第41話 エルフと迷子と白抜きのフォーク
鉄の馬車が止まったのは、不意にだった。
大きな車体がわずかに揺れ、低く軋む音を残して、そのまま沈黙する。
「まったく……勝手に走り出して、勝手に止まるなんて!」
開いた扉から勢いよく飛び出したベルは、ぷりぷりと頬を膨らませて悪態をついた。テオも一緒に吠え、自らの何十倍もある大きな鉄の塊を威嚇する。
そんな二人をまったく意に介さない様子で、馬車からは聞き慣れない言葉が流れ、光る板がちかちかと瞬いていた。
「なによ? ロイみたいにエルフ語で喋ってよ!」
ぷんすかと叫んだ直後──
──ぷすん。
小さく空気が抜けるような音とともに、明かりも言葉もすべて途絶えた。
鉄の巨体はうんともすんとも言わなくなる。
「……あ」
胸の奥がきゅっと痛んだ。
さっきまで声も出せず、動くことすら出来なくなっていたロイの姿が、目の前の沈黙した馬車と重なってしまったのだ。
ふと、周囲を見渡せば、同じように沈黙した巨体がずらりと並んでいた。
大きな姿は墓標のようで、心臓をぎゅっと掴まれる。
──幼い頃、父から聞いたことがある。
ある種の獣は、死期を悟ると仲間のもとへ帰り、その場所で最期を迎えるのだと。
優れた狩人である父の言葉は確かで重みがあった──飲んでいない時は。
「仲間のもとに帰りたかったの……?」
ベルはそっと、まだほのかに熱を持つ車体に手を触れた。
答えは返ってこない。けれど、その沈黙はどこか優しく、ベルの胸に仲間のことを強く思い出させた。
(そうだ。私も帰らなきゃ。ロイのところへ、でも──)
「──ここ……どこ?」
辺りを見回したベルの顔が青ざめる。見知らぬ建物の影、草が伸び放題の田畑、並ぶ鉄の巨体──どこにも見覚えがない。
心臓がざわつき、喉がからからになる。
「まさか……迷子、になった……?」
──もしも森で迷ったら、そこでじっと待て。
幼い頃、父に言われた。狩人は必ず獲物の足取りを見つける。だから私が迷っても必ず見つける──と。
優れた狩人である父の言葉は確かで重みがあった──飲んでいない時は。
けれど、ここは森じゃない。父もいない。ロイも、今は──
どうしたらいいのか分からず、ベルはぎゅっと唇を噛んだ。
そのとき、テオが鼻を鳴らす音がした。
ぴくりと耳と尻尾を立て、石畳をくんくんと嗅ぎ始める。
「わぅ!」
小さな尻尾が力強く揺れた。
テオは地面に鼻を押しつけ、しきりに匂いを嗅いでいる。
くん、くん、と小さな足取りで進むたびに、尻尾が頼もしげに揺れる。
「テオ……分かるの?」
問いかけるベルに、子犬は振り返りもせず、きゅっと短く鳴いた。
その姿に胸の不安が少し和らぐ。
(──大丈夫。ロイの所に戻れる。テオがいるんだもの)
ベルは大して荷物の入っていない小さな鞄を背負い直し、頼もしい子犬の背中について歩き出す。
先ほど通った気がしないでもない無人の道を辿り、寂れた建物が並ぶ一角へと出た。
どこにも人影はなく、湿った風が生ぬるく肌を撫でていく。
地面からは乾いた土と埃の匂いが立ちのぼり、胸の奥に妙な不安を残した。
時折、軋む音を立てる看板や、蔦に覆われた小屋が過去の営みを物語っている。
しばらく進むうちに、ベルの心に少しずつ、戻れるかもしれない、という楽観が芽生えていく。
しかし──
「……え?」
鼻先に冷たい雫が落ちた。
次の瞬間にはぽつ、ぽつ、と音を増やし、やがて大粒の雨となって降り注ぐ。
濡れた地面の匂いはすぐに流され、せっかくの希望が掻き消される。
それでもテオは必死に鼻を押しつけて嗅ぎ続けていた。
「テオ、もう無理だよ!」
ベルは慌ててテオを抱き上げる。小さな体はびしょ濡れで、震えが伝わってきた。
「濡れたら風邪ひいちゃうんだから!」
とにかく近く──屋根のある店の庇へと駆け込み、二人はようやく雨をしのいだ。
そこは古びた店先で、錆びた看板には見慣れない文字と、以前、うっかり倒してしまった鉄の馬の絵が描かれていた。
店の中は埃っぽく、妙に油臭く、棚には工具のような物や、切れ端になった布が山のように積まれている。
「……これなら」
比較的汚れの少ない、綺麗な布切れを手に取り、テオの濡れた毛をやさしく拭ってやる。
子犬はくすぐったそうに身じろぎしながらも、少しずつ震えが収まっていった。
「ふぅ……良かった。私も拭かないと」
ベルも自分の腕や髪をぬぐい、ようやく冷えた体が落ち着いていく。
安堵したその瞬間──地を這う低い音が辺りに響く。
沈黙を破ったのは、ベルのお腹だった。
続けざまにテオのお腹も小さく鳴る。
張り詰めていた気持ちが、そこでふっと緩んで──
「……ぷっ」
思わず笑い声が漏れた。
改めて、何らかの店だったらしき店内を見回してみるベル。
「何かあると良いんだけど……食べものは無さそうね──あ!」
思い出したように荷物を漁って出てきたのは、ちょこれーとなるお菓子と、鉄の容器に入ったテオの好物。
「ごはんって言えるかどうか怪しいけど……今はこれしかないわね」
略式の祈りもそこそこに、茶色い板をひとかけ口に入れ、ほっとした表情を浮かべるベル。
けれど──
「……少しだけ食べると、逆にお腹が空いてくるのよねぇ」
テオが短く鳴き、同意するように尻尾を振った。
そのやりとりが妙におかしくて、ベルはまた笑ってしまった。
少ない食料を大事に、ゆっくりと口に運ぶ。
甘い茶色の欠片を舌の上で転がしながら、ベルはひと呼吸ごとに味わった。
その間に雨は少しずつ弱まり、やがて止んでいく。
ベル達は最後の一欠片を口に入れると、空になった紙包みや鉄の容器を手にした。
「ふぅ……美味しかったけど、ちょっと物足りない……」
庇の外、土の柔らかそうな場所を見つけてしゃがみ込む。
「森じゃないけど……せめて、ね」
落ちていた短い枝で小さな穴を掘り、食べ終えた包み紙や鉄の容器を埋めていく。
その横で、テオが一緒になって前足で土を掻く。
「ちょっ……手伝ってくれるの? ふふっ、ありがと」
ゴミの処理を終え、立ち上がって土を払ったそのとき、雨雲の切れ間から筑波山が姿を現した。
「あれは……」
稜線を目で追いながら、ベルは来た道の方角を頭の中で結びつける。
「そうだ……山を目印にすれば……戻れるかも……」
胸の奥が少しだけ軽くなる。
そのとき──ふと空に目を向けると。
「わぁ……綺麗──」
雨上がりの空に、大きな虹が弧を描いていた。
灰色の雲の切れ間から差す陽が、地上へと光の梯子を降ろし、濡れた地面に反射した光が空に返され、足元にも小さな虹が浮かんでいる。まるで頭上の大きな弧と、地上の小さな弧が繋がって、一つの輪を描いているかのようだった。
それらの虹は赤から紫へ、ひとつひとつがくっきりと分かれており、まるで絵筆で引かれ、世界が七色に彩られたように鮮やかに染まっていた。
ベルの隣でテオも空を仰ぎ、虹の匂いでも嗅ごうとするように鼻をひくつかせる。尻尾がゆっくり揺れて、少し力を取り戻したようだった。
冷え切っていた心がふわりとほどけ、一人と一匹は思わず見入ってしまっていた。
虹につられるように道へと歩み出たベルは、ふと、道端に立つ青い看板に目を取られる。
そこには見慣れない文字と矢印、そして建物らしき絵が描かれていた。
「あれ、なんだっけ……ロイが言ってた、迷子にならない標識?」
首をかしげつつ目を凝らすと、建物の絵の下には、更にいくつかの小さい絵。
その中に、白抜きのフォークとナイフが並んでいる絵がある──矢印の指す先は、目的地と同じ方角。
「テオ!……ごはん、あるかも!」
空腹と希望が重なり、ベルの足取りは再び力強くなる。
その先には、虹の弧が地平に触れていた。
一人と一匹は、その下をくぐるように、まっすぐ歩き出していった。
向かう先は──




