先生だって、すべての答えを知っているわけじゃない
愚かな恋をした。
決して恋心を抱いてはいけない相手に惹かれてしまった。
だから、ただの『思い出』にしてしまいたかった。
大学から自宅へと帰宅するために電車に乗ると、視界の端に、ふわふわとした茶色の毛が映った。
人懐っこそうな笑顔。
小動物を思わせる愛らしい顔立ち。
少し前までオレの家庭教師のバイトの生徒だった、成瀬紬。
小柄というほどではないけど幼い印象のある体つきには、真新しい制服を纏っている。
もう、中学の制服ではない。
ある意味では懐かしい、高校の制服。オレの母校の制服だ。
中学生だった成瀬紬は、見事受験に成功して、オレの母校である東聖学院に進学したのである。
合格したと、電話では報告を受けていた。
だけどオレが最後に会ったのはバイトの最終日。つまり受験日の前日で、それ以来、紬の姿は見ていなかった。
紬はこちらに気づいた様子で、「あ」という顔をしている。
しかし隣にいる男に話しかけられて、すぐに視線を戻してしまった。
隣にいるのは、東聖学院ではなく別の高校の制服を着た、おそらく同級生ぐらいの年頃の男。
名華高校の制服であることから、おそらくあれが、紬が片想いをしていた友人であることが察せられた。
なるほど、確かに男前だ。
いかにもスポーツマンという逞しい体つきに、明るくハキハキとした様子。きっと、他にもたくさんの友達に恵まれていそうなタイプだ。
彼らはどこからどう見てもただの男友達で、恋人同士には見えなかったけど、それでもお似合いの二人組だった。
声をかけることもできずに、オレは車両の端の方で運よくあいていた席に座ると、手元の専門書に視線を落とした。
他人として。
それから何駅かすぎた。
紬が手を振る気配に気づいて顔をあげると、一緒にいた名華高校の制服姿の男は、電車を降りていった。
ここは彼らの地元の最寄り駅ではないはずだ。どういうことだろう。
ドアが閉まったあと、くるりと振り返った紬といきなり目が合って、ドキリとする。
紬は迷うことなく、オレの目の前まで歩いてきた。
「高梨先生」
「……もうきみの先生じゃない」
「じゃあ高梨さん、久しぶりですね」
「ああ……。学校帰りか? その制服……意外と似合ってるじゃないか」
「高梨さんのおかげです」
まっすぐな眼差し。
オレはこれが、前から苦手だった。
「……さっきの彼は、例の彼か?」
紬は困ったようにちょっと笑った。
「はい。……結局、告白はしなかったから、今も仲のいい友達です。今日はたまたま電車で会って……でも、あっちはこれから、彼女のバイト先に顔を出しに行くんだそうです」
途中で降りたのはそういうわけか。オレは納得した。
「そうか」
「……高梨さん、はこれから、家庭教師のバイトですか?」
「いや、今日はバイトはない。このまま帰宅する予定だ」
「じゃあ、このあと時間とか……ありますか?」
声がわずかに震えているのが伝わってきた。
迷うことなく話しかけてきたくせに、紬はいまさら、緊張しているらしい。
「……高校の授業で、わからないことがあるなら相談に乗るぞ。元生徒だからな。特別に無料で」
こんな時、冗談を言うこともできないオレは、つまらないことを言って緊張をごまかすことしかできなかった。
もうすぐ停車駅が近いからか、オレの隣に座っていたサラリーマンが席を立った。
あいた席に、紬が座る。
少しの間、無言の時間が訪れた。
「……高梨さん、オレのこと好き、って言いましたよね?」
窓ガラス越しにホームが見えてきたのと同じタイミングで、紬が耳元で、誰にも聞こえないように囁きかけてきた。
「忘れろと言ったはずだ」
オレは表情を変えずに、前を向いたまま答えた。
「……好きって言ってきたくせに付き合うつもりはないとか、忘れろとか、もう二度と会うつもりはないとか、ひどくないですか?」
最後の指導の時に、確かにそう言った。
告白はしたけど、オレは紬の答えを求めなかったのだ。いや、正確に言うと、答えを聞くことを拒んだ。
「生徒に手を出すのは御法度だ。誰でもわかる、常識の問題だ」
「もうきみの先生じゃない、ってさっき言ったじゃないですか」
「元先生という経歴は消えない。それに、年の差だってある」
「たった五歳差じゃないですか」
「だが、オレからすればきみはずいぶんと子供だ」
好きな人に想いを返してもらえなくても、きみのことを好きな人間は他にいる。だから落ち込まないで、前を向いてほしい。そう伝えたくて、想いを告げた。それ以上でも、それ以下でもなかった。
この決意に、後悔はない。
ドアが閉まる。ホームが遠ざかっていく。駅前のビルを見て、いま通り過ぎた駅が、紬の地元の駅だったと気づいたが、その時にはもう遅かった。
「……先生、最後に質問していいですか?」
「なんだ」
そう元教え子に聞かれたら、無視するわけにはいかない。
「あれから毎日、先生のことばっかり考えちゃってるんです。どうしたらいいのか、教えてください」
「それは……難問だな」
END