第20話(5)
小さく息を吐いて、一矢は軽く顔を横に振った。
わかりきっていたことなのだから、落ち込んではいけない。紫乃が如月を想っていることは最初から知っていた。知りながら惚れたのだから、己の咎だ。
「会いてーなー」
小さく呟いてみる。風がこの願いを紫乃の元へ運んではくれないだろうか。
一度で良い。彼女を腕に抱きしめたかった。
叶うことのない望みが一矢を苛む。けれど、だから人を好きになるのは嫌なのだとは思わないことにした。
半年の間に一矢は大きく変化をした。生活も変わった。いろいろな変遷を経て、あの頃と今では考え方も変わった。紫乃を好きになって良かったのだ。忘れていた『何かをしてやりたい』と言う気持ちを思い出した。京子が想ってくれたことで、人の気持ちの温かさが蘇った。それで良いではないか。少なくとも、空虚な人の砂漠を当てもなく心彷徨うより、彩られていくはずだ。
周囲にもいろいろな恋愛の形を見た。いろんな形があるのだ。ひとりひとりに想い方があり、二人になればまた形が変わる。そうして二人のやり方を築いていく――それも、信頼関係という奴なのだろう。
人の心はマニュアライズされることはない。その人に合ったやり方を見つけていく。それは、相手を深く知りたいと望み努力しなければ出来ることではない。
残念ながら一矢がそう望んだ相手は応えてはくれなかったけれど、いつかはこのことも笑えるようになるだろう。この痛みを乗り越えれば、それは確かに一矢の経験値となるのだから。
負った傷と向き合うことで、人は痛みを知る。
痛みを乗り越えることで、本当に人を思いやることを知る。
笑顔が戻った時、自分はほんの少しましな人間になれているだろうか。
渋谷の街に背を向けて、ベランダの柵に背中を預ける。がらんとした部屋の中はとても人が住んでいるとは思えずに、一矢は小さく笑った。
明日からは明弘の部屋に行くことになるが、明弘に引きずられて元の生活に戻ってしまわないように自制しなければ。
そんなふうに思っていると、どこからか規則正しい音が聞こえてきた。耳を澄ませてみるが、その頃には静寂が戻る。
(気のせいか?)
しばしきょとんとしていると、再び音が聞こえた。携帯の振動音だ。
そう気づいて部屋の中に戻る。携帯は明日持っていく衣類を詰めたバッグのポケットの中だ。
取り出して開いてみると、一瞬目を疑った。紫乃? どうして。
何か言い忘れたことでもあったのだろうか。
小さく息を飲んで通話ボタンを押す。
「はい……」
「神田くん」
流れて来た声は、確かに紫乃のものだ。そう理解して、今更のように鼓動が速くなる。紫乃が今頃になって電話をしてくる理由が思いつけなかった。
「どした?」
何かあった? けれどもう少し時間が経ってからならばまだしも、さっきの今で何かあったからと言って泣き言を言うために電話をしてくるとは考えにくい。
大人しく紫乃の回答を待っていると、紫乃が微かに笑うのが聞こえた。
「今、家?」
「うん、まあ」
「良かった」
そこで一度言葉を切ると、紫乃は大きく息を吸い込むようにして続けた。
「会いに来た」
「……………………はッ?」
我ながら素っ頓狂な声を出せるものだ。
しかし馬鹿なことに感動をしているような精神的余裕はどこにもない。――会いに来た? どこに? ……誰に?
「神田くんに、会いに来た。今、家の前。マンションを見上げてる」
一矢の胸中を読んだように紫乃が付け足す。一矢は固まった表情のまま、言葉を無理矢理押し出した。
「……ええと? 止めを刺しに?」
「ばか」
紫乃が笑う。違うようだ。
「家の前? いるの?」
「そう」
「……すぐ行く」
わけはわからないが、とりあえず鼓動は速い。
通話を切りながら一矢は部屋を飛び出した。エレベーターが来るのを待つ時間さえもどかしい。
ようやく来たエレベーターに乗って降りる間も、気が焦って仕方がなかった。降りてみたらもういないような、そんな不安感が胸の内につきまとう。
だから外に駆け出してそこに紫乃の姿を見つけると、ようやくほっと息をついた。夢ではない。紫乃は確かに、一矢に会いに来たのだ。
「紫乃……どうし……」
ガラス扉を出ながら声をかける。一矢の姿を見つけた紫乃が同時にこちらへ向かい、そして――。
「え?」
ふわりと、一矢に体を寄せた。背中にそっと腕を回され、何が起きているのか理解が追いつかない。
「紫乃……」
一矢の呟きに応える代わりに、一矢の体を抱き締めた腕に力が籠もる。そのまま一矢の胸に、紫乃が頬を寄せた。
「あの、え? ええと、え?」
混乱しながらも鼓動だけが加速していく。わけがわからないながらも、とりあえず抱き締め返してしまう自分の本能が恐ろしい。
「すみません、俺、状況がさっぱりわからないままでとりあえず『らっきー』とばかりに抱き締め返してますが」
「……ぶ」
「せっかくなので解放してやる気はゼロなんですが、解説がもらえるとありがたいなーとか……」
情けない。抱き締め返す腕が震えている。体内に心臓しかないのではないかと思うほど鼓動だけが聞こえた。顔を微かに俯けて、紫乃の髪に頬を寄せる。微かに香りが上り、気が狂いそうな愛おしさが込み上げる。
「神田くん」
「はい」
「こんなに心臓ばくばくしてたら、死んじゃうよ?」
「……原因であるあんたが言わんで戴きたい」
「あたしが原因なんだ」
「あんた以外におらんでしょーが」
緊張感のない会話を交わしながら、しかしその声は震えていた。――会いたい、一度だけで良いから抱き締めたい。そんな願いを聞き届けてくれたのだろうか。
馬鹿みたいに速い鼓動も、抱き締め返す腕が微かに震えているのも、紫乃にはみんな伝わっているだろう。
紫乃が笑った。
「何だ、良かった」
「はあ?」
「神田くん、今更女の子にどきどきなんかしないかと思ってたよ」
「……もしそうなら俺は多分恋愛傾向を変更していると思います」
これは、夢だろうか。
紫乃が今自分の腕の中にいる。可愛い笑い声を上げている。ほんの今し方までは紫乃の諦め方を考えていた。会いたいと思い、切なさに眩暈が起きそうだった。
確かな現実であると知りたくて、腕に力を込める。髪に顔を埋めたまま搾り出した声は、まるで泣いているみたいだった。
「紫乃……何で……」
「さっきの答えを取り消したいの」
「え?」
「駄目?」
答えを取り消したい?
腕の中に紫乃を閉じ込めたまま見下ろすと、紫乃の方も少しだけ切なそうに目を細めた。
「あたし、神田くんのそばにいたい」
「……あの……え?」
「もう遅い?」
目を瞬く一矢に、紫乃が僅かに不安そうな表情を覗かせた。
「遅く……ない……」
掠れた一矢の答えに、紫乃がもう一度強く一矢を抱き締める。
「え、でもだって……如月さん、は……?」
紫乃は無言で一矢の胸にきつく自分の頬を押し当てた。
「……ないの?」
「え?」
「どうして、『俺が忘れさせてやる』って言ってくれないの?」
「……何、言って……」
「強気になってよ。もっと強引になってよ。『忘れろよ』って言って」
少しずつ起こっていることがわかり始める。
紫乃を忘れる必要はないと言うことだろうか。
確かに紫乃は、『一矢のそばにいたい』とそう言った。
「時にはちょっとぐらい強引になって」
甘えて拗ねるようなわがままに、胸を衝かれた。
言っても良いのか? 強引になっても良いのか? それを……一矢に望んでいる……?
「……んなこと言うと、このまま部屋に連れて帰っちゃうぞちくしょう」
「ちくしょうて」
「この前みたいに紳士でいてやんないぞ。何すっかわかんねーぞ……」
「えーと、刺されたりバラバラにされたりするのは嫌だけど」
「どんだけ猟奇的だよ俺」
呆れた顔で言ってやると、紫乃がくしゃりと笑った。なぜかそれが、ひどく幸せそうな笑みに見えた。
本当なのだろうか。今のこれは、現実なのだろうか。
「お前のこと、諦めなくて、いーのか……?」
まだ現実感がなくて掠れた声で尋ねると、紫乃が一矢を見上げたまま優しく目を細めた。
そして、精一杯爪先立つようにして。
「諦めないで」
紫乃の唇が、一矢の唇にそっと重ねられた――。
紫乃が、電気を消したままの暗い部屋で窓際に佇んでいる。
華やいだ時間を過ぎた渋谷の街は灯りも減り、しかしながらそれはそれで眠りを孕んだ美しい夜景を作り出している。
彼女がこの部屋にいるのを見るのは二度目だ。
しかし今日は前回と違って、一矢と紫乃以外はいない。
先ほど重ねられた唇が、抑えつけた欲望を引き出している。近付けば彼女に何をするか自分がわからず、一矢はリビングの出入り口の壁に寄りかかって紫乃の背中を見つめていた。
「随分、物がなくなったね」
そう言って振り返った紫乃は、ドアのところに佇んだままの一矢を見つけて小さく笑った。
「そんなところで」
「そばにいくと自制する自信がない」
「そんな猛獣みたいな」
「微妙」
紫乃への想いを繰り返し飲み込んできた。
先ほど一度絶望を突きつけられ、そして今度は二人きりの空間……それも自分の部屋に紫乃がいる。
重ねられた唇に欲望が刺激された。抱き締めた温もりがまだ腕に残る。
「ねえ。こっち来てよ」
窓際に張り付いたままで、紫乃が少し寂しそうに首を傾げた。そんなふうに言われて跳ね除けられるほど強靭な精神力など持ち合わせがない。
背中から紫乃を抱き締めると、紫乃は抵抗なくすとんと一矢に体を預けた。抱き締められるままに、再び外へと目を向ける。
「京子ちゃんに会ったの」
ぽつんと言った言葉に、冷水を浴びせられたような気になった。
「……そう」
「うん。嫌いって言われちゃった」
「……」
「今は」
悲しげな自嘲するような響きに息が詰まる。やはり紫乃と京子の友達関係にヒビを入れてしまった。ヒビを入れたのは、自分の軽率な行動だ。
「でもね」
「うん」
「神田くんのことを傷つけないでって……」
「京子が?」
「そう。……あたしが神田くんのことが好きなら、行けば良いって」
紫乃の声が潤んでいく。紫乃を抱き締める一矢の腕に、紫乃の涙がこぼれ落ちる。
「あたし、京子ちゃんに背中を押してもらったの。京子ちゃんの方が傷ついてるのに、京子ちゃんが背中を押してくれたの」
「……」
「嘘ついてごめんなさい。本当はさっきも、頷きたかったよ」
泣きながら告げる紫乃の言葉に、先ほどの電話から紫乃もまた悩んでいたことを知った。京子のことを考えて、頷くことが出来なかったのだろう。一矢は自責の念に駆られた。
「ごめん……」
自分の過ちが、紫乃もまた遠回りさせてしまったのだとわかった。
「あたしは本当は、神田くんが京子ちゃんとつき合い始めた時に嫌だった。だけど悲しい思いをしたくなかったから、自分の気持ちから目を逸らしたの。考えたくなかったの。だってそしたらあたしは、京子ちゃんとライバルになってしまう」
「うん……」
「だけどあたし、神田くんに会いたかったの」
泣きながら訥々と語る紫乃の言葉が嬉しくもあり苦しくもあった。今二人でここにこうしている陰で、京子が泣いている。多分神崎も。
一矢にとってはいけすかない神崎だけれど、紫乃にとってはきっとそちらも重たいだろう。
だけど、それをわかっていてもようやく腕に抱き締めた紫乃を離すつもりはなかった。
「ごめん。……だけど」
「うん……?」
「大事にするよ。大事にします……。本当に。だから……」
「……」
「だから、俺のそばにいて下さい」
紫乃の温もりと微かな香りが泣きたいほどに恋情を昂ぶらせた。
「俺……紫乃の夢は叶えてあげられないけど」
「あたしの夢?」
「母親は蒸発してますし、父親とはほぼ絶縁状態ですので」
一矢の言葉に、紫乃は腕の中で体を捻った。一矢を見上げて微笑む。
「気が早いの」
「だって俺、お前を離す気ねぇもん」
「ほんとかなあ」
「本当。……そう宣言しとかないと、脇から虎視眈々と狙ってそうな奴もいるし」
ぼそっと言うと、紫乃が目を瞬いた。わからないようなので教えてやる。
「神崎」
「……ああ」
紫乃が切なげに目を細めた。
「カンちゃんに、言ってきたよ」
「言ってきた?」
「うん。神田くんのところに行くって。……そばにいたいって」
「……」
「酔っぱらった京子ちゃんに呼ばれたところまでカンちゃんに送ってもらって、飛鳥ちゃんが来たから京子ちゃんに預けて……多分京子ちゃんは飛鳥ちゃんと如月さんが送ってくれたと思う」
それはまた豪華なメンツである。
「主要陣揃い踏みですな……」
呆れたような一矢の評に紫乃が吹き出した。
それから紫乃が涙の収まった目で一矢を見上げる。どちらからともなく重ねた唇に全身が熱くなる。
誰より愛しい。もう自分の気持ちに嘘をつかなくても良いのだ。抑え付ける必要はもうないのだ。
紫乃は、一矢のそばにいたいとそう言ってくれたのだから。
「……あー」
「『あー』?」
「俺、もう制御不能になる自信が……」
繰り返すキスの合間の小さなぼやきに、紫乃が困ったように眉根を寄せた。間の抜けた顔がまた愛しさをかき立てる。
「そんな自信はどうかと思うでしょ?」
「あんたに惚れてから禁欲生活ですから」
「いや普通だから、それ」
「さっき『強引になっても良い』って言った?」
「言ってない」
「変更不可」
紫乃の長い髪に片手を絡ませ、想いを込めて深く口付けながら、いつか美保に言った言葉を思い出す。
「紫乃」
「ん……」
今まで、欲しがっていた幸せは与えられなかった。
ならば自分で作っていけば良い。
「愛してる……」
幸せは与えられるものではなく、目を見開いて見回せばきっとそこにあるものなのだから。




