第17話 エルフと小さな晩餐会と少しのお土産
座ってのんびりと料理の完成を待つ二人だったが、不意にテオがベルの膝の上から飛び降り、ソワソワと主人の座る椅子の周りを回り出す。
ベルがどうしたのかと思っていると、背後からやや申し訳なさげな声が掛かった。
「お待たせいたしました」
「あ、出来たのね!」
「はい。ですが、やはり一部の食材が使えませんでした。ですので、ワタクシの判断で少し内容を変更させて頂きました。申し訳ありません」
両手にお盆を持ったまま、ロイは一礼するように前に傾いた。お盆の上には蓋のついた底の深い器が大小二つ、更にいくつかの器が乗っているのにも関わらず、少しもバランスを崩した様子が無い。
「いやいや。ロイに任せたんだもの、文句は無いわよ。むしろ材料が足りないのに、用意してくれてありがとう」
気にするなとばかりにベルは笑顔で手を振って応える。ロイはそれにもう一度礼を返すと、滑るように二人へと近づいた。そして一緒に運ばれて来た風に、ベルとテオは思わず二人して鼻をひくつかせる。
「それに凄い良い匂いがするし、これはこれで期待大ね」
「わっふ」
「恐れ入ります。卵は使えませんでしたが、冷凍の千切りキャベツが残っていたのは僥倖でした」
「ふむふむ?」
よく分からないままに相槌を打つベルの前へと、ロイは音も無く一つの器を置き、中身によって半ば押し上げられている蓋を恭しく開いた。
途端に、食欲を刺激する複雑な香りが辺りを支配する。ただ乗せられていただけの蓋でも香りは抑え込まれていたようだった。
「お待たせいたしました。こちら──ソースカツ丼でございます」
ふわりと湯気が舞い、ベルの鼻先をくすぐった。
「ん〜〜、いい匂い! 香ばしいような、甘いような、酸っぱいような、複雑で……なんて言ったらいいのかしら……? とにかくお腹が空く匂いね!」
目を輝かせたベルが隣のテオを見ると、そちらでも同じような目をした相棒が居た。
「わぅ!」
封を解かれた器の中では、茶色い衣に包まれた肉がドンと存在感を主張しており、たっぷりと掛けられた黒っぽいソースがアクセントになっていた。
「ソースかつどん? って言ったっけ? 入口のとこの見本とは、卵使ってない以外は大体一緒じゃ無いの?」
ベルが思いついたままの感想をぽろっと漏らすと、ロイの体がピクッと反応を示した。
「なるほど。ベル様──僭越ながら解説させて頂きます」
ベルにはロイの大きく無機質な瞳が光ったように見えた。しまったと思うも時既に遅く、いつもの解説の時間が幕を開けた。
「ソースカツ丼はおよそ百年前ほど前からある料理と言われており、何と言ってもその特徴はたっぷりかかったウスターソースにあります。発祥の地は福井、福島、群馬、長野と諸説ありますが、今では全国様々な地で名物料理となっております。ご飯の上にトンカツを乗せると言う、いたってシンプルな料理ながら、カツの大きさや、下にキャベツを敷くかどうかなど、それぞれに特徴が出ております。特にソースはバリエーションに富んでおりまして、名古屋の八丁味噌を使った物、岡山のデミグラスソースを使った物、新潟では醤油ベースのソースなど、一般的なソースカツ丼から大きく変化を遂げた物も──」
長々と続くロイの解説を、ベルとテオはもはや慣れた様子で聞き流している。
「ほい、ほいっと。これはスープで、こっちはコルニッションかしら? 色が赤いけど……ま、いいや──はい、テオのぶん」
「わふ」
ベルはその間に、ロイの持つお盆から残りの器を取り上げては目の前に並べて行く。勿論、テオの分も綺麗に並べてあげた。
「ハッ──失礼いたしました。お手を煩わせてしまい申し訳ございません……ですが、結果的にテオ殿用に味の調整がしやすくなりました。子犬のテオ殿には、揚げ物の衣があまり良く無いかと思いましたので、半分ほど剥がしてあります。安心してお召し上がり下さい」
「やったねテオ、それじゃ食べよっか!」
「わぅ!」
ベルは略式の祈りを捧げると、いそいそとフォークを手に取る。そしてすぐさま、器のてっぺんで特大の存在感を放つ物体にその先を伸ばした。
「まずは……この大きいお肉よね……っ!」
ベルの宣言と共に、自身の指を二本重ねた程の厚みはあろうかという肉へ、フォークがぶすりと突き刺さる。
「わ、柔らか──」
その意外な程の柔らかな感触に息が漏れた。そして、一口に収めるのが無謀に思えるほどの肉の塊を、ゆっくりと口元へ運ぶ。
近付くにつれてソースだけではなく、肉や茶色い衣のクセのない新鮮な油の香りが、渾然一体となって鼻腔を襲う。
これに堪らず、ベルは肉へとかぶり付いていた。
「ぁんむっ」
サクリとした衣の歯当たりとは対照的なむちむちとした肉の食感と共に、ソースの複雑な味と香りがベルの脳天を駆け抜けた。
目を見開いたベルは、隣で同じ体験をしているであろうテオを見やる。
「──!」
そこには主人と同じように目を輝かせた小さな相棒が居た。
視線を交わし、無言で感動を共有した二人は、より味わおうと静かに目を閉じる。
犬であるテオは兎も角、女性のたおやかな口には不釣り合いな大きさの肉塊も、一口でその半分ほどが、乙女にあるまじきベルの大口の中へと消えている。彼女はもぐもぐと口を動かしながらも、しっとりと閉じられた目の端に薄っすらと涙の粒を光らせていた。
「塊のお肉でしか味わえない満足感ってあるわよね……」
「わぅ……」
ベルは残りのお肉を口に押し込み堪能した後、名残惜しそうに飲み込むと、頬に手を当てうっとりとした表情を浮かべた。
「さてさて、お肉の下は〜?」
お肉が一切れベルのお腹へと消えた事で出来た隙間からは、細切れの薄緑色の野菜と白い粒状の物が覗いていた。ソースが染み込んだそれらをフォークでひと掬いし、ベルは興味深げに目の前で観察を始める。
「細切りのキャベツと白い粒……これはオムライスってやつの中に入ってたやつね。見本でも一緒に並んでる料理が多かったから、この国では主食だったのかしら」
「はい。この国の方々は、ご飯──お米を炊いた物が毎日食卓へと並び、様々な料理と一緒に食されておりました」
「なるほどねぇ……あむ……うん元の味が淡白な感じみたいだけど、その分何にでも合う感じなのね」
「お気に召していただけたようで、何よりでございます」
「えぇ、もう大満足よ……ところで、この黒いソースだけど、昨日のハンバーグ? とは違うのね? 色が似てるからてっきり同じような感じの味かと思ってたわ。こっちのが酸味があって、それに少し果物の感じとかもあるような……どっちも凄い複雑な味わいなのは一緒なんだけど」
「はい、ソースにも様々な種類がございます。特にカツ丼に使われる物は野菜や果物を煮詰めたものが多く、酸味や甘みが調和するよう設計されております」
「なるほどねぇ……」
フォークで最後のひとかけらを掬い、ベルはこれまた名残惜しそうに口へ運ぶ。噛み締めるたびにソースの風味と肉の旨みが広がって、自然と目を細めた。
その隣では、すっかり綺麗になった器の前で、テオが満足げにお腹を見せて寝転がっている。ほんの少しだけソースのついた鼻先をペロッと舐めながら、小さく鳴いた。
「テオも、綺麗に食べたわねぇ。……ふふ、こんな素敵な部屋で食事なんてちょっとした晩餐会みたい……まぁ、晩餐会なんて出たことないけど」
「お気に召していただけたようで、何よりでございます」
ロイが一礼すると、タイミングを見計らったようにテーブルに小さなトレイを置いた。そこには湯気の立つ茶器が並べられている。
「食後のお茶をどうぞ」
「美味しいご飯の後に、お茶まで頂いちゃって良いのかしら……」
「食後によく飲まれている物ですので、さして高級な物ではありませんよ?」
「はー、流石ねぇ……」
ベルにとってお茶は高級品であり、母が秘蔵している物の相伴に預かって飲んだ事がある程度だった。
「ふぁ……」
息で冷ます事も無く口へと運んだお茶は適温に調整されており、一口含んだ途端、ベルから思わず吐息が漏れる。
「味が分かる程飲んだ事あるわけじゃないから、よく分かんないけど……落ち着く味ってやつねぇ……」
以前飲んだ時は浮気騒動の時だったとは言わないベルだった。
「ところで」
「はい、何かございましたか?」
「このコップとか器って、かなり良い物なんじゃない? こんな綺麗な模様の器、見た事ないわ」
ベルは器を目の前に掲げて眺める。洗った後のように米粒一つ残っていなかった。テオの一回り小さな器も、隅々まで舐めまわされピカピカになっている。お茶の入ったコップにも、派手では無いものの模様が描かれており、歪みのない円筒形をしていた。
「スベスベで手触りも良いし、歪みなんて全くと言って良いほど無いわ。焼き物よね、これ? 持って帰れるなら持って帰りたいレベルだわ……父さんが大喜びしそう」
「そちらの丼も湯呑みも、工場で作られた大量生産品ですので、金銭的価値は無いに等しいですよ?」
「嘘っ」
「気に入られたのでしたら、布巾などで包んで持って行かれますか? この様子なら、咎める方もいらっしゃらないと思いますし」
「そうね……」
二人してがらんとした広い食堂を見渡す、吊るされた豪華なシャンデリアがいっそ寂しげに見えた。ベルは目の前に掲げていた器をそっと下ろす。
「いや、やっぱりいいわ」
誰も居なくなってしまったと考えると、ここはただの寂しい場所となるが、どの様な人たちがここに来て、こんな美味しい物を食べてながらどんな会話をしていたのだろう、そんな事を考えると少し楽しくなるベルだった。
「割っちゃいそうだし」
器から手を離すと、ベルは肩をすくめておどけて見せた。
「左様で御座いますか?」
「えぇ。あ、お茶まだあったら貰えるかしら。これ、気に入ったわ」
「はい、どうぞ」
ロイは手に持った小さいポットから、お茶の残りを注いでいく。
「お茶葉も沢山残っておりましたが──」
「──それは、頂いて行きましょう。腐っちゃったら勿体無いわ」
「かしこまりました」
食い気味のベルの返答に優雅に一礼して答えるロイだった。




