第8話 エルフと手押し車と命の水(後編)
ベルが大森林を旅立つ少し前の事──
「ねぇ、ベル。落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
「なぁに母さん? ――そんな顔して、どしたの?」
その日、ベルは夕食の準備を母と二人でしていた。急に母に話しかけられ振り向いた彼女は、その只ならない雰囲気に不安を覚え、狼狽えた。
「父さんがね……浮気してるかも知れないの……」
「……え?」
ベルの目から見ても仲睦まじく、近所でもおしどり夫婦と評判だった二人に限って、そんな事が起きるなど考えてもみなかった彼女は、思わぬ母の言葉に手にしていた食器を取り落としそうになる。
「父さんに限ってそんな事……」
「私もそう思いたいんだけど……でもね……最近の父さんったら、真夜中にこっそり家を出て行って、そのまま遅くまで帰ってこないのよ……怪しいと思わない? 今までこんな事無かったのに……いつまでも一緒だよって……永遠に君を愛すって……あの湖での約束はなんだったのあぁでもあの時は本当に格好良かったわあの人ったら顔を真っ赤にして慣れない言葉まで使っちゃってうふふふふふ……」
表情を凍らせせたままブツブツと呪詛か惚気か分からない物を呟きながら、淡々と包丁で具材を刻んでいく母の様子に、ベルは話を聞く事しか出来なかった。
「だから、ね、もし、その時は――」
淀みなく動いていた包丁の動きがふいに止まり、おもむろに高く振り上げられ――ズドン、と重たい音と共にまな板の上の人参がヘタの辺りから勢いよく切り落とされた。
「――貴女も協力してくれる?」
軋む音が聞こえてきそうな動きで振り向いた母の昏い目をした笑顔に、「何を?」とは聞けない雰囲気である。切り落とされた人参がまな板を転がり落ちて行ったのがベルの視界の端に映る。
「……ちょ、ちょ、ちょーっと待って!」
人参が落ちた音に弾かれるようにベルが捲し立てる。
「母さんはきっと何か勘違いしてるわ! えぇ、そうよ! 絶対に何かの間違いよ! やだなぁ、母さんったらそそっかしいんだからー!」
それを聞きながら、一見落ち着いた様子の母は、人参を拾い上げると水の魔法でさっと洗い、風の魔法で水気を飛ばすとおもむろに人参を上へと放り投げた。次の瞬間、彼女の右手の包丁が光ったかと思うと、人参は細かく切り刻まれ、魔法の風に乗って鍋へと吸い込まれて行く。
母の包丁捌きにベルは冷や汗が止まらないでいた。
「そうね……私もそう信じていたかったわ……でも、臭い消しの魔法まで使ってるみたいなの、朝のあの人、匂いが全然しないもの……」
臭い消しの魔法とは、狩人が獲物に気取られないように使う魔法の一つだ。しかし森以外でわざわざ使う事はそう無い。
どんどん表情が消えていく母に背筋が凍る思いのベルだったが、このままでは取り返しのつかない事になる予感がした彼女は必死に言葉を続けていく。
「わ、私が調べる! 父さんは絶対にそんな事して無いって、証明してくるから!」
「ベル――貴女――」
虚無を覗き込む昏さをした母の目に、少しだけ光が戻ったのがベルには見えた。
「そうね、最期に貴女に賭けてみるのも良いわね……」
「最後って、そんな大げさな……」
母の言った『さいご』の語感にベルは違和感を覚えるも、ひとまず母が落ち着いてくれた事に安堵する。
その日の夕食。今まで通りの姿で父に接している母を見たベルは、その底知れなさに内心恐怖を覚える。更に父を尾行する密命もあって、折角の食事の味が分からない。森を旅立ってしまえば暫くはこんな団欒の時間も無いのにと、勿体無く思うベルは深いため息を吐いた。
「どうした? ベルフェーム、ため息なんか吐いて。それに今日はやけに小食じゃないか。ははぁん、さては体重を気にしてるのか?」
「父さん、ベルフェームって呼ばないでっていつも……ってそんなじゃないわよ。大体、私は太ってない!」
「前々から思ってたがお前はむしろ、もう少し肉を付けても良いと思うんだがなぁ……なあ、母さん?」
ベルのうなじにピリっと薄ら寒い物が走る。
「ふふふっ。そうですね。私みたいに細いのより、多少ふくよかな方がモテるものですよ」
「だよなぁ! アッハッハッハ!」
父の話に合わせて微笑む母の様子は一見いつも通りながら、事情を知っているベルにはその目が笑っているようには微塵も見えなかった。そこに来て父のデリカシーに欠ける発言は彼女のストレスを増幅させて行く。
「………………………………」
「ん? 何か言ったかい、ベルフェーム?」
ベルが口の中だけで吐いた呪詛は父に気付かれずに済んだ。
「いいえ、何も」
「そうか? それじゃ俺はちょっと弓矢の手入れをしているよ。遅くなるかもしれないから、母さんは先に寝ててくれ」
「はい、分かりました……アナタ……」
その瞬間、ベルは周囲の温度が少し下がった気がしたが、父はそれに気付く事なく家を出て作業小屋へと向かって行った。
「やっぱり怪しいわ……あの人、夜に弓矢の手入れなんてやらないのに……」
「大丈夫だってば、そういう日もあるんだよ、きっと! それじゃ、行ってくるから。母さんは私を信じて待ってて……!」
「えぇ、お願いねベル……」
そしてベルは作業小屋へ向かった父の後を追う。
「んー、本当に弓矢の手入れ……って言うか、鏃でも作ってるのかな……? あ、そろそろ終わりそう」
完全に日も落ちて辺りが暗くなった頃、弦の調整や矢羽根の手入れではなく、何かを削っていた父が道具を片付け出す。
「ん……?」
道具をしまい終えた父が戸棚の前でキョロキョロと辺りを見回している。父以外に誰も居ない狭い小屋であるにも関わらず、わざわざ辺りを見回すその動きはやましい事をする者のそれだった。
ふと、窓の隙間から覗いていたベルと目が合いそうになる。
「ぅわっと……!」
ベルは慌てて壁に貼り付き父の視線を躱す。
「ふぅ……ビックリした……急にキョロキョロしないでよ……」
やがて父は何かの包みを片手に持ち、作業小屋を出て行った。ベルはその後を気付かれないように尾行していく。
「何を持って出たのかしら? え、まさか浮気相手にプレゼント……いやいや、ないない……」
薄暗い道を行く父の背中は心なしか浮かれて見えた。その事がベルの不安を煽っていく。
「無いよね、父さん……私、信じてるよ……」
やや周囲を気にするように歩いていた父はとある小屋の前で立ち止まる、ノックをして中に何か声を掛けたかと思えば、人目を憚るように室内へ滑り込んだ。
父のその様子にベルの頭に最悪の展開がよぎる。
「嘘……あの父さんが……」
様々な想像が脳内を駆け巡り、しばらく動けないでいた彼女であったが、やがて意を決し、明かりの漏れる窓から室内を覗き込む。
「――――ッ!」
果たしてそこで彼女が目にした物は――父親のあられもない姿であった。
「あー…………」
窓から覗いた先には、父の他にベルにも見覚えのあるおじさんたちが居た。皆、一様に赤い顔をしている。小屋の中で車座になっている彼らは銘々にコップを手に持っており、それをせわしなく口元へ運んでは目の前の料理へフォークを伸ばしている。
その様子はどこからどう見ても宴会だった。
その一角で、父は酒瓶片手に赤ら顔のだらしない表情でクダを巻いていた。中の様子を見るのをしばらく躊躇っていたとは言え、その僅かな間で既に出来上がっている様子には、もはや父親の威厳は微塵もない。みっともないとしか形容出来ない有様に、ベルは頭を抱えた。
「持ってたのはお酒とおつまみだったのね……大の大人がコソコソ隠れて楽しそうに飲んじゃってまぁ……あーあ、ほっぺたに食べカス付けたままで……はぁ……母さんに言いつけてやろ」
小屋の中の男たちは酒瓶を持ち寄って飲んでいるらしく、それは森で作られる命の水とは違い、行商人から購入した物と思われた。集落において特にお酒が禁止されている訳では無いが、祭りや慶事でも無いのに飲むのはあまりいい事とはされていなかった。だから隠れて集まって飲んでいたのだろうとベルは結論づけた。
「ったく、紛らわしい……」
緊張の糸が切れ、急激にげんなりしたベルは疲れた足取りで帰宅したのだった。
「――――って事で、浮気の心配は無いと思うわ……はぁ……」
家で待っていた母に事の顛末を詳細に伝え終えたベルは、面倒な仕事が終わったとばかりに深いため息をつく。
「ありがとう、ベル……ふーん……そう、そう言う事だったの……」
終始 笑顔でその話を聞いていた母はおもむろに家を出ると、ベルがそれまで見た事も無い速度で宵闇へと消えた。
「あー……止めに行った方が良いのかしら……? んー、折角のお茶だし、後で良いか。」
ベルは母が淹れてくれた秘蔵のお茶をたっぷりと時間をかけてゆっくりと楽しみ、やがて重い腰を上げると、家庭崩壊を止めるべく例の小屋へと向かう事にした。
そこでは母からお説教をくらっている父を筆頭に、おじさんたちが地面に正座させられていた。
「貴方って言う人は本当に、私がどれだけ心配させられたと――――」
「すいません、すいません、すいません――――」
先ほどまでの赤ら顔から一転、青い顔で土下座を繰り返す父の横で、他のおじさんたちは所在無さげにしている。
「なんで俺たちまで……」
「何か言いましたか?」
「いえ! 何も!」
やがて父と一緒に飲んでいただけのおじさんたちまでもが、母の説教の餌食になっていった――
「――ほぅ……ふふっ」
ベルは酒気を帯びた吐息を漏らしながら思い出し笑いをする。
「あの時は大変だったわ……結局、父さんが正座から解放されたのは三日後だったわね……」
パチパチと薪木の弾ける音を共にして、懐かしい思い出に浸りながらベルは一人、盃代わりのガラス瓶を傾けていく――
――やがてガラス瓶の中身が半分ほどに減った頃。
「てーおー、わたし一人で楽しんじゃってー、ごっめんなさいねー。うっふっふー」
頬に着いた食べカスを気にする様子も無く、ベルは完全に出来上がっていた。それがかつての父親と瓜二つな事に彼女が気付く事は無い。
「でーもー? 子犬にお酒なんてー飲ませちゃー、だーめよねー? あははー」
美味しいツマミとお酒を一人で楽しみつつ、寝ているテオをそっちのけにベルの宴会はまだまだ続く――
「ふがっ――」
ベルが寝起きにまず感じたのは右頬に伝わる硬い地面の感触だった。次に感じるのは左頬を這い回る生ぬるい何かの感触。
「ハッハッハッ――――」
「ふぇ――?」
真横になった視界からの状況が飲み込めないベル。しばらくされるがままだった彼女は、やがて自分の顔を舐めまわす存在がテオだという事に気付く。
摘まみ上げるように彼をどかし、ベルはようやく、のそのそと上体を起こした。
「しまったー……酔っ払ってあのまま寝ちゃったのね……あっいたた……」
その場で寝転び一晩過ごしてしまったベルの体はバキバキに固まってしまっている。そして左頬はベタベタだ。
「くぅ〜、いたっ……たたたぁ……最悪の寝心地ね……土の地面のが何倍も良いわ……」
体を少し動かすたび、どこかしらに痛みが走りベルは顔を顰める。荷車を引きつつ歩くのには最適と思えた平らな石畳にも、野宿には適さないと言う弱点がある事を彼女は学んだ。
「あのー、顔が臭いんですけど……テオさん?」
「わぅ?」
ベルはジト目で臭いの原因を睨むも効果は無かった。それは昨夜 一人で楽しんだ罰だったのだろうか。
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