1話 政略結婚と恋愛結婚
王子様と平民の娘の運命の恋。
裕福な公爵家の長男と貧乏な男爵家の養女との間に芽生えた真実の愛。
政略結婚を強いられた大商会の跡取りとその幼馴染の女の子の愛の逃避行。
物語のヒロインは、誰もが皆夢のような恋愛をしている。
◆◆◆
「ああ、私だっていつか……」
「まったくモニカったら、まだそんな夢見てるの?」
「あ、ちょっと!」
没頭していた世界をヒョイと取り上げられ、モニカは目の前で本を振る友人を睨んだ。
「結婚なんて妥協と打算の産物よ。夢を夢として楽しむならいいけど、あなたはそろそろ現実を見なさい」
「夢じゃないもん!いつか現実にするんだから!いつか私の王子様が『君以外に何もいらない』って言ってくれて」
「はー、まったく。とっくに結婚の決まってる女の言う台詞じゃないわね。そんなこと言い続けてもう何年目よ?」
「……5年目です……」
こんなやり取りをもう何度もしている。最後の年数が定期的に更新される程度の殆ど同じやり取り。
「卒業したらすぐ結婚するんでしょう?もうあと2年もないじゃない」
「まだ1年と9ヶ月もあるわよ!今からでも遅くないわ!ううん、1年もあればいくらでも」
「そう言い続けて」
「5年だけど……」
友人の言うことは尤もだ。無邪気に夢を見られる時期はとっくに過ぎた。
モニカには婚約者がいる。悪い虫がつかないようにと言う父の一言により学園入学直前に婚約し、五年目となる今も揺らぐことのない婚約者が。
「うう、お父さんはああ言ったけど、男女共学のこの学園に入学しちゃえばこっちのものだと思ったのに」
「甘いわね。そんなの物語の中だけよ」
モニカのお気に入りの恋愛小説の中には学園を舞台にしたものが多くある。若い男女が愛を育む場としてこれ以上に適した場所はないだろう。特にこの国では『若いうちからきちんと上下関係を学ぶため』として、平民も貴族も王族も同じ学舎に入ることになっており、日々多種多様な恋愛模様が繰り広げられているのだから。
「フローラだって同じ女ならわかるでしょ?恋愛結婚に憧れるこの気持ちを」
君のためなら身分だって捨てると、何も持たない平民の女の前に膝をつく白馬の王子様。
物語のヒロイン達はこんなにも素敵な恋愛をしているというのに、どうして自分はこんな。
「わからないわ。モニカのところだって大事な家業があるでしょう?上級冒険者御用達のフレイマ魔剣工房。小さいながらも技術はピカイチ」
「もう!家のために結婚するわけじゃないのに〜!」
入学式で隣の席だった縁で仲良くなったフローラはとてもクールである。結婚とは家のためにするもの、愛や恋など二の次と割り切っており、恋愛結婚を夢見るモニカとは全く考えが合わない。
「ほら、もうすぐ『愛しの彼』が迎えに来る時間でしょう?帰る準備しなさい」
「うん……」
とはいえ友情は大事にしてくれるようであり、授業の終わった放課後のこの毎日の待ち時間に、毎度呆れながらも話し相手になってくれている。
「フローラ、そんな酷いこと言わなくてもいいじゃない」
「そうそう。婚約者がアレじゃねぇ、私だって同情するわ」
そんな容赦ないフローラの言い方に他に残っていたクラスメイトがフォローを入れるのがいつもの流れである。
「暗くて不気味でいつも不機嫌そうで。どう考えても不幸な結婚生活しか見えないし」
「せっかくモニカは可愛いんだし、政略結婚って言ったってもうちょっとあるわよねぇ」
そしてだいたいこのあたりで。
「モニカ、迎えに来た」
「……クルス……」
授業が長引きがちの特進クラスに所属するモニカの婚約者がやってきて、普通クラスであるモニカの教室のドアを開けるのだ。
「……ありがとう、毎日毎日面倒じゃない?」
クルス・ランバート。モニカの実家、フレイマ工房で雇っている職人の息子であり、モニカの父の大のお気に入り。
「義務だからな。婚約者として」
モニカ達の会話が聞こえてないことはないだろうに、クルスはいつも眉一つ動かさずそんなことを言う。
「ほら、カバン貸せ」
「いいって!自分で持てるから!」
「そういうわけにはいかない。婚約者の荷物を持つのは男の義務だろう」
「だから、そんな義務嬉しくないって言ってるじゃない!」
モニカには婚約者がいる。
家のために結婚するだけの、この打算しかない婚約者が。
◆◆◆
「ねぇ、クルス」
「なんだ」
学園から家までの帰り道をしばらく黙って歩き、沈黙に耐えかねたモニカが口を開いた。
クルスはあまり自分から喋らない。教科書通りの“婚約者としての義務”を果たすためか、たまにモニカが話しかけた時に答えを返す時くらいである。
「本当に面倒じゃない?」
「面倒じゃない。義務だ」
この通りだ。婚約を結ぶ時に取り決めた婚約者としての義務を、クルスはとても忠実に果たす。二言目には義務三言目には義務。義務さえ果たせば文句はないだろうと言わんばかりに。
「……婚約者なら、義務より気持ちの方が大事だと思うけど」
「感情まではどうしようもできない。どうにかしようとも思わないから我慢してくれ」
こんな虚しい関係でもクルスはモニカと結婚することになる。モニカの家がこの国でそれなりに有名な魔剣工房で、クルスが将来有望な魔剣職人である限り。
「そんなにうちの工房って良いものなのかしら」
「……」
恋愛小説を読んでいる時は溢れていた希望も、現実がこうも悲惨ではあっという間に萎んでしまう。
「愛のない結婚をしてまで継ぎたいくらい良いもの?」
「……」
答えはない。いつものことだ。普通の男なら心がなくとも『そんなことない君を愛してる』くらいの世辞は言えるだろうに、クルスはそういう嘘はつけない。根が正直すぎるのだ。そこがいいところでもあるのだが、結婚となったら話は別。
「クルスと同じクラスのマデリーン様やグレース様はいいなあ。お家のための結婚でも幼馴染で好き同士なんだろうし」
モニカだって家業が大事じゃないわけではない。むしろ今でも三日に一度は工房を覗いてその魔剣を打つ作業を眺めてしまうくらいには好きである。
……ただ、この家に産まれなければ、彼と結婚することもなかっただろうにと、一日に三度は思ってしまうだけで。
「今日はウチ寄ってくの?」
「ああ」
黙っていたクルスがようやく返事をした。やっぱり嘘にならないことしか言えない。
「……私の部屋には来たりしない?」
「行かない」
「そう」
クルスは三日に一度はモニカの家に寄る。いや、家というか家に隣接しているフレイマ工房に。そこで他の職人と一緒に剣を打って、皆が帰った後の一番最後に帰っていくのだ。
もし彼がその前か後にモニカ達の生活スペースにも顔を出すことがあればモニカとて応対する準備はできているのだが、まあこの五年そういったことは一度もなかった。
「本当に来ない?」
「行かない」
わかっている。クルスは魔剣を打つことにしか興味がない。それでも仮にも婚約者が家に寄るのだから一応は確認するべきだと思い、この決まりきった問答をもう何度も繰り返している。
「打ってそのまま帰る」
「わかったわ」
それっきり会話はなかった。
こちらを一瞥もせず、きっかり半歩前を歩く婚約者の顔をモニカが斜め下から見上げる。
長髪は邪魔になるが縛れるくらいにはあった方がいいからと、肩につかない程度に無造作に伸びた濃紺の髪。髪と同じ色の目はどんよりと陰り、今はまるで生気がない。前髪で隠した額から左目の周辺と、きっちり着込んだ制服の下にはいくつもの消えない火傷の跡がある。
どれもこれも全部魔剣のためで、魔剣のせいだ。
本当に、恋愛小説の憧れの王子様とはまるで違う。
◆◆◆
「浮かない顔だね、モニカ嬢」
「ジャスティン殿下!」
学園の中庭のベンチにてうたた寝をしていたモニカは、不意に降りてきたこの国の次期最高権力者の声に慌てて飛び起きた。
「あいったぁ!うわぁ!もももも申し訳ございません!」
「はは、構わないよ。いきなり声をかけた私が悪い」
慌てて飛び起きた、のが悪かった。少し考えればその声がした距離と方向から、ジャスティン第一王子がモニカの顔を覗き込む程の至近距離にいることはわかったのに。
思わず覗き込んでしまうくらい酷い顔で魘されていたのだろうか。無駄な心配をさせてしまった。
「いいえ、私の不注意で……っ」
何も考えずに飛び起きたせいで、思いきりジャスティンの額に頭をぶつけてしまったのだ。これで傷でも残ろうものなら大問題である。
「気にしなくていいよ。私と君の仲じゃないか」
「か、寛大なお言葉、感謝致します……!」
実家がそれなりに名のある工房ではあるが、モニカは平民。社交辞令とはいえ、本来なら一国の王子にこのような言葉をかけられるなどあり得ないはずだった。
「ところで、あの新鉱物クリアライトでの魔剣製作作業は順調かな?」
「は、はい!フレイマ工房職人全員、全身全霊をかけて取り組んでおります!」
しかし、ジャスティンは幼い頃から魔剣に強く憧れており、上級冒険者御用達と呼ばれるフレイマ工房に前から興味を持っていたらしく。
そのため学園入学以来、ジャスティンは度々モニカを通して、フレイマ工房の打ち出す魔剣に関する最新情報を聞きに来るのだ。
「ふふ、クリアライト鉱が日の目を見るのも近そうだ。期待しているよ」
「はい!ありがとうございます!」
一国の王子が、魔剣の素材について新しい動きがあるたびにモニカに工房の様子を尋ねに会いに来てくれる。これで自惚れるなと言う方が無理というもの。
「あの、わ、私の婚約者のクルス・ランバートも、昨日も遅くまでその作業を……もしかしたら殿下の成人式までには完成するかもしれなくて」
「……そうか」
最初は遠慮していたモニカも、段々とアピールをするようになった。だってこの人を逃せばこんなチャンスは二度とない。
「では私はもう行くとしよう。君は気にせず休んでいてくれたまえ」
「えっ、あっ」
しかしさすがに今のは露骨過ぎたようだ。先程まで穏やかに笑みを浮かべていたジャスティンがあからさまに眉を顰めた。
「し、失礼致しました……」
頭を下げるモニカの前で、ジャスティンがさっと踵を返す。
チラリと見上げたその腰に提げられた鞘には、豪奢な宝石に彩られた魔剣が優雅に収まっていた。
◆◆◆
カーン、カーン、カーンと規則正しい音が響く。
一人の男が灼熱の高炉から取り出した赤い塊を槌で叩きつけ、均等に薄く伸ばしていく。
弾けた火花がその腕に、その顔に降りかかろうと気にも留めない。
煌々と輝く刃に照らされて、夜空のように深い藍色の瞳に星が灯る。
「はぁ……」
工房の窓の外からその中を眺め、モニカがため息を吐いた。
失敗した。本当に馬鹿なことをしてしまった。いくらジャスティンの興味を惹くためとはいえ、あんなにあからさまに婚約者のことを引き合いに出しては浅はかだと呆れられても仕方ない。
「あーあ、絶好のチャンスだったのに……」
再来月、ジャスティン第一王子の成人式がある。かつて女神から与えられた一振りの剣で魔王を倒し、この地を切り拓いた初代国王にあやかって、成人した王子が剣を掲げながらパレードをするという伝統の行事。
この時王子が掲げる剣を打てることはこの国の鍛治職人にとって最大の名誉であり、その職人を有する工房には、王家御用達であることを示す女神の刻印を看板に刻むことが許される。
時期が迫っていたこととまたとないアピールチャンスに冷静さを失ってしまったが、かえって悪印象になっては元も子もない。
——カーン、カーン、カーン。
と、モニカがこんなにも悩んでいても、金槌の音は少しの乱れもなく響く。そろそろ彼が顔を上げるタイミングなので一旦窓から退いて壁に身を隠した後も、その音は滞りなく……。
「あれ?」
「見たいなら入ったらどうだ」
「ひゃあっ!」
不意に音が止まり、おかしいと思って中を覗こうとした途端、同じく中から窓に手をかけていたクルスと目が合った。
「えっ、え!?気づいてたの!?」
「……さっきから誰かいるような気配がしたんだ。おかげで気が散って仕方がない」
珍しい。一度作業に没頭すれば、いつものクルスなら周りのことなど全然気にしないのに。
「は、入っていいなら、入るけど」
「君の家の工房だ。俺の許可なんていらないだろ」
なんだか声もいつもより不機嫌な気がする。でも招き入れてはくれるらしく、それからすぐに窓の近くのドアが開いた。
「入るのか?入らないのか?」
髪を縛って、黒い布で前髪も全部上げ、普段は隠している左目の火傷跡も露わにしたクルスがドアを開けて待っている。
「は、入る!」
これも義務感からなのだろうか。本当は邪魔されたくないけど、婚約者が来たと知った以上無視するわけにはいかないみたいな。
「……今日、ジャスティン殿下と中庭で話したんだってな」
「え?あ、うん」
もしかしたら内心では迷惑に思ってるかもしれない。そう思ってもこんな魅力的な誘いを断れるわけがなかった。思わず足取りも軽くなってしまう。
「モニカがいまだにお伽話みたいな恋愛結婚に憧れてるのは知ってる」
「い、いまだにって何よ!」
しかしそんなふわふわした気持ちも、次の瞬間にはひしゃげてしまった。
「君と殿下の仲がどれだけ良くたって、あの方にはもうマデリーン様がいるんだ。馬鹿なことはするなよ」
なんのことはない。モニカの失敗を知って注意をしようとしただけである。この真面目一徹魔剣一筋の婚約者は。
「ご……ごめんなさい……」
そうだ。この国の伝統になぞらえ、恋人に剣を贈る女性は珍しくない。あの時ジャスティンが腰に提げていた剣は、婚約者筆頭候補であるマデリーンから贈られたものだったのだ。
だとしたら自分はなんて無神経だったのだろう。
「モニカも家業が大事なら、もういい加減諦めてくれ。どう逆立ちしたって俺は王子になんかなれないし、政略結婚が悪いわけじゃないだろ」
「……っ」
突き放すようなクルスの言葉にモニカが俯く。
見透かされていた。ジャスティンが成人式にクルスの打った剣を使ってくれれば、それがモニカの手柄だとなれば、クルスも喜んでくれるのではないかと思った。あわよくば好きになってくれるのではないかと思った。そんな下心でジャスティンにクルスの魔剣をアピールしたことを。
「……クルスは、愛のない結婚でもいいの?」
「俺は最初からそれでいいって言ってる」
言うだけ言ってクルスは作業に戻った。昼間の騒がしさが嘘のように静まり返った工房で、再び金槌の音が響く。
「私は良くないもん……」
一度集中すればちょっとやそっとじゃ振り返らない背中が好きだ。魔剣を見る時の目の、その藍色の中に散る星が好きだ。普段は隠す火傷の跡を、ここでだけは気にせず晒しているのも好きだ。
諦めろと言うならそんなに格好良くしないでほしい。家目当て、家のための政略結婚なのはモニカとて最初からわかっている。それでもそこから生まれる愛だってあるだろうと頑張ってきた。
モニカはずっと、クルスと恋愛結婚がしたかった。