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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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エピローグ

「どこ行ってたの?」

 一矢が近所のコンビニで朝食を調達して戻って来ると、紫乃がリビングで膝を抱えてテレビを眺めていた。一矢が昨夜着ていたシャツをすとんと身につけ、剥き出しの細い足が艶かしい。

「朝ゴハン。作ってあげたいところだけど、何せ調理器具はここにないし」

 みんな『echo』に持って行ってしまった。

 ビニル袋を床に置き、紫乃のそばに座ると、やや寝ぼけ眼で紫乃が笑った。

「おはよう」

「……はよ」

 照れ臭い。まだ体中に夢の残滓が感じられるような気がする。

「これ食ったら、事務所まで送るよ」

 紫乃は本日は事務所に行くことになっていると聞いた。ちなみにGrand Crossはと言えば、昼過ぎに嶋村家のスタジオに行くことになっている。紫乃とゆっくりしていたいのはもちろんなのだが、なかなかそういうわけにもいかない。

 名残惜しい気がして一矢は紫乃を抱き寄せた。柔らかい感触に、再び狂おしい時間を過ごしたくなってしまう。

「神田くんさあ」

「神田くんはやめてくらさいと言いませんでしたっけ?」

 昨夜一矢の腕の中での言葉を持ち出され、紫乃が微かに赤くなった。もごもごと何かを言って、それから「はい……」と俯いて頷く。

「何?」

「かん、か、一矢はさあ」

「はいはい」

 紫乃を腕から離して、ビニル袋に手を伸ばす。テーブルもないので床の上にサンドウィッチやおにぎり、ドリンクを並べていると、紫乃がのそのそと膝を抱えた。

「お父さんと、いつか和解すれば良いんだよ」

「はぃー?」

 昨夜の、体を重ね、口付けを交わす狭間の時間に、この部屋を出て行くことと父親とのこと、甘えがあった自分を感じたことなどを紫乃に話した。

「お父さんの気持ちはあたしにはわかんないけど、かん、一矢の言う通り親だって言う意識があるからお金出してたんだと思うもん。それにはやっぱり、お礼を言わなきゃいけないと思うもん」

「うん、まあ……」

「そしたらさ」

「うん」

 紫乃が一矢の後ろに回って、背中からぎゅっと抱き締めてきた。

「お父さんは出来るかもだよ」

「お父さんは出来る?」

「いつか……一緒の家族になれるかもだよ」

 一矢が『紫乃の夢は叶えてやれない』と言ったことに対する言葉だろう。

 一矢は小さく笑って頷いた。

「うん……そうだな……」

 少なくとも今しばらくは意地がある。まだ会いには行かない。まだ会いには、行けない。

 けれどいつかきちんと自立して、経済的にも安定して、仕事の上でも胸を張って「これでやっていく」と言えるようになったら――今よりもう少し大人になったら。。

 その時には、再び会いに行ってみても良いのかもしれない。

 吉と出るか凶と出るかはわからないが、それが何らかの契機のひとつにはなることだろう。

 そんなふうに考えてぼんやりしていると、一矢を後ろから抱き締めたまま紫乃が静かなことに気がついた。ふと振り返ると、窓の外に視線が釘付けである。辿っていくと、Blowin'の新譜を告知する巨大看板が窓から見えた。

「あんたなあ……」

 まだ完全に忘れたわけではないことぐらいわかってはいるが、癪なものは癪である。

 紫乃が一矢に視線を戻し、にやーっと笑った。

「やきもち?」

「は〜あ〜? 何があ?」

 言いながら体を捻って紫乃を床に転がす。あっけなく転がった紫乃に覆い被さるように額へ口付けた。

「ちょお……」

 そのまま唇を塞ぐ。

「俺のことだけ考えさせようかと思いまして」

「思いましてじゃ……ちょ、馬鹿、どこ触ってんのえっちッ」

「何とでも言え」

 人は幸せを願えば、一人きりでは手に入らないことに気づく。

 そして傷を恐れていては、本当の人間関係は築けない。

 肝要なのは傷を受けるのを避けることではなく、受けた傷をどう乗り越えていくかなのだとわかった。痛みを知ることで、人を知り優しさを知る。

 迷いはあるだろう。

 悩みは尽きないだろう。

 けれど、自分が変われば周囲も変わる。自分が変わらなければ、周囲も変わらない。

 鏡の中に閉じ篭って一人で膝を抱えていても、幸せは永遠に手に入らない。

「紫乃」

 ならば、外に踏み出して自分から掴みに行こう。受ける傷もどうせいつかは、必ず癒えるのだから。

 その時、今の自分より少しでもましになれていれば最高じゃないか。

「一緒に、幸せを見つけていこう」

 紫乃のことを本当に好きだと思っている。

 心の底から、大切にしていこうと思っている。

 幸せにしてやるとは言えないかもしれない。

 だけど、二人で幸せになろう。

 一緒に幸せを作っていこう。

 人間は、考え方ひとつで、幸せが手に入るように出来ているのだから。

「うん」




 傷ついたことも、傷つけたことも、全てを心に刻みながら。

 この先の人生で、隣を見ればこの笑顔がある――その幸せだけは、決して手放すことのないように。












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