第十四話「生徒消失事件」
朝の教室は、いつも通りの音で満ちていた。
椅子を引く音。ペンケースが落ちる音。誰かの笑い声。
その全部が、ちゃんとここにある。
だから俺は、安心しようとしてしまった。
世界が壊れ始めてるなんて、昨日の悪い冗談みたいに。
担任が入ってきて、出席簿を開く。
「えー、出席取るぞ。天城」
「はい」
俺の返事は普通だった。
次も普通。次も普通。
担任はいつもの調子で、少しだけ間の抜けた声を出す。
「……榊原は、今日は欠席か?」
榊原。
その名前が落ちた瞬間、レナが小さく肩を揺らした。
机の上のペンが、カツンと鳴る。
レナが落としたわけじゃない。触ってもいないのに、ペンが転がって止まった。
俺はそこに目をやった。
レナは、指先を机の縁に押し当てていた。
白くなるほど強く。
担任は欠席の欄に丸をつけて、話を続けた。
「じゃ、ホームルーム。今日の連絡事項は……」
普通だ。
普通の朝だ。
なのに、俺の背中の皮膚がずっと冷たい。
榊原。
誰だっけ。
いや、そんなはずない。
俺は記憶を探る。
黒髪で、背が高くて、いつも眠そうで。体育のときだけやたら元気で。
ほら、いるだろ。
いるはずだ。
いるはずなのに。
担任が黒板に予定を書き始める。
チョークの粉が舞う。音がする。白い線が伸びる。
そこで、隣の席の男子が俺に話しかけてきた。
「なあ、さっき先生が言ったやつ、誰だっけ」
「誰って」
「欠席の。……なんか、聞いたことある気はするんだけどさ」
男子は笑っていた。
笑っているのに、目が迷っている。
机の上の時間割表に視線を落として、また俺を見る。
俺の喉が乾いた。
「榊原」
俺が言うと、男子は眉をひそめた。
「さかきばら? そんなやつ、いたっけ」
教室の空気が、少しだけ薄くなる。
遠くの会話が途切れた気がした。
誰かが笑っている。
なのに、その笑い声が浮いている。
レナが、ゆっくり立ち上がった。
音を立てない動きだった。
目立たないようにしてるのが分かる。
でも、俺にはそれが逆に怖い。
レナは教室の後ろの方へ歩いていく。
そこには、空席があった。
後ろの窓側、二列目。
俺は見たことがある。
その席に、確かに机があった。椅子もあった。
今は、ない。
最初からなかったように、床が綺麗だ。
机の脚がこすった痕もない。椅子のゴムの跡もない。
カーテンの揺れ方だけが、いつもと同じだった。
そこに空間があるだけ。
いや。
空間があることすら、おかしい。
クラスメイトたちは、その場所を避けて通る。
でも、誰も避けている自覚がない。
自然に、そこを迂回している。
まるで、そこに何かがあると身体だけが知っているみたいに。
レナは空席の前で膝を折った。
床に指先を伸ばす。
触れる直前に、指を止めた。
触れない。
触れないまま、息を飲み込む。
唇が一度だけ震えた。
レナは振り返り、俺と目が合った。
その目が、今までで一番、弱い。
弱いのに、言葉は出てこない。
担任は連絡事項を終えて、何事もなかったように言った。
「じゃ、今日も一日頑張れよ」
ホームルームが終わる。
椅子が鳴る。ノートが閉じる。ざわめきが戻る。
戻る。
戻るはずだった。
俺は立ち上がれなかった。
身体が重いというより、何かが合っていない。
視界の焦点が、空席に吸い寄せられる。
レナが俺の机まで戻ってくる。
いつもの歩幅より狭い。
いつもの速度より遅い。
レナは席に座らず、机の中からノートを取り出した。
表紙はシンプルな黒。角が少しだけ擦れている。
レナが持ち歩く、観測ノート。
俺は何度か見たことがある。
ただのメモじゃない。
ページの端に、小さな記号が並んでいる。日付と、時間と、座標みたいな数字。
レナはそれを、俺に見せるように開いた。
その瞬間、レナの指が止まった。
開いたページ。
そこだけが、白紙だった。
文字がない。
線もない。
付箋の跡すらない。
白い紙が、綺麗すぎる。
まるでそのページだけ、最初から印刷されていなかったみたいに。
レナの喉が動いた。
飲み込んだ。
もう一度、飲み込んだ。
指先が震える。
震えは小さい。必死に抑えている。
でも、抑えきれていない。
レナはノートを閉じた。
閉じる音が、やけに大きい。
「……消えたのか」
俺の声は、自分でも驚くほど低かった。
レナは頷かなかった。
首を振ることもしなかった。
その代わり、目を伏せた。
まつ毛が影を作る。
影が揺れる。
レナは、ノートを抱えるように胸に寄せた。
その仕草が答えだった。
授業が始まる。
黒板の文字は見える。
先生の声も聞こえる。
だけど、俺の頭の中にあるのは、空席だ。
空席の前の床の綺麗さ。
最初からなかったような、完璧な整合性。
世界が、整合性を保つために人間を消した。
そんなこと、ありえるのか。
ありえる。
だって、起きた。
昼休み。
俺は水を買うふりをして、廊下を歩いた。
レナはついてくる。
距離が近い。
近いのに、触れない。
触れないのに、袖の端が時々揺れてぶつかる。
そのたびに、レナの指が一度だけ動く。
掴みたいのに掴めない指だ。
廊下の角。
そこに、違和感があった。
空間が欠けている。
そうとしか言えない。
壁があるべき場所に、壁がない。
床があるべき場所に、床がない。
黒いノイズみたいなものが、そこに貼りついている。
縦に一メートルほど。
奥行きは分からない。
黒いというより、光が反射しない。視線が吸い込まれる。
でも、誰も騒がない。
生徒たちは、その部分を避けて通る。
避けているのに、顔は平然としている。
「何だよ、これ」
俺が小声で言うと、近くにいた女子が笑った。
「何が?」
「いや、そこ」
俺は黒い欠けに顎を向ける。
女子はそっちを見た。
見たはずだ。
見たのに、表情が変わらない。
「そこ、何もないじゃん」
女子はそう言って通り過ぎる。
靴の底が床を鳴らす。
音が鳴っている。
でも、黒い欠けの手前で、音が少しだけ薄くなる。
レナが俺の前に出た。
片手を伸ばす。
伸ばして、止めた。
触れる前に止めたのが分かる。
触れたくないのではなく、触れると駄目だと知っている動きだ。
俺は自分の手を見た。
手のひら。
指先。
ここまで何度も、傷ついて、戻って、また傷ついてきた手。
俺はその手を、黒い欠けへ伸ばした。
「やめて」
レナの声が、鋭かった。
俺は止まれなかった。
止まりたくなかった。
触らないと、俺はずっと逃げ続ける。
そう思った。
指先が、欠けの空気に近づいた。
触れる前に。
皮膚がざらついた。
目に見えない砂が、指先に擦りつけられたみたいに。
痛いとか、熱いとかじゃない。
不快だ。
身体が拒否する。
俺は思わず手を引いた。
引いた瞬間、爪の内側が白くなっているのに気づいた。
力が入っていた。
レナは俺の手首を掴まなかった。
掴めばいいのに。
掴まない。
掴むことが怖いみたいに、指先が宙で止まっている。
そこに、ノックの音がした。
コン、コン。
教室の扉だ。
昼休みの廊下で、扉のノックなんて妙に丁寧すぎる。
俺が振り向く。
扉が開いた。
クロウが立っていた。
灰色のローブ。半分の仮面。
この場にいるのに、周囲の生徒は気づかない。
気づけない。
俺とレナだけが、息を止める。
「やあ」
クロウは楽しそうに言った。
教師が授業に来るような自然さで、廊下へ踏み出す。
そこが気持ち悪い。
学園に溶け込む権限がある。
それが、昨日の今日で分かってしまうのが最悪だ。
「随分と綺麗に消えるね。世界は賢い」
クロウは黒い欠けを見て、軽く笑った。
「整合性を保つために、余計なものを削ってる。君の周りからね」
俺は喉の奥で唾を飲んだ。
「余計なものって何だ」
「分からないの?」
クロウの声は穏やかだ。
穏やかだから刺さる。
「君はどうする? ヒーローを名乗る?」
クロウが一歩近づく。
ローブの裾が揺れる。灰が舞う。
舞うのに、床に落ちない。
「それとも、保存者ごっこを続ける?」
クロウはレナを見た。
仮面の奥の目が笑っている。
レナの肩が、ほんのわずかに跳ねた。
「嘘は優しい。優しい嘘は、時に人を殺す」
クロウは俺に視線を戻す。
そして、短く言った。
「世界が壊れている」
次も短い。
「君が、壊している」
俺は言い返そうとした。
言い返す言葉が出てこない。
昨日、俺は確信してしまった。
世界の軋みが、俺の鼓動と同じリズムだって。
今日、クラスメイトが消えた。
机が最初からなかったみたいに、整合性が整った。
レナのノートのページまで白紙になった。
世界は、痕跡を残さない。
残さないからこそ、逃げられない。
クロウは肩をすくめた。
「答えは急がなくていい。君はいつも、最後に選ぶ。だから面白い」
俺の胸の奥が、ぎゅっと縮む。
いつも。
いつもって何だ。
俺の知らない俺が、まだいる。
クロウは踵を返した。
「このペースだと、明日には街が一つ消える」
言い捨てるみたいに言って、薄く笑った。
「それでも君は、同じ顔で学校に来るのかな」
クロウの輪郭が、灰みたいにほどけていく。
廊下の空気が一枚剥がれる。
次の瞬間、クロウはいない。
ノックの音も、扉の軋みも、最初からなかったみたいに消える。
周囲の生徒は、普通に歩いている。
普通に笑っている。
普通に、欠けた廊下を避けている。
レナが俺の袖を掴んだ。
掴む瞬間、指が震えた。
震えは大きくない。
でも、袖の布が揺れるのが分かる。
俺はレナの方を見た。
レナの唇が、うまく閉じられていない。
言葉が出る直前で止まっている。
目が濡れているわけじゃない。
でも、瞬きの回数が増えている。
俺はその必死さに、胸の奥が痛くなる。
「……階段」
レナは短く言った。
俺は頷いた。
俺たちは人気のない階段へ移動した。
踊り場の窓から、校庭が見える。
空は青い。
雲は普通に流れている。
普通に見える。
それが余計に怖い。
レナは俺の袖を放さなかった。
放せないみたいに、指が食い込んでいる。
爪が、布の上からでも分かるくらい立っている。
「天城くん」
レナが言った。
声は小さい。けど、逃げない声だ。
「あなたが選ぶたびに、世界が傾きます」
俺の喉が鳴った。
言葉が出ない。
レナは一度だけ目を伏せる。
伏せて、すぐ上げる。
決意を作り直すみたいに。
「今は」
レナの指が、俺の袖を強く掴んだ。
引き寄せる力じゃない。
しがみつく力だ。
「決めないでください、まだ」
俺は息を吸った。
胸の奥が重い。
重いのに、空っぽだ。
世界は壊れている。
俺が壊している。
クロウの言葉が、まだ耳の奥に残っている。
レナの言葉が、袖の上で震えている。
選ぶな。
選ぶなと言われるほど、選択肢の形がはっきり見えてしまう。
俺はレナの指先に視線を落とした。
白い指。
震えている指。
俺の袖を掴む指。
その指が離れたら、何かが終わる気がした。
俺は小さく頷いた。
頷いたのに、胸の奥は少しも軽くならない。
選ぶな、という言葉ほど、選択の重さを意識させるものはなかった。




