第21話 エルフとお面と踊る文字
ロイはほんの少しだけ、頭を下げるようにしてその場を静かに離れた。普段なら決して見せない仕草だった。
「……ねぇ、ロイ?」
その後ろ姿に、ベルがぽつりと声をかけた。
「はい、ベル様。何か?」
「その……ちょっと、あっち、行ってみましょ?」
ベルが目を向けたのは、朱塗りの門の先。人の気配はないのに、どこか賑やかな雰囲気を残した細長い道だった。両脇の建物の戸口には、彩り豊かな板や布の飾りが取り残されており、窓越しに見える商品や装飾が、まるで時が止まったままのようにそこに在った。
「……なにか、気になる物でも?」
「ううん。ただ、ちょっと楽しそうだなって。私も……気分転換、したいし。ついでに案内してちょうだい。あなた、こういうの、得意でしょ?」
その言葉に、ロイの光学センサーが微かに明るさを取り戻したように見えた。
「……畏まりました。では、ワタクシがご案内いたします。あの通りは“仲見世通り”──この門の先にある“大寺院”へと続く参道でございます」
そのやり取りの後ろで、ネスカは何も言わずにベルたちを見守っていた。
少し距離を取りながら、けれど目はそっと彼らを追いかけている。
そうして、ロイが一歩前へと出ると、テオもベルの足元から飛び出し、とことこと先を駆けはじめる。
「じゃあ……小さな冒険、ね」
ベルは小さく安堵の息を吐き、笑って二人のあとに続いた。
* * *
仲見世通りの両側には、人の姿こそないものの、どこか祭りの余韻が残っているようだった。色とりどりの看板や飾りがそのまま残り、奥へ進むたび目に飛び込む見た事も無いものたちに、ベルの目も少しずつ輝きを取り戻していく。
「これは……お面?」
ベルが立ち止まったのは、軒先にずらりと並べられた仮面の数々の前だった。白狐、優しげに笑う白い顔の女性に、赤ら顔の明らかに酔っぱらった男……どれも奇妙で、どこか楽しげだ。
「これはお祭りや行事の際に用いられた仮面でございます。古来より人々は、収穫や祈願、厄除けといった目的で祭を催しており、その際に装束や仮面を用いて非日常の世界を演出していたようです」
ロイは、まるで待ってましたと言わんばかりに一歩前に出て、壁の仮面をひとつひとつ指差しながら解説を続ける。
「例えばこちら──“おかめ”は福を呼ぶ存在として親しまれ、“ひょっとこ”は独特な口元が火吹き男の名残ともされ、火難除けの意味も込められております。そしてあちらは“狐面”、神の使いとされる存在でございますね。演劇や舞踏とも関わりが深く──」
その横で、ベルはにこにこと頷いていた……が、話の内容は右から左だった。
「ふふっ。調子戻ってきたわね、ロイ」
微笑みながらそう呟いたベルは、しかしロイの解説のどこにも反応しない。
「って……ねぇ、ちょっとロイ。これ……地球の人って、もしかしてこんな顔してたって事?」
ロイの解説を遮って思い付いたように口を挟んだ彼女が真剣な面持ちで指差したのは、今まさに彼が説明していた“おかめ”と“ひょっとこ”の面だった。
「い、いえ、それは……一種の表現技法と申しますか……っ」
「ふぅん……じゃあ、こっちの顔は?」
隣にあった隈取の歌舞伎面を手に取り、ぐるりとネスカに向ける。
「うわっ」
ネスカが思わず顔を引いた。
「どう? どことなく、あんたに似てない?」
「いやいや、それは失敬でしょ!? むしろ、矢を向けてきた瞬間の君の顔の方が似てるな〜。怒りの隈取ってやつだね!」
「こんな怖い顔なんてしないわよ」
「いいや、してましたー」
「どっちかといえば私の母さんが怒った時のが俄然似てるわよ!」
ネスカとベルが喧々諤々とする最中、その横で、テオがとある店先にぴたりと足を止めていた。
「わぅ……!」
並べられた小さな置き物──それは金色の小判を持ち、片手を上げている丸っこい猫。つぶらな目と、ふっくらとした体つき。見る物に愛らしさを感じさせる造りをしていた。
じーっとそれを見つめていたかと思えば、テオはその場でくるんと向きを変え、同じように片手を上げてちょこんと座った。
そんなテオの動きにネスカと喧嘩していたベルも気づいて声を上げた。
「ちょっ……なにその仕草。え、似てない? ちょっと似てない?」
ベルが笑いながら横に並び、自分も猫のように前足──ではなく手を前に出して、テオと一緒にくいっと曲げる。
「どう?こんな感じ?」
「わぅっ!」
二人の可愛らしい“招き”の構えに、ネスカは思わず吹き出した。
「うーん……なんか、地球にぴったり馴染んでるなぁ、ベル君……」
そんな様子をそっと見守っていたロイが、唐突に静かな声で呟いた。
「……ワタクシの記録媒体に、今の瞬間を高画質で保存いたしました。後ほどプリントも可能です」
その言葉にすかさずネスカが反応する。
「あ、ボクにはA3に引き伸ばして焼き増しでお願い」
「ん……? なにそれ、今の言葉……なんかちょっと嫌な予感するんだけど……?」
ベルがじとっとネスカとロイを睨む。
「ベル様のご表情が実に豊かでいらしたもので……つい」
「ちょっと! まさか、何か変なことしたんじゃないでしょうね!?」
ロイのセンサーが微かに点滅しながら、静かに応じた。
「ご安心を。機密保持と個人の尊厳には十分配慮しておりますので──」
「ますます怪しいわよ!」
ベルが慌てて両手を振るう中、テオがもう一度鳴き、二人の真似をして両手をちょこんと挙げて座った。通りには風が吹き抜け、招き猫たちの間をゆっくりと通っていった。
通りを彩る色とりどりの装飾と、愉快な置き物たちに囲まれ、三人と一匹の足取りも少し軽くなり、空が夕暮れに染まる頃──
「……お腹、すいてきたわね……」
ベルがお腹を押さえながら、ぽつりと呟いた。
思い出してしまったのだ。通りの不思議な光景や、見慣れない品々に夢中になっていたせいで、道中でつまんだカリカリだけでは到底足りていなかったことを。
その横で、テオも小さく鳴き、お腹をぺたんと地面に伏せて見せる。
「……そうよね。あんたも、お腹すいたわよね」
ベルは苦笑しながら、静かに頷いた。
その様子を横で見ていたロイが、タイミングを見計らったように一歩前に出る。
「ベル様。少し先に、営業中の表記がある食事処がございます。“もんじゃ焼き”というのぼりも見えますので、この地域で名物となっている料理を提供する施設のようです」
「ん、ごめん、何焼きですって?もんじゃ……?」
ベルは聞き慣れない音に眉をひそめる。
「ええ、“鉄板”と呼ばれる金属板の上で、液状の生地と刻んだ野菜などを焼いて仕上げる料理でございます。食事であると同時に娯楽でもあり、“目の前で調理しながら食べる”という様式が特徴的でして──」
「鉄板くらいは流石に分かるわよ……まぁいいわ!つまりは楽しくて美味しい料理ってことね!」
ロイの長々とした解説の中から、要点だけを抜き取ってベルは笑った。お腹の虫が限界を訴えていたのもあり、その“もんじゃ焼き”とやらの全貌を理解する気力は今のところない。
「では、ご案内いたします」
そう言ってロイは先導するべく先を行く。
ふと、目の前の看板に、見慣れぬ文字らしき物が踊っているのがベルの目に留まる。最早彼女には仕組みを理解するつもりはないが、文字通り文字が踊るように動いているのだ。
店内を覗き込めば鉄板を囲むような椅子と机が並び、今にも呼び込みの人の声が聞こえて来そうだ。
地球の文字は読めなくとも場の雰囲気くらいは読めるベルにとって、その様相は営業中の飲食店のそれであった。
「……ねぇ。人がいないのに、お店って開いてるの?」
「はい。この世界には、無人で営業を続ける仕組みが多く存在しておりました。調理・配膳・決済までが全て自動で行われる構造です。仮に中に人がいなくても、食事の提供は可能かと」
「……地球って、本当にいろいろ変な世界ね」
ベルは半ば呆れたように笑うと、隣で同じくお腹を空かせたテオの頭を軽く撫でた。
「じゃあ──早く入って晩御飯にしましょうか。“もんじゃ”とやら、気になるし」
「わぅっ!」
元気よく跳ねたテオを先頭に、一行は軋む床を踏みしめながら暖簾のような幕をくぐって、無人のもんじゃ焼き屋へと足を踏み入れた。