第13話「都市崩壊ルート:零」
朝の空気が、昨日より薄い。
薄いというより、街の輪郭が一枚だけ欠けている感じだ。息を吸うと、肺の奥まで冷たさが届かない。なのに、喉だけ乾く。
駅前の大型スクリーンが、いつものニュースを流していた。
天気予報。経済。芸能。どうでもいい情報のはずなのに、目が離せない。
画面が揺れた。
進んだ。
戻った。
進んだ。
戻った。
たった一秒。なのに、世界が何度も同じ場所を踏み直している。
隣のサラリーマンは、スマホを見たまま欠伸をしている。女子高生は、笑いながらイヤホンを片耳に押し込んでる。
誰も気づかない。
俺だけが、画面の一秒に引っかかってる。
胸の内側が、ざらついた。
道路を走る車が、交差点で急に減速した。
止まる。違う。止まる前に戻る。
さっきの位置に、戻った。
また走り出す。
運転手は普通の顔だ。ハンドルの角度も、視線も、まるで最初からそうだったみたいに整っている。
信号は青のまま。
街はいつも通り。
いつも通り、なのに。
俺の視界だけが、編集ミスみたいに繋ぎ直されていく。
「これ、夢じゃないよな」
声に出してから、自分で変だと思った。
最近、何かを見るたびに確認している。現実かどうか。目の前にあるものが、ちゃんと続いているかどうか。
右腕が微かに疼いた。
何もしてないのに。痛む理由はないのに。身体だけが、昔の痛みの場所を覚えている。
学校までの道は、いつもと同じだ。
パン屋の匂い。通学路の角の自販機。電線の影。
なのに、同じはずの景色が、同じ形をしていない。
景色の奥で、時間が小刻みに引っかかっている。
校門が見えてきた。
俺の足音が、ほんの少し遅れて返ってくる気がした。
気のせいだと言い切れないのが、嫌だ。
昇降口に入ると、靴箱の列がいつもより長く感じた。実際の長さは変わってないはずなのに、視線の移動が重い。目が滑らない。
レナがいた。
いつも通り、背筋が伸びている。制服の襟はきっちり。髪は整ってる。
いつも通りのはずだった。
俺が声をかける前に、レナがこっちを見た。
視線が揺れた。
ほんの一瞬。ほんの一瞬だけ、計算が狂ったみたいな目をした。
「天城くん」
「おはよう。……街、変じゃないか」
俺は軽口の形で言った。軽く言わないと、喉が固まって何も出なくなる気がしたから。
「駅前の画面、変な戻り方してた。車も。なんかさ、リプレイみたいに」
レナの指先が、靴箱の縁に触れた。
触れて、すぐ離れた。
その動きが、いつものレナじゃない。
レナは一度だけ口を開いて、すぐ閉じた。
言葉を選んでる。
それも、いつもの彼女より遅い。
「まだ……」
レナの声が、掠れた。
それだけで、背中の皮膚が粟立つ。
「まだ?」
俺が聞き返すと、レナは自分の言葉に気づいたみたいに息を飲んだ。
視線が落ちる。
髪を触る。ほんの少し。指が耳の後ろに引っかかって、すぐ離れる。
癖みたいな動きだ。焦った時だけ出るタイプの。
「この段階は……来ないはずでした」
レナが、そう口走った。
口走った、という感じだった。言い終えてから、言ってしまったことを飲み込もうとしている。
俺の頭の奥が、冷えていく。
今のは確定だ。
レナは、知ってる。
知ってて、隠してる。
「来ないはずって、何だよ。段階って何だ」
「今は」
レナは短く言って、そこで止まった。
言えない、というより、言うと何かが壊れると分かっている顔だった。
俺は舌打ちを飲み込み、笑う形を作った。
「分かった。今はいい。……でも、起きてる」
レナは頷いた。
頷き方が、硬い。
俺たちは廊下を歩いた。生徒のざわめきがいつも通りあるのに、音が壁の向こうから聞こえるみたいに薄い。笑い声が軽い。軽すぎる。
教室に入る。
黒板の文字は普通に見える。机も椅子も、いつも通り。
いつも通り。
この言葉が、最近ほど信用できない日はない。
午前中の授業は、何とか終わった。
教師の声は普通だ。ノートを取る手も普通だ。
だけど、窓の外の雲が、ほんの一瞬だけ逆向きに流れた。気づいたのは俺だけだった。確認するみたいに瞬きをしたら、雲はもう普通の流れに戻っていた。
昼休み。俺は水を買いに中庭へ出た。
自販機の前で小銭を入れる手が、微かに震えた。指先が冷たい。握った硬貨の温度が、自分の体温より低く感じる。
缶の落ちる音がした。
ゴトン。
それが、やけに大きく響いた。
校庭の方でボールの弾む音がする。バスケ部の練習か、誰かの遊びか。
ボールが地面に落ちた。
ドン。
次の瞬間だった。
地面が、ひび割れた。
乾いた土のひび割れじゃない。目に見えて、縫い目が開くみたいに割れた。浅い。けど、確かに割れた。
周りの生徒は、笑っている。
笑いながらボールを追いかけている。
俺は足を止めた。
地面のひび割れが、音を立てた。
ザザ……ッ。
砂が擦れる音。砂が集まる音。何かが、急いで直そうとしている音。
ひび割れが、閉じた。
割れ目が、逆に吸い込まれていくみたいに消える。土が元に戻る。跡が残らない。
そして、また割れる。
ザザ……ッ。
閉じる。
割れる。
閉じる。
ボールは弾んでいる。
その下で、世界が修復と破壊を繰り返している。
俺の背筋が冷えた。
喉が乾く。唾が飲み込めない。呼吸が浅い。胸がうまく広がらない。
「……聞こえた?」
背後から、レナの声がした。
俺が振り向くと、レナが校庭の縁に立っていた。顔色が、明らかに悪い。白い。いつもの白さじゃない。
「今の音」
俺が言うと、レナは頷いた。
その頷きが、遅い。
遅いということは、確認してるということだ。彼女の中の記録に、今の現象が載っていない。
「世界の補正が追いついていない」
レナが、小さく言った。
専門用語じゃないのに、意味が重い。
俺は校庭の地面に視線を戻した。
土はもう普通だ。ひび割れは消えている。ボールが弾むたび、何も起きない。
起きない。
でも、さっきは起きた。
それが、最悪だ。
俺が何か言おうとした瞬間、空気が変わった。
風が止まる。
いや、止まる前に、風が遅れてくる感じだ。音が後から追いつく。
校庭の真ん中に、影が落ちた。
影が落ちてから、人物が現れた。
そんな順序で。
灰色のローブ。半分の仮面。
クロウが、そこに立っていた。
足音はしない。なのに、存在だけはやけに鮮明だ。周囲の色が薄くなる分、あいつだけが濃い。
生徒たちは気づかない。
誰も振り向かない。
目の前に異物がいるのに、視界の端から滑り落ちていくみたいに認識しない。
俺だけが見ている。
レナだけが見ている。
クロウは校庭の土を見下ろし、楽しそうに笑った。
「いいね。もう始まってる」
その声が、耳の中に直接入ってくる。
「都市崩壊ルートの序章だよ」
俺の口が勝手に動いた。
「ふざけるな」
声が低い。自分でも驚くくらい、余裕がない声だった。
クロウは肩をすくめた。
「ふざけてない。君が死にすぎた。世界はもう限界なんだよ、天城ユウ」
レナが一歩前に出た。
剣は抜かない。だけど、姿勢だけで分かる。いつでも斬れる身体の使い方をしている。
「あなたが煽っている」
レナの声が震えている。怒りじゃない。焦りと、抑えきれない何か。
クロウはレナに目を向けた。
「煽ってる? 違う。眺めてる。記録者、君も分かってるだろう。ここから先は、前の世界では一度も来れなかった未知の領域だ」
未知の領域。
その言葉が、背中の奥を叩いた。
つまり、レナの記録が通用しない。
つまり、助け方も分からない。
つまり、俺が死んでも戻れない可能性がある。
俺のこめかみが脈打った。
ズキッ、じゃない。内側から押し広げられる痛みだ。頭の中に砂が入り込んで、擦れるみたいな痛み。
世界が、ざらついて見える。
視界に薄いノイズが走る。目の前の空気に粒が混ざる。透明なはずのものが、透明じゃなくなる。
「君は、ずっと代価を払ってきたつもりだっただろうね」
クロウが、優しい口調で言った。
優しいのが腹が立つ。
「でも、代価は君だけのものじゃない。街も、世界も、同じように削れてる。君が生き残るたびにね」
俺は息を吸った。
吸ったはずなのに、酸素が入ってこない感じがする。呼吸のタイミングが、世界のタイミングと合わない。
校舎が、軋んだ。
ギシ、と音がしたわけじゃない。
見えた。
校舎の角が、ほんの数秒だけ崩れた。
窓枠が歪む。壁の色が剥がれる。階段の影が消える。
次の瞬間、戻る。
何事もなかったみたいに。
周囲の生徒は、笑っている。
気づかない。
気づけない。
俺だけが見ている。
俺だけが、頭の痛みと一緒にそれを見ている。
その瞬間、身体のどこかが確信した。
言葉じゃない。理屈でもない。
確信だけが、胃の底に沈んだ。
俺のせいだ。
俺が原因だ。
こめかみの痛みが、鼓動と同じリズムで波打つ。
ズン。
ズン。
校舎が戻るリズムも、同じだ。
ズン。
ズン。
クロウが俺を見た。
仮面の奥の目が、笑っていた。
「ほら。分かっただろう?」
俺は歯を食いしばった。
口の中に鉄の味がした。血が出たのかもしれない。唇の内側を噛んだだけかもしれない。
レナが俺の横に立った。
肩が触れそうで触れない距離。いつもの距離より近い。だけど、近づけない理由が空気にある。
「天城くん」
レナの声が、弱い。
弱いのに、揺れていない。自分を支えるために、一本の線だけ残している声だ。
「違います」
レナはそう言った。
否定の言葉なのに、俺の中で否定にならなかった。
違うと言い切るほど、レナの目が苦しそうだったから。
クロウは楽しそうに笑った。
「違う? 君は優しいね、記録者。君の優しさはいつも、彼を苦しめる」
レナの指先が震えた。
俺はその震えを見てしまった。
自分のこめかみの痛みより、そっちの方が刺さった。
クロウは校舎の方へ視線を投げた。
校舎の輪郭が、また一瞬だけ揺れた。崩れる。戻る。崩れる。戻る。
まるで、世界が自分の形を思い出そうとしているみたいに。
「さて。零だよ」
クロウが言った。
「ここが、都市崩壊ルートのゼロ地点。君がどれだけ足掻いても、次はもっと派手に壊れる」
俺は一歩だけ前に出た。
足が重い。土が硬い。地面の感触が、現実を繋ぎ止めてくれる。
「だったら止める。俺が原因なら、俺が何とかする」
クロウは首を傾けた。
「今の君に、何ができる?」
その問いが、最悪だった。
反論できないのが最悪だった。
でも、黙るのはもっと最悪だった。
俺は息を吐いた。
吐いた息が白くならないのに、冷たい。
「できることを探す」
クロウは笑った。
「いいね。そういうの、前の君っぽい」
前の君。
その一言で、頭の奥がまた疼いた。
ノイズ混じりの映像が、さっきより少しだけ鮮明に浮かびそうになる。崩壊。血。叫び。冷静な自分。
俺はそれを振り払った。
今は、今だ。
今の世界が、ここにある。
ここが壊れるなら、壊れる前に掴むしかない。
クロウは踵を返した。
影が遅れて動く。本人より影がワンテンポ遅れてついていく。
「また来るよ。すぐにね」
そして、灰が舞った。
灰が舞って、輪郭が薄れた。
気づけばクロウはいない。
風が戻る。遠くの声が戻る。ボールの弾む音が戻る。
生徒たちは、笑っている。
何も起きていない顔で。
俺は膝が少し震えているのを感じた。
レナが俺の腕に触れた。
今度は触れた。指先だけ。短く。確かめるみたいに。
「大丈夫ですか」
俺は頷いた。
大丈夫かどうかは分からない。
でも、頷くしかない。
俺が崩れたら、レナが支えるものがなくなる気がした。
校舎の窓が、陽に光っている。
いつも通りの光。
なのに、その光が一瞬だけ砂嵐みたいにざらついた。
こめかみが痛む。
呼吸が合わない。
そして、俺の胸の奥で、同じ音が鳴っていた。
世界が軋む音は、俺の鼓動とまったく同じリズムで鳴っていた。




