アキヤラボパと真の守護者
「トラ! どこへ行くの?」
「神の山だよ! 夢で見たんだ、アキヤラボパがアファタンの頂上に舞い降りるのを」
アファタンと呼ばれる山は天にも届く高い高い山。頂上はいつも雲に隠れて見えません。
「アキヤラボパは天の鳥だもの、アファタンの上ならそりゃあいるかもしれないけど……」
「虹色の羽根は、ナイフのように鋭いんだ。それにすごく大きい幸運の鳥だろ。アキヤラボパがいれば、俺たちグナバナ族が虐げられることもなくなる」
グナバナ族の中でも滅法腕利きなトラは、やはりグナバナ族を守るための責任感も人一倍強かったのです。
けれども、幼馴染のクプリは心配でたまりません。
アファタンを登りきった人などいないのですから。
「ひとりじゃ危険だわ」
「大丈夫さ、クプリ。きっとアキヤラボパを連れて帰ってくるから。そしたら俺と一緒になってくれ」
「トラ……」
族長の娘であるクプリは、次の春が来たら隣のラヌバヌ族へ嫁ぐことになっています。
四方を敵にかこまれるグナバナ族にとって、婚姻によってそのうちの一方でも停戦することができるのは、とても助かるのです。
クプリと将来を語り合ったトラを除けば。
そうしてトラはアファタンへと出かけて行きました。
春はもう少し先。アファタンは中腹あたりからもう白い雪化粧をまとっています。
「クプリや、すまないね、苦労をかけて」
「いいえ、お父様。みんながこれからも幸せに生きていけるなら、私ひとりどうってことないの。それより、さぁ薬を飲んで」
族長は病に臥せっていて、いつ天に召されるかもわからない状況。
クプリに兄弟はいません。
今の族長が亡くなったら、次の族長を決めて新体制を動かし始めるまで、少しバタバタすることでしょう。
その間に四方から攻められたらひとたまりもありません。
クプリの嫁入りは、グナバナ族を守るためには絶対に必要なことなのです。
「族長ー!!! ホリバリ族の奴らが!」
「族長ー!!! ギラバラ族が!」
外から、慌てふためいた声が聞こえてきます。
グナバナ族の守り手として最も強いと言われるトラが不在だと、周囲にもついに知れてしまったのでしょうか。
トラがいないときに二方向からの攻撃はとても耐えられそうにありません。
「だれか、ラヌバヌ族へ応援を頼みに行ってくれ」
族長が叫びます。
婚姻の約束があるラヌバヌ族なら、きっと手助けしてくれるに違いありません。
返事とともに、誰かが走り出す気配があります。
ラヌバヌ族の到着まで、どうにか持ちこたえなければならない。村の男たちは武器を手に額の汗を拭って警戒します。
「私……私、トラを呼んできます」
「何を言うか。トラが出て行ったのは数日前だ。クプリの脚じゃとても追いつかないよ。それに」
族長が山を見上げました。
冬のアファタンに入るなんて自殺行為です。
だからこそトラはクプリ以外の誰にも言わずに出かけたのでしょう。
それは族長の目には逃亡に見えました。
きっとアキヤラボパなんて嘘だろう、彼は違う土地へと逃げたに違いない。このグナバナ族を捨てて。
確かにグナバナ族はトラに頼り過ぎていました。
嫌気がさしたと言われてしまえば、返す言葉もありません。
けれど、何も言わずに出て行くなんて。
「族長! だめだ、ホリバリとギラバラは手を組んでる! あれを押し返すなんて……!」
「族長! だめだ、ラヌバヌは応援を寄こさない! クプリは惜しいが代わりはいくらでもって……!」
「そんな……っ」
手を組んだのはホリバリとギラバラだけではないのかもしれません。もしかしたらラヌバヌも。
もうグナバナ族に勝ち目はありません。
族長は涙を流してクプリを抱き締めます。
「トラを……トラを呼びに行きなさい。そして、雪が見えたら迂回して山の向こう側に行くんだよ。きっと違う世界があるのだから」
「お父様」
族長はクプリを逃がそうと考えているようです。
とはいえ、その成功率は限りなく低い。なんといっても冬のアファタンなのですから。
ここにいて確実な死を待つよりはマシ、それだけを希望に、族長はクプリを送り出しました。
クプリは走りました。
草木がクプリの足を傷つけますが、構っていられません。
木々の枝がクプリの髪や頬を鋭く撫でていきますが、気にしていられません。
いち早くトラに追いついて、みんなの元へ戻らないといけないのですから。
そのうちに雪が見えてきました。
族長はここから迂回して違う世界へ飛び出すようにとクプリへ言い付けましたが、クプリにそれはできません。
ただ真っ直ぐ山頂を目指してトラを追うのです。
「トラー! トラー!」
数日先にでかけたトラはもうずっと遠くにいるかもしれません。
けれども山の中では進行速度などすぐに変わるのです。天気一つで動けなくなることも多々ありますから、そろそろ追いつく可能性だってあるのです。
クプリは懸命に叫びながら登りました。
雪山を登るための装備はもちろん持っていません。出発前に族長が肩に掛けてくれた毛布が頼りです。
そろそろ、足も指先も感覚が鈍くなってきました。
「トラー! トラー!」
それでもトラを呼ぶことをやめません。
名を叫んだら、少し耳を澄ませます。返事があることを期待して。
はらはらと雪が降ってきました。気温も一段と下がった気がします。
「トラー! トラー!」
「……リ。……プリ」
微かにクプリを呼ぶ声が。
もう少しだけ上の方から聞こえてくるようです。
「トラ! 大変!」
やっと見つけたトラは、大きな木の洞の中で丸まっていました。
どうやら怪我をしているようです。
「ちょっと転がり落ちちゃったんだ。もうダメかと思ったら、ほら、見て」
震える手でトラが持ち上げたのは、虹色に光る羽根のような形をした何かでした。
「アキヤラボパの羽根だ。やっぱりいたんだ。それで俺を助けてくれた」
トラが言うには、この羽根で木を引っ掻いて樹液を舐めるなどして生き長らえたと。
大きな羽根はそれだけでも武器になりそうに見えました。
「トラ、とっても体が冷えてるわ。さあこれを」
族長が掛けてくれた毛布をトラに巻き付けて、洞の入り口をふさぐようして丸まると、クプリの体を冷気が包み込み、雪が背中にふわりととまっては溶けていきます。
そういえば、村を出てからほとんど飲まず食わずでここまで走ってきましたが、空腹はあまり感じません。
クプリはトラを見つけた安心感からか急に眠くなってきました。
木の洞の中でふたりでぎゅうぎゅうになりながら、村を襲う悲劇をトラに報告するうちに、クプリは眠ってしまいます。
囀る小鳥の声に目を覚ましたのはトラでした。
温かな毛布の肌触りに、昨夜のことが夢ではなかったと気付きます。
トラを守るように眠っているクプリは、心なしかいつもより肌が白く見えました。
「クプリ?」
声を掛けますが、目を覚ます様子がありません。
体を揺すってみますが、反応がありません。
よく見ればクプリは体中が傷だらけです。
「クプリ! クプリ!」
どうにかクプリの体と自分の体の位置を変えて彼女を揺さぶりますが、クプリはいつまでもされるがまま。
もう大きな瞳でトラを見ることも、小さな口でその名を呼ぶこともありません。
夢うつつに聞いていた村の話も思い出しました。
もしかしたら、村ももう誰も生きてはいないかもしれません。
トラは泣きました。
一体なんのためにここまで来たのかわからなくなってしまったのです。
クプリがいなくなってしまったら、トラにはもうなんの目的も目標もないのです。
もう少しだけ太陽が上昇して、白い雪の表面がキラキラと輝き出すころ、トラは洞から這い出てきました。
クプリがこれ以上傷つかないように毛布でくるんで、背負います。
トラはクプリと一緒に山頂を目指すことにしたのです。
だってもうトラに帰る場所なんてないのですから。
そこから山頂までの道のりでは、またも雪がふわふわと振りました。
それはまるで羽根のように見えましたが、トラが求める羽根はこれではありません。白ではなく、虹色に輝く羽根なのです。
もっともっと上を目指します。
ついにたどり着いた山頂は、雪なんて降っていませんでした。
あたり一面が虹色に輝いて、歩けばシャリシャリと音がします。
ナイフのように硬質な羽根がたくさん落ちて、ここがアキヤラボパの住処だとすぐにわかりました。
「アキヤラボパ! アキヤラボパ!」
トラが呼びます。
けれどもそれらしい鳥の姿は見つけられません。
急に辺りが暗くなりました。太陽が雲に隠されたのかもしれません。
「アキヤラボパ! アキヤラボパ!」
もう一度叫んでみます。
ここはアキヤラボパの鋭い羽根が敷き詰められているので、クプリを寝かせてやることができません。
落とすことのないように背負い直します。
『よく来た、ヒトの子』
頭に響くような不思議な音が聞こえましたが、なぜかトラにはその意味がわかりました。
これはアキヤラボパの言葉に違いありません。
見上げれば、大きな鳥が頭上を舞って太陽の光を遮っていました。
「アキヤラボパ……俺を死なせてくれ」
『ほう?』
「クプリと一緒にいさせてくれ」
トラはここに至るまでにたくさん考えました。
自分が山に来なければクプリを失わずに済んだに違いないと。
けれども、ここへ来なければ村が襲われることはなく、クプリはやはり春になれば嫁いでしまうのです。
彼女の命を失うことはなかったとしても、ラヌバヌでの生活で彼女が幸せになれたとは思えません。
ずっと一緒にいようと誓い合った言葉を、今こそ実現するべきなのです。
『其を呼んだは吾よ。其の命、もとより貰い受けるつもりであった』
太陽のように輝くトラの魂を気に入ったのだと言います。
『しかし今は曇りおる。その娘が濁らせたか』
「ちがう。クプリがいないから濁るんだ」
『然り。だがまだ足りぬ』
「村が心配だ」
『然り。憂いを払えば其の命、吾がもらう』
アキヤラボパは大きな翼をはためかせ、大きなクチバシでトラを摘まむと、大きな空へと飛び立ちました。
グナバナ族の村では、結局ラヌバヌまで攻め入って来て、今度こそ勝ち目など万に一つもなくなりました。
グナバナ族の者たちは、覚悟を決めます。
外へ戦いに出た男たちは撤退の判断が早く、怪我人こそあれ死者はそう多くありませんでしたが、もはや時間の問題です。
彼らは追い詰められてしまったのですから。
グナバナ族たちが、神の山アファタンへ最後の祈りを捧げたとき、それはやって来ました。
虹色の大きな鳥です。
伝説に聞くアキヤラボパに違いありません。
ひと声大きく鳴いて、翼を広げます。
ばさばさと落ちて来た虹色の羽根は、あっという間にグナバナ族の村の周りを囲いました。
鋭利なその羽根は、敵の攻撃にもびくともしませんし、どかそうとしても切れ味鋭く触れられません。
さらに一声アキヤラボパが声をあげると、攻めて来た他部族の者たちが苦しみ始めます。
どうやら頭痛に襲われているようです。
神鳥であるアキヤラボパがグナバナ族を守ったという噂は、大陸全土にあっという間に知れ渡りました。
もう誰も、グナバナ族に手を出そうと考える者はいません。
グナバナ族に平和が訪れたのです。
そんなグナバナ族には、それから伝承がひとつ増えました。
彼らを助けた神鳥アキヤラボパの背中には、グナバナ族一番の守り手であるトラと、族長の娘であるクプリが乗っていたのだと。
天を舞う鳥の背から、いかにも幸せそうに、嬉しそうに、笑顔で手を振っていたのだと。
彼らがグナバナ族の真の守り手であったのだと。
お読みいただきありがとうございましたー