第19話(3)
「一矢。ゆでたまごはどうすれば良いの?」
「え? ああ、殻を剥いて、スライサーに……」
そこに笑顔が浮かんでいることに、とりあえずは安堵を覚える。
「パプリカとゆでたまごをくるんだハンバーグなんて、初めて」
「うまそうでしょ。トマトソースでもデミグラスでも……」
その為一矢は、京子が泣き出しそうな想いを飲み込んだことなど気がつかなかった。
やがて京子の手によるハンバーグが出来上がり、先日明弘に借りたDVDを見ながら食事を済ませる。ラブロマンスを絡めたアクション映画だ。
後片付けを担当した一矢が戻ってくると、京子がはにかんだように笑った。
「ありがと」
「作って頂きましたので、このくらいはね」
ついでに言えば、このDVDを見るのも二回目で未練はない。
リビングに戻った一矢が元通り床に座ろうとすると、画面から視線を外した京子が一瞬何かを言いたそうにこちらを見た。きょとんと目を丸くして、それから気がつく。距離をおいて座ることに、彼女が寂しがっているのだと。
全く……可愛らしいではないか。そばにいたいと思いながらも、恥じらいでそれを口に出せない。なのに、捨て猫のような寂しい目つきが心を語る。身に余ると言うものだろう。
思わずくすっと笑って、京子のかけるソファへすとんと腰を下ろした。ぱっと嬉しそうな表情を見せた京子が、腕にしがみつく。
「面白い?」
そんな素直な愛情表現は余りされたことがない。些か照れて画面に視線を向けながら尋ねると、しがみついたまま一矢の腕に頬を寄せた京子もテレビに目を向けた。
「うん」
「そりゃ良かった」
しばらく、そうして黙って映画を見ていた。見ながら、これが幸せなのだろうと思う。
腕にしがみついている京子は、画面に目を向けたまま時折腕に力が籠もる。一矢には怖くも何ともない場面でびくつく姿が女の子らしい。
映画にはほとんど意識を引かれずに、英語で流れる会話と微かに聞こえる雨の音にぼんやりとしていると、再び京子が体を微かに堅くした。何気なく画面に目を向けると、主人公とヒロインの女性が画面の中で熱烈に口づけを交わしているところだった。そう言えば、それなりに濃厚な濡れ場のシーンがあった気もする。
ちらっと京子の横顔を見れば、気まずさ全開の横顔を見せていた。猛烈に意識しているのがビシバシと伝わってくる。画面の中で二人は次第に熱烈に絡みあい、部屋の中には怪しい声と気まずい空気だけが漂っていた。
(そうだよな……)
付き合い始めたと言ったって、中学生も真っ青なプラトニックである。ひとえにそんな気が起きなかったゆえではあるが、いつまでもこのままとはいくまい。余りに何の進展がないこともまた女の子は傷つくものだと言うことも、一矢は知っている。
京子とつき合っていくのであれば、いずれそうなることは明白だ。当然の如く一矢は清純な人間ではないし、当然の欲望も持ち合わせている。まさか京子だけ避けてよそでとはいかない。
しがみついたまま固まっている京子の腕から、腕を抜く。そのまま肩を抱き寄せると、京子が微かに肩を震わせた。
「……怖い?」
いつかのように軽い調子をはらんだものではない。真面目な響きに、京子が顔を上げる。
真っ赤な顔は恥ずかしさが漂っていて、その初々しさが可愛くないと言えば嘘になった。
けれど、一矢を動かしているのは自身の衝動ではなく……やはり、義務感に近かった。
京子が瞳を閉じ、近づけた唇に罪悪感が脳裏をよぎる。何に対してなのかなどわかりはしない。ただ、なぜだか無性に悲しい気持ちになる。京子の小さな手が、きゅっと一矢の胸元を掴んだ。その手が微かに震えている。
唇を重ねた時には、背後の映画はアクションシーンに切り替わっていた。ガラスの割れる盛大な音が聞こえる。構わず重ねていた唇をしばらくして離すと、京子の華奢過ぎる体を抱き締める。
これでいいんだ、と心のどこかで言い聞かせる。唇を重ね、体を重ね、そのうちいつしか本当に京子のことを好きになれれば良い。彼女は良い子だ。わかっている。懸命に想ってくれているのも、今では感じられる。
「映画の続き、気になる?」
腕の中に抱き締めたまま尋ねる。一矢の視線の先では、街のネオンライトが雨に滲んでいた。外はきっと、どしゃぶりだろう。
一矢の胸に顔を埋めたまま、京子が顔を横に振った。遠慮がちに、けれど確かに、京子の両腕が一矢の背中に伸ばされる。
強く抱き締め返され、なぜか胸を衝かれた。それは、どちらかと言うとしがみつくのに似ているような気がする。まるで――どこにも行かないで、と言葉に出す代わりに。
「京子……」
「……たい」
「え?」
「あ、あな、あなたに、だ、抱かれ、たい……」
映画の音に掻き消されそうなほどの細い声。京子は今しも泣き出しそうだった。
「一矢、の、ものに、し、して、欲しい……」
普通の女の子にだって、なかなか言えることではない。その上京子はかなりシャイだ。にも拘らずこんな言葉を口にするのは、どれほどの勇気がいるだろう。
そしてそれは、一矢がいかに京子に不安な思いをさせているのかと言うことを示してもいた。彼女から切ない想いが滲み出ている。
どうして突き放せるだろう?
もう一度唇を重ねながら、ソファの上に雪崩れ込む。
「一矢が好き……」
唇を離した腕の中、一矢を見上げる京子の瞳は泣き出していた。
「何で、泣いてるの?」
「わ、わかんない……わかんないけど……か、一矢が好き」
「……」
「どこにも行かないで。ゆっくりでいいから、わたしを見て……。怖いのよ。怖いの」
「……」
「どこかに行っちゃいそう。嫌。行かないで」
唇を重ねたことで、抑えていた気持ちが噴き出してしまったかのように京子が繰り返す。仰向けのまま目尻から零れる涙が、ソファの上に小さな染みを作る。
これほどに想われたことなどない気がする。心を動かされないはずもない。応えたい気持ちになりもする。なのに――。
(何でだよッ……!)
何かが、自分を遮る。
自分を抑制しようとする何かに抵抗しようと、一矢はぎゅっと両目を瞑った。
今更貞操観念など微塵もない。あるわけがない。当然だろう。通りすがりの女と数え切れない夜を過ごした。相手が京子だろうが、そういう意味では今更だ。
けれどだからこそ欲望に理性のタガが外れるようなことはそうそうないし、そして理性は知っている。そうして繰り返してきた行動の無意味さを。
いや、違う。京子は違う。違うはずだ。なぜなら彼女は一矢のことを想ってくれている。そこには今までになかった愛情がある。
本当に違うのか? 彼女の気持ちを疑っているわけじゃない。そうではなく、そういう意味ではなく……。
――自分に愛情がないと言う意味では、同じではないのか? それはこれまでと、何が違う?
「一矢……?」
どうしても、京子を抱く気になれなかった。
それがどれほど彼女を傷つけるかを知っていても、それは出来ないと自分の中でストップがかかる。それならむしろ、通りすがりの相手の方がどれほど気が楽なことだろう。
言葉もなく、一矢は体を重ね合わせたままで京子を抱き締めた。額をソファに押し付ける。耳の真横で、不安げな京子の声が聞こえた。
「ごめん……」
どうにもならない。
掠れた声で短い謝罪の言葉を口にする一矢に、腕の中の京子の体が強張るのを感じる。
「一矢……?」
「ごめん……!」
最悪だ。
あそこまで彼女に言わせておきながら、京子に恥をかかせることに他ならない。わかっている。けれど、どうしても頭から離れないことがある。
京子は、紫乃の、友達なのだ。
「一矢」
耳元で京子の絶望的な声が聞こえる。京子を解放してのろのろと立ち上がった一矢は、片手を前髪に突っ込んで目元を覆いながら大きなため息をついた。
顔を見ることが出来ない。
「頭冷やしてくる」
気まず過ぎて、留まることなど出来そうにない。そしてこれ以上ここにいても、傷つける以外のことをしてやれそうにない。
リビングのドアに向かう一矢の背中に、京子が涙混じりに尋ねた。
「わたしは、駄目?」
「ちが……」
「そんなに魅力がない?」
「そうじゃない……」
「そうならそう言ってくれた方が、楽だから」
振り返ると、ソファの上に体を起こした京子が胸を締め付けられるような眼差しでこちらを見ていた。その肩越しに、ハッピーエンドを迎えて抱き合っている映画の主人公とヒロインが見える。滑稽だった。
「一矢がわたしのことを好きなわけじゃないことぐらいわかってる」
「ち……」
「だけど、そんなにわたしは一矢にとって魅力がないんだ」
「違う! そうじゃない!」
京子に魅力がないわけじゃない。心を動かされもする。抱き締めれば愛しさを感じもする。
けれどそれ以上に抑制する何かがある。
それは、どれほど足掻いても、どうしても自分の心の中からどいてくれないのだ。
「本当に、そうじゃないんだ……」
情けないのは自分だ。
彼女はこれっぽっちも悪くはない。
なのにどうしてこれほど繰り返し傷つけているのだろう。
精一杯浮かべた笑顔は、彼女の目にはどう映っただろう。
「俺が、悪い……」
「そういうことを言ってるんじゃないわ!」
思わず、と言うように叫んだ後、京子は唇を食いしばって俯いた。
「惨めだね、わたし」
「そ……」
「かっこ悪過ぎる」
「京子」
「好きな人がいるんでしょ?」
その言葉に息を飲んだ。気づいていたのか。女性の鋭さはあなどれない。
「紫乃ちゃんが好きなの?」
「ちが……」
しかし、次に京子が口にした名前に、一矢は反射的に否定をした。
二人が友達同士であることが頭を離れない。自分の想う相手が紫乃であることを京子に伝えてしまえば、それは二人の友達関係にヒビを入れることになるかもしれない。
「違う……」
けれど心に反して否定をするのもまた、自身に痛かった。
掠れた声で弱く否定をする一矢を、京子が無言で見詰める。やがて、何に対してか小さく顔を横に振った。
「……ううん。ごめんね。わたしも、頭を冷やした方が良いみたい」
自己嫌悪をするようにソファの上で蹲る姿に、どうして良いかわからなくなる。言葉を掛けようと思うものの、適切な言葉が浮かばなかった。これ以上謝れば、それは一層傷つけることもわかっている。
「……少し、頭冷やしたら、戻るよ」
京子は俯いたまま答えない。
「戻ったら……送るから……」
答えのない京子に、一矢は少しその姿を見つめ、リビングを出て行った。そのまま部屋を出る。
予想通り外は激しい雨で、一矢はマンションの中庭の方へ回った。畳2枚分程度の小さなスペースに芝生が敷かれており、張り出しのようなささやかな屋根の下には木のベンチがおいてある。雨の深夜だから、人の気配はなかった。
しばらくの間、そこに座り込んでぼんやりと雨を見つめていた。
この雨では、単車で京子を送るわけには行かない。誰かに車を借りようか。それとも預かりっ放しのGrand Crossのボロバンを使うか。
(どうしたいんだよ、俺……)
無節操な生き方をしてきた自分が、女の子をこんなふうに傷つけることになるとは思いもしなかった。
京子と付き合い始めてしまったのだから、彼女のそばにいるべきだと思った。
どうせ紫乃への想いなど叶うものではないのだから、京子が想ってくれるのならばそのうち諦めもするだろうと思った。
少なくとも、今の自分に出来る限りは京子に誠意を尽くしているつもりだ。京子を誰に恥じることない彼女として振舞っている……はずだと思う。紫乃の前でさえ。
なのに、こんなところで躓く。
自分の本心に関わることだから、誤魔化しがきかない。
――紫乃の友達に手を出すことは、今の自分には出来ない。
(駄目なのかな……)
はあっとついたため息が、雨の中に消えていったような気がする。
(京子のそばにいる方が、むしろ駄目なのかな……)
駄目人間は、いつまでたっても、何をしても、やはり駄目なままなのだろうか。
今頃京子は一人きり残された一矢の部屋でどうしているだろう。泣いているだろうか。怒っているだろうか。彼女との関係を、この先どうしていけば良いのだろうか。
結論が出ないまま小一時間ほどそこでぼんやりとした一矢は、言葉通り頭どころか体まで冷やしてようやく部屋へ戻った。
しかし。
「京子……?」
一矢が戻ってきた時には既に、部屋の中に京子の姿は見当たらなかった。
◆ ◇ ◆
視界の隅で、啓一郎が小柄な体をぴょんこぴょんこと弾ませている。
「へー、え、あ、は、は、はー」
マイク越しに軽く出した声が、一矢の座るドラム脇にセッティングされたモニタースピーカから聞こえてきた。
「俺はおっけー。とりあえずは」
脇からコーラスマイクで割り込んだ和希の声も、僅かにモニタースピーカから聞こえてくる。
「うっしゃ。んじゃあ頭っからいってみよーかー」
何をする気なんだか、センターに立ってマイク片手に腕をぐるぐる振り回しながら啓一郎が叫ぶ。
その姿に思わず苦笑しながら、一矢はスティックでカウントを取った。ぴったりと息のあったタイミングで、メンバーの音が絡み合う。
Grand Crossは5月25日にファーストシングルが発売されるにあたって、久しぶりにワンマンライブを敢行する予定になっている。それが本日5月22日である。
ワンマンとは言っても都内の小さなコヤであるが、それでもデビューの話が決まった頃よりは集客数が増えた。地味な活動が少しずつ実を結んでいる。このワンマンライブ、そしてシングルの発売と言う流れはGrand Crossにとって大きな転機だ。自分らでやってきたこれまでと違い、この日を境にプロと言う意識に切り替えねばならない。例えそれが頭に『一応は』と言う修飾がつき、他でバイトをしなければ食っていけない現実があるとしても。
セットリストに並んでいる曲は12曲、時間にして全行程が1時間半に満たないくらいである。
時折エンジニアへのオーダーや微調整を挟みながら、本番前最終のリハーサルをこなしていく。これが終わってしまえば後は本番が始まるのを待つのみだ。そう思えばリハーサルが続いて欲しいような気もしてしまう。緊張、と言う奴だ。
リハーサルが概ね予定通りに終了し、本番に備えてのセッティングが完了すると、後はもうすることがない。チケットは完売しているはずだから客入りに怯える必要はないのに、先まで繰り返していた地方での寂しいライブが妙な耐性を植え付けている。客がいなくても頑張りましょう、である。
「一矢、一矢、か・ず・やあ!」
残念ながらこのキャパのコヤにはシャワーなどと言う上等なものは装備されていない。リハでかいた汗を拭って新しいシャツに着替えていると、和希とその辺を彷徨っていたはずの啓一郎が楽屋に顔を覗かせた。ちなみに武人は床に転がって本番前の一寝入りである。感心する。
「あによ」
「あのね、あのさ、外見た? 外」
「見てない」
リハの前に啓一郎が「入り待ちの人がいるーッ!」と仰天して騒いでいたのでそれにつき合ったきりだ。
「ハリウッドスターでもいた?」
今し方脱いだシャツとタオルを綺麗に畳みながら気のない返答をすると、啓一郎の跳び蹴りが襲いかかってきた。
「のあ」
「馬鹿にしてんな?」
「あーたねえ! 本番控えてドラムが怪我したらどーすんのよッ」
「この程度で怪我するドラムならいらねえ」
滅茶苦茶なことを言ってのける啓一郎に呆れる。
「んなんだから明弘に『コザル』ちゃんて言われちゃうのよん。……で、何?」
荷物の入ったバッグをごそごそ漁りながら促してやると、言いたかったことを忘れかけていたらしい哀れなヴォーカルが顔を跳ね上げた。
「そう! 外ッ。お客さんッ」
「……。そりゃあ客くらいいるでしょうさ。一応はソールドアウトしてんだからさ。誰もいなかったら気まずいでしょー?」
「そうだけど! それは全くもって一分の隙もなくその通りなんだけど! だけどでも!」
全力で怒鳴りながら、啓一郎が疾風のように一矢を窓際へさらった。モウ好キニシテ……とされるがままに窓際へ行く。テンションの高いお子様の相手は疲れる。
「ほらッ、ほらッ」
「……ほー」
しかしながらさらわれて見てみれば、嬉しさは隠せなかった。楽屋の窓のすぐ下は駐車場である。ライブハウスの入り口からすれば裏側にあたるのだが、オープン待ちで時間を潰す人の姿が見えた。見えたどころではない。狭い駐車場は人でいっぱいである。
「すげー」
入る予定の人数から考えれば当たり前、いや少なすぎるくらいだが、こうして目の当たりにすれば感動もしようと言うものだ。それほどに地方のライブは過酷だったのだから。
「なッ! なッ!」
「うん……」
「結構久しぶりな奴とかも会えそうだし。今日」
「あ、そう? 連絡あった?」
「うん」
頷いて、啓一郎は一矢も旧知の人間を何人か挙げた。元々一矢は啓一郎と同級生だったのだから、共通の知り合いが少なくない。
とは言え、高校時代からずっと同じ携帯番号やアドレスを使い続けている啓一郎と違い、中退後に一度ほとんどの通信手段を失った一矢には連絡を取り合う術もないけれど。
「世良も来るんでしょ」
「うん。世良くんは連絡もらいました。琴子ちゃんと来るそうで」
「高岡も来るって。西野とか拉致って来るとか言ってたけど。明弘は?」
「アキちゃんは遅刻して来るそーです」
「なぁにぃ? たるんでるなあ」
しばし眼下のありがたい光景を見下ろしながら、啓一郎とそんな話に花を咲かせた。その口から飛び出る懐かしい名前に記憶の中の笑顔を蘇らせる。
「高岡なんか打ち上げ、既に行く気満々だしー……ってゆーかライブがメインって忘れてんじゃねえ?って感じだしー」
「ま、それも醍醐味のひとつとゆーことで……」