第20話(1)
「生きてたのね」
久々に訪れた麻美の部屋で、コーヒーカップを一矢の前に差し出しながら麻美がそう宣った。余りな言い種に苦笑しながら、一矢は礼を言ってカップに手を伸ばした。
「ひどいな」
「そう言いたくもなるわよ」
冷たく言い捨てる麻美は、相変わらず綺麗に整った顔と艶やかな髪を見せていた。会うのは数ヶ月ぶり……啓一郎に「好きな女が出来たんだったらちゃんとしろ」と言われて以来である。
「どうしたの。突然。寂しくなった?」
麻美の言葉に小さく笑うと、一矢はゆっくり顔を横に振った。
「麻美さん、俺の愚痴、良く聞いてくれたから。挨拶くらいはしとこうかと思って。何の断りもなく音沙汰なくなっちゃったから」
湯気と香りの立ち上るコーヒーに口をつけてそう笑う一矢に、麻美が切れ長の目を瞬いた。
「何よ? 死ぬの?」
「……」
なぜ死ななければならないのだろう。
思わずがくりとテーブルに伏せ、そのままこみ上げるおかしさを殺しきれずに笑う。
「何笑ってんのよ。失礼な奴ね」
「どっちがー!? 数ヶ月ぶりに会って『死ぬの?』の方がよっぽど失礼でしょー!?」
笑いながら言い返す一矢に、やがて麻美も吹き出した。それから自分のカップに細い指を伸ばす。夏を意識したマリンブルーとパールホワイトのマニキュアが鮮やかに目についた。
「で、死ぬんじゃないなら何なわけ?」
「お世話になりました」
「は?」
柔らかい笑顔を崩さないまま麻美を真っ直ぐ見つめる一矢の言葉に、冗談を言っているわけではないと感じたのか麻美が目をしばたかせる。
「何……?」
「俺、甘えそうだから。ちゃんと言っておかないと」
意味を図りかねるように麻美が沈黙をする。それに笑ってみせて、一矢は言葉を探した。
「随分前に俺、麻美さんに『最低』って言われたの覚えてる?」
麻美が頷く。
「うん。俺ね、今振り返るとあの頃の『最低』の方がほんのちょこっとましだったかもしんない」
「どういう意味?」
「あん時は俺、わかってたもん」
遊びで何が悪い、最低で結構、それに引っかかる女だって自己責任――そう開き直っていた。あの頃は特にそれが顕著だっただろう。だからこそ紫乃に言ってのけたのだ。「京子が泣こうが知ったことじゃない」と。
「でも多分、その後……麻美さんと連絡を取らなくなってからの俺の方が最低だった」
無自覚に京子を振り回した。傷つけるつもりで傷つけたわけじゃない。けれど多分傷つけるつもりでしていた行動よりも、遙かに彼女をぼろぼろにしたのだ。真面目にやっていたつもりだからタチが悪い。一矢が素で持ち合わせている弱さが生んだ自然の結末とくれば救いようがない。
「何かあったの?」
麻美の問いに小さく頷く。
「つき合ってたよ。京子と」
麻美が一瞬ぽかんとした。
「ああ……『三文小説』?」
その表現に、一矢はまた笑った。しかし敢えて否定はしなかった。
麻美の言う通り京子に惚れていたわけではない。しかし、そうならばどんなに良かったことだろう。一矢が京子を好きになれていれば、誰も傷つかなかったのではないだろうか。神崎に殴られることもなかったかもしれない。京子は泣かずに済んだかもしれない。……そして、自分も。
「ふうん? 良かったじゃない」
「でももう別れたんだ」
「……」
「俺、今から自分の好きな奴に振られてくる」
麻美が真顔で顔を上げた。
「俺ねえ、気づいてなかったんだけどさ」
「うん?」
「俺の周りの人って優しい人ばっかなんだな。俺自身がぐだぐだで、甘ったれで、ずるくて……弱くて。だけどそーゆー情けない俺の周りは、良い奴ばっかなわけ」
「……あんたが悪いとこを見ないで良いとこばっか見てやってんじゃないの」
ようやくコーヒーに口をつけた麻美の言葉に、一矢は小さく首を傾げた。
「そんなことないよ。……ああ、うん。でもそうかもしんない」
「良い奴ばかりのわけがないのよ」
「そうかもね。だけど、そうだな……俺は嫌なとことか多分見たくないし、目を逸らしてるかもしれない。それは別に優しさとかそういう良い話じゃなくって、多分単に俺が見たくないからかな。……でもさ」
やや逸れた話の軌道を再び戻す。
「どっちにしても、俺が嫌なところから目を背けてるだけにしても、結果として優しいのは確かなんだ。俺は周囲の人に手を貸してもらって生きてて、そのことに気づいてなかった。甘えてて、ぐだぐだ」
話しながら視線を向けた窓の外は、今日も快晴だった。晴れた土曜の昼下がり。五月も明日でおしまいだ。
「だから俺は、彼女に振られたらまた甘えたくなるのかもしれない」
確認をするまでもなく、紫乃の答えなどわかっていると思う。けれど自身に区切りをつけるために確かめなければならないと思った。答えを見せつけられればきついだろうとは思う。けれどその痛みが、多分必要なのだろうと言う気もする。
「だけどさ、それじゃあ駄目なんだ。ひとりで生きていけるわきゃないんだけど、甘えないでちゃんとしなきゃなんないじゃん? 今までみたいなぐだぐだな生き方やめようと思ってるんだ」
「へえ」
「だけどさ……彼女に振られたら甘えたくなるかもしんない」
顔を麻美に戻して再び苦笑をする。
「ひとりになりたくないって思うかもしんない。麻美さんに会いたくなるかもしんない」
「……」
「だから保険かけに来た。逆の意味での保険」
「逆の意味?」
「そう。……前に遊んだりしてた女の子の連絡先は全部消した。もう誰もわからない。クラブに行くような金はない。家までちゃんと知ってて会いに来れちゃうのは、麻美さんともうひとりだけ。だけどもうひとりは最近彼氏出来たから、行けるわけがない。残るは麻美さんだけ」
「……」
「ここを出たら、麻美さんにももう会いに来ない」
「……」
「って宣言しとく」
そう笑う一矢に、麻美はようやく一矢の意図を理解したように目を細めた。
「ここまで言っておいて、寂しくて会いに来たりしたら俺本当にだっさださでしょ?」
「それ、本当にださださね」
甘えの出口を全て塞いでおきたかった。
自分は弱い。麻美のように甘えを受け入れてくれる人には際限なく甘えてしまいそうだ。
だから、全てを断ち切っておくことにした。
一矢にとって麻美は、堕落しきっていた生活の中の最後の砦だ。何も追及せず、求めず、ただ温もりと共に受け入れてくれる……麻美と明確に決別をすることは、甘えを断ち切ることの象徴とも言えるほどに居心地の良い存在だった。
だからこそ、麻美の元を訪れた。
もう、甘えられなくしてしまうために。
駄目人間なりに考えた行動だ。紫乃から受けるだろう痛みは、ひとりで乗り越えなければならないと思っている。
「女は一番が好きなのよ」
突き放して欲しい一矢の胸中を察したらしい麻美が、殊更憎たらしい口調で言う。
「他の女に振られてこっちに来るなんて話にならないわよ。頼まれたって部屋に上げないわよ。馬鹿ね」
「うん……」
「別の女の廃棄物なんて論外だわ」
「……廃棄物?」
そこまでは言っていないのだが。
「言ったでしょ、前に」
暴言のわりには優しい眼差しで麻美が駄目押しをした。
「あんたなんか、願い下げよ。……振られて来なさい」
「うん」
「二度とわたしの前に現れるんじゃないわよ。ひとりで立ち直りなさいよね」
「うん。……ありがとう」
麻美の部屋を出て自宅に一度戻った一矢は、明日この部屋を出て行く為に残りの細々とした片づけをしていた。
ちょうど良かったのかもしれない。フローリングの床を綺麗に拭きながらそんなふうに思う。
紫乃への気持ちも京子とのごたごたも、そして堕落していた自分の生活も……環境の変化と共に一新出来れば良いのだろう。
掃除を終えてみると、部屋はまるで引っ越して来た当時のように綺麗だった。いかにここに生活感がなかったかが良くわかる。重ねた年数以上に汚すほど、一矢はこの部屋で『生活』をしていなかった。
やがて日が沈み始め、部屋の中に宵闇が忍び込んで来る。その頃には部屋の細かなものも概ね片づいた。
リビングにあるのはテレビだけだ。これは明日、『echo』に運んでいくことにしている。ソファは先日寝室のサイドテーブルと共にバイトの後輩にやってしまった。京子が受け取ることは、もうない。
後は明日寝室のパイプベッドを分解し、布団とテレビと共にボロバンに詰め込んで運べば完了だ。一矢は最低限の衣類や小物と共に明弘の部屋に行く。
携帯を取り上げ、一矢はすとんと渋谷の街と向き合って座り込んだ。紫乃の答えを聞いてみるつもりだった。
もちろん、今すぐ答えろなどとは言えないけれど、京子と別れたことや今でもやはり紫乃が好きだと言うこと、そして一矢の気持ちに対する回答が欲しいと言うことは伝えなければならない。
今日はD.N.A.は個々に仕事が入っている。そして夕方からは渋谷のスタジオを押さえており、予想では恐らく最初にスタジオ入りするのは紫乃だろうと言うことだった。武藤に確認済みである。
その時間の隙間だったら、誰に邪魔されることなく紫乃と話が出来るだろう。本来ならば家にいる時間帯などが理想ではあるが、武藤も仕事後の紫乃の都合まではそうそうわからない。
携帯を操作して紫乃の電話番号を呼び出す。しばしそれを見つめ、それだけで鼓動が速くなっていった。手に嫌な汗がじわりと滲んだ。彼女に気持ちを伝えた時より、ずっと緊張している。
息が苦しく、胸が詰まるような気がした。やめてしまいたいような気分になる。投げ出したいほどの緊張に驚いた。
答えを聞くと言うのはこれほどプレッシャーを覚えるものなのだ。彼女の用意する答えによっては、これまでの友達関係さえ消失するかもしれない。
親指を発信ボタンに当てては離す。押そうとして躊躇い、躊躇ってはボタンに指で触れる。
(あほかよ)
自分に小さな舌打ちをした。迷っている間に時間が過ぎてしまう。そんなに時間があるわけではないのだ。どうせいつかは聞くつもりなのだから、やると決めたうちにやってしまった方が良いだろう。
押してしまえ。
鼓動がピークまで高まり、一矢は自分に強制して発信ボタンを押した。
番号を送信するような電子音が耳元から聞こえて来た。
◆ ◇ ◆
「おはよー。……紫乃ちゃん、何かあった?」
「おはよ。何で?」
「いや、顔が荒れてるから」
「顔が荒れてる……?」
紫乃がいつものリハーサルスタジオに到着すると、顔なじみのスタッフにいきなりそんなことを言われた。しかめ面で自分の頬を撫でながら、ルームボードと鍵を受け取る。
「何か嫌なことでもあったの?」
「仕事でちょっと。あ、多分30分くらいでカンちゃんが来ると思うんだ。じじとおーちゃんはその後かな」
「はいはい」
ちなみにおーちゃんと言うのはD.N.A.のマネージメントを務める大神亮太、29歳独身である。
スタジオ番号の書かれたプラスティックボードをひらひらと振りながら、エレベーターに乗り込む。勝手知ったるスタジオに到着すると、紫乃はカートで引いていたキーボードから手を離し、肩の荷物を床に放り出した。
「だあーーーーーッ!」
そしてとりあえず、吼えた。
スタジオスタッフの言う通り、ずばり荒れているのである。
「……あああああッ!」
防音完備のスタジオで心おきなく吼えてから、紫乃はひとりで「むんッ」と深く頷いた。誰かが見ていればただの変な奴であるが、誰も見ていないので気にしない。
それから静かにのそのそとセッティングを始める。まずは簡単にマイク、そして武藤が来た時の為にベースアンプを引っ張りだした。最後に、今から自分が使うつもりのキーボードをスタンドに乗せてアンプに繋ぎ、電源を入れる。
一見淡々と作業をしながら、胸の内は苛々していた。理由は簡単である。今し方会って来た某有名プロデューサーがむかついたのである。
D.N.A.は現在のところ、特定のサウンドプロデューサーがついているわけではない。当面、総合的にD.N.A.のプロデュースや戦略判断などはブレインの広田が取捨選択をしているようだが、サウンド的なものはシングルやアルバムごとに変わっていると言うのが実情だ。
今回、次のシングルを製作するにあたってサウンドプロデューサーを誰に頼むか検討しているところであり、その中で名前が挙がっている人物にたまたま会う機会があったのだった。
その人物は、紫乃も以前から名前を知っている人物であり、数々のアイドルやバンドを手がけてはヒット曲を出している。紫乃の好きな楽曲やアーティストを扱っていたこともあり、少し憧れる気持ちがあったことは否定しない。
だが、彼はD.N.A.をこう評した。
「ああ、アレンジがありきたりじゃない?」
頑張っているだけに、傷ついた。
「まあ一般受けするにはああいう落とし方だよね。どこか陳腐って言うかさ」
別にわざわざ一般受けを狙ったわけではない、と思った。
「歌ってるの、キミなの? へえ。顔は十人並みだね。まだ駆け出しだからこれから綺麗になるのかな」
顔で売ってるつもりじゃないもん、と思った。
「そのわりにスタイルは良さそうだね。82くらい? もう少しある?」
何を聞かれているのかわからなかった。その目線が紫乃の体を舐めるように見ていると気づいた瞬間、かっとした。
「ウェストも細いよね。……サウンドプロデューサー探してるの? やっても良いよ。飲みにでも行く? チャートの上位、入りたいんでしょ?」
その意図に気づいた紫乃の頭に血が上った瞬間、マネージャーの大神が見事な瞬発力で紫乃の足を引っ掛けた。すっ転ばせてから「いやあ、このコ時々立ちゴケするんですよ、じゃあどうも失礼します、具合が悪いみたいなんでまた今度」などと笑う大神に引き摺られながら、「誰が立ちゴケするか!」と思った。
思い出しても腹が立つ。
そして腹が立つ反面、傷つきもしたし悔しくもあった。
良いと思わないものを無理に褒めろとは言わない。
けれどそれと紫乃のスタイルには何の関連性もないはずだ。
体を使った営業でもしろと言われているような気がして屈辱的だった。そして大神は、特にそのことについては何のコメントもしなかった。
そういうものなのだろうか? いや、そんなことはないはずだ。
純粋に音楽が好きで頑張ってきた。これからも音楽が好きだから、その気持ちだけで頑張りたい。多くの人に認められるに越したことはないだろうけれど、売れなければならないと思っているけれど、汚い手段を使うのは嫌だ。
それともこれは甘いのだろうか? チャートの上位ばかり目指してやりたいことを見失うのは嫌だ。
苛立ちと同時に、不安を感じる出来事でもあった。
汚れた水に浸かっていれば、いつかその澱みにさえ気づかなくなる。自分は果たしてそうならないと言えるだろうか。
「……」
指に馴染んだ鍵盤を押すと、デフォルトのピアノ音が響いた。ここのメーカーのキーボードはピアノ音の品質に定評がある。中でもこのキーボードは響きが美しく、目下のところ紫乃の一番のお気に入りだった。ただし残念ながら少々ここのアンプの質が宜しくないので、その分音は劣化しているけれど。
(神田くん、今、何してるかな……)
この話をしたら、彼はどう答えるだろう。
同じようにスタート地点に立ったばかりの彼にはこの世界がどう映っているのか、聞いてみたい気がした。ちゃらんぽらんに見える一矢だけれど、音楽だけは純粋に真面目な姿勢で取り組んでいることは感じている。
それだけではなく、いろいろなことを話してみたいと思った。真面目な話も下らない話も、これまでのこともこれからのことも。その全てを同じリズムで同じ目の高さで、語り合えるような気がする。
(駄目だってば)
適当に押した鍵盤が音を弾き出す。
(今は前とは違うんだから。京子ちゃんの『彼』なんだから)
そう言い聞かせるたびに、胸に軋むような痛みが走るのはなぜだろう。
紫乃に好きだと告げたその同じ声で、京子に愛を囁くのだろうか。そう思った瞬間に、思いがけないほどの嫉妬が胸に込み上げた。
(――馬鹿ッ!)
両手を鍵盤に叩きつける。派手な音がアンプから響いた。馬鹿なのは一矢でも、もちろん京子でもない。自分自身だ。
嫉妬を感じる自分が、馬鹿だ。
京子に気兼ねするのではなく、自由に会いたかった。テンポがぴったりの軽口が恋しかった。耳に優しいその声が聞きたかった。
けれどこんなことはただのワガママだとわかっている。
こんなのはきっと、ただの独占欲なのだ。だって一矢のことが好きなわけじゃない。そんなはずはない。まだ如月に想いを残しているのだ。……残している、はずだ。
「考えたくない……」
小さく呟いて、鍵盤の上で両手を握り締めた。
考えたところで何の結論が出るわけじゃない。一矢は京子の彼氏だ。
すっきりしない胸の内を誤魔化す為に、紫乃は鍵盤の上に指を滑らせ始めた。曲作りを始める前にピアノ曲を楽しんでしまおう。爽快な曲が良い。愛らしいメロディが恋しくて、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』に決めてみる。
キーボードを触るようになったのは中二の時だ。同級生だった神崎が、ピアニストの夢を既に諦め始めた紫乃に教えてくれた。高価で場所を取り、メンテナンスにも手間と費用のかかるピアノと違い、いつでも鍵盤を楽しむことが出来るようになったことに紫乃は夢中になった。




