第12話「前の世界の君」
放課後の廊下は、いつもより静かだった。
部活へ向かう足音と、誰かの笑い声はある。あるのに、膜が一枚挟まってるみたいに遠い。
世界が軋んでる、って言葉を思い出す。
昨日からずっと、耳の奥でギシギシ鳴ってる感じが消えない。
俺は自分の机に鞄を置いたまま、窓の外を見た。
雲は普通に流れてる。
でも、普通って何だ。
普通の定義が、毎日少しずつ削れていく。
「天城」
背後から声がした。
クロノだった。相変わらず中性的な顔で、どこか楽しそうに笑ってる。
あいつの笑顔は、安心じゃなくて引っかかりを置いていく。
「話、あるってさ」
「誰から」
分かってるのに聞いた。聞けば違う答えが返ってくる気がしたから。
クロノは肩をすくめる。
「屋上。来れる? っていうか、来るよね」
「命令かよ」
「忠告。今はね」
クロノは俺の目をまっすぐ見た。
そこだけ、笑ってない。
「行かないと、君は余計に迷う。そういう顔してる」
迷ってる。
当たってるから腹が立つ。
俺は舌打ちを飲み込んで、鞄の肩紐を掴んだ。右腕が微かに疼いた。刺された場所の、ないはずの痛み。
その痛みが、背中を押す。
「分かった。行く」
クロノは満足げに頷いた。
「じゃ、俺は見ないことにする。見ないほうが、長生きできるから」
「縁起でもないこと言うな」
「縁起って、君の場合もう」
クロノは言いかけて、口を閉じた。
その隙が、怖い。
俺は教室を出た。
階段を上がる。足音が少し遅れて返ってくる気がする。手すりが冷たい。鉄の冷たさが、やけに現実っぽい。
屋上の扉の前で、一度息を吸った。
胸が詰まる感じがした。
怖い、とは言わない。
でも、身体はちゃんと怖がっている。
扉を押した。
屋上の風が顔に当たった。夕方の風は冷たくて、乾いていて、どこか街の匂いが混ざってる。排気ガスと、遠くのパン屋の甘い匂いと、土の匂い。
夕焼けが、フェンス越しに広がっていた。
街のビルが黒い影になって、空だけが燃えてる。太陽はもう傾ききっていて、輪郭が潰れかけている。
その逆光の中に、男がいた。
フェンスにもたれて、夕焼けを背負って立っている。
灰色のローブ。半分の仮面。整った顔。年齢は二十代後半くらいに見えるのに、目だけが古い。
ネメシス幹部、灰冠。
クロウ。
「やあ」
クロウは軽く手を上げた。
挨拶の仕方だけは、普通の青年みたいだ。
普通の青年が、こんな場所にいるはずがないのに。
「呼び出したのはお前か」
「そう。話がしたかった。君が最近、いい顔をしているからね」
「褒めてんのか」
「評価だよ。君は追い詰められると、目が鋭くなる」
胸の奥が冷えた。
この言い方だ。俺を知っているみたいな言い方。
前にも言われた。前の君はもっと鋭かった、と。
俺は一歩だけ前に出た。距離を詰めたくないのに、逃げたくない。
「用件は」
「直球だね。好きだよ」
クロウは笑った。
笑い方が薄い。目だけ笑ってないんじゃなくて、目しか笑ってない。
「君はね、この街を救ってきた」
俺の喉が鳴った。
風が一瞬だけ止まった気がした。夕焼けが濃くなる。空の色が、肌に染みる。
「何の話だ」
「事実の話」
クロウは淡々と言った。
淡々と、残酷なことを事務的に並べる声。
「君は千回以上、死んだ。自分の命を代価にしてね」
千回以上。
数字が大きすぎて、理解が遅れる。
脳が追いつく前に、身体が反応する。胃の奥がひっくり返るような感覚。指先が冷たくなる。
「……冗談だろ」
俺は笑おうとした。
口角が動かない。
空気が重い。笑えない。息が浅い。
「冗談に見える?」
クロウが首を傾ける。
「前の世界での君は、今よりずっと笑わなかった。無駄な会話もしなかった。目的のために必要なことだけをしていた」
俺は拳を握った。
指の関節が白くなる。爪が掌に食い込む。
「前の世界って何だよ。俺は俺だ。昨日まで普通に生きて」
「昨日?」
クロウは楽しそうに言った。
「君の昨日は、君だけのものじゃない。君が死ぬたび、世界は書き換わる。君が戻るたび、この街は一歩だけ、別の形になる」
俺の頭の中で、何かが鳴った。
ギシ、という音。
昨日まで聞こえてた軋みより、もっと近い。骨の内側で鳴る音。
「やめろ」
「やめないよ。君にとって必要だからね」
クロウはフェンスから背を離した。
一歩。俺に近づいた。
距離が縮まるだけで、皮膚が粟立つ。風が冷たいのに、額に汗が滲む。
「君は千回以上救った。そのたびに、失敗もした。そのたびに、誰かを失った」
クロウの声が、夕焼けの中でやけに鮮明だった。
街の音が遠くなる。鳥の声が消える。風の音も薄れる。
俺の耳は、クロウの声だけを拾う。
「その記憶は、君には残らない。残るのは、痛みの残像と、理由のない恐怖だけ」
右腕が疼いた。
刺された場所の、ないはずの痛み。熱。痺れ。
俺は唇を噛んだ。
そして、見えた。
見えた、というより、浮かんだ。
目の前の夕焼けに、別の映像が重なる。
街が崩れている。
ビルが傾いて、ガラスが降って、煙が空を覆っている。
俺の足元が揺れる。地面が裂ける。遠くで誰かが叫んでいる。
音は聞こえない。
聞こえないのに、叫びの形だけが見える。
血の匂いだけが、鼻の奥に残る。
レナがいた。
血だらけだった。制服が赤黒く染まって、髪に灰が絡んで、頬に涙の跡がある。
レナが何か叫んでいる。
口が動く。喉が震える。
でも、声は届かない。
俺の手が見えた。
真っ赤だった。指の間に血が溜まって、滴が落ちる。
それなのに、俺の顔は冷静だった。
笑っていない。怒っていない。泣いていない。
ただ、決めている顔。
次に何をするか、もう分かっている顔。
映像が砂嵐みたいに崩れた。
ノイズが走る。視界が白くなる。
俺はよろめいて、膝が軽く折れた。
「っ……」
喉が痛い。息が引っかかる。
クロウが俺を見下ろしている。
「思い出しかけたね」
その言い方が、腹の底を冷たくする。
「君は英雄だった。少なくとも、この街では」
「英雄?」
声が掠れた。
「俺が?」
クロウは頷く。
「英雄候補、じゃなく、英雄そのものだった。君は何度も選んだ。誰かを救うために、自分が死ぬことを」
吐き気がした。
英雄という言葉が、汚く聞こえる。
血の手。崩壊する街。泣きながら叫ぶレナ。
そんなものの上に英雄なんて名前を乗せるな。
「俺はそんなこと、望んでない」
「望んでない?」
クロウが笑う。
「望む望まないで世界は動かない。君は動いた。だからこうなっている」
その瞬間。
屋上の扉が、勢いよく開いた。
金属がぶつかる乾いた音。風が一段、荒くなる。
「その話は、今はまだしてはいけません」
レナだった。
息が荒い。走ってきたのが分かる。頬が赤くて、額に汗が浮いている。制服の襟が少し乱れている。
レナはクロウと俺の間に立った。
剣は抜いていない。なのに、空気が変わる。鋭くなる。
レナの目が、真っ直ぐクロウを刺している。
その目は、いつもよりずっと剥き出しだった。
「記録者はいつも、彼から真実を遠ざける」
クロウは肩をすくめた。
「優しいね。残酷だね。どっちかな」
「黙って」
レナの声が低い。
普段のレナは、短くて静かだ。今は違う。短いのに、震えている。怒りじゃなくて、必死さの震え。
レナの指先が少し震えていた。
俺はその震えを見てしまった。
隠してるのは、悪意じゃない。
守るためだ。
そのニュアンスが、胸を締める。
クロウは俺の方へ視線を戻した。
「今日のところはここまでにしよう。君が知るべきことは、もう始まっている」
レナが一歩前へ出る。
「始まっていません。あなたが始めようとしているだけです」
「同じことだよ」
クロウは軽く指を鳴らした。
灰が舞った。
ローブの裾が、粒子みたいに崩れていく。輪郭が薄くなる。
消える直前に、クロウは俺にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「都市崩壊ルートのカウントダウンは、もう始まっている」
そして、消えた。
灰が風に散る。屋上の空気が戻る。遠くの車の音が帰ってくる。校庭の声がかすかに聞こえる。
俺は、膝がまだ少し震えていた。
レナは俺の方を向いた。
さっきまでの鋭さが、一瞬で削げ落ちる。肩が少し落ちる。息が揺れる。
レナは俯いた。
「ごめんなさい、天城くん」
それだけ言った。
謝る理由が多すぎて、言葉がそれ以上出てこないみたいな謝り方だった。
俺は喉を鳴らした。
言いたいことが山ほどある。
お前は何を知ってるんだ。
俺は何なんだ。
千回って何だ。
英雄って何だ。
でも、どれを口にしても、レナを傷つける気がした。
傷つけたいわけじゃないのに。
「……俺が本当に、そんなことをしてきたとして」
声が、思ったより小さかった。
風が冷たい。指先が冷える。
「俺は、どうすればいいんだ?」
レナは顔を上げた。
目が赤いわけじゃない。泣いてない。泣かないようにしてる目。
まばたきの回数が少ない。乾いてるみたいに見える。
「その答えを出すのは、あなた自身です」
レナの声は短い。
けど、その短さの中に、時間が詰まっている。
千回分の時間が。
俺は笑えなかった。
信じたい。
でも、怖い。
信じた瞬間、俺は俺じゃなくなる気がした。
英雄だった自分に飲み込まれて、今の俺が消える気がした。
レナが俺の腕に触れようとして、途中で止めた。
指先が空を掴む。触れたいのに触れない。
その距離が、刺さった。
俺は一歩だけ後ろへ下がった。
レナもそれ以上近づかなかった。
屋上のフェンス越しに、夕焼けがまだ燃えている。
さっきより赤い。
赤が濃くなって、街の影が黒く沈んでいく。
あの赤は、血に似ている。
似ているだけだと思いたいのに、似すぎている。
俺は空を見上げた。
夕焼けの色が、やけに血の色に近く見えた。




