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In The Mirror  作者: 市尾弘那
76/83

第19話(4)

「あとさ」

 窓際で下を眺めながら話す一矢と啓一郎に、何人かが気づいた。こちらに向かって手を振り上げる。ガラス越しでさえ「けぇちゃーん」と言う声が聞こえた。ヴォーカルと言うポジションもさることながら、人なつこい雰囲気と可愛い容姿を持つ啓一郎は人気がある。

 苦笑して窓越しに片手を振りながら、啓一郎が言葉の続きを口にした。

「広瀬も来るって聞いた」

 思考が停止した。

「え?」

「聞いた?」

 一矢を見上げながら、啓一郎が尋ねる。

「いや、聞いてない」

「あそう? ライブは来るって言ってたからさー、打ち上げも来いって言ったら胸を張って嫌だ言われた」

「……何ですかそれ」

「俺に言うな。お前からも誘ってよ」

 窓の下の人間が次々と気づく。連鎖反応のように見上げる顔は、知っている顔もあれば知らない顔もあった。

「やだよ。何で俺が」

 きりがないと辟易したのか、啓一郎が窓際を離れる。一矢もそれに続いて窓際を離れると、手近なパイプ椅子を引き寄せた。すとんと腰を下ろして煙草をくわえながら、心が騒いでいる。

「何でってこたないでしょー? 広瀬も来た方が楽しいじゃん」

「嫌だと言うものは仕方がありませんな」

「何強がってんだよ。来たら嬉しいくせに」

「……」

 床にあぐらをかいた啓一郎がそうぼやくように言いながら、ごろんと仰向けに転がった。

 返答を避けて胸の内で己に問う。

 来て欲しい? ……来て、欲しいかもしれない。

 会いたい、話したい、いやそこまで言わなくとも、笑顔を見たい。

 けれど反面、会いたくない。自分の中がぐちゃぐちゃだ。

 京子とはあの雨の夜以来連絡が取れていなかった。余りに後味が悪いので何度か連絡をしてはみたけれど、電話に出ることもメールの返信が来ることもなかった。

 彼女は一矢との関係をどうするつもりなのだろうか。それも不明なままだ。

 そして一層不明なのは、自分自身が彼女との関係をどうするつもりなのかだった。

(そう言えば……)

「一矢?」

 大の字に転がったまま、啓一郎が問いかけた。

「どした?」

「いや……」

 そう言えば京子は、今日のライブには来るのだろうか。


「一矢ー! 久しぶりー!」

「おめー、生きてたんじゃねーか!」

 つつがなくライブを終え、楽屋付近のホールは高揚した喧噪に包まれていた。

 メンバーからインビテーション(招待状)を受け取ったりした、いわゆる一般来場者とはひと味違う来客がメンバーを労う為に集っているのである。

 久々のライブは、概ね成功に終わったと言っても良い。

 旧友と久しぶりに言葉を交わし、簡単に互いの状況を伝え合う浮かれた空気の中、ただ京子の姿はない。この程度の規模のコヤであればステージから客席も意外と見えるものだが、少なくとも一矢が気づいた範囲では京子の姿は見えなかった。

 紫乃の姿も見えず、来たのか来なかったのかさえ曖昧なまま打ち上げの会場への移動が開始される。

「どっかのコインシャワーでも行きたいなー」

「あ、そうする?」

「そんなもん探してる間に家帰った方が早そうなんれすが」

「確かに」

「おつかれ」

 ぐだぐだ言いながら、挨拶を済ませた旧友たちと別れて一度楽屋へ戻る。狭い階段を上っていくと、ちょうど楽屋から出て来た佐山がメンバーの姿を見て片手を挙げた。

「おつかれ」

「おつかれええい!」

「今さっきね、紫乃ちゃんが挨拶しに来たよ」

 その言葉に一矢は思わず足を止めた。

「え? 広瀬、こっち来たの?」

 屈託なく佐山に答えながら啓一郎の姿が楽屋の中に消えた。続いて和希や武人も中へ入っていく。廊下から楽屋の方へ顔を向けた姿勢で佐山が肯定した。

「メンバーは忙しそうだから宜しく伝えてくれとだけ言って」

「もう、帰ったの?」

「うん。多分。まだその辺にいるかもしれないけど」

「何だよー、薄情なー」

 中から啓一郎のぼやき声を聞きながら、一矢は踵を返した。まだその辺にいるのかもしれない。

 階段を駆け下りながら、どうしたんだろうと思った。

 紫乃はGrand Crossのメンバー全員と旧知の仲だし、のみならずファーストシングルのクレジットに名前が載ってもいる。性格も人懐こく礼儀知らずなところはないし、いつもならばメンバーに挨拶をしていきそうなものだ。それともそんなに忙しかったのだろうか?

「あ、お疲れさまでーす」

「お疲れさまです!」

 通りがかったスタッフと挨拶を交わしながら、一矢は一番近そうな出入り口に向かって走った。けれどどこにも紫乃の姿はない。

「帰ったかな……」

 撤収作業をしているスタッフたちの喧騒を遠くに聞きながらぽつんと呟くと、一矢は足を止めた。これ以上通路を進むと外に出てしまう。ガラス越しにまだ来場客が溜まっているのが見えるし、別段『大人気アーティスト』ではないものの広田や佐山に止められていた。外に出れば誰かに声をかけられるだろうし、それを無視していくことも出来るはずがないし、どちらにしたって紫乃を探しに行くことは出来ない。

 未練がましくドアを見つめ、小さくため息をつく。何をしに来たのだろうと言う気がした。別に今を逃したらもう会えないと言うわけではない。心に区切りをつける為にも会わないほうが良いのだとわかっている。言葉を交わすたびに気持ちが揺れるのだから、会わないならそれに越したことはないのだ。そう思うのに、体はこうして逆の行動に走る。

 京子との一件で気がついたことがあった。

 一矢は散々遊んで来ているせいか、多分単純な意味で女性を求めてはいない。むしろ体を重ねるだけの行為に食傷気味でさえある。京子との関係で進展をすることにはまた違う意味を見出せるのかもしれないが、そこに新たな虚しさもまた生まれるような気もする。

 少なくともしばらくの間、京子との関係は足踏みだろう。それより先に気持ちの踏ん切りが必要なのだから。

 けれどそれが京子を傷つける。そして一矢にはどうにもしてやれない。

 見ないように目をそむけてきた奥底に眠る欲望――京子を抱けなかったことで、己にまざまざと見せ付けられた気がする。

 紫乃しか欲しくない。

(戻ろ……)

 楽屋に戻って帰る支度をしなければ。この後に控えている打ち上げ会場に移動をしなければならない。

 もう一度ため息をついて目を伏せながら踵を返す。

 そしてすぐその場で足を止めた。

「紫乃……」

 目の前に、ぽかんとした顔の紫乃がいた。

「あ、や、そ、あ、う……」

 紫乃の方も予定外の遭遇のようだ。察するに、今紫乃が突っ立っている背後の扉――女性用化粧室から出て来たところなのだろう。出てみたらそこに一矢がぼけっと立っていた、と言うところだろうか。

 なぜか互いの間に流れる空気が止まった。

「何だよ。まだいたんじゃん」

 思わずほっと息をつく。あれこれ考えながらも、こうして会えればやはり単純に嬉しかった。

 だが、笑みを覗かせる一矢に対して紫乃の方はどこか挙動不審だった。まるで逃げ場を探すように上や下へ視線を彷徨わせる。

「どした?」

 心当たりはない。首を傾げていると、紫乃は視線を彷徨わせるのをやめてふうっと息をついた。

「あー……お疲れです」

「……。お疲れです」

 何だこれは。

 どことなく妙な感じを覚えてそっと眉根を寄せる。何かが自然ではない。

「どしたん?」

「何がですか」

「や……何か悪いもんでも食ったん?」

「はあ?」

 真顔で尋ねると、紫乃が思いっきり問い返した。今し方あたふたしていた姿を消し、一矢のすっとぼけた言葉に素が返ったような顔つきである。それからまた思い出したように、視線を彷徨わせた。

「違うです。えーと、そんじゃあまあ、みなさんに宜しくってことで、そのー……お疲れでした」

「……」

 どこかよそよそしく口早にそう言うと、紫乃はこちらに背を向けた。出口の方向は逆である。

「広瀬サン」

「何でしょう?」

「出口、こっちですが」

 それはもちろんここ一箇所だけと言うことではないから他の出口からも出られるだろうが、最も近い出口を避けるのは妙である。こちら側に一矢がいるからとしか思えないのだが……。

「あー……そう? そうねー。うん、じゃあそこから帰ろうかな」

 おずおずと言って、紫乃が躊躇うようにこちらに向かって歩き出した。足を止めたままそれを眺める一矢の隣をさりげなく通り抜けようとする。思わず、その長い髪をくいっと引っ張った。

「あいた」

「何か変だなー……。何? 俺、何か悪いことしたんだっけ?」

「べ別に何も言ってないですあたしわ。ただ帰ろうかなーと」

「帰るのはわかってんだけどさ」

「……」

「……」

 明らかに妙な素振りをしているのだけれど。

 首を傾げつつ、言いたくないのならまあ良いかと思い直した。どうやら一矢に怒っているとか、そういった素振りではなさそうだ。ならば無理に吐かせる必要もあるまい。

 そう判断して、しかしながらそそくさと逃亡されるのを防ぐ為に紫乃の髪をくいくいと引っ張りながら、改めて口を開く。

「ウチの啓ちゃんが『広瀬打ち上げ来ないー』ってお怒りでしたが」

「怒られる筋合いじゃないと思うですけど」

「うん、まあね。まあちょっと寂しがってますってことで」

「んん……ごめんね。謝っといて」

「らじゃ。急いでんの? 何か」

 首を小さく傾げて尋ねると、紫乃はそこでようやく一矢を見上げた。

「急いでるわけじゃないんだけど……」

「じゃあメンバー会ってけば? あんたのダイスキな和希サンにご挨拶してきゃいーのに」

「あ、うん。和希さんにかっこ良過ぎで鼻血全開でした今度あたしの為にも歌って下さいって伝えといて」

「てめぇで言え、ミーハー」

 軽く足先で小突くと、紫乃が避けながら唇を尖らせる。

「あんたが今振ったんじゃないのさー。っていい加減髪放してよ」

「まあ会っていきたくない理由でもあるんなら別に強制はしませんが」

 ぱっと髪を解放してやると、紫乃が髪を庇うようにすすすっと数歩下がった。それからむうっと唇を尖らせたまま、大きな瞳で一矢を睨む。

「帰るから」

「あ、そう……。わかりました」

「じゃあ」

 短く言って歩き出す背中に寂しさを覚えた。せっかく会えたけれど、ごく短いやり取り……それもどこか表面的なもので終わろうとしている。

「かん……」

 神崎とどうなっているんだ?

 あいつが言ってたことは何だったんだ?

 武藤の言う『神崎が焦っている』の意味は何なんだ?

 喉元まで言葉が出かかった。けれどそれを聞いてどうする、と言う思いが言葉を飲み込ませる。でも知りたい。知っても仕方がない。

 迷っている間に紫乃の背中は離れていく。声を掛けるのを諦めて見送っていると、不意に紫乃が足を止めた。

「あ、そうだ」

 小さく呟いて、振り返る。

「ライブね、めちゃめちゃかっこよかった!」

 余りと言えば余りの不意打ちに、目を丸くする。どうやら、本人に会ったにも拘らずライブの感想を告げなかったことを思い出したらしい。

「あの、みんなね。みんな」

 無言で見つめ返す一矢を見て言い訳がましく付け足すと、紫乃は改めてもう一度、今度は笑顔で繰り返した。

 大きな瞳が細められ、無邪気さの零れるような素直な笑顔。紫乃らしい、全開の笑顔だった。

「めちゃめちゃかっこよかった! すっごく楽しかったよ。ありがとう!」

「……」

「そんじゃね。お疲れッ」

 咄嗟に言葉が出ずに見つめる視界の中、紫乃が再び歩き出す。小走りに遠くなる背中に、慌てて声を張り上げた。

「来てくれてさんきゅッ」

 その言葉にもう一度顔だけで振り返り小さく手を振ると、紫乃は今度こそドアの外へと姿を消した。パタンと閉じた扉の向こうで、すぐに視界から外れていく。

 ――めちゃめちゃかっこよかった! すっごく楽しかったよ。ありがとう!

 胸の内に小さな鼓動が聞こえる。幸せな想いが広がっていく。ライブの疲れが吹っ飛んだ気がする。

(やべぇ、可愛い……)

 全開の笑顔を思い返し、それだけで幸せな自分に呆れた。にやつきそうな顔を片手で押さえ、深々とため息をつく。

 やっぱり隣で笑っていて欲しいのは紫乃だ。

 あの笑顔が欲しい。

 どうしてもどうしても諦めきれない。

 笑顔だけで自分をこれほど幸せな気分にさせてくれるのは、彼女だけなのだから。


          ◆ ◇ ◆


「とりあえずはこんなところか?」

「うん。かなあ」

「ま、また忘れてたってモンとかあったらそん時運べばいーだろ」

 ワンマンライブを終え、Grand Crossのファーストシングルの発売を翌日に控えたその日、一矢は明弘の手を借りてバンド所有のボロバンに荷物を詰め込んでいた。

 5月も残すところ6日――つまり一矢がこの部屋にいられるのも、残り6日と言うことになる。

 引っ越す先はまだないとは言え出て行かなくてはならないので、その日は荷物を最小限に取りまとめると言う作業にかかっていた。

 6月いっぱいは明弘が転がり込んでも良いと言ってくれているので、それに甘えさせてもらおうと思っている。しかしながら、家具などを持ち込むわけにはもちろんいかない。衣類などの最低限しか、明弘の部屋にも許容範囲はない。

 とは言え、CDであったりドラムパッドであったりは捨てるわけにもいかない。持って行けないし捨てられないといった所持品は、テルが『listen』の隣にあるリハーサルスタジオ『echo』の一部に一時的に置かせてくれると言うので、本日運び込む段取りである。

 元々不要なものはさほど持っているタチではないけれど、ソファや寝室にあるサイドテーブルなどは不要である。これは京子にあげる約束をしているが、実際のところはどうなるか良くわからない。とりあえずはまだ部屋に置いてある。

「んじゃ行くか」

 『listen』のオープン準備にまではまだ時間がある。テルも手伝うと言ってはくれたが、それほど手勢を必要とするわけではないので遠慮した。

 下北沢に向かう道は、時間の狭間か空いていた。天気の良い昼過ぎで、もう夏の香りがする。

「あちぃなあ」

「すみませんね。このエアコン、かけるだけ無駄と言う奴なので」

「もっとましな車を買え」

「買って」

「冗談じゃねえ。プロのミュージシャンが車の一台も買えねぇでどうすんだよ」

「まだアマざんす」

 既に事務所から給料をもらっている身であると言うことは黙殺する。意識としてはCDの一枚もまだ発売されていないのにプロとは言えない。

「ま、上手くカタがついて良かったじゃねえか」

 助手席で窓を全開にし、枠に頬杖をついて外を眺めながら明弘が宣う。一体何がどう上手くカタがついたのかがさっぱりわからず、一矢は一瞬口を噤んだ。

「えーと、何がどうどの辺りのカタがついたんですか?」

「5月末まで何とか今の部屋にいれて、荷物も預ける場所が見つかって、本人も置いておく場所が一時的に見つかって」

「人間を置いておくとか言わんで下さい。つか、今の部屋にいるにあたって借金が発生してますし、おかげで俺は今の事務所に死ぬほど貢献しないといかんような気がしますし、荷物はともかく人間は6月いっぱいでまたどうしようなので、あんまり何も解決してないんれすけろ」

「借金すんなよなあ、だっせえなあ」

「うるさいよ。突然22万も捻り出す身にもなってくらさい。おかげで俺の通帳は存在価値皆無過ぎて解約れす」

 父親にもありったけの残金を返してしまった。空っぽになった口座も解約してしまったので、これであのマンションを出てしまえば父親との接点は皆無になる。

「おめえのせいだろ。その部屋に住んでたんだから」

「まあそうですが」

「良かったじゃねえか。ぐだぐだの生活にケジメつけるきっかけになったんじゃねぇの。働け働け。金を稼ぐ苦労を知れ。……ふわあああ」

 自分も大概ぐだぐだの生活をしているくせに勝手なことを言いながら、明弘が大あくびをかました。眠そうに目を擦る様子をちらっと見て、再び前に視線を戻す。

「寝不足?」

「ん。昨夜引っ掛けた女が」

「あーたはまだそんなことを続けてるの? 笑子さんは元気?」

「元気。今のうちに遊んどかねえと」

「は?」

 意味がわからずに何気なく問い返しながら頭の中で近道を選定していると、明弘が続けた言葉に少なからず仰天した。

「お前に6月までって言ったのはさあ」

「はいはい」

「7月半ばから笑子と一緒に住むかもしんなくて」

「………………はッ!?」






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