第19話(5)
思わずアクセルを踏み込みそうになった。
予想もしていなかった言葉に大声を上げると、明弘が面倒臭そうにシートに沈み込んだ。無意味に自分の前髪を摘んで眺めながら、続ける。
「だから今のうちに遊んどかねえと、遊びにくくなんじゃねえ? さすがに」
「それはそうかもしれませんが。……何でそんなことに?」
「あいつ、危なっかしくてしょーがねーんだもん」
「ああ」
いつだかライブスペース『release』での二人の会話を思い返す。
「だから」
そこで言葉を切ってそれきりの明弘に、一矢は思わず苦笑をした。多くを語りたくはないのだろうが、要するに笑子がどこかにいってしまわないか不安なのだろう。あれこれ強がっていたところで、明弘は結局笑子に惚れ込んでいる。
なるほろねー……とやや意地の悪い気分で思いつつ、反面微笑ましくなってしまったのも否めない。口も態度も悪いことこの上ないこの先輩は、一矢の大切な友人である。笑子とうまくいってくれればそれに越したことはないのだ。
「良く笑子さんが納得したね」
「んあ? ああ、うん、まあな……。別にあっさり頷いてたよ」
「あそう」
今ひとつ理解不能なカップルではあるが、笑子も明弘のことを好きでいるのだろう。多分。こればっかりは一矢からは良くわからないけれど。
「お前はカノジョとうまくいってんの?」
勝手にダッシュボードを開けて中をごそごそと弄りながら、明弘が思い出したように問うた。明弘は一度だけ京子と会っている。
返す言葉が見当たらず、一矢は沈黙で答えた。明弘が訝しげな表情を見せる。ダッシュボードから引っ張り出したヒビの入ったCDを取り出して、ちらりと目を上げた。
「いってねえの? えーと、キョウコチャンと。大人しい美人」
迷いに迷い、悩みに悩んだ末に、胸の内にひとつの結論を抱えている。
紫乃とどうなるならないの問題ではない。京子と自分の関係を良く考えた末の結論だ。
これ以上傷つけてはいけないと思い、泣かせないようにしようと思って行動してたつもりだけれど、本音の嘘をつけない部分で結局彼女を深く傷つけ泣かせてしまった。この先ももう、正直に言えば自信はない。自分の気持ちが京子に向く前に、京子はきっと泣き続ける。泣かせるつもりではなくても、きっと泣くのだろう。
そして自分の気持ちは相も変わらず、紫乃のことだけを想っている。
随分前に一度出したはずの結論が、再び自分の出した結論だった。いや、一度彼女としてそばにいたからこそ一層強く思う。
「……アキちゃん。俺さあ」
「へぇへぇ」
京子のそばにいることは、やはり出来ない。
「俺、京子と別れるわ……」
コール音が繰り返される。
荷物が減ってがらんとした感のある自宅で、一矢は携帯を耳に押し当てていた。
元々大して物のなかったリビングは、今やソファとテレビしか置いていない。テレビは単に寂しいから残してあるだけで、最終日に改めて『echo』に運ぶことになるだろう。ソファの方は京子にあげると言う話をしていた為に残してあるが、恐らく京子が受け取ることはないだろうと言う気がする。
開け放した窓からは、心地良い風が吹き込んできていた。空の高い位置で鳥が鳴く声が響いている。下からは渋谷の街のざわめきが、吹き込む風に乗って届いてきた。
澄んだ青空は快晴だ。梅雨を越えた向こうには暑い夏が待っているのだろう。
やがてぷつりと留守番電話に切り替わると、一矢は瞳を閉じて携帯を切った。
京子はどうするつもりなのだろう。このまま自然消滅させてしまうつもりなのだろうか。
別れるつもりだからそれは構わないけれど、それでは後味が悪かった。彼女の好意には感謝をしているし、自分の甘えを責めることなく優しさをくれた京子に、せめてもの誠意として言葉にする必要があると思う。
尤も、京子がもうこれ以上一矢と話なんてしたくないと思っているのであれば、このまま何もなかったことにしてしまいたいと思っているのならば、そうしてやる方が親切だろうか。
(どうしようかなあ……)
京子が本日どういう予定を過ごしているのか、無論知らない。今は仕事中かもしれないし、と言って夜になれば空いていると言う保証があるわけでもないから……全くどうすべきか困る。困った職業である。
何もないリビングで、しばしぼんやりと街を眺めた。
この景色も、もう間もなく見納めだ。
思えば数年間この部屋に暮らしてきたのだ。思い返す記憶は孤独の色ばかりだけれど、それでも一抹の寂しさは胸を掠る。
(父親か……)
落ち着いて考え直してみれば、自分は子供だと感じる部分もないではなかった。
必要に迫られて必死で金を稼いでみれば、それがいかに大変な労力を必要とするものなのかがわかる。短期間と言う制限があるのもさることながら、結局のところ一矢は自身で補いきれずに他者の手を借りる羽目になっていることが良い証明だ。
千円札一枚を使うのは一分で済むのに、稼ぐには一時間を必要とする。自分の時間や労力を切り売りしてその対価として得るもの――それが金銭だ。
一矢の父親は、ずっと一矢を放置してきた。
近場に住んでいながら顧みることなく、ただ金銭だけを提供して放置してきた。
そのことについて言いたいことはいろいろあったし、それがゆえに歪んだ部分もあるだろう。それは今でもそう思う。
しかしながら一矢の居住空間を支え続ける為に、父親が自身の稼いで来た金銭を投資し続けてきたことは評価されても良いことではないかと、遅ればせながら気がつき始めた。
愛情の欠片など感じたことはない。
放置するだけして都合が悪ければ口出しをしてくることには、憤りもある。
けれど、彼は確かに一矢の『親』なのだ。不足しているものは多々あるだろう。けれど、自身を切り売りして稼いだ金を無言で投資し続けて来たことは、確かな事実である。
自分は、その事実を真面目に受け止めなければならないような気がし始めている。
彼が正しいとは決して言えないけれど、反面、一矢自身も正しいわけではない。そこには甘えがあることを、自覚しなければならないのではないだろうか。
少なくとも、赤の他人の生活を支える為に金銭を投資する人間はそうはいまい。それは、彼なりのせめてもの『親』と言う意識の表明ではなかっただろうか。
そんなことを考えながら街のざわめきに耳を澄ませていると、床に放り出した携帯が振動した。拾い上げて、通話ボタンを押す。
「京子……」
京子からの折り返しだった。
呼びかける声に、電話の向こう側は静かだ。微かに京子の後ろからざわめきが聞こえる。外だろう。
繋がってしまえば、かける言葉に詰まった。京子も何も言わない。
「今、どこ?」
とりあえずそんなありきたりなことを尋ねてみる。京子はこれにも短い沈黙を挟んだが、やがて答えた。
「代々木公園」
「代々木公園?」
「天気が良かったから。気分転換に」
京子の声は細く、掠れていた。
「少し、話さない?」
「……うん」
「今からそっちに行っても良い?」
「……うん」
「じゃあ、少し、待ってて……」
京子のいる場所を確認して、通話を切る。耐え難いほどの重い気持ちを振り払って、一矢は単車のキーを掴んだ。
ケジメはきちんとつけなければ。
考え抜いた結論だ。
もう京子のそばにいることは出来ないと決めたのだから。
代々木公園に到着して単車を降りた一矢は京子の姿を探した。
いくつもあるベンチのひとつにその姿を見つけ、足早に近付く。緊張が鼓動を速くした。
「待たせてごめん」
近付く一矢に、ぼんやりしていた京子が顔を跳ね上げた。ついでにベンチから立ち上がる。
「一矢」
「元気だった?」
ぎこちなさは残るものの何とか笑顔を作り上げて尋ねる。途端、京子の瞳から涙が零れた。予想外過ぎて焦る。
「え、え、ええ?」
「あ、会いたかったの……」
「へッ?」
連絡を取ってくれなかったのはそちらでは、と内心突っ込みながら慌てる。構わずに京子はぼろぼろ泣きながら細い声で続けた。
「会いたかったけど、自分が情けなくて、恥ずかしくて、どんな顔して会えば良いかわからなかった。嫌われたんじゃないかと思って、どうして良いのかわからなくて、連絡くれて嬉しかったけど、だけどわたし、でも……」
会うなり収拾のついていない言葉を並べ立てる京子に、音信不通だった間どれほど彼女が悩んでいたかを感じる。そしてその間にも彼女の一矢への想いが失われることはなかったと言うことも。
そう思うと、胸が詰まった。
「会いたかったの。ごめんなさい。好きなの。そばにいたいの。それだけなのよ。どこか行っちゃうんじゃないかって怖かっただけ。わけのわからないこと言ってごめんなさい。何も言わずに帰ってごめんなさい。連絡しなくてごめんなさい。どうして良いのかわからなかったの」
「京子……」
「自分が情けない。ごめんなさい。嫌いにならないで」
駄目だ。
ぐちゃぐちゃの言葉を吐き出す京子に、一矢は本能的にそう感じた。
このまま彼女の言葉を、悩んでいた想いを聞いてしまうと、きっとまた突き放せなくなってしまう。きっと言い出せなくなってしまう。言うなら早いうちに言ってしまわなければならない。傷つけるとわかっている言葉など、ただでさえ言い出せないものなのだから。
「――京子ッ……!」
京子の言葉を遮るように、一矢は強く言葉を押し出した。
「ごめんッ……!」
彼女の両肩を掴み、そのまま深く頭を下げる。一本にまとめた長い髪がするっと滑り落ちた。驚いた京子がようやく言葉を飲み込む。
「一矢……?」
「やっぱり……」
どう言えば傷つかないだろう。いや、傷つかないことなどあるはずがない。そんなことを考えるのは欺瞞だ。けれど考えずにいられない。言葉を探さずにいられない。そして見つけられない。
「やっぱり、俺は……」
「聞きたくないッ」
ようやく押し出そうとした言葉を、今度は京子が強く遮った。
「聞きたくないッ。言わないで。一矢のそばにいたい。ごめんなさい、わたしはッ……」
「京子、聞いて」
「嫌!」
顔を上げると、京子は見ているこちらの胸が潰れそうなほど切ない表情で顔を歪めていた。大粒の涙が次々と頬を伝って零れ落ちる。それを見て、理解した。彼女が収拾のついていないわけを。
あの日からきっと京子は、別れを切り出されることを怯えていたのだ。
連絡がつけば明確な別れを口にされると恐れていたのだろう。
あの夜、京子は何かを怖がっていた。一矢がどこかへ行ってしまうことを既に怖がっていた。どれほど優しくしたところで、一矢の気持ちが京子にないことを彼女は感じ取っていた節がある。そしてあの日がそれに拍車をかけたのだろう。きっとずっと今日まで、怯え続けていたに違いない。
京子をそこまで追い詰めている自分に、愕然とした。
「京子……」
切なく細められた目から零れる涙は止まる気配を見せない。自分の気紛れが京子をどれほど傷つけているのかを見せ付けられている気分だった。
付き合い始めさえしなければ、もっと早くにちゃんと気持ちを伝えてやれば。
一時でも『彼女だ』と思わせてしまったことが、京子を大きく悩ませることになったのだろう。
「ごめ……」
「お願い! お願い! お願い!」
「……」
「彼女にしてくれるって言ったじゃない! 謝らないで! 何で謝るのッ?」
「京……」
「嫌ッ……嫌いにならないで……」
全く話を聞く姿勢にない京子の姿は、逆にこちらが語らずともその結論を理解していることを告げていた。京子は一矢の出した結論に気がついている。
「京子。ごめん」
「……」
「俺、やっぱり京子のそばにいてやれない」
「嫌ッ!」
「京子……」
ようやく口に出した言葉は、しかしながら一瞬で却下された。普段大人しいだけに感情に振り回されている京子に、どうしてやっていいかわからない。
かける言葉を探しあぐねていると、京子が涙で濡れた顔で睨みつけてきた。
「紫乃ちゃん?」
「……え?」
唐突に言われ、咄嗟に正直な反応が出てしまった。
しまった。
次の瞬間焦りを浮かべた一矢の意味を正確に読み取り、京子が唇をきつく噛んだ。
「やっぱり、そうなんだ」
「あ、いや……」
「紫乃ちゃんのことが好きなんでしょ?」
「いや、それは……」
否定しかけて、言葉を飲み込む。
肯定することに意味があるのだろうか。肯定することで京子の傷を深くしはしまいか。
そう思う反面、嘘をつくことも誤魔化すこともまた京子に失礼なのではないかと思う。
否定も肯定も出来ずに口を噤んでいる一矢に、京子が立て続けに質問を浴びせた。
「紫乃ちゃんは?」
「え?」
「紫乃ちゃんも一矢が好きなの?」
「いや、そんなことは……」
「紫乃ちゃんは一矢の気持ちを知ってるの?」
「……」
思わず押し黙った次の瞬間、京子の平手打ちが一矢の頬を直撃した。
「ッ……!」
「嘘つき」
平手打ち以上に鋭い声に京子を見返すと、険しい眼差しで京子が一矢を睨みつけていた。相変わらず涙を溢れさせたまま。
「嘘つき」
もう一度繰り返された言葉に、心が抉られる。
嘘つき――それはきっとあの夜の京子の問いを否定したことをさしているのだろう。京子に責められるのならば、一矢に反論は許されなかった。彼女を振り回し続け、そして今こうして深い傷を刻んでいるのは間違いなく自分の行動の責なのだから。
「何か言ってよ」
「……」
「言い返して」
「……」
「否定して」
「……」
「否定してよ!」
押し黙ったままの一矢に、やがて京子が睨んだままで数歩下がった。
「京子」
打たれた頬がじんじんと痛む。けれどきっと心は京子の方が痛いに違いない。
謝罪をしても仕方がない。感謝を伝えても結末がこれでは彼女にとって無意味だろう。
そう思うけれど、言わずにいられなかった。
「ごめん。感謝はしてる……」
「感謝なんていらない!」
遮るように言った京子は、今まで見たことのない激しさで続けた。
「感謝して欲しかったわけじゃない! そばにいたかっただけ! 好きだっただけ!」
「……」
「どうしても駄目なの? わたしは、好きになれないの? 時間をかけることさえ無理なの?」
「ごめん」
「そんなに紫乃ちゃんがいいの?」
答える言葉があるだろうか。
一矢の気持ちはずっと紫乃の上に留まったままなのだから否定など出来るはずもない。けれどもちろん肯定の言葉も口には出せない。
無言で目線を逸らす一矢に、京子が一層顔を歪めた。これ以上ないくらいの悲しい顔だった。
「わかった……」
「京……」
掠れた声を押し出して、京子はまた数歩一矢から離れた。何かを堪えるようにきつく唇を噛み締めて俯く。
そして、踵を返した。
「さよなら」
もう黙って見送るしか出来ない。
京子の背中が遠くなっていくのを見送る胸中は、後悔の念で溢れていた。
屈折した自分の行動が必要以上に京子の心を刻む結果を生んだ。
歩き方が下手で、無駄な回り道や必要以上の迷路に自分を追いやっていたような気がする。
どこまで自分は駄目なのだろう。
人の愛情とやらを信じられずにいた。信じられるような気がした相手は、己の身勝手で傷つけた。
――確かめてからどうしてくか考えていくべきなんちゃうんかなあ?
変わらなければならない。
――自分に嘘ついとんのは、自分にも他人にも失礼や。
他人の優しさに甘えずに済むように。
もう無意味に人を傷つけないで済むように。
その為にはまず、自分の中の想いに何らかの形で決着をつけなければ。