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In The Mirror  作者: 市尾弘那
81/83

第20話(4)

「……」

 その通りだ。

 唇を噛んで俯く。下ろしっ放しの長い髪が簾のように紫乃の横顔を覆った。

「ごめんなさい……」

「かずやのきもちをしってたから、あたしにやめとけっていったの?」

「え?」

 何のことだろう。

 目を瞬くと、京子はむずかる子供のようにもどかしい表情を見せた。

「まえにいったもん。やめなさいって」

「ああ……」

 紫乃が一矢の気持ちを知るより更に前のことだ。

 思い出して、紫乃は顔を横に振った。

「違う。京子ちゃんに言った通り……京子ちゃんが傷つくと思ったの。だって神田くんは、自分で他の女の子と遊んだりするって言ってたから」

「ふうん。ふたりで、あたしのことわらってたわけらなかったんら」

「違う!」

 反射的に叫ぶ。京子は相変わらず茫洋とした目付きで紫乃を見上げていた。その顔を見て、涙が込み上げてきた。

「違う。それは違うよ。京子ちゃんは裏切られたと思ってるかもしれない。ううん、そうなのかもしれない。だけど、だけどね。神田くんだって京子ちゃんを傷つけたくて付き合い始めたわけじゃないよ」

 最初から別れるつもりで付き合ったりなどしないと言った声は、苦かった。

「あた、あたし……あたしは……」

「しのちゃんは?」

「あたしは……」

 自分は、裏切ったことになるのだろうか。

 なるのだろう。京子の気持ちを知りながら、確かに一矢に惹かれ始めた。いけないと知りながらも一矢のそばが居心地良くて、二人で会った。

 涙を懸命に飲み込んでいると、京子がくいっと紫乃の髪を引いた。

「んじゃあ、あたしがわるいんだ」

「え?」

「かずやにすきになってもらえなかったあたしが、いちばんわるいんだね」

「そうじゃない!」

 どれほど努力をしたところで、それが形になるかどうかわからない――それが恋愛だ。

 愛される為に努力を払っても顧みられず、何もしなかった人間が愛されると言うことが普通に起こる。理不尽の塊なのだから。

 けれどそれは好きになってもらえなかった人間が悪いのでも、好きになれなかった人間が悪いのでもない。ただの現実、そういうことなのだ。

 だから京子が悪いわけではない。好きになれなかった一矢が悪いのでもない。

 しかしそれをどう伝えて良いのかわからずに、紫乃は涙を溢れさせた。

「ごめんなさい……ッ」

 結果として、京子が深く傷ついているのは確かなのだから。

「あやまらないれ」

 しばし言葉をなくしたまま溢れ出した涙を懸命に抑えていると、ややして京子がぽつんと言った。

「あやまってほしくない」

「でも……」

「しのちゃんも、かずやがすきなの?」

「あたしは……」

 嘘をつけない。

 だがはっきりとも答えられずに京子を見つめていると、京子はふいっと顔を逸らした。

「すきなんだ」

「……ごめんなさい」

「すきにすれば」

「京子ちゃん……」

 投げ遣りな言葉に聞こえて胸が詰まった。しかし京子は、取り立てて荒っぽくも責めるふうでもなく同じ調子で続けた。

「すきにすればいーじゃない」

「京……」

「らってあたし、もうしのちゃんがきらいになったから」

 胸に突き刺さった。息が詰まるほど痛い言葉だ。ショックで黙ったままの紫乃に構わず、京子は続けた。

「らから、あたしはしのちゃんがどうしようが、もうしのちゃんのことがきらいなんらから……かんけーないれしょ」

「京子ちゃん」

「どうしたっておなじなんらから。らから、しのちゃんもすきにすればいーじゃない」

 衝撃を受けたまま京子の言葉を聞いていた紫乃は、ややして「あれ?」と思った。

 京子の言葉は、紫乃を突き放している。突き放しているのだろうけれど……。

「京、子……ちゃん……?」

 一矢のことが好きなのならば京子のことは気にせずに一矢のところへ行けば良いと……そうも聞こえないだろうか。

 紫乃が一矢と付き合おうが付き合わまいが、その結果に関係なく京子は紫乃が嫌いだと。だからもう京子のことなど気にしないで良いのだと。

 そう、言っていないか?

「なに」

「だって……」

「らって?」

 言葉をかけようとした瞬間、足音が聞こえた。

「京子ちゃん!」

 聞き覚えのある声に振り返ると、なぜか飛鳥が駆けてくるところだった。いつの間に来たのか、神崎の姿が少し離れた場所に見える。

「飛鳥ちゃん」

「あ、あすかちゃーん」

「紫乃ちゃんッ? どうしたのッ?」

 へらーっとにこやかに笑う京子をよそに、紫乃と飛鳥は驚いて互いの顔を見た。

「あたしは京子ちゃんに呼ばれて……」

「あたしも」

 どうやら京子は酔っ払って飛鳥にも電話をかけたらしい。

 息を切らせた飛鳥は、紫乃と並んで京子の前にしゃがみ込んだ。

「良かったあ、紫乃ちゃんがいてくれて。どこか行っちゃってたらどうしようかと思った」

「如月さんと一緒なの?」

「う、うん……」

 紫乃がかつて振られたことを気遣ってか、飛鳥が曖昧に頷く。その顔を見て、紫乃は優しく目を細めた。うまくいっているのだ。それで良いと、自然に思うことが出来た。

「そう……。良かった」

 それから、飛鳥の姿を見て相好を崩した京子に向き直る。

 嫌いだと言われたことは悲しい。けれど、京子の真意を確かめたい。

「あたしのこと、嫌い?」

 覗き込むように尋ねる紫乃に、京子はぼんやりと顔を向けた。しばし無言でその顔を見つめ、それからこくりと頷く。

「もうきらい。しのちゃんがいなければ、かずやがそばにいてくれたかもしれない」

「……」

「らから、いまはきらい」

「今は……?」

「また、すきになれるまれは、すこしじかんがかかるかもしれない」

 また、好きに……?

 飲み込もうとしていた涙が再び込み上げてくる。そういうことなのだ。傷ついている今は紫乃のことを許せないと思うけれど、時間が欲しいと。

 思わず京子を抱き締める。京子はされるがままに、紫乃の腕の中で呟いた。

「かずやがすきなの」

「うん……」

「いまもすきなの。とってもすきなの」

「うん……」

「らけろ、しのちゃんのことがすきらっていうんらもん……しょーがないじゃない……」

「……」

「かずやを、きずつけないで」

「……ごめんなさいッ……」

 寄りによって京子に背中を押してもらうなんて。

 止まらない涙に両手で顔を覆う。

「飛鳥ちゃん、京子ちゃんをお願いして良い?」

「う、うん……。紫乃ちゃん……?」

「京子ちゃん。ごめんね。あたし……」

 妙にあどけない顔で京子が紫乃をじっと見上げた。その顔を見て言葉に詰まり、無理矢理に押し出す。

「あたし、神田くんのところに行ってくる……」

「いってらっしゃい」

 わかっているのかいないのか、すっとぼけた京子の答えを受けて紫乃は立ち上がった。酔っ払っている京子の言葉、だからこそそれは本心なのだと信じたい。

「紫乃ッ」

 飛鳥に京子を預けて歩き出しかけた紫乃は、こちらを見据える神崎の目線に足を止めた。

 やや離れているとは言え、こちらの声は聞こえていただろう。

「カンちゃん」

「行くのかよッ……」

「ごめんね。あたし……」

「……」

「あたし、神田くんのそばにいたい」

 ようやく涙を収めながらの紫乃の言葉に、神崎はふっと顔を逸らした。悔しさを押し殺しているような表情で、ぎゅっと目を瞑る。

 神崎はそのまましばらく沈黙をしていた。それから、ややして半ば搾り出すように言った。

「……お前が決めることで、俺が決めることじゃない」

「うん……。そうだね」

「……」

「行ってくるね」

 その言葉を最後に、紫乃は走り始めた。

 一矢の家は、道玄坂から渋谷駅を越えて向こう側だ。走っていける距離にある。

 赤に変わり始めた信号を渡り、まだ人の行き交う狭い歩道をすり抜けた。既に0時になろうとしている。だいぶ人気は減っているものの、それでも皆無ではない。

 坂を下りる途中、歩道に寄せて停めた見覚えのある車を見つけた。紫乃も乗ったことがある如月のシルビアだ。

(こんなとこに)

 京子を気遣ったのか、少し距離を置いて停めたらしい。運転席に見える如月はぼんやりとしているようで、紫乃の姿には気がつかなかった。それが彼らしくて、紫乃は一人で小さく笑った。

 あなたのことが、とっても好きでした。

 だけど、ようやく忘れられそうになってるの。

(今なら……)

 今なら、心から祈れる。

 飛鳥ちゃんと幸せになってね。

「あ、ごめんなさい!」

 ぶつかった誰かに謝りながら、小走りに坂を駆け下りていく。

 ごめんなさい、京子ちゃん。

 ごめんなさい、カンちゃん。

 ごめんなさい、神田くん。

 さっきの答えを取り消しさせて。

 ようやく抑え込んでいた自分の気持ちと正面から向き合って、切なさで胸が苦しくなった。

(あたし……)

 あたし、あなたのことが必要だよ。

 あなたのそばにいたいよ……。


「良かったんですか?」

 地面にべったりと座り込んだまま、京子はぼんやりと飛鳥の声を聞いていた。京子に向かって言った言葉ではない。顔を上げると、飛鳥は後ろを振り返っていた。先ほど京子がいた居酒屋の前に小柄な男性が立っている。D.N.A.の神崎だとは、一応わかった。

「良いも悪いもねえだろ……ないじゃないんですか」

 ぞんざいに言い返してから、言葉を直す。飛鳥や京子とさして面識がないことを思い出したらしい。

「でも……」

 飛鳥が口篭った。飛鳥は神崎のことを知っているのだろうか。神崎と紫乃は何かあったのだろうか。

 考えかけたが、すぐにどうでも良いと思い直した。

 どうでも良い。そんなことは。重要なのは、紫乃が一矢のところへ行ってしまったことだ。

「紫乃とあいつのことはあいつらが決めることで、外野がこれ以上ごちゃごちゃ言ったってしょうがないでしょう。……あいつがもう、決めたんだから」

 外野……そうだ、自分は外野だったのだ。

 酔いでぐらぐらと揺れる視界の中、見上げた神崎の顔は苦く歪んでいた。それを見てわかった。この人は紫乃のことが好きだったのだ。

(同じだね……)

 京子と同じ立場に立たされているのだ、彼も。

 ぼうっと神崎を見つめていると、神崎がやがてこちらに向かって歩いてきた。見上げる京子を見下ろして、それから隣の飛鳥に目を向ける。

「それよりあんたら、どうすんの。足ないなら送るけど」

「あ、ううん。ええと、あるです。あります」

「……あんたが運転でもするの?」

「……ちーがーいーまーすーけーどー」

 一瞬ぎょっとした顔をして見せた神崎に憮然とした顔で飛鳥が言い返すと、神崎は小さく笑って「あ、そ」と呟いた。そして踵を返す。

「じゃあ、帰りますんで、俺。……お疲れです」

 そっけなく言って歩き出す背中を見つめ、京子は悲しい気持ちになった。きっと彼もこれから家で一人、苦い思いを飲み込むのだろう。

 そう思って悲しさが増した。

 紫乃は、一矢のところへ行ってしまった。

「京子ちゃん、帰ろう?」

 急激に涙が溢れ出した。

 一矢に別れを告げられてから、たくさん泣いた。今までこんなに泣いたことはなかったと言うくらい、たくさん泣いたのだ。なのにまだ涙が出る。

「かずやが……」

 最初に出会った記憶は、うっすらと覚えている。顔も名前も覚えていなかったけれど、優しい人だと記憶に残った。もう一度会いたいと思っていた。飛鳥にそう話したこともある。その時から淡い恋はきっと始まっていた。

「うん?」

 再会出来た時に、再び心が騒いだ。背の高い京子より更に長身なのも、正直言えば嬉しかった。優しげな顔つきや柔らかい癖のある話し方も好きだった。時折見せる少し寂しげな目つきも、からかうような表情も、温かい大きな手も、何気ない仕草も全て。

 一矢を作り上げている全てが大好きだったのだ。過ごす時間を重ねるごとに想いは深まるばかりだった。

 なのに、その全てを失った。いやきっと手に入ったことなど一度もなかったのだろう。

「京子ちゃん……」

 気づいたら泣き出していた。悲しくてたまらなかった。

「かずやぁー」

 泣き出してみると、泣き始めたことが感情を刺激して京子は一層激しく泣き出した。何せ酔っ払いである。女王様に怖いものなどない。

 いいや。思い切り泣いてしまえ。

 地面にぺたりと座り込んだまま、空を仰いで思い切りわあわあ泣き声を上げる京子に、飛鳥がびくりとした。

「きょ……」

「うわあああんッ」

 思いっきり声を上げて泣いてみると、それはそれでどこか爽快ではあった。どうせ普段なかなか出来ることではないのだ。恥も外聞もない今、そばにいる飛鳥には悪いけれど思い切り泣いてしまおう。

「ふッ……ひっく……う、あーん……」

 一矢、一矢、大好きだった。大好きだよ。

 だけど、お別れだね。さよならするね。

 綺麗に忘れるには少し時間がかかるかもしれない。少し待ってね。

 あなたのそばにいたかった。一番近くであなたを見ていたかった。誰が何と言っても、わたしにはあなたしか見えなかったの。

 だけど――さよなら。

 幸せに、なってよね……。


          ◆ ◇ ◆


 もうすぐ日付が変わろうとしている。

 五月最後の日。朝が来たら、今日でこの部屋とはお別れだ。

 がらんとしたリビングでぼんやりとテレビの画面を眺めていた一矢は、一向に気分が晴れないことに辟易してテレビを消した。

 静かになった部屋に、時折遠くから車のクラクションの音が届く。部屋の電気を消すと、一矢は窓を開けてベランダに出てみた。この時間になれば渋谷の夜も少しは落ち着いてきている。

 風が静かに一矢の髪を揺らした。

 紫乃の答えはわかっていたことではあった。けれど突きつけられてみればやはり堪える。この先に続く長い人生のどこにも紫乃はいないのだと思えば気は遠くなるばかりだ。






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