第11話「世界が軋む音」
犬が吠えた。
通学路の角。いつもと同じ場所。いつもと同じ茶色い雑種。首輪が少し擦り切れていて、吠えると耳がぴくっと跳ねる。
犬が吠えた。
俺は足を止めた。たぶん眉間に皺が寄った。自分でも分かるくらい、身体が固まった。
犬が吠えた。
同じ声量。同じ間合い。吠えた直後に、右前脚が半歩だけ前に出る癖まで同じ。
世界が、同じ数秒を繰り返した。
俺の足元の影の長さすら、ずれていない。
周りの大人たちは普通に歩いている。スマホを見て、缶コーヒーを飲んで、誰かに頭を下げて。犬の方をちらっと見て、気にも留めない。
俺だけが立ち止まって、三回目の吠え声を聞いている。
喉が乾いた。
舌の裏側がざらつく。唾を飲み込んでも、潤う気がしない。
「……またかよ」
声に出したのは、強がりのためだ。
怖いと言う代わりに、面倒くさいと言っておく。俺の中のいつもの逃げ道。
でも、三回目はさすがに笑えない。
犬の目が俺を見ていた。
いや、俺の向こうを見ているだけかもしれない。けど、その黒目が一瞬だけ、ガラスみたいに冷たく見えた。
俺は視線を外した。歩き出した。足の裏の感触が少し遅れてくる。
地面を踏んだはずなのに、踏んだ感覚が後から追いかけてくる。
少し前まで、こういうのは教室の中だけだった。
今は街に出てきている。
ミレニア全体が、息継ぎを失っているみたいだった。
学校へ着くまでの道のりが、妙に長い。
風の匂いが薄い。車の音が遠い。世界が一段、膜を張ったみたいに鈍い。
それでも校門の前まで来ると、いつもの騒がしさが戻ってきた。
「おはよ、天城!」
トオルが手を上げる。いつも通りの声。
俺も手を上げ返す。
「おはよ。今日も元気だな」
「元気しか取り柄がないからな。お前は?」
「俺は元気を貯金してる」
「貯めてどうすんだよ」
くだらない会話が、ありがたい。
このまま普通に一日が終わればいいのに、と願ってしまう自分がいる。
願うだけじゃ足りない。
それが、ここ数日の結論だ。
教室に入ると、いつもの匂いがした。チョークと、古い机と、誰かの柔軟剤。窓際の席に座って、鞄を下ろす。
右腕が少し疼いた。
ないはずの痛み。刺されて、治ったはずの場所。
俺は袖の上から指で押した。押すと、奥で熱が跳ねる。
痛みが記憶みたいに残っている。
黒板の前で先生が準備している。チョークを持って、数式をちらちら見ながら板書を始めた。
授業が始まって、十五分くらい経った頃。
ふと、窓の外が気になった。
別に理由はない。気づいたら見ていた。
空は薄い青で、雲が長く伸びていた。千切れた筋雲が、風に流されていく。
流されていくはずなのに。
千切れたはずの雲が、戻った。
さっきほどけた薄い筋が、まるで録画を巻き戻すみたいに、一本の線へと繋がっていく。
雲が逆に動いている。
崩れた形が、元の形に組み直される。
俺は目を細めた。見間違いだと言い聞かせようとした。
でも、確かにそう見えた。
雲は、戻った。
戻って、また崩れた。
そして、また戻った。
これを見ているのは俺だけなのか。
周りのやつらはノートを取って、先生の声を聞いて、眠そうにしている。窓の外なんて誰も気にしていない。
俺は喉を鳴らした。
息が浅くなる。
胸の奥が、窮屈だ。
世界が巻き戻るって、こういうことなんだろうか。
俺の中で、何かが音を立てた。
ギシ、という金属の擦れる音。
それは外から聞こえる音じゃない。耳じゃなくて、骨に響く音だ。
授業が終わるチャイムが鳴った。
鳴ったはずなのに、鳴り方が変だった。
いつもより少し遅れて聞こえた。
教室がざわつく。椅子が引かれる音。机の脚が床を擦る音。いつも通りの昼休み。
俺は席を立って、中庭へ出た。
時計塔が見える場所まで歩くのが、今は怖い。怖いと言葉にしたくないから、確認しに行くって自分に言い訳する。
中庭の空気は冷たかった。冬の入り口みたいな冷たさ。
時計塔の針が見えた。
長針が、十二を指している。
短針が、十二の少し手前。
ちょうど十二時。
次の瞬間、長針が少し動いた。
十二時一分。
その瞬間、また戻った。
十二時。
十二時一分。
十二時。
針が行ったり来たりしている。
俺は笑えなかった。
喉の奥が乾いて、息が引っかかる。
頭が痛い。
痛みがこめかみから始まって、目の奥に刺さる。視界が少し白く滲む。
チャイムが鳴った。
いや、鳴った気がした。
音は確かに聞こえたのに、周りの生徒が反応しない。誰も顔を上げない。誰も時計塔を見ない。
俺だけが、音を拾っている。
俺だけが、世界のズレを拾っている。
「ユウ」
レナの声がした。
振り向くと、レナが立っていた。いつもより早く来ている。俺の近くにいることが、最近は当たり前になりつつある。
レナは俺の顔を見ると、すぐに肩へ手を置いた。
触れ方が軽いのに、逃がさない触れ方だった。
「顔色が悪いです」
「顔色なんて、元から良くない」
「元からなら、分かります。今は違います」
レナの目が、俺の目を見ない。俺の目の奥を見ている。俺の中にあるものを見ている。
その目が嫌だ。
嫌なのに、目を逸らせない。
「レナ、時計……見えてるか」
レナは時計塔を見た。
針は、今も行ったり来たりしている。
レナの唇が一瞬だけ硬くなる。
「……見えています」
「じゃあ、聞こえたか。今、チャイム」
レナは頷かない。
否定もしない。
その沈黙が、答えだった。
レナは聞こえていない。
俺だけが聞こえている。
頭痛が強くなった。目の奥が熱い。息を吐いても吐いた気がしない。
「座ってください」
レナが言った。
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃない。今は、無理をする場面ではありません」
レナの言い方が、いつもより硬い。
模擬戦のときの声に似ている。俺が死にかけたときの声。
俺は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
代わりに、レナの肩に体重を預けた。
ベンチに座る。冷たさが尻に刺さる。
レナは俺の横に立ったまま、中庭の端を見ていた。警戒している目。
その目が、もっと嫌な予感を連れてくる。
「……最近、ずっとこうだな」
俺が言うと、レナは一瞬だけ眉を動かした。
「こう、とは」
「世界が変。俺も変。お前も変。クロノも変。全部変」
「私は、変ではありません」
即答だった。
でも、その声は少しだけ掠れていた。
レナが隠しているものが、隠しきれなくなっている。
それが分かる。
分かるから、余計に息が苦しい。
昼休みが終わって、教室へ戻る途中。
廊下の角で、空気が揺れた。
誰かが通ったような揺れじゃない。温度が変わった揺れだ。
俺は足を止めた。
背中が冷える。
右腕の疼きが強くなる。
レナが俺の横を抜けて、一歩前に出た。剣は抜いていない。でも、姿勢が戦闘のそれだ。
「……侵入」
レナが小さく言った。
次の瞬間、背後から声がした。
「やあ」
低い声。
笑っているのに温度がない。
俺が振り向くより先に、その声の主が視界に入った。灰色のローブ。半分の仮面。整った顔。
クロウ。
この前、学園に現れたネメシス幹部。
俺の喉が鳴った。さっきまでの頭痛が、別の種類の痛みに変わる。内臓が冷たくなる感じ。
「こんなところで会うとはね」
クロウは廊下の真ん中に立っていた。生徒は周りにいるはずなのに、誰もこちらを見ていない。
いや、見ているのかもしれない。
でも、その視線は焦点が合っていない。見えているのに、認識していない。
世界が、クロウの存在を隠している。
いや、削っている。
クロウの足元から、薄い灰が舞っていた。雪じゃない。粒が軽い。触れたら消えそうな灰。
「君も、だいぶ分かってきたみたいだ」
クロウが言う。
「この歪み。分かるだろう?」
俺は答えなかった。答えたら負ける気がした。
クロウは笑った。
「君の力が世界の限界を超え始めている」
言葉が胸に刺さる。
俺の中のどこかが、さっきから軋んでいる。
ギシ、ギシ、と。
「……俺の力?」
「再誕。死んで、戻る。そのたびに世界は書き換えられる」
クロウは淡々と言う。
説明しているみたいなのに、丁寧じゃない。裁定を下しているみたいな言い方。
「君だけが代償を払っていると思うな」
俺は歯を噛んだ。
言い返したい。
殴りたい。
でも、言い返す言葉が見つからない。
クロウの言葉が、直感的に正しい気がしてしまう。
それが一番腹立たしい。
「黙れ」
俺はようやく言った。
声が自分のものじゃないみたいに低い。
「黙るのは君だよ。君の死が増えるほど、この街は壊れる」
クロウは俺の胸元を指差した。
指先が近づいてくるだけで、皮膚が粟立つ。
「君が世界を壊している」
レナが一歩前に出た。
「違います」
レナの声は強い。
強いのに、どこか切れている。糸が擦れている音がする。
クロウはレナを見る。
「記録者。君はまだ否定するのか」
レナの肩が一瞬だけ跳ねた。
記録者。
その呼び方。
模擬戦のとき、クロウが口にした言葉が蘇る。何百回繰り返しても、守りたがる。
何百回。
俺の喉が乾いて、息が浅くなる。
「……消えろ」
レナが言った。
剣は抜かない。でも、気配が抜けない。空気が尖る。
クロウは肩をすくめた。
「今日は挨拶だけだ。君が気づいたなら、もう逃げ道はない」
灰が舞う。
クロウの輪郭が薄くなる。
消える直前に、クロウは俺を見た。
仮面の奥の目が、笑っていた。
「壊れる音がするだろう。君のせいでね」
次の瞬間、クロウは灰になって散った。
廊下の空気が戻る。遠くの笑い声が耳に入る。誰かが走る足音。先生の咳払い。
俺は、その場から動けなかった。
レナが俺の腕を掴んだ。
力が強い。痛いくらい。
でも、その痛みが今はありがたい。俺がここにいると分かるから。
「ユウ、行きます」
「……今の、聞いたか」
「聞きました」
「俺が世界を壊してるって」
「違います」
レナは即答した。
さっきより強く。
でも、目が揺れている。
全部知っている人間の目。
否定しているのに、否定しきれていない目。
夕方の教室は、光が斜めに入ってくる。机の角が長い影を落とす。窓の外の街が橙色に滲む。
いつもなら綺麗だと思うはずの光が、今日はただ薄気味悪い。
何度も見た景色のはずなのに、初めて見るみたいに距離がある。
俺は自分の席に座って、レナを見上げた。
「レナ。俺が壊してるって、どういう意味だ」
レナは首を振った。
「違います」
「違うって言われても、信じられない自分がいる」
言ってしまってから、胸が痛んだ。
俺はレナを責めたいわけじゃない。むしろ、頼りたい。
でも、頼り方が分からない。
レナは唇を噛んだ。ほんの少しだけ。血が出るほどじゃない。けど、その仕草が苦しそうだった。
「あなたは……悪くありません」
レナの言葉は短い。
短いのに、間が長い。
その間に、言えない言葉が詰まっている。
俺は机の上の自分の手を見た。
指先が少し震えている。
世界が壊れていく。
街が軋む。
犬が吠えた。雲が戻った。時計が揺れた。見えないチャイムが鳴った。
全部が、俺の周りで起きている。
俺の中のどこかで、ギシ、という音がまた鳴った。
その音は、耳じゃなくて胸に響く。
レナの手が、俺の肩に触れた。
触れるだけ。掴まない。優しく置く。
その温度が、今の俺には重かった。
世界の異常と、自分の鼓動が重なっていく。
逃げ道はない、とクロウは言った。
なら、俺はどこへ行けばいい。
この世界の軋みは、確かに俺の心の内側から聞こえていた。




