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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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第20話(2)

 どれほど華麗な音を出したとしても、ピアノの出す重厚で人の心に響きわたる音にはかなわないと思う反面、多機能であらゆる遊び心を搭載したキーボードにはそれならではの面白さや音作り、そして感動があると思う。ピアノの代わりに弾き始めたそれは、残念ながらピアノの代わりにはならなかったけれど、ピアノは与えてくれなかった世界をくれた。今では別物と認識している。

 しばし一心に鍵盤を奏でていた紫乃は、やがてふう……と息をついて指を止めた。ヴォーカルと言うポジションに立つようになって、悔しいことに少し腕がなまった。

(うー。悔しいなあー)

 思えば最初の頃は、神崎よりも紫乃の方が上手かったのだ。けれど今では神崎の方が圧倒的に鍵盤屋としての腕前を確立している。

 そう思ってから、紫乃はのそのそと椅子の上で膝を抱えた。両膝にことんと顎を乗せて、目を伏せる。

 神崎にはまだ、何の回答もしていなかった。

「どうしたらいいの?」

 小さく呟いてみる。

 誰にも聞こえない安心感に満足して、もう一度呟いてみた。

「あたしは、どうしたいの?」

 神崎と寄りを戻すことは考えられない。もう考えることが出来ないのだ。出来ればあのまま、そっとしておいて欲しかった。今D.N.A.が壊れることになったらと思うと堪らなかった。

 けれどこれもまた自分の身勝手だ。それは、神崎に自分の気持ちを殺しておけと言う要求に他ならない。

「あぁーあああああーぁぁぁぁーぁぁああああー、何でこんなことにいー!」

 もう変人とでも何とでも言ってくれ。

 誰に対してだか半ばやけくそのような気分で思う。

 なぜ自分がこんなに落ち着かないのか、良くわからなかった。一矢が京子と付き合い始めたことに思いがけない衝撃を受けていることに、そしてそれによって一矢との関係に制限がかかったことへストレスを感じていることに、紫乃は気づいていなかった。……いや、敢えて目を逸らしていた。

 悲しい想いをするのは、もう嫌だ……。

「うわあああ」

 突然ポケットで携帯が振動をした。入れっ放しのジーンズのポケットから気色の悪い感触を受けて、思わず声を上げる。ひとりでうるさい女性である。

「はいはいはいはい」

 無駄に返事を繰り返しながら引っ張り出す。そして表示された名前を見て、心臓が跳ね上がった。

(神田くん……)

 なぜだろう。手が微かに震えた。跳ね上がった心臓は、そのまま速い鼓動に移っていく。心に余裕がなくなっていく。そんな理由など、どこにもないはずなのに。

(京子ちゃんの彼氏さんからの電話!)

 言い聞かせながら、なぜか少しだけ出るのが怖かった。携帯は手の中で振動を続けている。

「はい」

 やがて紫乃は観念して通話ボタンを押した。出るのは躊躇ったけれど、切れてしまうのはもっと嫌だった。

 だって、声が聞きたいと思っていた。

「紫乃?」

 耳元で名前を呼ばれて、心が震える。同時に京子の泣き出しそうな顔が蘇った。彼女は紫乃にこう頼んだのだ。「一矢に近付かないでくれ」と。

 だから紫乃は、一矢と距離を置かなければならない。

「はい」

 言い聞かせて、ぎこちない声で答える。けれど反面、その声だけで安心する自分がいる。どれだけ言い聞かせても、今まで何度も自分を掬い上げてくれた声だと体がわかっている。

「今、スタジオ?」

 なぜか一矢の声も、どこか硬いように聞こえた。いつもの軽快さがなく落ち着いたその声は、からかってばかりいる一矢を意外なほど大人びて思わせる。

「そう。良くわかったね」

「ああ、うん……まあ……」

 駄目だ。この声を聞いていると、甘えたくなってしまう。聞いて。今日憧れてたプロデューサーに会ったの。そうしたら、音楽業界の汚いところを見た気がしたよ。ねえ、そんなもんなのかな? そんなことないよね。目指そうとしている場所は、そんなところじゃないはずだよね……。

 喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 友達の彼氏に甘えて良いはずがない。

 ましてやその友人からは、近付くなと言われているのだから。

 そう思うと、一矢との間に距離を感じた。見捨てられたような寂しい気持ちになった。

「あのさ、一人?」

「今?」

「そう」

「うん。一人」

 短い言葉を交わしながら瞳を閉じる。会って話したい。つまらないことで笑い合えれば、こんな腐った気持ちなどきっとすぐに吹き飛ぶのに。

 どうして会いたいと思ってしまうのだろう。答えは自分で見えている。半年足らずの短い期間なのに、一矢のそばでは素直な自分でいられるのだ。飾らない自分――元気な時も、元気ではない時も。半ば家族のような神崎や武藤とは違い、一矢の気持ちを知ってから異性として意識し始めたくせに心許している。多分今、誰のそばにいるより一番心地良いのが一矢のそばなのだ。

 そう考えて、自分ですぐにその考えを打ち消した。

 いや、そんなはずはない。沈むかもしれない。自由にはしゃぎ合うことは、もう許されない。

 瞳を閉じたままで、紫乃は抱えた自分の膝に額を押し付けた。込み上げる切なさが胸を塞いで泣きたい気持ちになった。その理由は考えたくないから考えない。一矢も、言葉を探すように沈黙をした。

「神田くん?」

 その間が余りにも長いので、顔を上げて沈黙を破る。紫乃の声に、一矢が電話の向こうで我に返ったような声を上げた。

「あ、ごめん」

「何? いたずら電話?」

「どんだけ明確に犯人バレだよ。違ぇよ」

 呆れたような声が嬉しい。泣き出しそうなままくすくす笑っていると、一矢が受話器の向こうでふうっとため息をついた。

「お前に、話しとかなきゃなんないと思って」

「うん?」

「俺、京子と別れた」

 咄嗟に言葉が出なかった。

「……え?」

 ようやく出た言葉は、それだけの短いものだった。一矢が繰り返す。

「京子と別れた」

 その時の自分の気持ちがどういうものだったのか、自分でも良くわからない。ショック、であるのは多分確かだろう。けれど同時に心の片隅でほっと息をついた自分がいなかったか?

「どうして……」

 問い返しながら、いつかの一矢の告白が蘇る。まさか。

「どうしても……」

 一矢が言いにくそうに、少しつらそうに言葉を一度切った。続く言葉の予感に、紫乃の鼓動が加速していく。まさか。まさか。

「どうしても、あんたのことが好きだから」

 鼓動が一際大きくなり、同時に泣き出しそうになった。そして次の瞬間紫乃は椅子から盛大に転げ落ちた。

「うぎゃあッ」

 派手な音を立てて椅子が転がる。同時に吹っ飛んだ携帯電話は壁の方へと勢い良く滑っていき、キーボードに被害がなかったことを感謝しながら紫乃は慌てて携帯に飛びついた。

「ご、ごめん」

 一矢の返事はない。

「あのう、神田くん?」

「…………お前は俺の耳を破壊したいの?」

 やや間をおいて、完全に呆れきったような声が聞こえる。それを聞いてほっとしながら、床にぺたんと座り直して謝罪をする。

「ごめんー」

「何、今の盛大なの」

「や……」

 動揺し過ぎて椅子から落ちたとは言いにくい。

「えーと、携帯電話がなぜか飛んでった」

「……。超能力者でもそこにいるの?」

「んにゃ。自然現象」

「……」

 完全に逸れてしまった話に、互いが短く沈黙をする。気を取り直したように一矢がその沈黙を破った。

「だからまあ……」

「……うん」

「俺のことで、少し悩んで欲しくなったって言っとく」

「え?」

「俺の気持ちに対して、あんたの答えを知りたい。今すぐじゃなくても良い。俺は、あんたが好きだよ。付き合いたい」

(うわあッ……)

 一矢も緊張しているのだろうか。受話器越しに聞こえる声は、いつもと少し違って聞こえる。聞き慣れない硬い声がやけに鼓動を加速させた。

 どうしたら良いだろう。泣き出したい。嬉しかった。こみ上げる涙とそして――。

(京子ちゃん)

 ――罪悪感。

「……れで……たの?」

 京子はどうしているだろう。泣いているだろうか。泣いているに決まっている。なのに心の片隅に安堵している自分がいるのだ。何と言うことだろう。

(あたしの馬鹿!)

 どこかでほっとしている自分を嫌悪しながら、紫乃は声を押し出した。

「それで、別れたの……?」

「……」

「き、京子ちゃんは……」

 どうしよう。何を言えば良いのだろう。何と言えば良いのだろう。

「京子ちゃんは、いーの?」

(馬鹿ー! 良いわけないだろがー!)

 思い切り自分に突っ込みながら、それ以上言葉が出てこない。一矢も沈黙した。

「良いわけはないと思う」

 ややしてぽつりと声が聞こえる。どこか自嘲するような、苦い響きがあった。

「だけど、俺にはこれ以上どうしようもない」

「だって、そんな……」

「……」

「ひどいよ……」

 責めてどうする。

 けれど、京子のことを考えれば言わずにいられなかった。つき合うことになったと、恥じらいながらも幸せそうに微笑む顔を覚えている。京子は確かに一矢のことが好きだった。本当に本当に好きだったのだろうと思う。今はどんな気持ちでいることだろう。

「だったら」

 けれど安堵している自分も確かにいる。唇を噛んで黙っていると、何かを押し殺すような一矢の声が聞こえた。

「だったら他にどうしろって言うんだよ」

「だって! つき合ってたのに」

「お互いわかりきってたのに、何もない顔してつきあい続けろって言うのか!? 京子は俺の気持ちに気づいてた、それを見ないふりして『好きだ』って嘘でもつくのかよッ……」

「……」

「出来ねえよそんなことッ! お前は出来んのかよ……!」

「じゃあ何でつき合ったのよ!」

 反射的に怒鳴り返す。電話の向こうで一矢が一瞬黙った。それから、呻くように答えた。

「それは、お前には答える必要はないだろ……」

「だって! だってわかんないよッ……」

「忘れたかったんだよッ」

「……」

「お前のことを諦めたかったんだ。京子が真面目に想ってくれてることぐらいわかってた。ゆっくりでも好きになれれば良いとは俺だって思ってたさ。傷つけたくて付き合い始めたわけじゃない……! 最初から別れるつもりで付き合ったりするかよ! だけどお前じゃなきゃ嫌だって気づいた、どうしても嫌だったんだ。それに気づいたのに、それでも京子とつき合い続けるなんて出来るわけがないだろ……ッ」

 涙が出てきた。

 何で泣いているのかは良くわからない。そこまで一矢が好きでいてくれたことを知って、嬉しいのもあるだろう。

 けれど京子の気持ちを考えれば苦しいのも間違いなくある。

 そして……。

「駄目だよ」

 応えてはいけないと禁じる自分が、切ないのかもしれなかった。

 一矢が押し黙る。

「駄目……」

「……」

「……それが、答え」

 それきり言葉が出ない。声を出したら、泣いていることに気づかれそうだった。何で泣いているのだろう。

「俺の気持ちに対する答えが、それなんだ」

 確認するように一矢がぽつりと言った。

「そう」

 わかった、と一瞬だけ少し遠くで声が聞こえた。切なさを飲み込んだような響きに胸が苦しかった。

「理由だけ、聞いてみても良い?」

 やや間をおいて一矢が問う。答えを探して、紫乃はしばし黙った。京子を理由にはしたくなかった。

「……」

 見つけられない。

「如月さん?」

 沈黙を守る紫乃に、口を開いたのは一矢だった。言われて頷きかけ、そして声が出なかった。……この違和感は、何だろう?

 『今でも如月が好き』――多分嘘ではない。忘れたと言えば嘘になるのだから。けれど違和感を覚える。自分の心理状態がわからなくて、紫乃は混乱した。

「あの……」

「まあ、しゃーないやな」

 傷を笑顔で覆うような一矢の言葉に、紫乃は返答に詰まった。

 このまま電話を切ってしまって、本当に良いのか?

「如月さんがまだ忘れられないかぁ……」

 紫乃の沈黙を肯定と解釈したらしい一矢が、小さく呟く。それから微かに笑った。

「ま、勝てるとは思ってなかった。勝ち負けって話でもないけど」

「ち……」

 また口を開きかけて言葉を飲み込む。何を言うつもりだ? 『違う』? 『違う』ならば何だと答えるつもりだ?

「神崎とは結局、寄り、戻してないんだ?」

「……うん。カンちゃんと戻ることは、きっと、ないと思う」

「ふうん……」

 違和感の理由は恐らく如月への想いが霞んできているからだ。忘れたと言い切れるほど綺麗に消えてはいないけれど、確かに傷は癒えてきている。もうすぐ過去の想いと笑えるようになるに違いない。

 思いがけず早く立ち直れそうなのはきっと、一矢が手を貸してくれたからだ。一人でいられない時に心を掬い上げる言葉をくれた。一人でいられない時にそばにいてくれた。

 そう。いつかも思ったことではないか。一矢が「俺にあんたが必要なんだと思う」と言っていた時に。

 そうじゃない。逆だ。必要としているのは多分、紫乃の方なのだ。一矢のそばで、紫乃は少しずつ自分の姿を取り戻すことが出来たと言うのに。

 一矢のことを好きかと問われれば、それにも微かに違和感が残る。多分如月とは逆の理由だ。言い切るにはまだ少し足りないのかもしれない。けれど確実に惹かれている――惹かれ始めている、まさにその最中にいたのだから。

 そして自覚した瞬間に、それは恋と呼ばれるものに形を変える――はず、だったのだろう。

「紫乃?」

 自分の馬鹿さ加減に眩暈すらする。凍りついたように見開いたままの両目から、大粒の涙が零れ出して止まらなかった。

 けれどもう手遅れだ。一矢は京子と別れたかもしれないけれど、今更どのツラを下げて一矢と付き合える? 京子の前で?

 確かに自分は一矢に惹かれ始めている。一矢のそばにいられれば、きっとその気持ちは確かなものになるだろうと言う予感もある。けれど、京子が想うほどに自分は一矢を想えているのか? この先の話ではない。今だ。

 それなのに京子から一矢を奪うことなど、出来ないではないか。

「……たし……」

 一矢と京子が付き合い始める前ならば、まだ少し状況は違ったかもしれない。あの頃にそのことに気づけていれば、まだ少しは良かったのかもしれない。

 けれどあれほど幸せそうに「付き合うことになったの」と笑っていた京子が今どんな思いをしているのかを考えれば、いけしゃあしゃあと一矢の気持ちに応えるなど出来るはずがないではないか。

「……めんね」

 涙が止まらなかった。

 気がつかなければ良かった。京子が友達でなければ良かった。

 けれど、全てが遅い。

「紫乃?」

 もう泣いていることは隠せそうにない。一矢が驚きを含んだ小さな声を上げる。

「泣いてんの?」

「……」

「何で? どうした?」

 そんな優しい声を出さないでよ、と胸の内で呟く。優しくされる資格などない。気遣われるような人間じゃない。惹かれ始めていた自分に気づかず……いや、正確に言えば目を背けていた。恋をするのは怖かった。京子とライバルになんかなりたくなかった。だから心の片隅で時折聞こえ始めた自分の声に、耳を塞ぎ続けた。

「紫乃……?」










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