無自覚愛され側妃は皇帝陛下から逃げ出したい〜一夜限りのはずだったのに、愛していると言って何度も何度も追いかけてくるんですけど〜
「これで何度目だい?」
夜中すぎの皇帝の寝所。
仁王立ちする皇帝陛下の前で跪く私が着ているのは、夜伽のための夜着ではなく、分厚い綿の粗末な服。足元は編み上げのブーツでしっかりと締め上げ、背には毛織物のマントに、極めつけは寝袋と水と食料を詰めた背嚢。
つまり、完全な旅装だ。
「答えて、シーラ」
陛下の真っ赤な瞳が私を見つめている。表情は笑っているのに、その瞳の奥にはチリチリと怒りの炎が燃えているのが分かる。自分の持ち物であるはずの側妃が逃げ出そうとしたのだ。怒りはもっともではある。
「……8度目です」
「違う、9度目だ」
「え」
「最初の晩に逃げたものを数え忘れている」
「あ、はい。申し訳ございません」
床に手をついて深く頭を下げた私に、陛下が深い溜め息を吐く。
(呆れるくらいなら、逃してくださればいいのに)
心の中でブツブツ言っていると、今度はグイッと腕を引かれた。
「立って。まずは着替えて」
「はい。では、いったん下がらせていただきます」
「ダメだよ」
「え?」
「また逃げるつもりだろう? ここで着替えて」
「いえ、しかし」
貴族の女性の着替えというものは、自分一人でするものではない。それは陛下もわかっているはずだ。
「私が手伝うからね」
ニコリと笑った陛下に、私の頬がヒクリと引きつった。
* * *
私は田舎の貧乏男爵家の妾の子として生まれた。
亜麻色の髪に若草色の瞳というぼんやりとした色合いの私は、それなりに顔が整っているという以外には何の取り柄もない女だった。
後から正妻のもとに産まれた異母妹と差別されるのは、仕方のないことだっただろう。下女のように扱われても、そういうものだと思って生きてきた。
いずれ適当な商家にでも嫁に出されるか、このまま男爵家の下女として生きていくのだと信じて疑わなかった。
そんな私に転機が訪れたのは17歳の時だった。
『田舎者にしては美しい娘がいるらしい』という噂を聞きつけた、とある公爵がやって来た。父は『ようやく家の役に立てるときがきたな』と嬉しそうに微笑んで私を差し出した。金貨50枚と引き換えに。
そのまま引きずられるようにして首都に連れて行かれて、皇帝の寝所に放り込まれた。
そこにいたのは、16歳の少年──皇帝だった。
『お顔色が悪うございます』
青い顔でうつむく陛下に、思わず指摘してしまった。すると、彼は気を悪くした様子も見せずに苦笑いを浮かべただけだった。
『大丈夫。さあ、寝台へ』
と急かされるが、彼がその気でないことは一目瞭然だった。
『その前に、お茶はいかがですか?』
『お茶?』
『ええ。こちらに、茶器がございますわ』
寝室の片隅には茶器と茶葉の缶が並んでおり、保温用のケトルは沸かしたてのお湯で満たされていた。
『珍しい茶葉もありますね。ああ、これにしましょう』
私が選んだのはカモミールだった。
『このお茶には安眠効果があるのですよ』
一口飲んだ彼がホッと息を吐くのを見て、私も安心した。
『ありがとう』
『いえ』
ティータイムの後には、気まずい沈黙が流れた。
『……君は、どうしてここに?』
問われても、私はなんと答えてよいのか分からなかった。政治の道具として無理やり放り込まれた形だが、それを本人に伝えることに意味はない。いっそ望んで来たのだと言おうともしたが、嘘を言うことも憚られた。
『すまない』
数秒の沈黙の後、先に折れたのは陛下の方だった。
『答えにくい質問をしてしまった』
『いえ……』
『悪いが、今夜は付き合ってくれ』
陛下が私の手を引いて、2人で寝台に入る。シーツがやたら冷たくて身震いをした私に、陛下は優しく毛皮の布を着せかけてくれた。
ろうそくの灯りに照らされて、赤い瞳が揺れていた。
『飴玉みたいね』
うっかりこぼれた私の失言に、陛下は目を見開いて。次いで、泣き笑いを浮かべた。
『そうか』
と、涙を堪えているように見えた。
その後は二人して熱に浮かされて、夜明け近くまで抱き合った。
あの夜、私は恋に落ちたのだ。
身分違いで、本来なら出会うこともなかった男に。
あの幼気な少年を守ってあげたいと思った。抱きしめて温めてあげたいと思った。何よりも、一晩中『かわいい』『愛している』とささやき続けてくれた彼に、ずっとずっと抱かれていたいと願ってしまった。
決して、許されないことだ。
翌朝、私は朝日が昇る前に逃げ出した。
寝所の外で無事に伽を終えたことを報告して、着の身着のままで首都を飛び出した。誰も私を知らない場所を探して放浪した。
その数カ月後、私は一人の男の子を出産したのだった。
それが、6年前のことだ。
* * *
「君はそろそろ諦めた方がいいのではないかな?」
この国で最も尊い人の手を借りて夜着に着替えた後は、請われるままに茶を淹れることになった。いつもの流れと言えばそのとおりだが、慣れるようなことでもない。
「できません」
茶を入れる手を止めずに答えれば、私の手元をじっと見つめていた陛下が苦笑いを浮かべた。
「何が不満なんだい? ドレスが足りない? そうだ、新しい宝石を贈るよ」
「結構です」
「どうして?」
「私の離宮の衣装部屋は既に満杯です」
「では、新しい離宮を建てよう」
「そういうことではなくて……!」
「ん?」
首を傾げながらも、陛下が何かを思案しているのは明白だ。頭の中で新しい離宮の建設計画を立て始めたのだろうが、それは絶対に阻止しなければならない。
「私などのために、国家予算をお使いにならないでください」
「皇帝のたった一人の側妃だ。予算を割くのは当然だろう?」
「それです!」
私は、思わず手を止めて叫んだ。
「ん?」
陛下に先を促されて、私は唇を尖らせた。
「私がいるから、皇后はおろか他の側妃をお迎えにならないのでしょう?」
「ふむ。事実だが、何か問題が?」
「大ありです……っ!」
言いながらティーカップを差し出す。陛下はにこりと微笑んでそれを受け取った。香りを楽しんでから一口飲んで、ホッと息を吐く。その姿も、すっかり見慣れてきた。
「私には何が問題なのかわからないよ」
「私は貧乏男爵家の妾の子です。一応、貴族の娘ですから側妃の内の一人というのであれば、それほどおかしなことではございません」
「そうだね」
「ですが、その側妃が一人しかいないとなれば話は別です。陛下は、しかるべき身分のご令嬢をお迎えになるべきです」
「なるほど」
「それに、私のような身分の女は皇子殿下の母親には相応しくございません」
「ロニーは君が腹を痛めて産んだ子じゃないか。正真正銘、君が母親だ」
あの夜の後、逃げ出した私が密かに産んだ子がロニーだ。その幼子を連れて、5年間逃げ回った。彼によく似た可愛い子を、権力争いの駒にされたくなかったからだ。だが、とうとう陛下に見つかって宮殿に連れてこられたのが1年前のことだ。
陛下には御子がいないので、皇家の血統を守るためにロニーが必要だったのだ。私は、そのオマケとして連れ戻されたに過ぎない。既に洗礼式は終わり、ロニーは正式に陛下の息子、つまり皇子として認められた。もはや、オマケの母親は必要ないのだ。
「私は皇子殿下を産ませていただいただけの女です。母親には、もっと相応しい方がいらっしゃるはずです」
陛下の眉が、ピクリと動いた。
「同じことを、ロニーの前でも言えるのかい?」
「皇子殿下には、よくよくお話ししてあります」
即座に答えた私に、陛下が眉を下げる。
「そのロニーが、私のところに来たよ」
「え?」
「『昨夜、お母様が皇子宮にいらっしゃいました。きっと立派な方が母親になってくださいますから、その方の言うことをよく聞くように、と。そろそろ、また逃げ出すと思います』と忠告しに来てくれたんだ」
「……」
これには閉口した。
「6歳とは思えないほど、しっかりした子だよ。私のことを睨みつけることも忘れなかったし、きっと強い皇帝になる」
「に、睨みつけたのですか? 陛下を!?」
「ああ。『お父様がしっかり繋ぎ止めておかないからいけないのです』と言われてしまった」
「そんなことを……!」
「それから、『その役目、僕が代わって差し上げましょうか?』とも言われたな」
「は?」
意味が分からず素っ頓狂な声を上げた私に、陛下が微笑む。
「最後のセリフは忘れてくれ。男同士の話だ」
「はぁ」
私は曖昧に答えてから、諦めてソファに深く腰掛けた。
(今日も失敗だわ)
最後に皇子殿下に会ってからと思ったが、それが裏目に出たらしい。逃げ出すつもりでいることなどもちろん口にしなかったが、気づいていたらしい。
「シーラ」
呼ばれて顔を上げれば、真っ赤な瞳が目の前にあった。
「へ、陛下」
「ん?」
「近うございます」
「ダメなのかい?」
眉を下げる陛下の私の決心が揺れる。それでも、私は言わなければならない。
「私などをお近くに置かれるのは、……相応しくございません」
だから、何度も何度も逃げ出そうとしているのだ。
毎回、陛下に『愛している』と言われて絆されてしまうが、それではいけないのだ。
「もっと相応しい方を、お側にお迎えください」
それが、私の願いだ。
「……」
2人の間に沈黙が落ちる。
「すまない」
先に折れたのは陛下の方だった。あの夜と同じ。いつもそうだ。
「私は、君に、側にいてもらいたいんだ」
だが折れたのは態度だけで、気持ちの方は全く譲る気はないらしい。それも、いつものこと。
「私でなくとも……」
「君でなければ意味がない」
真っ赤な瞳が私をまっすぐに見つめている、まるで矢で射抜かれたように、私は動けなくなった。
「私は君を愛しているんだ。他の女はいらない」
「ですが……」
「どうすれば伝わるんだい? 私が君を愛していると」
「それは、その……」
私の頬に熱が集まる。
「それは、わかっているのですが……」
どうやら陛下は、この冴えない女を愛しているらしいということはわかっている。わかってはいるが、それは一時の気の迷いだ。もっと美しくて賢くて、きちんとした身分の女性を側に迎えれば、そんな気持ちなど消えてなくなってしまうはずだ。
「……わかっていないよ。君は、まったくわかっていない」
陛下が私の手からティーカップを奪い取って、そのまま私の手を引いた。行き先は確認するまでもない、寝台だ。
「君と出会って、逃げられて。再会するまでの5年間を、私がどんな気持ちで過ごしてきたのか……。君はちっともわかっていない」
優しく腕を引かれて、そのまま二人して寝台になだれ込む。
これもいつもの流れで。
このままでは、いつものように流されてしまう。
「陛下、いけません」
「シーラ」
甘い声で名を呼ばれると、私は何も言えなくなる。それも、いつものことだ。
「君は私のものだ。絶対に逃さないよ」
1度目は5年間逃げたが見つかった。ロニーがいたので大した抵抗もできずに宮殿に連れ戻されてしまった。
2度目は、ロニーの洗礼式が終わった翌日に逃げ出したが、数日後に陛下自ら追いかけてきた。3度目から8度目も同じように、自ら追いかけてきた陛下に捕まった。
9度目の今回は宮殿の外に出る前に見つかって、こうして寝所に引きずり込まれてしまった。
次こそは。
熱に浮かされながら、私は心の中で決意した。
(でもきっと、次も追いかけてくるのよね)
わかっていても、私は逃げ出すことをやめられないだろう──。
終
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
この作品は、既出の短編「皇帝陛下は愛しの側妃を溺愛したい(略」の続編のようなお話です。
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