第15話「世界の補正値」
校門の前に立ったとき、俺は一度だけ立ち止まった。
いつもなら、門はもう開いている時間だ。
生徒が流れ込んで、係の先生がだるそうに立っていて、誰かが朝から走ってくる。
そういう普通が、今日はない。
門が閉じている。
閉じているだけなら、まだいい。
問題は、その向こう側が妙に静かだったことだ。
人の気配が薄い。
風の音だけが目立つ。
俺は腕時計を見る。
針はちゃんと進んでいる。
なのに、校門だけが止まっている。
「……読み込み中かよ」
口に出してから、自分の軽口に乾いた笑いが混じった。
これがゲームだったら、まだ救いがある。
リセットできる。
やり直せる。
俺は、やり直してきた。
それが世界を壊してるかもしれないって話が、もう冗談じゃなくなってきてる。
門の向こうで、金具が鳴った。
カリ、という小さな音。
続けて、バチッ、と何かがはじけるような音。
門が、ゆっくり開いた。
開き方が遅い。
油が切れてるとかじゃない。
開く動作そのものが、数秒遅れている。
俺は足を踏み出す。
校内に入った瞬間、背中の皮膚がざらついた。
昨日の廊下の欠けを触れようとしたときの感触に似ている。
手のひらじゃなく、背中全体に薄い砂が乗ったみたいな不快さ。
校舎へ向かう途中、体育館を見た。
屋根が、透けた。
ほんの数秒。
骨組みだけが見える。
青空がそのまま向こう側まで抜けて、屋根の存在感が消える。
ポリゴン抜け。
そんな言葉が頭に浮かぶこと自体が終わってる。
次の瞬間、屋根は戻った。
何事もなかったみたいに。
周りの生徒は笑って歩いている。
誰も見上げない。
誰も立ち止まらない。
俺だけが見たことになってる。
そういうルールになりつつある。
教室へ向かう廊下。
壁の掲示物が、わずかに揺れた。
揺れたというより、画像がズレた。
視界が一瞬だけ二重になって、戻る。
カリ……。
耳の奥で、小さな音が鳴る。
紙を爪で引っかいたみたいな音。
俺は無意識に肩をすくめた。
悪寒じゃない。
世界の側が擦れてる感じだ。
教室に入ると、レナがもういた。
いつもより早い。
レナは机にノートを広げている。
黒い表紙の観測ノート。
それを見た瞬間、俺は嫌な予感がした。
昨日の白紙。
机の消失。
存在の曖昧化。
それでもレナは、記録を続けている。
続けないと、もっと酷いことになると知っている顔だ。
「おはよう」
俺が言うと、レナは顔を上げた。
「おはようございます」
声はいつも通り。
でも、まぶたの内側が少し赤い。
寝てないわけじゃない。
目を閉じても、何かが頭の中で鳴ってるんだろう。
俺は自分の席に座る。
「……今日は、校門遅れてた」
軽く言ったつもりだった。
レナの指が止まった。
ペンが紙の上で止まり、インクが一点だけ濃くなる。
「体育館の屋根が、透けた」
俺が続けると、レナは一度だけ息を吐いた。
息を吐く音が、短い。
「見えましたか」
「俺だけな」
レナは頷かなかった。
否定もしなかった。
肯定する代わりに、ノートのページをめくった。
そこで、文字が崩れた。
文字が、砂みたいに。
インクの粒がほどけて、紙から落ちる。
落ちたはずなのに、床に黒い汚れはない。
落ちたというより、消えた。
俺は目を見開いた。
「……なに、それ」
レナはノートを押さえる。
指先が紙に食い込む。
「記録そのものが……壊れています」
声が、少しだけ擦れた。
擦れたのは感情じゃない。
喉が乾いている音だ。
俺はレナのノートを見る。
行ごとに、文字が欠けていく。
昨日の白紙より酷い。
白紙は、整合性が保たれていた。
これは、整合性が保てていない。
「記録者の記録が壊れるって、どういう……」
俺が言いかけたところで、レナは首を振った。
小さく。
否定じゃない。
分からない、じゃない。
言い切ることを避けている。
レナはペン先を紙に当てる。
文字を書こうとする。
でも、書いた線が、また砂になって消えていく。
レナの指が震える。
震えを止めようと、手の甲にもう片方の手を重ねる。
それでも止まらない。
「世界の基盤が崩れています」
レナが言った。
「私の能力も、例外ではありません」
俺は何も言えなかった。
レナはいつも、先に知っていた。
先に知って、先に傷ついて、俺に見せないようにしてきた。
そのレナが、追いつけなくなってる。
それが、決定的な怖さだった。
チャイムが鳴る。
授業が始まる。
先生の声がする。
黒板の文字が増える。
俺はそこにいる。
そこにいるのに、世界が裏側で剥がれていく気がする。
昼休み。
俺は、レナと廊下を歩いていた。
人混みの中でも、レナの存在ははっきりしている。
静かで、硬い。
硬いのに、俺の隣にいるときだけ少し緩む。
それが、余計に困る。
守りたいとか、そんな言葉を口にしたくない。
口にした瞬間、何かが決まってしまう気がするから。
廊下の向こうから、同じ男子が歩いてきた。
クラスメイトだ。
名前も顔も分かる。
普通のやつ。
普通に歩いて、普通にスマホを見て、普通に顔を上げる。
……と思った。
もう一人、同じやつがいた。
同じ顔。
同じ制服。
同じ歩幅。
でも、目が違う。
ほんの少しだけ、まぶたの開きが違う。
口角の癖が違う。
笑い方の癖が、違う。
微差。
微差なのに、背筋が冷える。
二人は並んで歩いてくる。
周囲の生徒は気づかない。
気づかないまま、二人の間をすり抜ける。
すり抜けるとき、肩がぶつかるはずなのにぶつからない。
空気だけが動く。
俺の喉が鳴った。
レナが、俺の袖を掴んだ。
掴む力が強い。
引き留める力だ。
やばい、という合図。
二人のうち、片方がふと止まった。
足が止まる。
顔が上がる。
目が、どこか遠い。
まるで自分の存在が自分で分からなくなったみたいに。
「……何? 今」
もう片方の本人が呟いた。
「影みたいなのが……」
言い終わる前に、止まった方が崩れた。
黒いノイズが走る。
輪郭が、ざらっと剥がれる。
砂が風に散るみたいに、体の一部が欠ける。
音はない。
ないのに、耳の奥が痛い。
バチッ。
脳の中で火花が散ったような感覚。
止まっていた方は、消えた。
跡形もない。
世界はすぐに整える。
整えるというより、最初からそうだったようにする。
周囲の生徒は、普通に歩き続ける。
消えたことに気づかない。
消えたことを認識できない。
消えた本人だけが、首を傾げた。
「なんか、変な感じした」
それだけ言って、また歩き出す。
俺は動けなかった。
レナの指先が、袖の上で白くなる。
震えが伝わってくる。
「……今の、見たか」
俺が言うと、レナは頷いた。
頷き方が小さい。
必死に落ち着いているふりをしている。
「補正です」
レナが言った。
「世界が、辻褄を合わせようとして……合わせきれなくなっています」
俺は笑えなかった。
そうだろうな、と納得してしまった自分が嫌だった。
屋上へ向かう階段。
そこを上がるとき、空気が少し冷たくなる。
校内にいるのに、外に出るみたいに。
屋上の扉を開けた瞬間、風が頬を叩いた。
夕方じゃない。まだ昼だ。
なのに、光が妙に薄い。
色が抜けている。
空が青いのに、青が弱い。
世界全体が、彩度を落としている感じ。
フェンスにもたれた男がいた。
灰色のローブ。
半分の仮面。
クロウ。
「やあ」
クロウはいつもの軽さで言った。
軽いのに、言葉が重い。
俺は拳を握った。
握ると、手のひらが少し汗ばむ。
「また来たのか」
「来てるのは僕じゃない。崩れてるのが君の街だ」
クロウは空を見上げた。
雲が、ほんの少し逆に流れた。
一瞬だけ。
すぐに元に戻る。
俺だけが気づいた。
クロウは気づいている。
レナも、気づいている。
「都市崩壊ルートは、もう止まらない」
クロウの声は淡々としていた。
諦めた人間の声じゃない。
最初から結果を知っている人間の声だ。
「保存も破壊も関係ない」
クロウは俺を見る。
仮面の奥の目が、笑っていない。
「あと三日で、ミレニアは沈む」
俺の胸の奥が一度だけ縮んだ。
三日。
数字が具体的すぎて、頭が追いつかない。
「……ふざけるな」
俺の声は低かった。
怒鳴る余裕はない。
怒鳴っても世界は戻らない。
クロウは肩をすくめた。
「君が死にすぎた。レナが上書きしすぎた」
レナの指先が動いた。
口を開きかけて、閉じる。
止める言葉が見つからない。
「世界は疲れ果てたんだよ」
クロウはゆっくり言った。
「古い図書館の紙が、湿気で崩れるみたいに。世界は自壊する」
風が吹いた。
フェンスが鳴る。
カリ……。
音がする。
世界の端が、爪で削られてるみたいな音。
「君はどうする?」
クロウが言った。
「また英雄になる? それとも、まだ決めない?」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
答えた瞬間、選択が確定する。
確定した選択は、世界を傾ける。
レナの言葉が、袖の上でまだ残っている。
決めないでください、まだ。
クロウは俺の沈黙を楽しむみたいに、少しだけ笑った。
そして、背を向ける。
「次は、境界が見える頃かな」
それだけ言って、灰の粒子みたいにほどけた。
風の中に溶けていく。
屋上には、俺とレナだけが残る。
俺は息を吐いた。
吐いた息が、いつもより白く見えた。
気温のせいじゃない。
世界の色が薄いから、息の白さが目立つ。
放課後。
レナは俺を連れて、人気のない教室の隅に立った。
窓の外では、校庭のラインが一度だけ揺れる。
白線が二重になって、戻る。
戻るたびに、胸が痛む。
脈が早いのに、呼吸が追いつかない。
レナが俺を見る。
目は強い。
強いのに、指先は冷たい。
「もう隠していられません」
レナの声は、いつもより低かった。
削った言葉。
余計なものがない。
「あなたを……世界の境界へ連れていきます」
境界。
その言葉だけで、喉の奥が乾いた。
俺は首を動かせなかった。
頷くか、首を振るか。
それだけで何かが変わる。
変わってしまう。
廊下の向こうで、誰かが笑っている。
笑い声が、遠い。
まるで録音みたいに薄い。
俺はレナを見た。
レナは俺の袖を掴まなかった。
掴む代わりに、一歩だけ近づいた。
近づいて、止まった。
触れない距離。
でも、逃げない距離。
俺は小さく息を吸って、言った。
「……行く」
レナのまつ毛が一度だけ揺れた。
それが、答えみたいだった。
「境界」
その言葉だけで、何か大切なものが二度と戻らなくなる気がした。




