履いた瞬間から、世界が薄くなっていく感じがした。
言葉にするなら、彩度が落ちる。
目で見て分かるのに、体の方が先に気づく。
風が、軽い。
皮膚の表面だけを撫でて、中まで入ってこない。
外に出た瞬間、街の色が抜けた。
建物も空も残っている。
でも、塗料だけが剥がれたみたいに、どれも同じ灰色に寄っていく。
その中で、レナの目だけが妙に目立った。
暗いのに、光がある。
まるで、そこだけ別のページから貼り付けたみたいに。
「……見えてる?」
俺が聞くと、レナは頷いた。
頷き方が小さい。
言葉を減らしてるときのレナだ。
「境界に近いです」
レナの声は落ち着いていた。
落ち着いてるのに、歩幅が少し速い。
急いでいるというより、遅れるのが怖い歩き方だった。
街の人間が、遅い。
歩いている。
笑っている。
スマホを見ている。
全部、普通のはずなのに、動作の端が一拍遅れる。
手を振る。
振った手が遅れて戻る。
口が動く。
音が少し遅れてついてくる気がする。
俺は無意識に自分の手を見た。
血色が薄い。
寒いわけじゃない。
世界の側が、俺から色を抜こうとしてる。
工業区画に入ると、さらに音が減った。
車の走行音が遠のく。
鉄の匂いだけが残る。
大きな倉庫の影。
使われてないコンテナ。
人のいない道。
こういう場所は、前から苦手だった。
誰にも見られてない場所ってだけで、何かが起きてもおかしくない気がする。
レナは立ち止まった。
アスファルトの割れ目のそば。
そこに、影が薄く集まっている。
影のはずなのに、影より白い。
俺は喉が乾いた。
「ここ」
レナはそう言って、しゃがみ込んだ。
指先を地面に触れさせる。
触れた瞬間、音がした。
紙を破る音に似ている。
バリ、ではない。
もっと静かで、もっと嫌な音だ。
リリ、と繊維が裂ける感じ。
空間が裂けた。
本のページを破ったみたいに、縦に。
裂け目の中は、白でも黒でもない。
色がない。
というより、まだ塗られてない空白。
見ていると、目が焦点を失いそうになる。
俺は一歩だけ後ずさった。
「……これ、何だよ」
レナは裂け目を見たまま言った。
「境界です」
声が淡々としてるのに、指先が震えている。
震えを隠すために、指を強く地面に押しつけた。
「世界のログとログが、直接触れ合う場所」
ログ。
レナは時々、そういう言葉を使う。
世界を世界として見てない言い方。
俺の背中がざらついた。
あの補正音。
カリ……という、耳の奥を削る音が、ここではずっと鳴っている。
「行くよ」
レナが立ち上がった。
そして、俺の手を取った。
指が冷たい。
冷たいのに、握り方は強い。
逃げないようにする力だ。
俺は、握り返した。
それだけで、何かを決めてしまった感じがした。
「……離すなよ」
俺が言うと、レナは一度だけ目を細めた。
「離しません」
言い切る声に、逃げ道がなかった。
俺たちは裂け目に踏み込んだ。
足が、地面に触れない。
浮いてるわけじゃない。
踏んだ感触が、遅れてくる。
自分の足音が、遅れて再生される。
コツ。
コツ。
音が後ろから追いかけてくる。
背中の方で鳴って、やっと耳に届く。
心臓が、変になる。
鼓動が前後にずれる。
打った。
遅れて打った。
もう一度打った。
今のは、いつのだ。
呼吸が合わない。
吸ったのに、吸えてない。
吐いたのに、吐けてない。
俺は思わずレナの手を強く握った。
その瞬間、レナの指が俺の指を握り返した。
同じタイミングじゃない。
少しズレてる。
でも、それが逆に安心した。
この場所では、ズレが普通なんだ。
ズレが、世界の本音なんだ。
境界の中は、道がない。
景色もない。
白紙の上を歩いてるみたいな感覚。
ただ、遠くに線がある。
線というより、傷跡。
何度も書いて、消して、また書いて、紙が毛羽立った跡。
俺はその線を見た瞬間、背筋が固まった。
あれは、俺の死の跡だ。
根拠はない。
でも体がそう言ってる。
「……俺が死んだら、いつも戻るのは」
言葉が途中で途切れた。
喉が鳴った。
この場所で声を出すと、声まで遅れる気がして怖い。
「お前のせいなのか」
俺は言った。
レナは歩きながら、首を振った。
すぐには答えない。
言葉を選んでいる。
選ぶたびに、何かが削れていくみたいに。
「違います」
レナはそう言った。
短く。
でも、そこで止まらなかった。
「私は……あなたを記録しているわけではありません」
俺は思わず足を止めた。
止めたはずなのに、止まった感触が遅れてくる。
境界の嫌がらせみたいな遅れ。
「じゃあ、何だよ」
俺の声が少し上ずった。
「俺が死ぬたびに、世界が戻る。俺は何回も……」
口にしかけて、噛んだ。
数を言うと、現実になる気がした。
レナは一度だけ俺を見た。
目が揺れていた。
記録の光、みたいな揺れ方。
瞳の奥で、文字が回っているみたいな。
「あなた“だけ”を戻しているわけではありません」
レナが言った。
「世界全体が、あなたの死を受け入れられない。それだけです」
それだけ。
その言い方が、俺を刺した。
それだけ、というには重すぎる。
世界が俺の死を受け入れられない。
つまり、俺が死ぬと世界が壊れる。
それを避けるために、世界が巻き戻る。
俺が原因。
クロウの言葉が、境界の空白の中で反響した。
君が壊している。
俺は息を吸った。
吸ったつもりで、吸えていない。
喉の奥が焼けるように乾く。
「……じゃあ、俺はどうすりゃいいんだ」
俺は言った。
怒鳴りたかった。
でも怒鳴ると、声が粉々になりそうだった。
レナは前を見たまま言った。
「死なないでください」
言葉は短い。
でも、そこに全部が入っていた。
死なないで。
死ねないで。
死んだら終わる。
俺の中で、初めてその結びつきがはっきりした。
境界の奥に、壁が見えた。
巨大な白紙の壁。
白いのに、ただの白じゃない。
目が滑る。
文字が書けない白。
記述前の白。
何もないのに、圧がある。
俺は近づくほど、胸が痛くなった。
鼓動が壁に吸われる。
壁が、微かに震えた。
音がした。
声みたいな音。
はっきり聞こえない。
言葉にならない。
でも、喉の奥に残る。
断末魔の直前の息みたいな音が、壁の内側から滲んでくる。
俺は足が止まった。
「……何だよ、これ」
レナは壁の前で立ち止まった。
指先を握りしめる。
爪が手のひらに食い込む。
血は出ていない。
出ていないのに、痛みだけが伝わってくる。
「ここが限界です」
レナは言った。
「これ以上ログを書けない」
壁の白が、目に刺さる。
白いのに、汚れている気がする。
汚れじゃない。
傷だ。
何度も書いて、消して、書いて、消して。
世界が俺を生かすために削った跡。
「これ以上死んだら」
レナの声が少しだけ揺れた。
揺れたのは、感情じゃない。
歯が噛み合わない音だ。
「あなたは戻れなくなります」
俺は息を吐いた。
吐いた息が、遅れて消える。
戻れない。
その言葉が、腹の底に落ちた。
今までは、どこかで思っていた。
どうせ戻る。
どうせやり直せる。
だから無茶ができた。
だから、庇えた。
だから、死ねた。
死ねたことが、ここに全部積もってる。
壁の内側で、また声がした。
知らない誰かの声。
でも、知っている気がする。
俺の声だ。
俺の声が、知らない言葉で喘いでる。
レナが俺の手を握り直した。
さっきより強く。
痛いほど強く。
「天城くん」
レナは俺の名前を呼んだ。
呼び方が、いつもより柔らかかった。
柔らかいのに、引き返せない響きだった。
「あなたは、境界を見ました。だからもう、前と同じようにはいきません」
俺は壁を見つめた。
白紙の壁。
何も書けない壁。
そこに耳を当てると、世界の裏側が鳴っている。
俺は唇を噛んだ。
血の味がした。
それだけは、遅れなかった。
白紙の壁を見つめるたび、胸の奥で、知らない誰かの断末魔が震えていた。




