第10話「血塗られた模擬戦」
体育館の床って、やたら滑る。
ワックスの匂いが鼻の奥に残って、スニーカーの底がきゅっと鳴る。こういう音を聞くと、授業より先に「帰りたい」が来るのが俺だ。
なのに今日の体育館は、妙に浮かれていた。
ステージ前にクラスごとに整列して、あちこちで拍手と歓声が起きている。文化祭の前日みたいな、変に落ち着かない熱。
「学食無料券ってマジかよ」
トオルが俺の横で小声を漏らした。
「しかも一週間分。勝ったらな」
「勝つわ。俺、今日だけは本気出す」
「本気出すのはゲームだけにしろ」
「うるせえ。腹が減ってる時の俺は強い」
いつも通りの軽口。こういうのがあると、世界が壊れてるとかどうとか、いったん頭の隅に押し込めることができる。
昨日からずっと、胸のどこかがざらついている。
屋上でレナが言いかけた言葉。
死ぬところを見た、という言葉。
信じる信じない以前に、俺の中のどこかが「そうかも」と頷きかけていて、そこが一番気持ち悪い。
ステージ上に司会役の教師が立った。体育担当の声がでかい先生だ。マイクが要らないタイプ。
「はいはい、静かにー! 本日は特別模擬戦イベントを実施する! 異能実技の一環だが、まあ、祭りだと思って楽しめ!」
歓声が上がる。
先生はホワイトボードを指さした。そこにはでかでかと、クラス対抗フラッグ戦、と書かれている。
ルールは簡単だ。結界内のフィールドに置かれた旗を奪って、自陣に持ち帰る。倒されたら退場。時間内に旗を多く持ち帰ったチームが勝ち。
よくあるやつだ。
「各クラス、チーム編成は事前に決めた通りだ。怪我は結界が防ぐ。遠慮なくやれ」
怪我は結界が防ぐ。
その言葉のせいで、みんな遠慮がなくなる。つまり、盛り上がる。
ステージの端の方、壁際に目をやると、クロノがいた。
相変わらず、学園の制服とも教師の服とも違う、妙に整った格好をしている。前髪が目にかかっていて、笑ってるのかそうじゃないのか分からない顔。
俺が見ているのに気づいたのか、クロノは軽く手を振った。
気軽すぎる。
屋上での「いいところだったのにね」を思い出して、胃の奥がひくっとした。
隣にレナが立っている。いつもより少しだけ近い。
昨日から、近い。
今朝から、もっと近い。
それがありがたいのか、怖いのか、自分でも整理できない。
「……大丈夫ですか」
レナが小さく言った。
「何が」
「顔が、硬いです」
「俺はいつも硬いだろ」
「いつもより、です」
レナは視線を落としたまま、言葉を削って投げてくる。なのに、言葉の端に熱がある。風呂上がりの湯気みたいな、触れたら火傷しそうな熱。
「模擬戦だし、気楽にやるだけだ」
「気楽に、できるなら」
レナがそこで止まった。
言いかけたものを飲み込む癖。昨日から、そればかりが目につく。
先生の説明が終わり、誘導が始まった。
体育館を出て、グラウンドへ向かう。
結界フィールドは、普段の校庭よりずっと広い場所に展開される。異能実技用の専用区画。金属の柱が等間隔に立っていて、その柱から薄い光の膜が張られる。
空気が変わる。
膜が張られた瞬間、外の音が少し遠くなる。風が弱くなり、匂いが薄くなる。
世界がひとつ、箱に収まった感じ。
「結界、展開します!」
係の生徒が叫ぶ。
光が足元から立ち上がり、フィールドの端に沿って走る。柱から柱へ、線が繋がって、最後に天井みたいな膜がふわりと閉じた。
俺は思わず手を伸ばしそうになった。
透明なのに、そこにある。触れたら冷たいだろうか。
レナは、その結界を見て顔色を変えた。
ほんのわずかに唇が白くなる。
「どうした」
「……嫌な感じがします」
「嫌な感じって」
「結界が、いつもより薄い」
俺には分からない。けど、レナがそう言うなら、薄いんだろう。
クロノが前に出てきた。いつの間にマイクを持っている。
教師が「おい、クロノくん?」と制止するような声を出したけど、クロノは笑って一歩進んだ。
「追加ルールを一つ」
クロノの声はよく通る。なのに、体育の先生ほど押しが強くない。薄い刃物みたいな通り方だ。
「最後まで立っていたチームが勝ち。旗はおまけ」
一瞬、間が空いて。
次の瞬間、歓声と笑いが爆発した。
「バトロワじゃん!」
「やべえ、燃える!」
「最後まで立ってたら勝ちって、最強じゃん!」
ノリは、祭りだ。
みんな、結界が守ると思っている。
だから、危ないと思わない。
俺はレナを見る。
レナは笑っていない。
肩の力が抜けていない。目が、フィールドの端ではなく、人の動きの隙間を見ている。何かを探すみたいに。
俺の背中が冷えた。
開始の合図が鳴る。
笛の音が短く切れて、同時に各チームが動いた。
俺たちのクラスは、トオルと俺と、あと数人が前に出る。旗役のやつらは後方。守りを固めて、様子を見る。
最初の数秒は、いつも通りだった。
派手な異能が飛び交う。炎が走り、風が渦を巻き、地面が少し盛り上がる。結界が揺れて、薄い膜が波打つ。
みんな笑ってる。叫んでる。スポーツみたいに。
だからこそ、次の瞬間が異物だった。
他クラスの一人が、明らかに威力の違う攻撃を放った。
光の槍みたいなものが、一直線に飛んできた。
速い。太い。迷いがない。
「伏せろ!」
俺は叫んで、近くの一年の肩を押し下げた。
槍が地面に突き刺さる。
音が遅れて来た。耳の奥で金属が割れるような音。熱が頬を撫でて、焦げた匂いが鼻に刺さる。
地面が黒く焦げている。
結界が、きしんだ。
膜が目に見えるくらい波打って、辺りの空気が震えた。
「おい、今の……」
トオルが言いかけて止まった。
攻撃を放った生徒が、ふらりと立っている。顔が虚ろだ。目の焦点が合っていない。
そして、その瞳の奥に、灰色の紋章みたいなものが浮かんでいた。
灰色。
灰粒子の記憶が脳裏に刺さる。
「ネメシス……?」
誰かが呟いた。冗談みたいな声で。
次の攻撃が来た。
また槍。今度は横から。
俺は体が勝手に動いた。考えるより先に、足が出る。
地面を蹴って、槍の軌道に割り込む。
結界の膜を利用して跳ねる。膜の縁は少し硬い。そこを足場にすると、一瞬だけ身体が軽くなる。
槍が俺の横を抜ける。
熱が制服の袖を舐めた。
右腕が疼く。ないはずの痛みが、そこにあるみたいに。
俺は舌打ちして、次の槍の発射元を見る。
さっきの生徒だ。腕を伸ばして、無表情で撃ってくる。
あの目は、意思の目じゃない。
操られてる。
俺の頭の中で、クロノの声が蘇った。
君は、思ってるよりずっとおかしい。
今、その言葉はどうでもいい。
目の前の攻撃を止めないと、誰かが死ぬ。
結界が守る? 嘘だ。今の衝撃で、結界が悲鳴を上げた。
「後ろ下がれ! 旗組、伏せろ!」
俺は叫びながら走った。
距離を詰める。真っ直ぐじゃない。槍の軌道を避けながら、柱を盾にして、視界の端で次の発射の予兆を読む。
腕の角度。肩の動き。息の間。
全部、初めて見るはずなのに、知っている気がした。
いつ撃ってくるか、分かる。
いつ死ぬか、分かるみたいに。
槍が来る。
俺は地面を滑るように踏み込み、柱の影に潜る。槍が柱に当たって弾け、熱が散る。
その隙に、俺は飛び出した。
相手の懐へ。
近距離なら、槍は使えない。
俺は相手の手首を掴んで捻った。骨が軋む感覚。相手は痛がらない。ただ、動きが止まる。
次に、膝を入れる。腹へ。
相手の体がくの字に折れた。
その瞬間、瞳の灰色の紋章が一瞬だけ濃くなった。
俺はぞっとした。
今、俺が殴ったのは生徒だ。
敵じゃない。
でも、止めなきゃいけない。
「おい! 天城!」
トオルの声。
振り向くと、別方向から攻撃が飛んでいた。今度は鋭い風の刃。しかも二枚。三枚。
狙いが人に向いている。
俺は反射的に飛び込んだ。
風が頬を切る。熱い。いや、冷たい。皮膚が薄く削がれる感覚。
それでも、間に合った。
俺の背中の向こうで、クラスのやつが尻餅をついて固まっている。目が大きく開いて、声が出ていない。
「動け!」
俺が叫ぶと、ようやく体が動いた。
誰かが泣きそうな声を上げる。
祭りの声が消えて、別の音が増えていく。悲鳴。怒鳴り声。呼吸の荒さ。
模擬戦の空気が、ひっくり返った。
「お前、前にもこれやったことあるだろ」
トオルが、妙に軽い声で言った。
冗談だ。震えを隠す冗談。
俺は笑えなかった。
「ねえよ。俺、こんなイベント知らねえ」
「でも動きが攻略済みなんだよ!」
「うるせえ、今は喋るな!」
俺は言いながら、足場を探した。
柱。段差。倒れた旗台。フィールドの端の膜。
視界の端で攻撃の軌道を拾う。
前線の敵は二人。操られてるやつが一人、明らかに異能出力が高いのが一人。
後方にもいる。狙撃。気配が薄い。
嫌な予感が背中を這った。
俺は振り返ろうとした。
その瞬間、背中に衝撃が来た。
冷たい針を押し込まれたみたいな感覚。
息が、途中で切れた。
空気が逆流する。胸の中で泡が弾ける。口の中に鉄の味。
「……っ」
声が出ない。
足が崩れる。
俺は膝をつき、手を地面についた。掌が汗で滑る。指先が痺れる。
視界が暗くなる。
周りの音が遠ざかっていく。
まただ。
この感じ。
心臓が、遠くで鳴っているみたいになる。
一、二、三。
数えるみたいに鳴る。
四が、来ない。
世界がほどける予兆が、肌の表面を撫でた。景色が粒になりかける。輪郭が崩れて、色が抜ける。
俺は思った。
また死ぬのか。
そして、また朝に戻るのか。
そのとき、誰かが俺の体を抱えた。
重力が少し軽くなる。地面の冷たさが離れる。
「ユウ!」
レナの声。
俺の名前を呼ぶ声が、遠いのに刺さる。
次の瞬間、胸に温かい手が当たった。
レナの手のひらだ。
そこだけ、世界が近い。
「……だめです」
レナの声が震えていない。震えていないのに、息が浅い。
唇が白い。
睫毛が揺れている。
「ここであなたは死んだ」
レナが言った。
言い方が、断定だった。
俺は目を開けようとする。開かない。まぶたが重い。
「だから、これは……なかったことにする」
レナの声が、静かに落ちる。
その瞬間、胸の痛みが逆に引かれていった。
押し込まれた針が、抜けていく。
空気が、戻る。
血の味が薄くなる。
視界の暗さが、少しだけ明るくなる。
地面に落ちたはずの赤い筋が、粒みたいにほどけて、風に流れるように消えた。
消えた粒が、俺の体へ戻っていく。
ありえない。
でも、起きている。
俺の中で、何かが巻き戻った。
死の寸前で止まった。
俺は喉を鳴らした。苦しくて、情けない音が出た。
「……何、した」
声が出た。
レナは答えない。
ただ、俺の胸に当てた手を離さない。まるで、離したらまた世界が崩れるみたいに。
レナの指先が、ほんの少し震えた。
震えたのは一瞬で、すぐに押し殺される。
レナの目が、俺を見る。
そこにあるのは、守る者の目だ。
守りすぎて壊れてしまいそうな目。
「生きてください」
レナが言った。
短い言葉。
命令みたいで、祈りみたいで、胸が痛くなる。
俺は笑おうとして、うまくいかなかった。
代わりに、息を吐いた。
「生きてるよ……今は」
俺の声は掠れていた。
遠くで、結界が軋む音がした。誰かの叫びが聞こえる。戦闘はまだ続いている。
なのに、俺の周りだけ時間が伸びていた。
レナの髪が揺れる。汗が頬に薄く光る。呼吸が浅い。
これが何度も繰り返されてきた景色だとしたら。
俺は、何度もここで死にかけたのか。
レナは、何度もここで俺を見てきたのか。
その考えが、背筋を冷やした。
「立てますか」
レナが言う。
俺は頷こうとして、首が重いことに気づいた。
それでも、立ち上がろうとした。
「無理すんな」
トオルの声がした。俺の横にしゃがみ込んでいる。顔が青いのに、目は必死だ。
「無理しないと、無理だろ」
俺が言うと、トオルは苦笑した。
「お前、そういうとこだぞ」
「今さら」
俺はレナの肩を借りて立った。
足が震える。息が整わない。胸の奥に、さっきの針の感覚が薄く残っている。
でも、死んでない。
それだけで、世界が少しだけ現実に戻る。
その瞬間、笛の音が鳴り響いた。
開始の笛じゃない。
中止の合図だ。
結界の膜が揺れ、光がしぼむ。
柱の線が消えていく。箱が開き、外の音が戻ってくる。
教師の怒鳴り声が一斉に飛ぶ。
「全員、異能停止! その場で座れ! 動くな!」
生徒の叫び、泣き声、混乱。
模擬戦は終わった。
でも、終わり方が最悪だった。
上空のスピーカーから、淡々としたアナウンスが流れた。
「システムトラブルにより、本日の模擬戦は中止します。全生徒は速やかに指示に従ってください」
システムトラブル。
言葉の軽さが、腹の底に刺さる。
今のはトラブルじゃない。攻撃だった。殺意だった。
俺は息を整えながら、視線を上げた。
観覧席の上。体育館の高い壁の影。
そこにクロノがいた。
いつの間に、という場所。
クロノは手を叩いていた。
ゆっくり。
乾いた音。
パチ。パチ。パチ。
その音が、周りの混乱と妙に噛み合って、気持ち悪い。
クロノは俺を見て笑った。
楽しそうじゃない笑い。
確認するための笑い。
「やっぱり、君は英雄になる器だよ」
クロノの声は、距離があるのに届いた。
「前と同じくね」
俺はその言葉に反応できなかった。
前。
同じく。
何の話だ。
聞きたいのに、今は身体が言うことを聞かない。胸の奥がまだざらついて、呼吸が浅い。
レナが俺の腕を支えたまま、クロノを睨む。
睨んでいるのに、言葉が出ない。
言葉を出したら、何かが決定的に壊れるみたいに。
クロノの拍手が、もう一度響いた。
パチ。
その音が、さっきの逆再生の感覚と重なる。
救われた。
確かに救われた。
でも、その救いは、俺の意思の外で起きた。
俺の死が、なかったことにされた。
それが正しいはずなのに。
なぜか、胸の奥が冷えていく。
俺はレナの手の温度を感じながら、思った。
また、救われた。けれど、それが正しいことだとは、なぜか思えなかった。




