捨てることからはじめよう
習作のひとつをテストで投稿させて頂きます。
特に意味のあるストーリー等はないです。
ものを捨てることから始めよう。
大学生活を間近に控えた高校最後の春休み、僕はそう思いたった。
実家で僕に与えられた四畳半の部屋は、僕が十八年の間に蓄えてきた様々なもので埋め尽くされていたからだ。
このままでは上京する際に困ることが目に見えている。
僕は段ボールを三つ用意した。
残しておくもの、売るもの、捨てるものだ。
僕はまだ肌寒さを感じる初春の日の差し込む部屋で、半日かけてものを整理した。
これは売れる、これは要る、これは捨てる……。
iPhoneのモノラルスピーカーから流行らないロックを流しながら、僕はひとつひとつ自分の所有物を点検した。
そうしているうちに、僕は穏やかな絶望のような感情を覚えはじめた。
そこには本当に必要だと思えるものが、自分が想像していたよりはるかに少なかったからだ。
残しておくものの段ボールに詰められたものたちは、だいたいがいくらでも替えがきくようなものだった。
文房具や辞書は残しておくには少しばかりくたびれすぎていたし、服もこの春から大学生になる人間が着るにはいささか子供っぽい印象を感じた。
僕がこれまでの青春の中で傾倒したCDや小説や漫画のたぐいですら、またレンタルするなり中古で買えば済む話だった。
大学にだって図書館はあるだろうし、古本屋も山ほどあるだろうし、音楽データは全てリッピングしてHDDの中に収められていた。
僕の周りのものは大量生産品で埋め尽くされていた。
そこに代替不可能なものはほとんど存在していなかった。
僕のまわりのありとあらゆるものは簡単に替えがきき、二度と取り戻せないようなものは存在しないように思えた。
そして同時に、僕は僕という存在も他者にとってはいくらでも替えがきく大量生産品のひとつでしかないように感じた。
もちろんたとえば両親にとっては、僕という存在は決してそんな簡単に替えのきくものではないだろうとは思った。
僕は両親が僕のことを愛している、大切に思っていることは理解できたし、それを否定することはできなかった。
しかし両親の存在とは、僕が望んで手に入れたものではなかった。
僕が両親に不満を持っているということではなく、単純にそれが僕の意思によって勝ち得たものではない、ということだ。
そう思うと僕は途端にさみしいような気持ちになった。
結局僕は、この十八年の人生において、どれだけのものを自分の意思によって手にしてきたのだろう、と感じたからだ。
僕は自分自身が三月の静岡に降る季節外れの淡雪のように感じられた。
それはアスファルトに落ちた次の瞬間には水となって消えてしまうだろう。
結局僕は残しておくものを入れる段ボールに入ったもの全てを売るものと捨てるものの段ボールに入れ直し、そして最後にはその全てをもともとあった場所に戻してしまった。
これを処分してしまったら、なんだか僕が僕として生きてきた証のようなものが消えてなくなってしまうように感じたからだ。
しかし全てのものを片付けなおしたあとで、僕はそれらを既に《処分するもの》としてカテゴライズしてしまったことを、それらを使うたびに思い出さずにはいられなくなった。
そして何か新しいものを手に入れた時ですら、それらを無意識に分類してしまう自分に気がついた。
これも、それも、結局は本質的にはいくらでも替えがきく……そんなふうに思ってしまう自分がいた。
その数年後に、それがいかに高慢な考えか気がついた時、僕は僕のまわりから大切なものを失い続けていた。
あるいはその時気がつかなければ、それは永遠に失われていたかもしれない。
そしてその時になって気付いたかもしれない、替えのきかないものに気づけなかった自分の愚かしさに。
その時仕分けに使った段ボールは、今でも畳んで実家の四畳半の部屋に残してある。
それは僕にとって、象徴的な道しるべのようなものとなった。
段ボールで出来た道しるべだ。
頼りないが、それでも立派な道しるべに変わりはなかった。
僕は高校生と大学生のはざまのあの日に、ぴしりと音を立てて生き様が変わったのだ。
あれは間違いなく僕の人生のターニングポイントのひとつだった。
そう思い返すと、あの段ボールはやはり道しるべとしか言いようがない。
しかし短絡的に見ると、その日僕は、部屋にまたひとつ捨てられないものを増やしただけでしかなかった。