第33話 エルフと王様の布団と瑞々しい魚
夕暮れの湖畔に、たまらなく香ばしい匂いが漂っていた。
ロイが折り畳みテーブルの上へと丁寧に並べた料理は、どれもこれも眩しいほどだった。
真っ白い身をしていたうなぎは茶色く艶やかに焼かれ、いつの間にか用意されていた炊きたてのふっくらとしたご飯の上に乗っている。それはさながら、王族が使うような高級なベッドに掛けられた布団のようだった。
脇に添えられた汁物は透き通っており、具は緑の葉っぱと魚の小さな内臓らしき物の二種類。それはとても質素なスープのように見えた。基本的に捨てる部位である内臓を汁ものにして大丈夫なのかとベルは訝しむが、その碗からは驚くほどの薫香が漂っている。
更には当然のようにテオ専用に味付けされた物も用意されていた。
「すごっ……外で食べるような料理じゃないでしょ……!」
ベルたちは目を丸くして、並んだ料理を見渡す。
「わぁー!!おいしそー!!」
「わぅぅっ!」
リンもテオも、もはや待ちきれない様子だった。
「──どうぞ、お召し上がりください」
ロイの静かな合図を皮切りに、略式の祈りをササっと捧げたベルは、ふっくらと焼き上がったうなぎを目の前に掲げる。
「これがあの蛇みたいな魚なのよね?なんか凄い美味しそうになってる!」
拒める者が居るとは思えない程の香ばしさに誘われるまま、ベルはスプーンを口へと運んだ。瞬間、濃厚なタレの香りが鼻に抜け、ふわふわの白身は脂がのっており舌の上でとろける。追いかけるようにしてスパイスが舌を痺れさせたかと思うと、爽やかな風味が駆け抜けていった。
「ふぁ──なにこれ……なにこれ……!!」
思わず声が漏れ、足をバタつかせるベル。テオも短い前足でぴょこぴょこと跳ねる。
香ばしく薫るタレとは別に、淡泊な味かと思われた白身は予想裏切って濃密であり、やや独特なクセがあるものの、それすらも同じタレの絡んだご飯とうなぎの一体感を強めていると感じさせる物だった。
「あぁ──このお魚の布団で眠りにつきたい……」
寝ながら味わえるのに──そんな想像しているベルの横から歓喜の声が上がる。
「おいしーーーーーっ!!」
それは隣に座るリンの声だった。ふと、あの体のどこに食べ物が入っていくのか不思議に思ったベルが横目で様子を見ると、ガラスの様な瞳の下部がパカパカと開き、次々に食べ物が吸い込まれて行っていた。
「……そこって目よね?…………うーん……よし──次はスープを頂いてみましょう」
深く考える事を止めたベルは、透明な汁物を一口すする。味の濃いうなぎとは対照的に、さっぱりとした旨味が体中に染み渡った。
魚の内臓とはこんなに上品だったのかと、ベルは思わず二口、三口と飲んでしまう。
「さすがね、ロイ……きっと王都の貴族様だって食べたことない味よ!」
何食べてるか知らないけど、とベルは小さく付け足す。
「身に余るお言葉。恐縮です」
ロイはそう静かに応えると、また新たな皿をそっとベルの前へ差し出した。
「こちらは先ほどリンが上手に捌いてくれた魚でございます」
その皿には、丁寧に切られた白身魚が美しく並んでいた。表面がわずかに縮れており、鮮やかな緑色の薬味が添えられている。
「これがリンがパパとやったおさかな?」
リンが嬉しそうに声をあげる。その言葉を受けてベルは目を細め、微笑みながらリンの頭を撫でた。
「頑張ったもんね、リンちゃん……それで、これは?」
「ボラという魚の湯引きです。熱湯で火を通しただけの物ですが、シンプル故に素材の違いが出る調理法です」
「ふぅん……要は茹でただけって事?……まぁ、ロイが作った料理なら間違いないわよね」
ベルは早速、添えられていたフォークで魚の身の一切れを口に含む。弾力のある歯応えと共に、上品な旨みがじんわりと広がった。魚の身はほんのりと甘く、そこに絡んだうなぎのタレとはまた違った茶色いソースは、酸味と塩味が調和しており果物を思わせる爽やかな風味が絶妙だった。
「これもおいしー! おさかな、ぷりぷりしてる!」
「本当……驚いたわ。ソースもだけど、茹でた魚の身がこんな生の果物みたいな瑞々しさを──」
感心したように呟くベルに、ロイは淡々とした調子で付け加えた。
「まぁ、湯引きはほぼ生ですので──」
「…………えっ?」
次の一口へと行こうとしたベルのフォークが空中で固まる。目が点になったまま、軋む音が聞こえそうな動作でゆっくりとロイを振り返った。
「ほぼ……な、ま?」
「はい。表面のみ熱湯をくぐらせ、中は新鮮な生の状態でお召し上がりいただく料理です」
「いや、ちょっと待って!? 生!? 魚を生で食べるって、冗談でしょ!?」
「いえいえ、この国では魚の生食は一般的でして──」
ベルは目を丸くして、視線の先にある真っ白い身を見つめる。よくよく見れば、その中心部分は透き通るように半透明だった。
「いやいや……魚って普通、生で食べないでしょ……?お腹壊しちゃうんじゃ……」
「確かに淡水魚に関してはあまり一般的ではありませんでしたが、こちらの魚は私が入念にスキャンし、安全性を完全に確保してありますのでご安心ください」
「そう言われても……」
「──美味しくありませんでしたか?」
ロイの大きなガラスの様な瞳の表情は変わらないが、その声はどことなく不安げな雰囲気を漂わせる。
「うっ……まぁ……それは認めるけど……」
不安そうなベルの顔を覗き込み、リンが無邪気に問いかける。
「パパ、おさかなさんおいしくなかった?」
「い、いや、美味しいわよ……?美味しいんだけど……えぇと、その、生……?」
「わぅ」
戸惑うベルの膝を、テオが鼻先で優しくつつく。
「もう一口、いかがでしょうか」
ロイが静かに促すと、ベルは逡巡しつつも、先ほどの味を思い出しながら再びフォークを伸ばした。
「……うぅ、もう……いいわよ。分かった! 美味しい! ほぼ生の魚、美味しいです!」
やや乱暴に口に放り込むが、またじんわりと旨みが広がり、ベルは悔しそうな顔で舌鼓を打った。
戸惑いつつも美味しさを認めたベルの前へと、更に新たな一皿が静かに差し出される。
「こちらもどうぞ。酢締めでございます」
今度は美しい皿に、透き通るような白身魚が繊細に並べられていた。表面は白っぽく変化していて、さっきの湯引きよりも火が通ったように見える。漂ってくる酸味を帯びた香りがベルの鼻をくすぐった。
「あ、これはちゃんと火が通ってるのね。これなら安心できそう」
ベルは少しホッとした表情で、魚をまじまじと見つめる。
「コチラは酢締めという調理法で──」
「ふーむ……酸っぱい匂いするし、焼いたのとはまた違った調理法なのね?」
「──その通りでございます」
ベルは納得したように頷きつつ、フォークで魚を口に運ぶ。
その身はもっちりとしていて、舌の上で酸味が鮮やかに弾けると同時に、魚の旨味が染み出してきた。酢が強く香る一口目の印象とは裏腹に、魚の甘みと塩味が融合した、さっぱりとしながらも複雑な味わいが口中に広がる。
「んーっ、これも美味しい!酸っぱくてさっぱりしてるけど、ちゃんと魚の味も感じられるわね!」
「おいしー!リン、これも好きー!」
「リンちゃんも気に入った? そうね、私もこれならいくらでも食べられそう!」
ベルが満足げに頬張っていると、ロイが淡々と補足するように言った。
「お気に召したようで何よりです。こちらは酢に漬け込むだけでの調理法でございまして、加熱調理の必要も無いため、追加で一品欲しい時になどには非常に便利な──」
次の一口へと行こうとしたベルのフォークが再度、空中で固まる。先ほどと同じ動きでゆっくりとロイを振り返った。
「……ん?……加熱の必要がない……?」
「はい、火を使ってはいません」
「でも、身は白くなってるし……」
「酢によって魚の身が締まり白っぽくなったため、火を通したように見えるだけです」
「……ちょっと!? それってまだ生ってこと!?」
「はい──美味しくありませんでしたか?」
「い、いや、美味しいわよ……? でも、うぅぅ……騙された……いや、騙されてないけど騙された気分……!」
ベルが膨れっ面をすると、ロイが静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。ですが、安全性は保証いたしますので」
「それは分かってるけど……生……ねぇ……」
ベルは小さくため息をつきつつも、すでに次の一口を食べ始めていた。
「むぅ。美味しい……」
ベルが渋々ながらも酢締めのボラを味わっているその間に、ロイがさらにもう一皿を静かに差し出した。
「最後にこちらもぜひお試しください。ボラの刺身でございます」
差し出された皿の上では、魚の切り身が夕焼けを受け、艶々と真珠のように輝いている。その透き通るような白と、薄く残った血合いの鮮やかな赤い差し色が目を惹く。
しかし、先ほどまでの料理と異なり、その見た目は明らかに──
「──いや、これは完全に生でしょ!?」
「はい、ご明察の通り、完全な生でございます」
「誤魔化さないのね……いやでも、これは……さすがにちょっと……」
ベルが不安そうに顔をしかめていると、リンがきょとんとしながら刺身を覗き込む。
「おさかな、キレイだねー!」
「そ、そうね……綺麗だけど、生よ?完全に、生……」
ベルの戸惑いをよそに、ロイは落ち着いた口調で説明する。
「ご安心ください。この魚も徹底的なスキャンを終えており、寄生虫などの危険性は完全に排除してあります。適切な手順で捌く事により臭みもなく、それに──」
「それに?」
「とても美味しいですよ」
ロイが微かに楽しげな声色で言った。その絶妙な誘導に、ベルは不覚にもゴクリと喉を鳴らしてしまう。
「うぅぅ……」
「おじちゃんがおいしいって言ってるよ?パパ、食べないの?」
リンがきょとんと首を傾げる。その横でテオも期待を込めた瞳でじっと見つめている。
「……分かったわよ……一口だけだからね?」
「こちらの醤油を付けてお召し上がりください」
うなぎのタレに使われていたのだろう、似た香りのする濃い茶色のソースが入った小皿が脇へと添えられる。
ベルは覚悟を決め、ぶすりとフォークで切り身を突き刺す。そして醤油なるソースをちょんと付けて、恐る恐る口へと運んだ。
一瞬の緊張の後、口いっぱいに広がる醬油の香り高い塩味。そして舌の上に広がったのは、生特有の滑らかな、ともすればヌメっとした舌ざわり。その感触に思わずベルの眉間が歪む。
しかし、その直後──魚の脂は舌の上でスッと溶け、追いかけてくる繊細で甘やかな旨味に目を見開く。
新鮮そのものの魚の身には嫌な臭みなどまったくなく、噛むほどに奥深い味わいが舌の上に広がっていった。
「くっ………………美味しい……」
テーブルに両手を突いて首を垂れたベルが小声で呟くと、ロイが嬉しそうにうなずいた。
「お気に召したようで光栄でございます」
「……完全に生なのに……生なのに……」
ベルはぶつぶつと文句を言いながらも、手は次の切り身へと伸びていく。
そんなベルをよそに、リンとテオの楽しそう声がこだまし、湖畔の夕焼けは更けていく。温かな光景を眺めるロイのガラスのような大きな瞳が、得意げに光ったように見えた。