第18話 エルフと火柱と自称神様
お腹も心も満たされたベルとテオは、しばし満足げに椅子の背に体を預けていた。
陽の差し込む窓際で飲む温かなお茶は格別で、ロイが注いだカップには、ほのかな香りが立ちのぼっている。
「ふぁ〜……ちょっと食べすぎたかも……」
手を胸に当てて、ベルはふぅと長く息を吐いた。そんな彼女の足元では、テオがゴロンと転がってお腹を見せている。その無防備なお腹を靴を脱いだベルの白魚のようなつま先が撫でていき、一往復ごとにテオは至福の声を上げていた。
「ん〜でも、そろそろ動かないと……ね。せっかくだし、もうちょっとこの建物の中を見てみようか。何か有意義な物か情報があれば良いわね」
「わふ!」
「でしたら、上の階をご案内致しましょう。特に、議場と呼ばれる部屋は見応えもあるかと存じます」
ロイの提案に、ベルは頷きながらもやや難しい顔をして席を立つ。
「ギジョウって何だか分かんないけど……玉座の間みたいな場所なら、見てみたいかも」
そうしてベル一行は部屋を後にした。
白く広い廊下を歩く三人の足音が、静まり返った建物にぽつぽつと響く。
食堂から続く上階への階段を登ると、すぐに雰囲気が変わった。壁には金属とガラスで装飾され、意味不明な絵と文字のような物が書かれた板、途中すれ違う誰も使う者の居ない机、狭苦しい鉢に入れられ枯れて埃を被った植物──人の営みの痕跡が、静かに時を止めていた。
「生活感はあるのに、人の気配がまるで無いのも見慣れてきたわね」
「わぅ」
そう呟くベルの横で、テオが何かを探るように時折鼻をひくつかせながら歩く。
「さぁ着きました、この部屋です」
ロイが立ち止まった先には、重厚な両開きの扉があった。
装飾は少ないが、その存在感には威厳が漂っている。
ロイが静かに扉を開くと──
そこは三階まで吹き抜けとなった巨大な空間だった。
天井には色とりどりのステンドグラスが嵌め込まれ、外から差し込む陽光が床に幻想的な模様を描き出している。部屋の中心には円形の席が半円状に並び、そのさらに奥、ひときわ高い場所に立派な席が据えられていた。
「本当に玉座の間みたいね。と言っても実際見たことは無いんだけど」
「ここは“参議院議場”──この国の立法を司る場です。かつては、多くの人がここに集い、議論を交わしておりました」
「へぇ……」
ベルは天井を見上げる。美しいガラス細工の光が、まるで万華鏡のようにきらめいていた。
──その時だった。
「……ん?」
目の前の光景が、ふと揺らめいた。まるで蝋燭の火が風に煽られたかのように、ステンドグラスの模様がかすかに歪む。
同時に、ベルの手元で明かりの魔法がふっと掻き消えた。
「え……?」
「ベル様?」
「うそ、魔法が……」
周囲がぐらりと傾くような感覚。耳鳴り、静電気のような違和感が肌を撫で、空気がぴたりと張り詰めた。
テオもすぐに気配を察知したのか、毛を逆立てて唸り声を上げる。
「……何かいる」
そして──
「へぇ、なるほどなるほど……」
聞こえてきたのは、やけに無邪気な、子供のような声だった。
空間がねじれたかのように、声の出どころは不明。ベルが振り返るより早く、その気配ははっきりと現れ始めていた。
「っっ!」
背後からの声にベルは総毛立つ。これまで感じた事も無い異質なおぞましさに吐き気すら催すほどであった。自分を捕食する事しか考えて無いであろう魔物にですら、ここまでの悪寒は感じた事が無いほどに。例えるならば、服でも捲るようにお腹の皮膚を捲り、体の内側を覗かれた挙句に内臓へ手を突っ込まれてかき回されたような気分だった。
気配に当てられ振り向いたベルは反射的に臨戦態勢を取る。矢筒の外側へと個別に留められた両親特製の矢を目視する事なく取り出すと、弓へとつがえ腰を落とした。暗闇にも関わらずその動作に淀みはなく、素早く正確無比だ。
「敵っ!?」
敵襲かと焦るベルの弓矢は、部屋の中央にある、いかにも偉い人が使いそうな机の上に座る人物へと、真っ直ぐに向けられていた。その人物は人差し指をベルに向けており、指先には何やら魔法陣のような物が浮かんでいる。
「その気持ち悪くなる魔法、今すぐ引っ込めなさい! さもないと……」
魔法陣から放たれる青白い光によって、白いフードの奥の少年とも少女ともつかない整った顔立ちが暗闇に浮かび上がった。
「子供……っ!?」
「え? お姉さん気持ち悪いの? あれ? 何でだろ?」
矢を向けた相手が子供に見える事にベルは動揺するも、その相手はくりくりした青い瞳を訝しげに歪めつつ、首を傾げ銀髪と白いローブをふわふわと揺らしている。子供のような動きではあるが、それと同時にベルは押しつぶされそうな威圧感を感じていた。
「何コイツ……人じゃ……無い……?」
「わぅ!」
「ベル様? 如何致しましたか?」
ベルの尋常ならざる様子にテオとロイが脇から顔を出そうとするも、彼女はそれを体で押しとどめた。限界まで引き絞られた弦はギリギリと軋み、弓に溜め込まれた力を今にも解き放たんとしている。
「テオ! ロイ! 私の後ろから出ないで! ──まさか、悪魔か何か……?」
「んん? なんか間違えたかな……あ、こうかな?」
白いローブの人物はブツブツと呟きながら、指先でくるくると魔法陣を弄ぶ。大きくなったり小さくなったり、模様を変えたりするその動きに呼応するように、ベルはざわつく悪寒を強く感じていた。無遠慮に内臓をまさぐられるような感覚に、さっき食べた物を吐かないようにするのが限界だった。胃液が喉を焼き、口の中には酸味が広がる。
「うぷ……美味しい物食べた後なのに、コイツ……っ! うぐ……もう、いい加減に……っ!」
最早こみ上げる吐き気を堪えられなくなったベルは、悪寒に突き動かされるように──何より健気な自分の仲間を守るために──おぞましい魔法を発動させる者へと両親特製の矢を発動の呪文と共に放つ。
「しなさいっ! ──アリュマージュ!」
「あ、ちょ」
魔法の発動に気づいた白いローブの人物が何かを言おうとするも、矢は雷光の如き速度で光の尾を引きながらベルの手元から放たれる。
それは必中を約束されたように見えたが、ローブに突き刺さり純白を赤く染める事は無かった。
「え?」
「おょ?」
ベルと白いローブの疑問符が重なる刹那、ベルの父が宝石から削り出した赤い鏃は、命中する直前にひと際大きく光を放ちながら砕け散ってしまった。その瞬間──
「っ──ぐ、うぅ……」
遅れて襲ってきたのは、身体の芯を抜かれるような脱力感だった。
視界が揺れ、膝がわずかに折れる。
(な、なに……今の……魔力、全部持ってかれたみたいな!?)
ふらつく足元を踏ん張り、なんとか立ち続けながら、ベルは息を荒く吐いた。
「母さん……何て代物作ってんのよ……さっきご飯食べててよかった……お腹いっぱいでもないと魔力不足で撃てないって、これ──」
一瞬の間を置いて、ベルのプラチナブロンドの長い髪が前方へとたなびいた。それと同時に、重力が一瞬だけ抜けたような、嫌な浮遊感が体を包む。まるで、世界そのものが一瞬息を止めたような──嫌な予感が警鐘をガンガンと鳴らす。
「──って、これ……これヤバいやつ!」
「え? おっとと? おぉぉぉぉー?」
やがて弾けた矢を中心として、周辺の空気を全て吸い込むような風が巻き起こる。間近でそれ受けた白いローブの人物は完全に風に捉われていた。
「みんな伏せて!」
ベルは咄嗟にテオとロイを抱え込んで近くの机の影に隠れるやいなや──
鼓膜が破れそうな轟音と共に巨大な火柱が天を衝いた。
装飾が綺麗な高い天井を貫き、天へと届かんばかりに炎が渦を巻いて上がっているが不思議と周囲の熱はそれほどでも無い。大人が三人ほど手を広げた程の範囲にその全てが凝縮されているようだった。それだけにその中心はどの様になっているか、ベルには想像するだけでも恐ろしかった。
「嘘でしょ……なんて物騒な物を渡してるのよ、あの人……二人とも大丈夫?」
互いの無事を確認しあい、ベル達は机の陰から身を乗り出す。テオはベルの背中にしがみ付き、火柱へと吸い込むように吹く風に耐えながら、彼女の肩越しに目の前の光景を見ていた。
「この火柱はベル様が?」
「え、うん。まぁ、使ったのは私なんだけどさ……」
ベルは自らの親への非難をモゴモゴと口の中で転がしながら、歯切れの悪い様子を見せる。
「一体何が? 近くの動物園から逃げ出した虎や熊でも出たのでしょうか?」
「獣ならまだ良かったんだけどね。魔法を向けて来る奴が居たから、やめさせようとしたんだけど……」
「それは……人が居たという事でしょうか? 生憎とワタクシのセンサー類には反応がありませんでしたが……」
「……人の形はしてたけど、あれはそれ以上の何かだったと思う。あんな気持ち悪い魔法、見た事無いわ」
「左様でございましたか……その様な事態にも関わらず、状況を把握出来ていなかったとは……申し訳ございません……ともあれ、ベル様がご無事で何よりでございました」
地獄の業火もかくやと言わんばかりの火柱もやがて消えて行き、後には巻き上がった煙だけが残されていた。
「貴方が謝る事じゃ無いわよ。でも、ありがと……それにしても、あの矢、ここまでの威力だとは思って無かったわ……風を集めて火柱でドンて凶悪よね……」
煙が薄れるのを眺めていたその時、ベル達の足元から唸り声が聞こえてくる。
「ウゥ〜……ワゥ!」
いつの間にかベルの背中から降りたテオは、煙に向かい普段の様子からは想像出来ない攻撃的な声で吠えていた。
「テオ殿?」
「──まさか……」
やがて煙が天井の穴から風に乗って外へと消え、視界が晴れていく。そしてテオが睨みつけていた先には──
「ケホッ、コホッ! 凄い魔法だね、コレ。いやぁ、酷い目にあった……でもまぁ、結果オーライかな」
咳き込みながらも、鈴の音を思わせる心地の良い声音がベルの耳朶を打つ。先ほどのおぞましい雰囲気を放つ魔法を使っていた者と同一人物とは思えない声だった。
「──な!?」
その場だけ切り取った様に綺麗な円形に焼け焦げた跡の中心には、先ほどの白いローブ人物が何事も無かったかの様に立っていた。
酷い目にあったと口にする割には、身にまとった真っ白いローブには焦げ跡ひとつ、汚れのひとつすらも無い。むしろぽっかり開いた天井から降り注ぐ陽光を受けてキラキラと輝いてさえいた。
更に、辺りに薄っすらと残った煙は光条を作り出し、天へと伸びる光の柱が神々しさを演出している。しかし醸し出された神聖さとは対象的に、その幼い顔立ちには人好きのする気の抜けた笑顔が浮かんでいた。
(嘘でしょ……!? あの火柱の中から何事も無く出てくるなんて……)
「ワウ!」
完全に姿を現した相手へと目がけ、テオが駆け出そうとする。
「テオ、下がって……!」
ベルの制止も待たず、テオは唸り声を上げてネスカに向かって一歩を踏み出す──その瞬間。
ひらり、と。
天井の穴から差し込む光の中に、小さな影が舞い降りた。
「……蝶々?」
それは見覚えのある姿をした蝶だった。つい先ほど、建物の入り口でテオがじゃれていた、あの光を反射して煌めいていた蝶。
その蝶が、テオの鼻先すれすれにふわりと降り立つ。
「わっ……ふ」
テオの体がぴたりと止まった。直後、彼の尻尾がスンと下がり、先ほどまでの威嚇は嘘のように戦意が抜け落ちていく。
「……テオ? どうしたの……?」
明らかにおかしい。蝶を見た瞬間、彼の中で何かが切り替わったようだった。
「その蝶、建物の入り口で遊んでた……あの時の子よね……」
思い返すベル。あのときはただの小さな、綺麗な蝶だと思っていた──けれど。
「あんた……テオに、何したのよ」
目を鋭く細め、声を低くして問うベルに、ネスカは目を丸くして、あっけらかんと笑ってみせた。
「んー?酷い事はなにもしてないよ? ボクはただ、彼の“楽しい気持ち”を思い出させただけさ。それと、さっきはごめんね。怖がらせるつもりは無かったんだけど、代わりにすごい魔法見れたから、まぁいっか!」
およそ生物であれば灰も残らなそうな一撃を気にした様子もなく、むしろ彼女を驚かせた事を屈託のない笑顔で謝罪してくる。
「それじゃ改めまして。初めまして、ボクの名前はネスカ。君らが言う所だと……まぁ、神様ってやつさ。って、そんな事より、歓迎するよ──”地球”へようこそ、転移者のお姉さん」
そう言いながら片手を胸に当て、もう片方の手を横へ広げるようにしてベルの知らない礼をするネスカ。
「これが君の知る文化で失礼にあたる所作じゃないと良いんだけど」
そう言って、少年のような少女ような自称神様は優雅な動作と共にウィンクをして見せる。
地球──それは、ベルが聞いたことのない響きだった。