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第35話 エルフと駄々っ子と灯台の明かり

 湖畔でのキャンプを片付け、研究所へ戻る頃には、朝の光がすっかり高くなっていた。

 ベルは眠そうなテオを小脇に抱えたまま、もう片方の手で扉を開ける。


「昨日ははしゃぎすぎたもんねぇ……」


 腕の中でぐにゃりと力を抜いたテオが、寝言のようにかすかに鼻を鳴らした。

 その様子に苦笑しながら、ベルがふと視線を落とすと、チラリと何かが視界を刺激した気がした。


 ──テオの首元の、あの石だ。

 ネスカの気配がこもったそれが、ぼんやりと不満げに光っていた。

 ベルにしかわからない、ほんのわずかなきらめき。


「……あー、色々ありすぎて、すっかり忘れてた……つくばさん?行かないとか……」


 ベルが渋々口にした言葉に石が反応したような気がした。

 本来、この研究所へは魔力輸出拠点に向かうついでで寄ったというのに、だいぶ寄り道をしてしまっていた。


「つくばさん?またおでかけ?おでかけおかわり!?」


 耳ざとくベルの呟きを聞いていたリンがすかさず、跳ねるように元気よく声を上げる。


「あ、いやぁ……この先はちょっとお出かけって感じじゃないしなぁ……」


 リンの勢いに気圧されたベルは困ったように頭を掻きながら天井を見上げる。

 すると、助け舟はローレライの声と共に天から降りてきた。


「リンちゃん?パパにはパパの旅の目的があるの。だからこのお出かけについて行ったら、暫く帰って来れなくなっちゃうのよ?」


 ローレライに拠点巡りの話をしたかどうか、ベルが思い出しながら首を傾げると、その視線の先に居たロイが察したように小声で答える。


「彼女へはワタクシが伝えておきました」


「なるほど」


 そんな大人たちのやり取りなどお構いなしに、リンは勢いよくぐいっと両腕を広げた。


「やだ!リンもおかわり行くのー!」


 ぴょこぴょことベルの方へ駆け寄り、腕をバタバタさせる。


「リンもいく!いっしょがいいー!ママもいっしょにいけばいいじゃん!」


「あらあら……それはちょっと難しいのよ」


 ローレライの声はやわらかいが穏やかな制止の色が含まれていた。


「ママは体も大きいし……ここを守るお仕事があるから、遠くまでは行けないの……ね?」


 リンの動きが止まる。


「でも……でも、リン、パパとママとずっと一緒がいいよぉ……!」


 声には不満というよりも、寂しさが滲んでいた。

 その場に気まずい静けさが降りる。

 ベルは目線を落として、しゃがみ込むようにリンと視線を合わせた。


「リンちゃん……旅は、昨日みたいな楽しいおでかけとはちょっと違うの。知らない場所を回るのは楽しかったりもするけど、危ない場所に行くかも知れないし、すごく長くて、いつ帰れるか分からない大変な道のりになるかもしれない」


 リンは黙ってベルを見つめていたが、やがてぽつりと口を開く。


「……でも、パパは行くんだよね?」


「うん。行かなきゃいけない理由があるから」


 小さな沈黙。

 リンはほんの少しだけ、俯いた。


「ママと一緒に居たら……パパと離れ離れになっちゃう……でも……パパと行ったら、今度はママと……」


 そして、震える声で言う。


「リン、どうしたらいいの……?」


 答えを求めるように、ベルの顔と天井を交互に見つめるリン。その声には、迷いと、幼い葛藤がにじんでいた。

 やがて、ローレライは静かに、包み込むような柔らかさを持った声で話し始めた。


「リンちゃん。今この研究所にいれば、たくさんお勉強ができるわ。ママがいるし、一緒にお勉強してくれるお兄ちゃんたちもいる」


 どこからともなく現れたロイの兄弟機たちが、両手を広げて存在を主張する。昨日と比べて、何やら感情豊かに見えるのはベルの気のせいだろうか?


「きっと、色んなことを学んで、もっとすごいリンちゃんになれるわ」


 リンは天井を見つめるようにして黙って聞いている。


「でもね、パパについて行ったら……もちろん、楽しいこともあると思うの。知らない場所、知らないもの、いっぱい見られるかもしれない。でも、今のリンには、難しいことやできないこともきっと出てくる。たくさんパパを困らせちゃうかもしれないわ」


 ローレライの言葉には、責めるような響きは一切ない。ただ事実として、優しく伝えていた。

 ベルも何かを言いかけて口を開こうとする──が、それらの多くは言葉にならず、最後の一言だけが口を突いて出た。


「……リンちゃんが決めなさい」


「え?」


 戸惑うリンに、ローレライが静かに続ける。


「そうね、行きたいと思うなら……ママは止めない。どちらを選んでもきっと大丈夫、あなたは私たちの子供だから」


「私も、リンちゃんがどちらを選んでも応援するわ。ついて来るなら全力で守るって約束するわ。でも、ここに残って一杯お勉強して、次に会った時にビックリさせてくれてもいい。もしかしたら、『代わりにロイを置いていくから、リンちゃんついて来てー』ってお願いしちゃうかもね?」


 そう言って、ベルはおどけてみせる。隣でロイもやれやれとばかりに両手を広げて見せた。


「でも──」


 そこで、少しだけ声の調子を変える。


「どっちのリンちゃんも、きっと頑張ると思うの。だったら、自分で決めた方がきっと誇らしくなるわ」


「ほんとに……自分で決めて、いいの?」


「ええ、もちろん」


 ベルとローレライは、重なる声で心からそう言い切った。


 しばしの沈黙のあと──リンは、きゅっと手を握りしめて、胸の前に当てるようにして言った。


「……リン、ここにのこって……おべんきょうする!」


 リンのその言葉に、場の空気がふわりと柔らかくなる。


「分かった……リンちゃんの選択を応援するわ」


 ベルはそう言って、未だ寝ているテオをロイに預けると──リンに向かって両腕をいっぱいに広げた。


 リンはバタバタと駆け寄り、箱型の体で勢いよくベルに抱きつく。

 昨日ローレライが言っていたように、リンの鉄の体はほんのりと温かかった。


「ほんとだ……あったかい」


「あらあら……」


「えへへ……ママが調整してくれたの。ぎゅーってされたら、うれしいきもちが伝わるようにって」


 リンの声は嬉しそうで、誇らしげだった。ベルもどこか照れくさそうしながら、リンと笑い合う。




 ──しばらくの後。

 研究所の出入口近くに、小さな赤い車が停められていた。支度が一段落し、出発の準備を整えた一行が並んでいる。

 テオもすっかり目を覚まし、ベルの足元で元気に尻尾を振っていた。


 真っ赤な車の天井には、金属の枠組みにくくりつけられた荷物が山のように積まれている。箱や袋などがぎゅうぎゅうに詰まっていて、どこか道具屋の荷馬車を思わせた。

 荷物はロイとローレライ、そしてリンが協力して手際よくまとめたもの。リンは手伝ったことで少し誇らしげな様子を見せていた。


 ロイはその荷物の山を確認するように見上げてから、そっと口を開いた。


「……本当に、こちらの車を使ってもよろしいのですか?」


 その声には、ほんのわずかに迷いの色が滲んでいた。

 頭上から聞こえてきたのは、ローレライのいつもの柔らかい調子──けれど今は、少しだけ胸の奥に響くような温かさが混じっていた。


「ええ。大切に整備してきた車なのはそうよ──やりすぎた感は否めませんけど──でも車は走ってこそ、ですもの。あなたが使ってくれるなら、きっと旦那様も喜ぶわ」


 ロイは静かに頷き、車に手を添えて、指先で表面を一撫でする。

 車体には何度も手が入れられた痕跡が残っており、内部はもはや元の形を想像できないほど改造されていた。

 けれど、それはローレライなりの愛情の形であると、今のロイには理解できた。


 ベルが近づいてきて、天井の荷物を見上げながら声をかける。


「ねぇロイ、そっちに積んだのって……何?」


「水用のポンプに浄化フィルター、簡易コンロと、たためるテーブル、テントや寝袋とそれから……非常食を積めるだけ──長旅になる可能性を考慮して、基本的な道具をそろえてあります」


「非常食……!なるほど、食べるのに困らないのは大事ね!」


「わっふ!」


「備えあれば、です。昨夜のキャンプが良いデータとなりました」


 そこに、 自分に分かる言葉だけを拾って反応する主人と、それに呼応する相棒への苦笑を隠さないローレライの声がふわりと降ってくる。ほんのりと名残惜しさが混ざった響きだった。


「それから、これも渡しておくわね」


 脇からすっと現れたロイの兄弟機が、小さな板のような物体を差し出して来る。それは磨かれた黒曜石で出来た石板のようだった。


「これは私特性の通信端末。これがあれば、貴方達がどこにいても私と連絡が取れるわ。ロイちゃんに──というよりはベルちゃん用ね」


「了解しました。大切に預かります」


 ロイは端末を大事そうに受け取る。それを見ていたベルは首をかしげた。


「これで何かできるの?」


「昨夜のローレライがしたように遠距離での会話はもちろんですが、記録機能もあります……風景を映したり、声や音を残したり。写真や映像、と呼ばれるものです」


「ふぅん……?」


 あからさまなベルの生返事にローレライはくすっと笑うように声を響かせた。


「ふふ、細かい説明はまた今度ロイちゃんに聞いてね」


 ロイは端末に軽く触れ、ぽつりと呟いた。


「──実際に試してみた方が、理解が早いかもしれませんね」


「え? どういうこと?」


 ベルが問い返すより早く、ロイはすばやく何かの操作を行った。


「これから、写真を撮ります。いわば──その瞬間の光景を切り取る、絵画の魔法のようなものです」


「しゃしん……絵画?」


「撮りたいー!パパといっしょにー!」


 リンが小さな身体を弾ませながら、ベルの腰にぴたりとくっつくように並ぶ。

 その様子に、ローレライの声がどこからともなく降ってきた。


「それならお兄ちゃん達にお願いしましょう。あの子達、こういうの得意なのよ?」


 すると、ロイの兄弟機がするりと前に出てきて、端末を受け取り、角度を調整しながらベルたち一行を見据えて手を振る。


「光量よし、構図よし。背景に車と研究所を──はい、みんな笑って~!3.2.1……」


 ローレライからの突然の合図にベルがうろたえ始める。


「笑ってって言われても……え?えぇ?」


 リンに合わせて少しかがんだベルが困ったように眉をひそめた瞬間、リンはぴょこんと跳ねてベルの頬に自分の頬をくっつけた。


「にぱーっ!」


「ちょ、くすぐったいってば!」


「──撮影します」


 初めて聞くロイの兄弟機の声と共にカシャッと、軽やかな音が鳴った。


 数秒後、端末の画面に表示されたのは──研究所とその前に並ぶ小さな旅の一行、そしてその中心で、頬を寄せ合うベルとリンの姿だった。

 ベルはそれを覗き込むと、目を見張って小さく息を呑んだ。


「これ……わたしたち? 本当に、こんなふうに見えてたの……?」


「はい。光の情報を記録したもので、絵画とは違い、瞬間そのままの姿です」


「あはは、見て見て、リンちゃんが急に飛び跳ねるからテオがビックリしてる!」


 ベルが指さした先では、飛び上がったリンに驚いて尻尾と毛をピンと逆立てているテオが居た。


「わふぅ……」


 笑われて不満そうなテオを撫でながら、ベルはしばらく画面をじっと見つめ──やがて、ぽつりと呟いた。


「……私が今まで見たどんな絵画よりもすごいし、なにより……素敵な絵ね」


 ロイは何も言わなかったが、ほんのわずかに動いた指先が、感情の波を静かに物語っていた。

 リンも画面を覗き込んで、嬉しそうにぱたぱたと手を叩く。


「リン、ママとパパといっしょに写ってる~!えへへ、これ、おへやにかざるー!」


「ふふ。じゃあ、フォトフレームを作らないとね」


 ロイは端末をベルへと手渡す。


「この中の記録は消えません。いつでも見ることができます。思い出の一枚として、残しておきましょう」


 ベルはそれを受け取りながら、少しだけ俯き──そして、にっこりと笑った。


「うん。ありがと、ロイ。ローレライも……ロイの弟くんも。ほんとに、ありがとう」


 そしてこの記念写真の一枚をきっかけに、リンのもっと撮る!という一言で小さな撮影会が始まった。

 ロイの兄弟機たちも協力的で、次第に指導まで始まり、研究所前はにわかに賑やかな空気に包まれる。

 けれど、それもほんの束の間のこと。ロイの一言が、その空気をゆっくりと切り替えた。


「……そろそろ、出発の時間です」


 その言葉に、リンの動きがふと止まる。

 そして、ベルに駆け寄って、ぎゅっと腕にしがみついた。


「パパ、がんばってね……リン、ここでいっぱいがんばるから……!」


「うん。リンちゃんもママと一緒に頑張って。次に会うとき、どっちがいっぱい成長してるか競争ね?」


「えへへ、まけないもん!」


 ベルが優しく頭を撫でると、リンはくすぐったそうに身をよじった。

 その様子を見守っていたローレライの声が、最後にもう一度だけ、柔らかく響いてくる。


「それじゃあ──いってらっしゃい、ベルちゃん。ロイちゃん。テオちゃん」


「うん、ローレライとリンちゃん、またね!ロイの弟くんたちも!」

「定期連絡は入れさせていただきます」

「わふ!」


「道中の安全を、心から祈ってるわ」

「いってらっしゃーい!」


 ローレライとリンの言葉とともに、研究所の高い所へと取り付けられた明かりが、ふわりと灯台のように光を灯した。


 ──いつでもここに帰ってこれるように。






 一人と一匹と一台を乗せた小さな赤い車は、静かに音もなく走り出す。

 誰もいない道の上を、ゆっくりと──確かな足取りで。


 リンはその背を見送っていた。

 研究所の門を越え、赤い車の姿は次第に遠ざかり、ついには建物に隠れてまったく見えなくなってしまう。


 しん……とした空気の中、リンがぽつりと尋ねた。


「ねぇ、ママ。もう見えなくなっちゃった……ママからは、見える?」


 ローレライの声は、少しだけ遅れて返ってきた。

 けれど、その響きには、確かな温もりが宿っていた。


「ええ、ちゃんと見えてるわ。私の得意分野ですもの」


 リンは安心したように、ふふっと笑った。

 その笑い声が、少し落ち着いてから、ローレライがぽつりと呟く。


「必要無いと思っていたけれど……そろそろ、私もボディがあった方が良いかしら。私も──リンちゃんをぎゅって、してみたいわ。パパに先を越されちゃったし」


「え? ほんと? じゃあ私、ママのボディ作ってあげる!いまのおべんきょうが終わったら!」


 リンの声がぱっと明るくなり、小さな車輪の音が、研究所の奥へと弾んでいく。

 そして──彼女の気配が消えていった後、ローレライの声が、誰にも届かないほど静かに、けれど嬉しそうに呟いた。


「ふふ。楽しみにしてるわ……私の小さなエンジニアさん」

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