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In The Mirror  作者: 市尾弘那
80/83

第20話(3)

 自分は、逃げていたのだから。

「泣くなよ。俺のせい?」

「……」

「俺は答えが聞きたかっただけだから、別に傷ついてないよ。……あ、すげー嘘とか思ってる? 馬鹿言えよ、お前に傷つけられるほどか弱くねーし」

「……」

「おーい。紫乃ちゃん? 紫乃ぷー」

「……ぶ。何それ」

「いや、明弘が『ちゃん付けする気にならねー』とか言ってそう呼んでたから」

「コロスって言っといて」

「殺し方まで考案して仔細にお伝えしておきます」

 紫乃の気を逸らそうと敢えて叩く軽口までが切なかった。一矢の気持ちに応えたい。想ってくれる気持ちも痛いほど感じている。なのに頷けない。

 小さな笑い声を上げてみせながら、後悔の渦の中で身動きが取れなかった。息が詰まりそうだった。これ以上話していると、会いたいと言ってしまいそうだった。

 だから、切ることにした。

「そろそろ、切るね……」

「あ、ごめん。仕事中やね。うん、ごめん」

「ううん。じゃあ……」

 最後の言葉を言いかけた時、一矢が思い出したように付け加えた。

「あのさ」

「うん」

「気にせんで。泣いて欲しくないし」

「……」

「まぢで。今まで通り、よろ」

「……うん」

 また涙が溢れ出す。今まで通りなど、出来るだろうか。

 けれど辛うじて頷いた紫乃の答えに、一矢は少しほっとしたように笑った。

「ん。さんきゅ。んじゃあね。頑張って」

「うん。……ばいばい」

 通話を切って携帯を床に置く。そのまま紫乃は、声もなく蹲った。

 応えたい。応えたい。嬉しいと思ってる。本当に本当にそう思ってる。そばにいられたら、きっとこれからどんどん好きになっていけるとそう思える。失恋の痛手から立ち直れたのはきっとあなたのおかげだと思っているのに。

(馬鹿な奴でごめんね……)

 だけどこれ以上京子を裏切ることは出来ないよ……。

 一矢に惹かれ始めた時点で、きっと自分は京子にとって裏切り者なのだから――……。


          ◆ ◇ ◆


 間もなく神崎が、遅れて武藤と大神が到着し、スタジオでの仕事が開始された。どことなくそわそわしたままで、深夜になって仕事を終える。

 いつも神崎か武藤が家まで送ってくれるが、本日武藤はこのまま彼女のお迎えに行くと言うので神崎の車に同乗させてもらうことになった。

 今のところ神崎は紫乃に回答を求めては来なかったけれど、今日は予感があった。神崎が来た時、紫乃はまだ泣きはらした顔をしていたのだ。何があったのか聞かれないはずはない。

 それを思えば「歩いて帰る」と言いたい気分である。けれど断ることで神崎を傷つけるのも意固地にするのもまた怖い。

 結局大人しく神崎の車にこうして揺られている。

「Bメロのパイプ、なくしちまうのも手かもしんねえな」

「えー。もったいないよー。せっかく綺麗なのに」

「いっそべったべたなオルガンに変える」

「変えない」

 車に乗り込んで少しの間は仕事の流れを引きずっていた。一矢のことは、極力考えないようにしていた。

 けれど、ふとした心の透き間に一矢のことを考える。今頃何をしているのだろう。今日はオフだったのだろうか。家にいるのだろうか。

 ――傷ついた? 傷ついた、よね……?

「紫乃」

 会話の流れが変わったのは、信号待ちで車が停止した時だった。紫乃の心は一矢の元へと飛んでいた。

「え? 何?」

「返事がないってことは、俺と戻るのは無理ってことなんだよな」

「……」

 前触れのない言葉に、心の準備が出来ていなかった。けれど答えだったら確かに決まっている。神崎とは戻れない。曖昧に誤魔化すより、答えてしまうべきだ。

 無言のまま小さく頷くと、神崎は視界の隅でそれを認めたようだった。目を伏せる。

「そか」

「うん……」

「わかった。……いーよ。別に」

 神崎は長い間紫乃を見て来ている。これからもメンバーとしては変わらずそばにいることだろう。それは兄にも近く、紫乃がこれからするだろう恋愛をも含めて見守る覚悟――だったのかもしれない。紫乃にはそれは、わからない。

 沈黙のままの車内に、外の喧噪が微かに流れ込んでくる。脇を通り過ぎる若者の集団に目を向けながら、神崎が沈黙を破った。

「でも、あいつだけはやめとけよな」

「え?」

 はっと顔を上げる。

「さっき何で泣いてたんだよ」

「……」

 やはり聞かれた。神崎らしい直球。こういう聞き方をしている時は煙に巻くような逸らし方は効かない。

「別に……」

 口ごもって言葉を濁す。神崎がちらっと視線を向けたのがわかった。

「ごまかすな」

 けれど神崎はその回答を短く却下した。信号が青に変わり、ゆっくりと車が動き出す。車内は再びの沈黙に包まれた。

「俺が駄目なのはわかった。だけど、あんな奴やめとけ」

 今度も沈黙を破ったのは神崎だった。風景に向けていた視線を、思わず神崎の横顔に向ける。

「あんな奴って」

「Grand Cross」

「……和希さんだったら彼女いるよ」

 わかっていてわざと逸らす。神崎は感情の読めない表情のままで小さく息を吐いた。

「そいつの話じゃないだろ」

「……」

「あいつ、ろくな奴じゃねーじゃん。わかってんだろが」

「そんなの……」

 決め付ける神崎の言葉に反発心が湧き上がる。確かに問題はいろいろ抱えているかもしれない。けれど、少なくとも前の一矢とは変わって来ていることを紫乃は知っている。決め付けないで欲しい。決め付けてはいけない。

 神崎は、一矢の何を知っている?

「……わかんないじゃん。そんなの、決め付けないでよ」

 思わず庇うような言葉が出た。これでは煽るだけだと言ってしまってから気がつくが、言ってしまったものは手遅れである。神崎が目をすっと細めた。

「お前、あいつに惹かれてってるように見える。随分前からそんな気がした。……あいつが好きなのかよ、お前」

「そんなことはッ……言って、ないけど!」

「じゃあ今の言葉は何なんだ?」

「だって、それはその、好きとか好きじゃないとかって話じゃなくて。神田くんがろくな奴じゃないかどうかはわかんないじゃんって言ってるだけで……」

「へえ」

 そこまで言ってから、更にしまったと思った。神崎はまだ一言も一矢の名前を出していなかった。それ以上敢えて言わなかったのだろうけれど、紫乃が名前を出したことで「好きなのか」と尋ねられた時に咄嗟に紫乃が思い浮かべたのは一矢だと言うことになってしまう。

 口を開けば墓穴になりそうで、紫乃はまた口を閉ざした。神崎も何も言わなかった。

 その時、紫乃のバッグの中で携帯電話が鳴った。

「紫乃。電話」

「……わかってる」

 答えながら、内心一矢だったらどうしようと言う思いが過ぎった。

 そんなはずはないのだけれど、万が一にも一矢からだったら神崎の隣では非常に出にくい。神崎の機嫌が悪くなることがわかりきっているのに、まともな受け答えが出来ると思えない。加えて言えば自分が怖かった。さっきの返答を取り消したくなる。……待って、と言ってしまいそうだ。応えたい。応えたいと思っているのに、と。

 今すぐにでも取り消しに駆けつけたいほど――……。

 違うことを祈りながら取り出した携帯のディスプレイを見る。表示された名前に、紫乃は落胆と動揺が同時に込み上げるのを感じた。

 落胆は、一矢ではなかったことだ。出られないと思うのに、かけてきて欲しかった。

 動揺は、そこに表示されている名前が京子だったからだ。

「もしもし……」

 神崎がこちらを伺っているのを感じながら、電話に出る。緊張で手が微かに震えた。一矢は先ほどこう言わなかったか――「京子は俺の気持ちに気づいてた」と。

 ならば、二人が破局した原因が紫乃にあると考えた京子が、紫乃に怒りを覚えていても不思議はなかった。

「しのちゃん」

 電話越しに雑音混じりの京子の声が聞こえる。

「うん」

「しのちゃん、いまどこ」

 どこか投げ出すような話し方に、紫乃の鼓動が速くなる。

 京子は普段、とても優しい話し方をするのだ。おっとりとしていて相手を常に気遣っているのが感じられる。しかし、今の声音には優しげな京子の声の片鱗もなかった。怒りを感じたような気がして、紫乃は膝の上でぎゅっと手を握り締めた。

「今、渋谷駅を過ぎたところ……」

「ふうん。あたしもしぶや」

「そ、そうなの?」

「うん。どーげんざか。……しのちゃん、きてよ」

「え、ええ?」

 どこか高圧的と言うか、上から目線と言うか、そんな話し方をする京子に些か驚いた。怒りがそうさせているのかもしれないが、怒っていたとしても普段の京子からは考えにくかった。

「あの、道玄坂の、どこ……?」

 恐る恐る尋ねると、電話の向こうで京子の声が一瞬遠くなる。「えぇとねー」と辺りを見回しているような空気が伝わってきて、やがて京子が電話口に戻って来た。

「くろきやのまえー」

 黒木屋?

 全国チェーン展開の居酒屋の名前を出され、頭の中で場所を探しながら神崎の方を見る。一矢からではないと踏んだらしい神崎は険のない目付きできょとんと紫乃を見返した。

「道玄坂の、黒木屋の前にいるの?」

「そう」

「ちょっと待っ……あ、あそこか」

 確か渋谷駅から続いているマークシティを出てすぐの辺りにあったような気がする。

「あたし、しのちゃんにはなしたいことがあるの」

「……うん」

「あたし、しのちゃんのこと、おこってるんらから」

 おこってるん『らから』?

「……京子ちゃん?」

 それまで京子に責められることを覚悟して緊張していた紫乃は、その言葉でようやく京子の呂律が怪しいことに気がついた。もしかするとこれは。

(酔ってる?)

 しかもかなり酔っているのではないだろうか。

「あに?」

「あの、も、もしかして酔ってるの?」

「しのちゃん、すぐくる?」

「あ、うん。すぐ行く。道玄坂の途中にあるマークシティのトコの黒木屋の前だよね」

 運転をしている神崎に殊更わかるように聞き直すと、神崎が目を瞬きながらこちらを向いた。それにこくこくと頷いてみせながら、片手で「ごめん、お願い」のポーズをつくる。京子は何か遠くでふにゃふにゃ言っているのが聞こえた。

「京子ちゃん?」

「らめらなあ……」

「あの……」

「あたし、しのちゃんにもんくをいう」

「……はい」

「らから、すぐにきなさい」

「はい……。あの、本当にすぐに行くから。すぐだから。だからそこから動かないで」

 これを一人で放っておいたら危なっかしくて仕方がないではないか。

 紫乃を呼び出したことなど忘れてふらふらとどこかへ行ってしまいそうな京子に念をしつこく押すと、紫乃は一度通話を切った。

「カンちゃん、ごめん!」

「別に俺は構わねーけどさ……」

「あの、あたしのこと下ろしたら帰って良いから」

「つか、Opheriaの大橋京子? 神田のオンナだろ」

 わざとに違いない。

 神崎の意地の悪い言い方に一瞬唇をぎゅっと噛み、それから言い直す。

「京子ちゃんだよ」

「うん。酔ってんじゃねえの?」

「そうみたい」

「だったら足がいるんじゃねーか? いーよ、待ってるよ」

 言われてみれば確かにそうだ。あの雰囲気では一人で帰らせるわけにはいかない。

 道玄坂の方へ方向転換した車の中で、紫乃は気が気ではなかった。どこかへふらふらと行ってしまっていないだろうか。誰かに引っ掛かったりしてないだろうか。そしていつかもこんなことがあったと思い出した。

 もう1年半以上前のことだ。京子を初めてGrand Crossが出るライブに連れて行った時も、京子はぐだぐだに酔っ払ってしまった。そして紫乃の前から行方を晦まし……一矢と出会った。

 あの時から、道はこの痛みへと続いていたのだろうか。

 自分の痛みと一矢の痛み、そして京子の痛みへ。

 違う道の歩き方もあったはずなのに。けれど自分も、一矢も、そして京子も……ここへ続く道のりを歩いてきてしまった。

 もう戻れないのだろうか。

 誰の想いも叶わないままに、ただ傷だけを負って。

 一矢との電話を切ってから、頭の中をぐるぐると同じ問答が駆け巡る。

 あたし、神田くんのそばにいたいよ。彼の気持ちに応えたい。嬉しかったの。だって一緒に幸せを探していけるような気がするの。本当は京子ちゃんと付き合い始めたって知った時から、嫌だった。寂しかった。切なかった。怖かったの。目を逸らしてたの。ごめんなさい。

 だけど、京子ちゃんを裏切って良いの? 友達だよ。駄目だよ。出来ないよ。そんなことしちゃいけない。だって彼女は、あたしなんかよりもずっとずっと神田くんのことを想ってる。

 じゃあ神田くんの気持ちはどうなるの? 蔑ろにして良いの? あたしも応えたいと思っているのに、すれ違ったまま終わって良いの?

 でもだって、出来ないよ……!

「あれか?」

 出口の見えない想いに泣き出したいのを堪えていると、神崎がぽつりと言った。いつの間にか車は道玄坂を半ばまで上り、マークシティの出入り口はすぐそこだ。

 細い道路に挟まれた三角州のような部分に、座り込んでいる女の子の姿が見えた。

「京子ちゃん……」

「そこ、停められっかな……いいや。停めるぞ、とりあえず」

「うん」

 道路の脇に車を寄せてもらい、外へ飛び出す。

「京子ちゃん!」

 しゃがみ込んで蹲っている京子に駆け寄ると、京子が顔を上げた。茫洋とした顔つきをしていた。

「あ。しのちゃん」

「京子ちゃん、大丈夫?」

「らめ。しにそう」

「あの、吐いてく……」

「かずやがそばに、いてくれない」

 ずきんと胸に痛みが走った。

「京子ちゃん……」

「あたしじゃらめっていわれたよ」

 何と答えれば良いのだろう。

 紫乃も、のろのろと京子の前にしゃがみ込んだ。

 後ろを通り過ぎる人の目線など気にしていられない。それほど心の余裕がない。多分、京子も。

「あたし、しのちゃんのことおこってるの」

「……うん。知ってる」

「しってる? そうらよね。しのちゃん、かずやのきもち、しってたんらもんね」

「……」

 目を見開いて京子を見つめると、京子は座った目で紫乃を睨みつけた。

「あたし、かんがえたんらから。あたしが『かずやにちかづかないで』っていったとき、しのちゃん、こころあたりがあったからすんなりうなずいたんらなって」

「あ……」

「らって、いきなりそんなこといわれたら、ふつうはわけわかんないよね」





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