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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

嫌われ姫と地獄を望む竜

作者: 8D

 元気が無くて、一度しか見直しができませんでした。

 いろいろと雑かもしれません。


 誤字を修正致しました。

 ご指摘、ありがとうございます。

 洞穴の最奥は、静寂に満ちていた。

 ただ聞こえるのは、そこに住む主人あるじの寝息だけ。

 その音も響く事はなく、ただ静寂の中へ消え去るのみだった。


 それと同じ時間が、この空間には永い間流れ続けてきた。

 そしてその日、珍しく静寂は破られる事となる。


 洞穴の主人は、自分が出すものとは違う音に気付いて瞳をうっすらと開いた。


 誰かが、洞穴内を走っている。

 一人じゃなくて、二人。


 音は少しずつ大きさを増し、洞穴の主人へと近づいているようだった。

 音の主が、洞穴の最奥へと辿り着く。


 一人は、十を少し過ぎた程度の少女だった。

 飾るのは銀糸の髪と青い目。

 特に目は、宝石のように鮮やかな色合いである。


 しかしその美しさを曇らせるように、表情は疲労の色にくすんでいる。


 少女は洞穴の最奥に入り込み、洞穴の主人の足元まで駆け寄ると足を留めた。

 その表情は絶望に染まる。

 洞穴の主人に気付いたわけではなく、そこより先に道がなかったからだ。

 少女は洞穴の主人に背を向け、来た道へ目をやった。


 目をやった道から、もう一人が姿を現す。

 それは黒装束の男だった。

 手には短剣を持ち、その視線を少女へやった。


 少女は洞穴の主人を背に、その場で座り込んだ。


 男は、少女を狙う暗殺者だった。

 少女は彼から逃げるようにして洞穴の最奥へと追い詰められたのである。

 逃げ場が無い事に気付き、腰を抜かしてしまったのだ。


 その様子を見て、男は走り寄るのをやめた。

 少女の怯えを玩ぶように、緩やかな歩調で距離を詰めてきた。


 わずかばかりの猶予を与えられた少女であるが、しかしその猶予は少女の恐怖心を長引かせるだけの残酷な仕打ちである。


 その時であった。


「客が来るのは久しぶりだ。歓迎してやるよ」


 どこからか二人とは別の声が響く。

 それは洞穴の主人が発した物である。


 正体のわからぬ声に、二人は驚きを見せた。


 洞穴の主人が首をもたげると、ようやく二人はその声の主に気付いた。

 洞穴の主人は、巨大な竜だった。

 全身を岩肌と同じ色の鱗で覆われた巨大な竜である。


「竜だと!? 馬鹿な、伝承が本当だったとでも……」


 暗殺者の男は思わぬ事に短剣を構え、竜を警戒した。

 そんな男の様子に構わず、竜は語りかける。


「昔は俺を殺しに、多くの人間が来たものだが……。ここ最近はまったく来なくて退屈でなぁ」


 じりじりと後退する暗殺者は、入り口まで近づくと背を向ける。

 逃げようと走り出すが、その行く手に竜の尾が叩き落された。


 巨大な尾は入り口を完全に塞いだ。


「少し遊んでいけよ」


 竜は男へ語りかけながら、そのあぎとを近づける。


「うあああっ!」


 暗殺者は逃げられぬ事を悟り、竜を短剣で斬りつける。

 勝てるとは思えなかった。

 しかしわずかなものでも活路を見出さんと、竜に挑んだ。


 竜はその斬撃を避け、当たったとしても火花が散るだけで傷つける事は出来ず、最終的に短剣は腕ごと噛み千切られる事となった。


「ぎゃああああっ!」


 腕を食われ、悲鳴を上げる暗殺者。


「こんなもんだろうとは思ったが。まぁまぁ楽しかったぜ」


 竜は独り言のように告げると、悲鳴を上げ続ける暗殺者へ炎の息を吹きかけた。

 炎の上げる轟音に悲鳴は一瞬にしてかき消され、暗殺者の体は灰へと変わった。


「さて、こっちはどうするかなぁ」


 首を巡らせ、少女の眼前へと竜は顔を向けた。

 少女はすでに腰が抜けていて、竜の足元でずっと動けなくなっていた。

 表情は怯えに凝り固まり、息は短く浅かった。


「俺は腹なぞ減らんがな。味のある物を口にするのも、少しは退屈を紛らわせられるかもしれない」


 竜の体は蛇がとぐろを巻くように螺旋を描き、少女はその中心へ閉じ込められるように囲われた。

 少女の体がすっぽりと入りそうな竜の口。

 それが開かれ、少女へとゆっくり迫り来る。


 少女は恐怖に耐えられず、瞳を強く閉じた。


 このような事で人生を終えるなど、少女は予想もしていなかった。

 今までの人生からは考えられない事だ。


 かつての幸せを奪われ、虐げられ、それでも彼女は生きてきた。

 その末がこのような結末であるなど、なんとむごい事だろう。


「何故私の人生は、このような地獄と変じてしまったのでしょう」


 そう、少女は嘆く。


「地獄だと?」


 少女の言葉を聞きつけて、竜は訊ね返す。


「お前は地獄の中にいるのか?」

「……私にとって、私の人生は地獄です」


 問われた事に戸惑いつつも、少女は答える。


「そいつは、楽しそうだな」


 少女に竜の表情は読めないが、それでもこの恐ろしい竜が明らかに笑みを浮かべた事はわかった。


 次の瞬間、竜の体が光へと変じた。

 光は一点に集まり、人間の形となっていく。


 光が晴れると、そこには一人の少年が立っていた。

 赤銅の髪色。

 裸の体はほっそりとしているが、筋肉質で引き締まっていた。


 それは竜が人へと変化した姿だった。


 竜は少女へと人懐っこい笑みを向ける。

 竜としての名残か、笑うとその口に鋭い牙が覗いており、作られたその笑みからは隠し切れない獰猛さが見て取れた。


「お前を生かしてやる。だがその代わり、お前の全てを俺に捧げろ。お前の身命、そしてお前の抱える地獄も全て俺の物だ」


 竜はそう、少女に要求した。

 少女がその要求に抗う事はできなかった。




 洞穴の最奥には多くの武具が転がっていた。

 それらの一つ一つは、竜を討たんと戦いを挑んだ者達の物である。

 殆どが朽ちかけていたそれらからまだ使えそうな物を選ぶと、竜はそれを着た。


 錆びた胸当てと脚甲を着込むと、鎖帷子を腰ミノのように巻いた。

 さながら蛮族のような装いで、竜は少女と共に洞穴を出た。


 少女の手を引き、暗く入り組んだ洞穴を迷い無く竜は歩いた。


「お前は何でこんな所に来たんだ?」


 道中、竜は少女に訊ねる。


「竜を鎮めるための生贄として、送り出されたのです」

「竜を鎮めるだぁ?」


 懐疑を含んだ声色で竜は言う。


「俺の他に竜がいるのか?」

「あなた以外にはいないと思いますよ。本当にいるとは思っていなかったでしょうが。ただ、私を殺したかったのだと思います」


 実際は暗殺者に殺させ、竜の生贄になった事にしようとしたのだろう。


「ふぅん……」

「何故、あなたは地獄を望むのですか?」


 逆に、少女は竜へ訊ねた。


「俺がこの場所に閉じこもっていたのは、外も中も退屈だったからだ。最初はがむしゃらに面白そうな事を探していたが、退屈が紛れる事はなかった。飽き飽きしていたんだな。なら逆に退屈の中にいれば、少しの出来事でも面白く思える。だから、ずっと閉じこもっていた」


 彼女の問いに、竜は答える。


「だが、お前の周囲は刺激に満ちているようだ。俺をそこへ案内しろ。お前の地獄に。そこなら、俺も退屈を忘れられるかもしれない」


 少女にとってそれは奇妙な理屈に思えたが、定命ならざる者からすれば果てない時間の中で人に到達し得ない思考へ至る事があるのかもしれない。


 まして、あえて地獄へと身を置きたいという気持ちがわからなった。

 そこはただ苦しいだけで、何の楽しさもないというのに。


 それでもこの奇特さが自分の命を助けた事は事実である。

 それは確かな事だった。


「まぁ、ただそれだけというわけでもないがな」


 竜は言うと、やや乱暴に少女の顎を掴む。

 強く掴まれた痛みで、少女の顔は歪む。


「笑え」


 しかし、竜はそう命じた。

 少女は怯えつつ、笑みを作った。

 それを見て、竜も笑う。


「その方が似合う。お前の顔はまぁまぁ好みだ。見ているだけでも、多少は楽しい」


 答え、竜は少女の顎から手を放した。

 背を向けて、洞穴の出口へと歩き出す。


「……そうですか」


 少女はその背中に、届くか届かないかの小さな声で呟いた。




 少女は、王城へ帰り着くや否や玉座の間へと迎え入れられた。

 そこには多くの家臣と王の姿があった。

 王は玉座にて、跪く少女を睥睨する。


 竜は入り口付近の壁に、腕を組んだままよりかかってその様子を眺めていた。

 王を始めとした多くの視線がそれを咎めていたが、竜はそ知らぬ顔で欠伸までしてみせた。


 王はそれを一瞥してから、少女へ向き直る。

 鷹揚に口を開く。


「近隣に被害をもたらしていた邪竜が倒されたそうだな」

「ははっ」


 小さな笑いが竜の口から漏れるが、王は続ける。


「はい。それは確認いたしました。私が贄となりかけた所、その方が助けてくださいました」

「それを証明する事は?」

「竜はその命を失うと、その体は光へと変じ消えました」


 王の問いに、少女は淀みなく答えた。

 それは無論、嘘である。


 当の竜は、今もこのやりとりを欠伸混じりに眺めているのだから。


 この報告は、洞穴の中で前もって打ち合わせしていたものである。


「疑うなら、洞穴の奥を探せばいい。どこにも竜などいないのだから」


 不遜な態度で竜が王へ言う。

 王は不快そうに眉根を寄せたが、無視して口を開く。


「……よかろう。そなたがそう言うのなら、信じよう。そなたは、親愛なる先王の忘れ形見だ。尊重しよう。たとえ、国を裏切るような卑怯者の兄だったとしても」


 そう告げる王の笑みには、愉悦の色がある。

 小動物をいたぶる猫のような嗜虐的な色があった。


 その言葉を受けた少女は、悔しげに歯噛みし、拳を握り締めた。


「光栄の……極みです……」


 重い口を開いて礼を述べる。


「下がってよい。それより、そこの男」


 王は竜へと声をかける。


「竜を倒したその手腕、たいしたものだ。たとえ、尊大な無礼者であったとしても、召抱える価値がある。私の配下となるがよい」

「いや、遠慮しておく。俺はもう、姫さんに雇われてるんでね」


 そう答えると、竜は玉座の間を出て行く少女の後を追った。


 その後姿を眺め、王は不愉快そうに目を細めた。


「お前、この国の姫だったんだな。にしては……」


 竜は周囲へと視線を巡らせる。

 メイドの一人に目が合うと、ニヤリと笑いかけた。

 メイドは顔を伏せて歩き去っていく。


「えらく嫌われてるじゃないか」


 姫はここへ帰り着くまでに、多くの敵意に満ちた視線を受けてきた。

 短時間の事でも、共にいる竜が悟るには十分なほど。


 洞穴を出た時もそうだ。

 外にあった馬車にはメイドと御者がいたが、姫の無事に安堵する様子はなかった。

 むしろ、言葉にこそしないが姫が生きて帰った事を咎めるような表情だった。


わたくしは、この国を隣国へ売り渡そうとした先王の娘という事になっておりますから……」

「あのおっさんもそんな事を言っていたな」


 そう、裏切り者であるのだ。

 彼女の父親は……。

 そういう事になっている。


「……でも違う。そうではない……」

「じゃあ、それは嘘だっていうのか?」

「本当に売り渡そうとしていたのは、今の王……。しかしあの男は父を殺し、その事実を全てかぶせてしまいました」


 姫は悔しげに、そして悲しげに顔を歪めた。


「だったら、違うと言えばいいじゃねぇか」

「それは無駄な事。今は皆が現王の偽りを信じている……。私へ親愛を向けてくれた民達の目も変わってしまいました」


 今の自分は、裏切り者の娘としか映らない。

 恨みの視線は数多受けようと、信頼など一つとして望めなかった。


 何よりも……。


「生き残っているのは私だけ……。父と母、そして兄弟達が一番幼い私だけは、と縋るように嘆願して私を生かしてくれた。そして父は、私に願いを託した」


 この国と民を守って欲しい。

 そう、父は願いを姫へ託したのだ。


 父が遺した最後の願い。

 姫はそれを守るためにも、耐え続ける事を選んだ。

 憎い仇の庇護にありながらも、その状況に甘んじている。


 甘んじるにも理由はある。

 したくとも何もできやしないという現実的な理由である。


 家族の名誉を回復したくとも、現王へ報いを受けさせたくとも、幼い彼女にはそれをするすべがない。

 いや、彼女でなかったとしても、それは同じ事だろう。

 誰であっても容易にできる事ではなかった。


「姫様」


 声をかける人があった。

 姫と竜が振り返ると、そこには男がいた。

 男は鎧を纏い、腰には剣を佩いていた。

 明るい金髪を背に流した男性である。


 男性にしては顔立ちが美しく整い過ぎているが、男性特有の精悍さがバランスよく共存していた。


 金糸の刺繍で縁取られた白いマントは、騎士団長の証。

 彼はこの国の騎士団長だった。


 声の正体を知り、姫は安堵した。

 姫は彼と対する時だけ、緊張を解く事ができた。


 彼は先王の頃から国に仕えてくれていた者であり、今は騎士団長として現王に仕える人物だった。

 軍の長を務める者としていささか若いくらいであるが、それに見合うだけの実力は有していた。


「ご無事でよかった」


 言葉を告げて向けられる深緑の瞳には、彼女に対する慈しみが見て取れた。


 もはや誰からも向けられる事のなくなった親愛の情。

 だからこそ敏感に、彼女は彼が抱くその気持ちを感じ取る事ができた。


「お救いできなかった事、申し訳ありません」

「私が供物として洞穴へ送られた時……。あなたは、城にいなかった。知る事もできなかったでしょう」

「はい。力及ばず……」

「致し方のない事です。しかし、いよいよ私は邪魔者と思われているようです。得体の知れぬ男に殺されかけました」

「なんと……っ」


 騎士団長は怒りを露わにした。


 きっと、それを見越してこの機会に姫は洞穴へ送られたのだ。

 何かにつけて姫を守ろうとする騎士団長の邪魔が入らぬように。


 助命嘆願によって姫は生き残ったが、きっと現王はそれも邪魔になったのだろう。

 だから、殺そうとした。


「それをこの方に助けていただいたのです」


 姫は竜を示して言う。

 騎士団長は姫の後ろに立つ竜へ目を向けた。


「おお、そうでしたか。姫を助けていただき、ありがとうございます」


 騎士団長は言って頭を下げる。


「たいした事じゃねぇよ」

「左様でございますか。では、竜はやはりいなかった、と?」


 くだんの竜は所詮、古い伝承に記された存在である。

 それが近隣の村々を襲ったなどという話もない。

 現王はあくまでも姫を亡き者とするための手段として、その伝承を利用したのだろう。

 そこに思いがけない誤算があったようだが。


「いえ、厳密に言えば、竜はいました……」


 言いながら、姫は視線を竜に向ける。


「俺がぶち倒したんだよ。その後に姫さんとばったり出くわして、ついでに助けたのさ」


 竜はそう嘘を吐いた。

 この事は秘密にしておきたいのかもしれない。


 騎士団長と別れ、姫は竜を伴い部屋へ戻る。


 姫の部屋は、王城の南西に位置する塔の上だった。

 ここは元々、姫の部屋ではない。

 本来ならば、罪を犯した者を幽閉するための部屋だった。


 長い螺旋階段を登り、入った部屋は一国の王族が住まうにはあまりにも質素だった。


 部屋を与えられた時から掃除などはされておらず、汚れは拭われる事もなくそのまま放置され、床だけでなく家具の上にまで埃が積もっている。

 姫自身、それを自ら掃除する気力はなかった。

 あまりにも汚れているので、どこから手をつけていいのかわからないのもある。

 だが、それ以外にも理由はあった。


 室内には数人のメイド達が控えている。

 しかし、彼女らが本来の仕事をした事など一度としてなかった。


 代わりに向けられるのは視線。

 彼女達の視線が針のように姫を突き刺す。


 姫自身が部屋の掃除などしようとすれば、彼女達は姫を嘲笑う。

 何をしようにも落ちぶれた様子を楽しむようにクスクスと笑われれば、部屋の事を自分でしようとも思えなかった。

 話しかけても言葉は返ってこない。


 彼女達のする事と言えば、姫を見ている事と笑う事、そして部屋の物を勝手に持ち出す事。


 かつて、姫が持っていた品々のほとんど……。

 宝石や服……家族からの大事な贈り物も、全て彼女の手元に残っていない。

 わずかばかりの慈悲としてか、残されているのは今着ている服だけである。

 こればかりはせぬわけにはいかぬので、身を清める時に残り湯で自ら服を洗っていた。


 姫には、一人の時間を含めてあらゆるものを与えられていないのだ。


 残っているとすれば、騎士団長との関係だけだ。

 彼がいるからこそ、それが今を生きる支えとなっている。

 彼だけは自分の味方なのだ。

 同じく苦境を共にし、父の願いを共に叶える同志である。


 だから姫は、この辛い地獄のような日々にも耐えられた。


 メイド達の視線から逃れるように、姫はベランダへ出た。

 この場所には彼女達も来ない。


 ここは姫にとって、一人になれる唯一の場所だった。


 高い塔のベランダからは町が一望できる。

 きっと、ここ以上に眺めのいい場所はないだろう。

 だからと言って、姫がこの場所に憩いを抱く事は無い。


 遠く広がる民達の家。

 そこに住む人々の一人一人が、自分を恨んでいる。

 そう思うと、本来ならば美しい営みの灯りが作り出す夜景すら恐ろしい。


 この考えを抱いてしまう自分に気付いた時、いつも思うのだ。

 こんな場所からは逃げ出してしまいたい、と。

 しかしここから逃げる事はできない。


 だから続けてこう考える。

 ここから飛び降りれば、楽になれるのではないか、と。

 この高い塔から逃げ出す事は難しくとも、この世から逃げ出す事は簡単だ。


 そしてそれをメイド達も望んでいるのだ。

 姫が耐えられなくなり、身を投げ打つ事を期待している。


 死ねばよい。

 そう皆が思っている。

 彼女達だけでなく、この国の民達が自分の死を願っている。


 だから、メイド達はベランダに立ち入らない。

 知りえなければ、助ける必要もないのだ。


 しかし今日に限れば、姫は一人ではなかった。

 姫についてきた竜が、ベランダの手すりに身を預ける。


「これがお前の地獄か」


 竜は姫に声をかける。


「はい」

「もう少し派手なものを期待したんだがな。周り中が敵だらけで、いつも命を狙われてるとか。隙があれば剣が迫り、矢が飛び、炎が吹き上がる」


 それはそれで危険だが、そこまで直接的ではない。

 ただ、姫の地獄は竜の思い描く地獄とは質が違うというだけだ。


「周りが敵ばかりというのは確かですよ。敵意ばかりは常に向けられているのですから」

「敵意で相手を殺せるものか。こんなもんは無いのと同じだ。まぁ、弱っちいお前にとっては地獄かもしれねぇけどな」


 竜は楽しげに笑う。


「強いあなたにとってはそうでしょうね」


 姫は反論するでもなく答えた。


「でも、何の力もない私には恐ろしい事です」

「なら、俺が全部ぶち壊してやろうか?」

「え?」

「一度だけ、俺の力を特別に貸してやるよ。どう使いたいか、お前が選べ」


 この竜の力を自由に振るう事ができる?


「人だろうが、建物だろうが……。お前が壊したいと思うものは何だって全部壊してやる。お前の地獄は俺の物だ。壊すのも自由だろ」


 恐らく、それは虚勢でもなんでもないだろう。

 事実として、彼にはそれができるに違いない。


 一瞬、それはとても魅力的な提案に思えた。

 しかし、それはできない。


「……私は、国を守れと父に頼まれています。それを壊す事なんてできません」

「なるほど。お前が一番に壊したいと思うのは、この国なんだな」

「え?」


 姫は戸惑い、声を漏らす。


「……そんな事はありません。ただ、全部壊すとあなたが言うから」

「俺は何を壊せとは言っていないがな。それでも真っ先に国の事を口にするって事は、そういう事なんじゃないのか?」

「違います」

「そうかい」


 短く言うと、竜は姫へ背を向けた。


「まぁどっちでもいいさ。お前の地獄が俺にとってつまらないものでも、久しぶりの外は思ったより楽しい」

「はぁ……」

「お前と話すのも悪くない。俺とお前は価値観が大分違うようだ。それが新鮮だ。話し相手になるのは面白い」


 竜はベランダの手すりに軽々と飛び乗る。


「何を?」

「ちょっと町を見てくる」


 答えると、竜の体がぐらりと傾いた。

 そのまま、ベランダの外へ身を投げる。


 姫は小さく悲鳴をあげ、ベランダの手すりへ駆け寄る。

 下を見ると、何事もなかったように地面へ着地する竜の姿が見えた。


 竜にとってこの高さは、何の障害でもないのだろう。


 姫は室内の気配を感じ取る。

 こちらの様子を気にかけるメイド達の気配だ。


 姫の悲鳴を聞き取り、何事かと気にしているのだろう。

 それでもベランダへ出てくる事はないが。


 何もかもに注目され、そしてそれらは全て悪意を前提とした意図から行われている。

 息が詰まりそうだ。

 この部屋だけでなく、恐らくこの国のどこにも自分が安らげる場所はないだろう。


 姫は竜の言葉を思い出す。


 否定はした。

 しかし本当は思ってしまったのではないだろうか?

 この国を壊してほしい、と。


 自分を虐げるこの国なんて、なくなってしまえばいい。

 そんな自分勝手な願いをほんの少しでも抱いてはいなかっただろうか?


 許される事ではない。

 それは父の願いに反する事だ。


 今、姫の周囲には好意を向けられる人間が少ない。

 騎士団長と……そして恐らくあの竜だけだろう。


 国を壊してしまいたいなど、恐ろしい考えだ。

 こんな事を考えてしまうなんて……。


「お許しください……父上。もう二度と、このような事は考えません」


 そして、もっとも強い好意を向ける故人が姫の心を縛り付けていた。




 供物として洞穴へ赴いた日から、数日が経つ。


 何があるという事は無い。

 ただ、日々は過ぎていく。


 竜はどこを住処すみかにしているのかわからないが、毎日姫の前へ姿を現した。


 食事時には必ず現れ、町で売っていた屋台の料理やら、露天商から買った珍妙な品やらを持参して姫の部屋へ訪れる。


「よくわからん肉の串焼きを買ってきたぞ。食おうぜ」

「はぁ、ありがとうございます」


 昼食はすでに用意されており、今まさに姫はスープを飲もうとしていた。


「そっちより美味いぜ」


 そう言われると、素直にそちらを食べたくなる。


 何より、安心して食べられる。

 メイド達の用意する食事は、何が入っているかわからない。

 今までは毒こそ入っていなかったが、遺物が混入している事があった。

 本格的に暗殺されそうになった今となっては、食べる勇気もない。

 それを思えば、竜が町で買ってきた食べ物はその心配をせずに食べられる。


 竜はその事を気にかけてくれているのかもしれなかった。


「困ります。用意された料理が無駄になってしまいます」


 珍しく、メイドの一人がそう文句を言う。

 普段なら、こんな事があっても気にしなかったはずだ。


 そんなメイドに、竜は顔を向けた。

 笑みを作り、串焼きの入った袋をテーブルに置く。

 代わりに、姫の前へ置かれたスープ皿を手に取った。

 メイドへ近づいていく。


「じゃあ、お前にやるよ」

「そ、それは……姫様の料理で――」


 竜は何事かを言いかけたメイドの両頬を片手で掴み、その口へスープを流し込もうとする。

 スープがメイドの口へ入り込むが、メイドはスープを吐き出した。


 もしかしたら、本当に毒が入っていたのかもしれない。

 と姫はその様子を見て思う。


 竜が手を放すとその場に倒れ、咳き込む。

 そんなメイドを無視して、竜は姫へ向き直る。


 無様な姿だ。

 姫はその姿を見て、哀れだと思わなかったが、いい気味だとも思わなかった。

 それに何かを感じられるほど、姫の心に活力はなかった。


「料理は台無しだな」


 そう言って、竜は串焼きの袋を示した。


 姫は串焼きを取ると、それを一口齧る。

 黒々としたタレでコーティングされたそれは本当に何の肉なのかよくわからないが、香ばしくて美味しかった。


「味を感じるというのは、なかなか楽しいもんだな。最近まで忘れてた」


 竜は串焼きを一本丸ごと口の中へ突っ込むと、一口で串の肉を全て齧り取った。

 喉に串が刺さらないのだろうか、と姫は心配するが竜は特に気にした様子がない。


「そういえば、あなたは物を食べる必要が無いと言っていましたね?」

「おう。どういうわけか腹が減る事は無いし、食わなくても餓える事が無い」


 確かに、そうでなければその存在が伝承と化すまで、あの何もない洞穴で過ごす事などできないだろう。


「どういう仕組みなのですか?」

「知らねぇな。そう生まれついたんだから」

「あと、お金はどうしているんです?」

「喧嘩をふっかけてきた奴から巻き上げた」


 竜は姫と屋台の料理を食べ、適当な話をして帰っていく。

 そして、無造作に置かれた珍品がそのまま部屋に残され、山となりつつあった。


 あまりにも珍しい物過ぎて部屋のメイド達もそれに手をつけようと思わないのか、珍品の山は少しずつ大きくなりつつある。


 まるで自分の部屋が保管庫のように扱われている……。

 少しばかり不満はあったが殺風景な部屋よりもマシかもしれない、と姫はそれを黙認した。


 何より、自分を気にかけて遊びに来てくれる存在がいるというのは喜ばしい。

 久しく忘れていた気持ちだった。

 その相手が竜だったとしても、感じる気持ちは変わらないのである。


 そして、その竜がいなくなると寂しさを覚えた。

 また息の詰まる一人の時間が始まるのだ。




 その日の竜は、王城の中を一人で散策していた。

 適当に廊下を歩いていると建物の外へ出た。

 そこは兵士達の訓練場だった。


 兵士達は各々、訓練に勤しんでいる。

 竜はその訓練風景を眺める事にした。


 竜は人が訓練する所など、今まで見た事がない。

 人の戦い方は、今まで自分に挑んできた人間達が見せてくれたが。

 それらは完成されたものであり、それを完成させる過程というものを見る機会がなかった。


「これは竜殺し殿。お目にかかれて光栄です」


 すると、声をかけられた。

 それは一人の兵士だった。


「お願いがあるのですが」

「何だ?」

「是非、竜を討滅したという腕前、ここで見せていただけませんか」

「おう。いいぜ」

「ありがとうございます」


 竜は快諾する。


「で、どうすればいいんだ?」

「私と戦っていただきたい」


 兵士に誘われるまま、竜は訓練場の中央へ歩を進めた。

 すると、訓練していた兵士達も手を止めてそちらに興味を示す。


「おい、あれは噂の竜殺し様じゃないか?」

「ああ。違いない」

「ふん。竜などいるわけがない。どうせ、あの女が我が身可愛さに雇った傭兵崩れに違いあるまい」


 兵士達は口々に囁き合う。

 そこにはどこか嘲るような響きがあった。


 一手教授を願う形であったが、実際の所この場は相手の嘘を暴き立てるための意味合いを含んでいた。


 竜は、兵士から刃引きされた剣を渡される。


「では、始めましょう」

「おう。もう、いいんだな」


 言葉を交わすと、竜はおもむろに兵士へ近づいた。


 緩やかに剣を振り上げる。


 その動作に、周囲の兵士達から冷笑が聞こえてくる。

 竜の動きは、どう見ても剣術を嗜んだ者のそれではない。


 素人も良い所である。

 あのように剣を振り上げてしまっては、次にどのような攻撃が来るかなど容易に察知できる。


 相手の兵士も無論それに気付いている。

 一度防いで、軽くあしらってしまおうと考える。


 竜の剣が振り下ろされた。

 上段から無造作に振り下ろされた剣は、兵士の剣に防がれる。

 が、竜の剣が受け止められる事はなかった。


 剣は、相手の剣ごと兵士の肩へ深くめり込んだ。

 鎖骨が断たれ、肩甲骨にまでひびを入れる。


「ぎっっっ!」


 思いがけぬ激痛から、兵士は声にならない悲鳴を上げた。

 倒れ、痛みにもがき苦しむ。


「終わりか? おう、次は誰だよ」


 自信に満ちた表情で笑みを浮かべると、竜は周囲の兵士達を見回した。

 若干曲がってしまった剣の切っ先を兵士達へ向け、周囲へ巡らせる。


 不遜なまでの態度で言われ、しかし兵士達は誰も声を上げない。

 むしろ、顔を引きつらせて竜の剣の切っ先が自らへ向けられない事を祈った。


 戦った兵士は、気絶する事もできずに苦しみ続けている。

 彼が投げ出した剣は半ばが凹み、そして彼の肩には同様の凹みができている。

 そのような物を見てしまえば、名乗り出る事はできなかった。


「何だ、次はねぇのか? つまらねぇ……」


 竜は不機嫌そうにため息を吐く。


「では、私がお相手致しましょう」


 兵士達が顔を強張らせる中、声が上がる。

 竜が目を向けると、そこには騎士団長がいた。


 刃引きされた剣を手に、竜へと近づく。


「ああ。歓迎するぜ」


 竜は剣を肩にかけ、騎士団長を迎える。

 騎士団長は竜と対峙し、剣を構えた。


 竜はそれでも構えず、始まりの合図もなく、おもむろに近づいて剣を振るった。


 騎士団長は剣を合わせる事もせずにそれを避けると、竜の首筋へすばやく剣を当てた。

 見ていた人間も困惑するほどの早い決着である。


 遅れて「おお」と周囲から感嘆の声が上がる。


「へぇ……。もう一回やろうぜ」

「ええ」


 仕切りなおし、もう一度。

 竜が横薙ぎに剣を振るう。

 その剣閃を潜る様に避けると、騎士団長は剣の刃先を竜の首元へ突きつけた。


 またもや一瞬の決着である。


 竜の表情が笑顔から憮然としたものに変わる。


「……もう一度」

「ええ」


 それから何度も、竜は騎士団長へ挑んだ。

 しかしその全てに敗北を喫した。


 そして……。


「うがーーっ!」


 竜は雄叫びを上げ、剣をやたらめったらに振り回して騎士団長へ突撃する。

 騎士団長はそれを後退しながらなんとか避け続ける。

 が、ついには壁へと追い詰められた。


「おらぁーーっ!」


 竜は渾身の力で剣を振るう。

 しかし、騎士団長はそれも避け、竜の後ろへ回り込んだ。


 行き場を失った竜の剣は壁へ当たり、剣はぽっきりと折れ……。

 勢いのまま壁へと拳が叩きつけられた。


 同時に、堅牢な城壁の一部へ穴が空き、轟音と共に崩れ去った。

 そして、竜の首筋に背後から剣が当てられる。


「勝負ありですな」

「くそ……」


 騎士団長の言葉に、竜は悪態を吐く。

 とても悔しそうな様子であった。

 そして柄だけになった剣を捨てると、その場を後にしようとする。


 が、一度振り返り、騎士団長へ言葉を向ける。


「面白ぇ。お前は剣で倒してやるよ」


 竜が去ると、周囲の兵士達が騎士団長へと駆け寄ってくる。


「流石です! 団長!」

「あの男に軽々と勝つとは!」


 口々に賞賛の声を上げる兵士達。

 しかし、当の騎士団長の表情は晴れない。


「軽々と、か」


 自嘲気味に呟き、崩された城壁を見る。

 あの攻撃を受けていたらと考えれば、冷や汗が出てくる。


 動きは素人。

 しかし、その力は人並み外れている。

 このような素質を見せられると、地道に剣技を磨く事が馬鹿馬鹿しくなる。


 周囲の兵士からも、竜を嘲る声はなかった。

 たとえ騎士団長にあしらわれる程度の技術しかなかろうと、その力が脅威である事は悟れたからである。


 彼が剣を武器として使う事に固執していたからこそ、勝つ事ができた。

 剣を使わずに戦っていて、勝つ事ができたかどうか……。


 そんな時である。

 竜の行く手に、姫が現れた。


「おう。どうした?」

「廊下を歩いていたら何か騒がしかったので」


 訓練場へ姫が現れると、それに気付いた兵士達はその場から離れた。

 中には侮蔑の表情を浮かべる者もいた。


 姫はその様子に、胸が苦しくなった。

 重苦しい物が圧すような心地である。


 兵士達には、見知った者も多い。

 先王がまだ健在であった頃は、よくよく可愛がってくれた者もいた。

 親しかった者達の態度が豹変してしまう事は、親しくない人間から嫌悪を抱かれるよりも酷く心を傷つける。


 しかし、騎士団長だけは違う。

 彼は姫を見つけると、彼女へと近寄った。


「姫様」


 それから逃れるように、竜はその場から去っていく。

 普段の竜らしからぬ態度に、姫は首を捻った。


「何があったんです?」

「少しばかり……」


 騎士団長は言葉を濁して答える。


「あのような強き者を雇い入れられた事、その幸運は喜ばしい事でしょう」

「……ええ。幸運なのでしょうね」


 きっと、竜と出会えた事はこれ以上ない幸運だ。

 命を永らえ……そしてこの自分を取り巻く地獄から脱する手段すら提示された。


 しかし、その手段を選ぶ事は父の願いに反する事となる。

 何より、自分の願いが多くの人の不幸を生む事に姫は気付いていた。

 自身の苦痛を打ち消すために、多くの者を地獄へ貶める事となるのだ。


 自分を虐げる者達であったとして、それは許される事だろうか?

 恐らく許されまい。

 それを理解しつつ、その選択に揺れる自分はなんと浅ましい事だろうか……。


 ただ、その誘惑を魅力的に感じるという事は、姫が追い詰められている事の証左であった。


 姫はその憂いを表情に出した。


「姫……。必ず今を変えられる時が来ます」


 その表情に気付き、騎士団長は慰めの言葉をかける。


「だから、その時まで耐えてください。早まった事をなさらぬように。私はそれが、心配です」


 竜との取引を言われたのではないかと思い、姫は動揺した。

 しかし、実際の意味合いは違う。

 彼は、姫が絶望の中で命を絶つのではないかと心配したのだ。

 そして姫もその意味合いに気付く。


 騎士団長が姫を気遣う態度に嘘偽りはないだろう。

 彼の誠実な態度は、それを伝えてくる。


 この方はまっすぐな人だ。


 それがわかるからこそ、姫は騎士団長へ全幅の信頼を寄せる事ができた。


「私は先王から、この国と姫を守るよう仰せつかりました。そして、その命は私にとって唯一の主命。私の王は未だ、先王以外にいないのです」


 そして、騎士団長は姫と同じ志を持っている。

 同じものを抱えていると思うからこそ、姫も耐える事ができるのだ。

 その言葉を信じる事ができるのだ。


「ええ。耐えて見せましょう」

「必ずや、私は主命を果たします」

「はい。お願いします」




「なぁ、町に出ようぜ」


 その日、部屋へ訪れた竜はそう姫を誘った。


「え……」


 対して姫は、戸惑いを見せた。


 それも当然である。


 かつては、よく町へ出る事があった。

 町中に、親しい者も少なくなかった。

 しかし今は、それもできないでいる。


 誰かに禁じられているわけではない。

 姫自身が、それを忌避しての事である。


 先王が裏切り者とされた後、姫を取り巻く全てが変わった。

 皆が、姫を裏切り者の娘として見る。

 優しくしてくれる者は騎士団長以外になく、それ以外は敵となった。

 そして騎士団長はいつもそばにいてくれるわけではない。


 城が敵ばかりになり居場所がなくとも、町ならば安らげるかもしれないと期待した事もある。

 しかしそれが浅薄な考えであるという事は、既に承知している。

 前は仲良くしていた相手に罵られ、石を投げつけられた時にそれを知ったのだ。


 以前は町へ出る時に護衛の兵士も一緒だったが、それがつけられる事もなくなった。


 町へ出ると姫は、誰に守られる事もなく城の中よりも直接的な悪意にさらされる事を知ったのだ。


 それ以来、町へは出ていない。

 あの日の事を思い出せば、町へ出る勇気など出てこなかった。


「お断りします」


 そう口にすると、竜は姫の顎を強く掴んだ。

 竜のその行動には、姫を始め、部屋にいたメイド達も驚きを見せる。


「忘れたか? お前の立場を」


 そうだった。

 と姫は思い出す。


 自分はこの竜の物になったのだ。

 この強大な存在を前に、抗う事などできない。


「あと、笑え」


 そう言って笑顔を見せながら、竜は顎から手を放した。


「頭巾でも被って顔を隠せよ」

「……わかりました」


 そうして、姫は町へ出る事になった。

 強い不安を覚えるが……。

 しかし、竜が共に居てくれると思うと少しだけ頼もしく思えた。


 姫は竜の言葉通り、目深にかぶった頭巾で顔を隠して町へと出た。


「どうして私を誘ったのですか?」


 竜はいつも、一人で町を散策している。

 今や、案内も必要がないくらいに町の事をよく知っているだろう。

 わざわざ自分を連れて行く理由が、姫にはわからなかった。


「いつも一人は飽きてくるからな」


 竜は簡潔に答えた。


 そうして竜が案内したのは、王都の入り口に近い大通りだ。

 そこは多くの行商人が店を開く市だった。


 それらは主に敷物に品を置いた露天だが、屋台なども見られた。

 竜はその中で、肉の串焼きを売る屋台へと向かう。

 始めからそこを目的としていたのか、足取りに淀みは無い。


「よぉ兄ちゃん。また来たぜ」


 店の店主である中年男性に、竜はそう声をかける。

 兄ちゃんと呼ぶには歳を食っているが、長命の竜からすれば兄ちゃんと言って差し支えないものなのだろう。


「またあんたか」


 店主は少し渋い顔をして口を開く。


「串、十本くれや」

「あいよ」


 硬貨を屋台のカウンターに置くと、串焼き十本の入った紙袋が竜に手渡される。


「ほら」


 持ち手が上を向き、ずらりと並んだ紙袋が姫へ差し出される。


「ありがとうございます」


 姫は礼を言って、串の一本を抜く。

 この串焼きは、多分前に竜が買ってきた物だ。


「兄ちゃんの串焼きは、いつ食っても美味いな」

「ありがとよ」

「で、これ何の肉?」

「だから、竜の肉だって。ちょっと前に竜が退治されたろ? その肉を秘密のルートで仕入れて串焼きにしているんだって」


 明らかな嘘だ。

 その退治されたという竜は、その退治された竜の肉らしき物を店主の目の前で食べているのだから。

 しかし、それがこの屋台の売りなのだろう。

 よくわからない肉の串焼きと言っていたが、こういう経緯があったわけだ。

 と姫は納得した。


 味わってみれば鶏肉に似ている。

 が、ちょっと違う。

 本当に何の肉なのだろうか?


 肉を食べ終わると別の店へ向かう。

 この付近の露店に並ぶのは珍品ばかりである。

 これらが、姫の部屋に積まれた品の出所だろう。


「おや兄さん。今日は女連れかい? こういうのはどうだい? 似合うと思うよ」


 女性店主の営む露天で、珠玉の入った首飾りを薦められる。


「似合う似合わねぇはよくわからねぇが……。まぁ綺麗だな」

「私は今日で王都を出るから、ちょっと割り引いてあげるよ」

「別にいくらだろうがいいけどよ」


 そんなやり取りを交わし、竜は首飾りを買い取った。

 それを姫へ渡す。


「似合うってさ。着けてみたらどうだ?」

「くださるのですか?」

「おう」


 こうして、誰かから何かを貰うのは久しぶりだ。

 最近では、奪われるばかりだったから……。


 姫は首飾りを受け取り、首に着けた。

 珠玉を手に取り見る。

 細工によってキラキラと輝く珠玉に、自然と笑みが零れた。


「いい顔だな」


 一言、竜は言うとまた別の場所へと歩き出した。


「ありがとうございます」


 早足で竜に追いつくと、姫は礼を言った。


 それから二人は、王都を巡り歩いた。

 行く先は決めず、竜の好奇心が向かうままに。


 姫にとってそれは楽しい時間だった。

 今だけは、誰からも敵意を向けられていない。

 何の憂いもなく、ただただ楽しさに意識を向けられる。


 それの何と嬉しい事だろう。

 喜ばしい事だろう。


 しかしその楽しい時間も終わろうとしている。

 日が傾き始めていた。


「日が暮れる……。帰らなくては」


 姫は寂しげに小さく呟く。

 その表情からは先ほどまであった歳相応の無邪気さが失せていた。

 少女の顔には、憂いが戻っていた。


「そうかい? じゃあ、送ってってやるよ」


 二人は、王城へ向かう。

 姫の王城へ戻る足取りは重かった。


 さながら枷があるかのようであり、だからであろうか。

 姫はよろめいて通行人の男とぶつかった。


 姫の頭巾がその拍子に脱げた。


「おっと、ごめんよ。……あんた」


 ぶつかった男は謝るが、姫の顔を見るとその表情を険しくした。


「裏切り者が! ここで何してやがる!」


 それが姫だと気付くと、男はそう怒鳴った。

 怒鳴られた姫はびくりと身を竦ませた。


 男の声を聞きつけ、周囲の目が姫へ向く。

 最初は何事かと見るだけだった衆目が、姫の存在に気付いて憤怒の色を帯びた。


「何であんたがここにいるんだい!」

「この売国奴!」


 口々に、民達が姫に罵声を投げる。


 この国を売ろうとしたのは、彼女の父という事になっている。

 しかし彼女を罵る声は、さながら彼女自身がその卑劣な行いを成したかのような言い様であった。

 そんな言葉を浴びせかけられるたび、姫の体は撃ち震えた。

 逃げようにも、足が竦んで動けなくなる。


 民の抱く怒りは、裏切り者の娘に対してのものだけではなかった。


 今の王はその裏切りを察知し、それを防いだと言われている。

 しかし実際、この国はすでに隣国へと売り渡されているも同然である。


 隣国とは戦争状態になったと発表されており、その戦費として民には重税が課せられていた。

 不満は募り、そしてその不満の矛先として先王の一人娘へと向けられている。


「この国からでていけ!」


 一人の子供が、姫に向けて石を投げた。

 しかしその石が姫に当たる事はなく、竜の手がその直前に受け止めた。

 軽く投げ返すと、石を投げた子供の肩口に石は突き刺さった。


「うあっ!」


 子供は倒れ、傷口から鮮血が散った。


「この! 子供になんて事するんだ!」

「先にやったのはそっちじゃねぇか」


 周囲にいた別の男が竜へ殴りかかるが、逆に頭を横殴りにされてそのまま地面へ倒れた。


「手加減はしてるぜ?」


 驚いた様子で見る姫に、竜はそう告げる。


「あんた! そいつの味方するのか?」

「そりゃあ、俺は姫さんに雇われてるからな。不満があるならかかってこいよ。相手してやる」


 竜が無邪気にも見える表情で笑う。

 荒事の気配に、楽しさを見出したようだ。


 しかし、先ほど竜が成した一連の事を見ていた民達は、怯んだ様子で竜を睨む事しかしなかった。

 その様子に、竜の表情が不機嫌そうな物に変わる。


「何もしねぇのかよ!」


 大音声でそう叫ぶと、周囲は気圧されたように一歩下がる。


「……帰るぜ。姫さん」


 つまらなそうに言うと、竜は王城への道を歩き出す。


「はい」


 姫は返事をして、その背に続いた。


 足の竦みは取れていた。

 竜が助けてくれたからだ。

 今の自分は一人ではない。

 そう思えた。


 それでも、気分も足取りも重い。


 今日一日、感じられた楽しさも全て失せてしまうような心地だった。




「邪魔だな。あの男は……」


 自室にて、王は呟く。

 その呟きは、同じく部屋にいた側近の耳に届いた。


「たかが一人の男です」

「そう、たかが一人……。しかし、厄介な事に違いない。私は、そろそろあの娘に退場願いたいのだ」


 現王が姫を生かしているのは、先王の願いを聞き届けたからだけではなかった。

 前体制の象徴となってもらうためだ。

 現状の苦境が先王の行いによるものであるとし、その象徴となるべき物があれば民の不満の矛先はそちらへ向く。

 現王へ対する不満も緩和されるという目論見からだ。


 しかしその必要ももはやない。

 隣国へこの国を完全に売り渡す話がまとまったのだ。

 現王は大量の金品を受け取り、そして隣国においての地位を約束されている。

 それらの条件交渉が満足の行く形にまとまったため、不満をそらす必要もなくなったのだ。


 現王は隣国へ移住し、民が気付いた時にこの国は隣国の土地となっている。


 スムーズに国を売り渡すその下準備として、隣国へ多くの物資や資金を送っている。

 これはこの国の力を極力殺ぐためである。

 隣国へ対抗するためという名目の重税を課しているが、実際その全ては隣国へ取り入るための貢物となっている。

 実際の軍にそれらは反映されておらず、兵士の数も装備もまともに整っていない。

 そんな軍では、まともに戦う事もできない。

 攻め入られた時には、降伏するしかないのだ。


 そしてその時になってようやく、現王の企みは白日の下へさらされるわけだが……。


「事が成された時、あの姫は一転して先王の娘として担ぎ上げられるかもしれない」


 その可能性がある。

 いや、あの抜け目ない騎士団長の事だ。

 間違いなくそのように仕向けてくる。


 土壇場でクーデターを起こされ、その結果として隣国との関係が壊れるような事があれば困るのである。


「余計な事をされて、隣国における私の生活が脅かされる事は避けたい」


 そのためにも、姫は今のうちに殺してしまうべきなのだ。

 そしてそれを成すためには、彼女が雇ったあの男が邪魔なのである。


 これまでに何度か暗殺者を送ったが、それら全てがあの男に阻止されていた。


「ならば、殺すしかありませんな」

「しかし送られた暗殺者は秘密裏に処理され、料理に毒を入れても気付かれる」


 ここしばらく、姫は竜の運んでくる料理ばかりを食べている。

 竜がこちらで用意した料理を食べさせないよう仕向けている事は明らかだった。

 毒を入れている事に気付いているのだ。


「あの竜殺しを殺すにはどうすればよいか……」

わたくしに考えがあります」


 王の呟きに、側近は応えた。


「聞こう」


 問われ、側近は王の耳元へ自分の考えを囁いた。




 その日の竜は、王に呼び出された。


「何の用だ?」


 王を前にしても、竜は尊大な態度を崩さず訊ね返した。


「隣国の兵士が我が国境を侵している。これを殲滅してほしい」

「何で俺に? 俺はあんたに雇われているわけじゃねぇぜ。騎士団長様がいるだろう」

「奴には別の任務を与えている。今動ける中での最大戦力は、貴様なのだ」

「ふぅん……。まぁつまり、本格的な戦いってわけだな」


 そいつは面白そうだ、と竜は興味を惹かれた。


「いいぜ。姫さんにも話を通しておくよ。ただ……」


 王の視界から一瞬、竜の姿が消える。

 かと思えば、竜は王の眼前へと近づいていた。


 驚く王の顔へ、竜は自らの顔を近づけた。


「姫さんに毒を盛るのはやめろ」

「……何の事を言っている?」


 王はおくびにも出さずしらばっくれる。

 しかし、竜は構わずに続けた。


「帰ってきた時に、姫さんが死んでいるような事があれば殺してやる。それが俺にできる事は今わかったろ?」


 竜が向ける視線に対し、王は視線をそらさずに睨み返す。

 王は竜の威圧感を受け、恐怖で冷や汗が止まらなかった。

 しかしそれでも、王として威厳を保ち続けた。

 いや、威厳を保つ事しかできなかった。


 竜が小さく微笑む。


「じゃあ、準備してくるぜ」


 答え、竜は王から離れた。

 背後には、王の危機を察知した衛兵達が集まっていた。


「どけよ」


 そんな彼らに一言告げて、竜は玉座の間を出て行った。

 そのまま、姫の部屋へ向かう。


「おい」

「何ですか?」


 呼びかけられて振り返る姫。

 そんな姫の口に、竜の親指が突っ込まれた。


「んんっ!」


 姫は混乱の中、竜を押しのける。

 非力な抵抗ではあったが、竜は簡単に身を離した。


「何をするのですか!? うっ……」


 声を上げ、程なくして姫は胸を押さえた。

 心臓が激しく脈打ち、それは痛みを覚えるほどであった。

 燃えるような熱が胸にこもり、次第にそれは全身に広がる。


 倒れそうになった姫を竜は抱き留めた。

 そのまま、肩に担ぐ。


「俺の血を飲ませた。これでお前は俺の眷族だ。多少は体が頑丈になるだろうさ」


 動けなくなった姫をベッドの方へ運び、そこへ横たえながら竜は答えた。


 毒を盛られてもある程度は耐えられる。

 釘は刺したが、あの王がどうするかはわからない。

 念のために眷族とし、その恩恵を与える事にしたのだ。


「それに、その身に何かあれば離れていてもわかる。そのための印を付けたんだ。これでお前は、本当に俺の物だよ」


 姫にはよくわからなかったが、確かにこの体が竜に支配されてしまったという事は感覚的にわかった。


 本当に私は、この竜の物になってしまったのだ。


 その実感が今まで以上に強くなる。


「何故こんな事を?」

「あの王に言われてな。少し、遠出する事になった。そばにいない間、お前に何かあっちゃ困るんでな」


 自分を慮っての事だというのか……。


「ありがとう……ございます……」


 少し複雑な気持ちではあったが、姫はそう礼を言った。


 同意もなく眷族とされた事には思う所もあるが、自分を守ろうとしてくれている事は素直に嬉しい。


「自分の物を他人に損なわれるのは嫌だからな」

「そうですか」


 その翌日、竜は兵を引き連れて国境まで向かった。




 国境へ向かう竜には、一人の副官がつけられた。

 兵の統率は全て副官が執り行い、実質的な指揮官と言ってもよかった。


 竜はただ、その副官についていくだけである。


 数日間の道程を経て、竜は国境付近に辿り着いた。


「明日には敵と戦う事になるかもしれないので、今日はここで野営をして休息を取ります」


 副官はそう告げて、野営の準備を始めた。

 竜は何も異論を挟まず、好きにさせる。


 そうして、竜が張られたテントの中で眠っていた時の事である。


 日は既に落ちていた。

 竜はそんな中、ふと目を開けた。

 テントの外に出る。


 周囲には兵士達が使うためのテントがいくつも張られていたが、そのどれにも人の気配はなかった。

 野営地のどこにも、兵士達の姿はなかった。


「まぁ何かあるとは思ってたけどな。俺を一人置き去りにして、これからどんな楽しい事が起こるんだ?」


 誰にとも無く、そんな独り言を呟く。

 ほどなくして……。


 どこからか百を超える軍勢が野営地へ襲撃をかけた。

 それは隣国の兵士達である。


 国境を越えた隣国兵士の駆逐を目的として竜は部隊と共に向かわされた。

 しかし、実際は現王の計略である。


 国境付近で野営し、そのまま竜だけを残して部隊を撤退させる。

 隣国と示し合わせて部隊を送ってもらい、竜を殺させるという計画だった。


 暗殺ができない相手であるため、このように大掛かりな手段以外に取れるものがなかったのである。


「ははっ」


 自分へ向けて殺到する兵士達を目の当たりとし、竜は楽しげに笑う。




 姫は物憂げに窓の外を見ていた。

 考えるのは竜の事である。


 竜が王都を出て数日が経過している。

 その間、この部屋へ訪れる者は少ない。


 居たとしても、騎士団長だけであり……。

 それも頻繁なものではない。


 姫は慢性的な孤独の中にあった。


 孤独は姫にとって当たり前の事であったが……。

 竜と出会ってからは、その当たり前も変質してしまっていたらしい。


 彼が来ない事……。

 一人でいる事が、殊更ことさらに寂しく思えてしまう。


 自分は思っていた以上に、心をあの竜へ預けてしまっていたらしい。

 強引さはあるが、それでもあの竜は頼もしい存在であった。

 姫がどれだけ寄りかかっても、なんら問題もない強大な存在だった。


 などと考えていた時だった。


「よぉ」


 窓の上から、さかさまになった竜の顔が下がった。


「わっ」


 姫は驚きの声を上げる。


「面白ぇ顔だ」


 そう言って竜はケタケタと笑い、部屋の中へ下り立った。


「国境に行ったのでは?」

「終わったぜ。まぁまぁ楽しかった」

「何をしてきたのか良く知りませんが、それはよかった」


 姫が答えると、竜は笑みを作ってから窓の横にもたれかかった。


「お前の方は?」

「私……ですか……」


 問われて振り返ると、特段に言うべき事はなかった。


「退屈、でしたね」

「ははっ。少しは俺の気持ちもわかったか?」

「かもしれません」


 環境が変わったわけではない。

 依然として城で過ごしていれば、人々の悪意が心身を刺してくる。

 内にも外にも逃げ道のない閉塞感は健在である。


 竜がいなくなって、その環境の辛さは際立ってもいた。


 けれどそれ以上に、竜がそばにいない寂しさが辛かった。


「帰ってきてくれてよかった」

「そう言ってくれる奴がいるのも悪くないな」


 二人して、小さく笑い合った。




 竜が帰ってきてから二日ほど経ち、竜の率いていた部隊が遅れて王都へと帰還した。


 部隊よりも先に竜の方が先に王都へ帰り着いていた。

 その姿を見た時の王の驚きは筆舌に尽くしがたいものであった。


「どういう事だ!」


 見つけてすぐにそう怒鳴りつけるのも当然の事であった。

 その問いに対して竜は……。


「何って……。やれと言われた事をやって帰ってきた」

「兵士達は?」

「どこかではぐれちまったよ。みんな方向音痴で困るな」

「隣国の兵士達はどうなった!」

「二回も言わせるなよ。やる事はやった。ちょっと楽しみ過ぎたかもしれねぇがな」


 そう笑い、竜は王から離れて行った。

 呼び止めてもそれを無視し、それ以上の話は聞けなかった。


 竜との会話では、詳しい状況がわからない。

 王は詳細を求め、部隊の帰還を待ちわびていた。


 その部隊が、ようやく帰ってきたのである。

 王はすぐに事情を聞く事にした。

 しかし……。


「我々は彼の者を置き去りとして、そのまままっすぐに帰ってまいりました。その後何があったのか、まったくわかりません」


 竜の副官として部隊を率いていた者に聞いても、戸惑いつつそんな答えが返ってくるばかり。

 結局、王が詳細を知るのは考えをまとめるために自室に戻った時である。


「説明してもらおうか」


 自室の書斎机に着くと、そう訊ねられた。

 訊ねる声は背後から聞こえ、首筋には短剣の刃が突きつけられていた。

 背後を見る事などできようはずもなかった。


「あの方の使いか?」


 恐る恐る、王は訊ねた。


「そうだ。あの方は、此度の弁明を求めている」


 あの方、とは隣国の王の事である。

 そして背後にいる者は、その使いの者であろう。


「弁明? 私が何をしたと言うのです?」


 へりくだった様子で王は訊ね返した。

 現王は隣国の王の配下でしかなかった。

 その威光を持つ使いの者を前にしては、肩書きなど形骸に過ぎない。


「お前に頼まれ、国境へ送った部隊が全滅した。皆、尋常ではない死に方だったという」


 部隊が全滅?

 困惑する王に声の主は続ける。


「それだけに留まらず、国内の砦がいくつか襲撃された。それらも同様に皆殺しだ」


 馬鹿な!

 王は心の中で叫ぶ。


 その殺戮に、こちらの部隊が関与しているはずはない。

 となれば、あの男一人がそれをやったという事になる。


「あの方がお前ごときの願いを叶えたのも、この国を損耗少なく手中へ収められると思っての事……。しかし此度の事、叛意があるとしか思えない」

滅相めっそうもございません!」

「違うというのなら、それを証明しろ」

「部隊の全滅は、私の意志ではございません。それは……そう、あの娘……。兄の娘が企んだ事にございます」


 姫の企み。

 使いの者は、この国の姫がどのような立場にあるか理解していた。

 王に恨みを抱いている事は確かであろう。


 しかし、その姫に何ができるだろうか?

 腕の立つ男を一人雇ったという情報は把握しているが、それだけで何かができるとは思えない。


 とはいえ、この小心者が叛意を抱くかと言われれば、甚だ疑問である。

 それを疑問に思ったからこそ、彼の雇い主も弁明の機会を与えたのだろう。


 何より、叛意があれば適当な所で帰る事もない。

 そのまま王都まで攻め上がってくるだろう。


「近頃、姫が雇った男がいます。竜殺しを成したと言われる男で、全てはその男の仕業かと……」


 しかしながら、この荒唐無稽な証言を信じる気にはなれない。


「たった一人で、我が国の砦をいくつも落としたと? 我が軍を弱卒の群れと嘲るつもりか?」

「ち、違います! それほどに強い者なのです」

「まぁ良い……」


 使いの者は呆れた様子で答えた。


「これが姫の策略であるというのなら姫を始末しろ。でなければ、我が国の全力を以ってこの国を攻め滅ぼす事になる」

「そんな……」

「塗られた泥は拭わねばならぬ。時にそれは、実益以上に重要な事なのだ」


 姫を殺した所で、なんら意味はない。

 この王を生かしておいた方が何かと都合がよく、しかしお咎めなしとするに被害は甚大過ぎた。

 ケジメは必要である。

 そのケジメとして、姫の殺害は丁度良いものだった。


「……わかりました」


 王が答えると、首筋の刃が離れる。

 背後にあった気配も消えた。


 その段になり、王はようやく緊張から解放された。


「どんな手を使っても、姫を殺さねばならぬ」




 ある日、姫は騎士団長に呼び出された。

 送られた手紙に書かれた場所は、城の一室だった。

 普段は使われない客室で、人気ひとけはなかった。


 そこでどうしても話しておきたい事があるらしい。


 姫はその手紙に応じ、部屋へと訪れた。


 部屋に灯りはなかった。

 けれど月明かりが入り込み、部屋の中はよく見えた。


 騎士団長はすでに居て、壁に寄りかかった体勢で待っていた。

 姫の訪れに気付き、その前へ跪く。


「姫」

「何があったのですか?」

「姫を殺害するよう、隣国より命が下ったようです」

「私の、殺害? 何故?」


 姫は困惑して訊ね返した。


「少し前の国境における事件は、あの竜殺しを排除するための策略であったそうです。しかし、それは失敗し、それどころか隣国へ大きな被害を出した。そのケジメとして、あの男の主人である姫の命を求めたのです」

「そんな事が……」


 あの竜を人が殺す事はできないだろう。

 ならば、当然と言える。


「それで、私はこれからどうすればいいのですか」

「……」


 騎士団長は答えなかった。

 黙りこみ、姫へ眼差しを向け続ける。


「騎士団長?」


 長い沈黙に姫が呼びかけると、騎士団長も重い口を開いた。


「あなたには、死んでいただかなければならない」


 その言葉は、苦渋に満ちて思いの外小さなものだった。

 しかし、しっかりと響き、姫の耳はそれを聞き取った。


 姫の目が見開かれる。

 思いがけない言葉。

 音が鳴るほどに大きく、息を呑んだ。


 姫は当然、騎士団長が自分を助けるための算段を立ててくれている物だと思っていた。

 だからこそ、彼からそんな事を言われればその衝撃は計り知れない。


「何故、です?」

「……あなたに死んでいただけなければ、国が滅ぶのです」


 騎士団長は答え、なおも続ける。


「先王の願いを叶えるためにも、あなたを生かしておくわけにはいかないのです……」


 隣国の使いから命を受けた王は、それを騎士団長に伝えた。

 王は、騎士団長の事をよく理解していた。

 今も先王の意向を重んじ、自分を軽んじている事を……。


 しかし、それは賭けの部分も強かった。


 騎士団長がどちらを重視しているかまではわからなかったが、彼の力を借りる以外に姫を殺す事はできないと思ったのだ。


 そして、王は賭けに勝った。

 騎士団長は、姫一人の命よりも先王の命を選んだ。


「嫌だ、と言えば?」

「恐れながら、私がこの手で……」


 騎士団長は最後まで言わなかった。

 言いたくなかった。

 それでも、意図は伝わる。


 騎士団長もまた、苦渋を強いられていた。


 致し方ない事だった。

 理屈では解る。

 この国を守るために必要なのだ。


 姫は納得しようとした。

 これは仕方の無い事。


 しかしそんな気持ち以上に、悲しさが勝った。


 何故、私を選んでくれなかったのか……。

 ずっと、信じていたのに……。

 あなただけが、私の支えだったのに……。


 それなのに……。

 それなのに……。


「……いや、です。私は、死にたくありません」


 気付けば、姫はそう答えていた。


 こんなに辛い、地獄のような人生なのに。

 生を手放したくは無かった。


「ならば、致し方ありません」


 騎士団長は立ち上がり、剣を抜く。

 姫へと近づく。

 姫は身を竦ませ、そんな騎士団長をじっと見ている事しかできなかった。


 彼がいるからこそ、耐えられる事ができた。

 しかし、その理由も消えた。


 もはや、彼女には何も残っていなかった。

 自分を慈しんでくれる相手も、心の支えとなった者も……。

 何もかも、残っていなかったのだ。


 それを知った彼女の瞳から、ポロポロと涙が零れる。

 留める事などできなかった。

 それがどれだけの悲しみを含んだものであろうと、その雫は澄んだ透明をしていて、美しかった。


 その首へ、剣が振るわれる。


 金属同士のぶつかる音が部屋へ響く。

 見ると、竜がいた。

 彼は姫の前へ出ると、騎士団長の剣を自分の剣で防いでいた。


「泣くんじゃねぇよ。お前の泣き顔は不細工だ」


 そう言って姫に笑いかける。


「お前は笑顔の方が良い」


 騎士団長は竜から距離を取った。

 本格的に構えを取る。


「何故、ここに?」

「こいつは俺の物だ。どこで何をしているか、把握しとかなくちゃな」

「……それでどうする? 邪魔をする気か? ならば、お前も切る」

「だってよ。どうする? どうしたい?」


 竜は姫に向き、そう問いかける。


「……壊して」


 姫の口から、そんな言葉が出ていた。


「全部、壊して……」

「いいのか?」

「もう、疲れたの……」


 そう答えると、姫はうな垂れる。

 姫にはもう、力が残っていなかった。


 この願いは父親の願いを否定する事になるだろう。

 しかし、それでも願わずにはいられなかった。


 必死に耐え忍び、それが裏切られた。

 非力な幼い少女がその小さな体で受け止めていたそれらに耐えられなくなったとして、誰がそれを責められるだろう。


 いや、責めは既に受けていた。

 周囲の者達は、罪無き彼女へ理不尽な責めを課してきたのだ。

 ならば、その責めと見合う罪を犯す事に何の間違いがあるだろう。


「いいぜ。壊してやるよ」


 そして竜はかつての約束通り、その願いに応じる。


 答えると竜は、獰猛な笑みを騎士団長へ向けた。

 そして、剣を振るう。


 竜の動きは相変わらず素人同然だった。

 あれから、まったく進歩は無い。

 騎士団長は難なくその剣をかわす。


 この光景はあの時と同じである。

 違うのは、手にする物が刃引きされていない剣であるという点だ。


「お前は何故戦う?」


 騎士団長は問いかける。


「楽しいからさ。お前こそ、何で戦ってる? お前にとって、姫さんは大事な存在だったはずだろ? 何で、今の王の言う事を聞いている?」


 問い返され、騎士団長は苦い顔をした。


「確かに、今の王は間違いを犯した。正道に背く外道の行いだ。しかし、民を守るためには必要な事をした。たとえ、それが私欲に満ちた考えであっても、民のためを思えば正しかったのだ……。かつての王が望んだ、民の安寧のためには……」


 この国を守るためには、必要な事だ。


「かの国は強大だ。戦いになれば、この平和な国は蹂躙し尽くされ、たちまちの内に地獄へと変わるだろう。それを防げるのは、今の王だけだ」

「地獄、か。そいつはいいな。面白そうだ」


 この期に及び、竜は楽しげに笑う。


 そして振るわれる剣。


 騎士団長は冷静に対処し、そして逆に刃を竜の腹へと突き入れた。

 狙い澄ました必殺の一撃である。


 しかし、体を突き刺されながらも竜はまったく動じなかった。


「お前は剣で倒すと言ったな。約束通りだ」


 そんな声と共に、剣が力任せに振り下ろされる。


 斬るのではなく、叩き潰されるようにして騎士団長の体が両断された。

 手にした剣もひしゃげている。

 腹部を刺された人間が出せるような力ではなかった。


 しかしそれは当然である。

 彼は人ではないのだから。


 無残な姿となった騎士団長。

 姫はそれに少しの哀れさを覚えつつ、悲しみを覚える事はなかった。

 それを感じるには、姫は疲れきっていた。


「さて、壊すとは言ったがどうするかねぇ」


 竜がそう呟く。


「何か希望はあるか?」


 姫に問いかける。


「何も……。ただ……ただ何もかもを壊してほしいです……」

「好きにしていいって事だな」


 姫は肯く。


「じゃあ、少しやってみたい事がある」

「何ですか?」

「戦争だ。地獄のような物らしいからな。ただ、具体的にどうすればいいのかわからないが……」

「戦争……。……地獄を作り出そうというのですね」

「地獄を作り出す、か。良い表現だな」

「ですが、そのためには国を持たなくてはなりませんね」

「国、か。なら貰うか、この国を」


 竜はそう言って笑った。




 かつてこの大陸では、壮絶な戦争が起こった。

 大陸の中央部にある王国が発端となり、大陸の余す所無く戦火を広げた他に類を見ない大戦である。


 老いも若きも、男も女も、富める者も貧しき者も、卑しき者も清き者も、全ての命が区別無く死を賜る。

 そんな戦乱の時代である。


 それを人々は地獄の時代だと表し嘆いた。


 その国は竜を王に頂く国であり、民は王を恐れながらもその強大な力に従う事しかできなかった。


 竜は人を治める事も、率いる事も無く、ただただ戦火の拡大だけを求めた。


 そして大陸の全土が全て戦の炎で清められた時、地獄の時代は終わった。

 全土を手中に収めた竜は支配する魔王にならず、ただ一匹の竜であり続けた。


 残ったのは戦渦の爪痕とそれに喘ぐ人間達である。


 それから百年が経つ。


 かつての王国であった地。

 そこに栄華の名残を辛うじて残す廃墟には、一匹の竜が住んでいた。


 竜は巨体を横たえ、眠っていた。

 不意に、その目が開く。


「おはようございます」


 竜が首をもたげると、一人の女性が声をかける。


「夢を見ていた……。お前と出会った時の夢だ」

「懐かしい話ですね」

「あの時は楽しかったなぁ」

「今はまた、退屈ですか」


 もはや、この世に竜を楽しませる物は残っていない。

 いや、この世だけではなかった。


「いや、そうでもないさ。お前がいるからな。お前が地獄へ落ちた時はそれ以上に楽しかった」

「私を助けに来てくださいましたね」


 かつて姫であり、多くの人間の破滅を願った女性は常に竜と共にあった。

 その様子から、竜の巫女と呼ばれた彼女であったが……。

 百年の歳月でその命脈が尽きぬはずもなく、そして彼女の罪はその魂を死後に地獄へと落とした。

 その時、竜は彼女を追って地獄へと赴いたのである。


 竜は地獄を支配する神々へと戦いを挑んだ。

 地獄は竜の力を以ってしても一筋縄でいかない場所であったが、最終的に竜は全てを打ち倒して竜の巫女を地上へと連れ戻した。


 竜が唯一全力で戦える相手がいるあの場所は、思っていた以上に楽しいものだった。


 竜の巫女は既に肉体を失っており、その体はうっすらと透けている。


「お前はどうだったんだ? 俺と一緒にいて。楽しかったか?」

「楽しくはありませんでしたよ」

「そうかい……」


 少し拗ねた口調で竜は言う。

 そんな様子に竜の巫女は微笑む。


「でも、あなたと一緒にいてよかったと思います」


 そして、続ける。


「あなたと共にある事は、安らぎとは無縁でした。けれど、憂いともまた、無縁でしたよ」

「居心地が良かったってのなら、そいつはよかったよ」


 言うと、大きな口の端を歪めた。

 もたげた首をまた下ろし、目を閉じる。


「もう少し寝る」

「はい。おやすみなさい。きっと、また楽しい事がございますよ」


 人々は再び、大陸の中央を避けて集落を形成し始めていた。

 いずれは、また国ができるだろう。


 その時になれば、また戦を起こせるかもしれない。

 竜はその時の事を思い、この地で過ごす。


 ただ眠るのではなく、竜の巫女と呼ばれる一人の女性と共に。

 少なくとも彼女と一緒に居る事は、退屈な事ではなかった。

 登場人物の殆どが、理不尽な目に合っていますね。


 あと最近プレイしているゲームの影響で、定命とかいう単語を使ってしまいました。

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