第19話(2)
(どうして)
声はもう間近だ。2階に降り切った2人は、更に下まで降りるつもりらしく折り返し点に立った。階段の途中に京子の姿を見つけ、2人が揃って足を止める。
「あ、お、おはよう」
なぜか泣き出しそうになっている自分を押し殺して、京子は笑顔で顔を上げた。
取り繕いながら、そんな自分を疑問に思う。
どうして――だって、一矢は。
「京子」
だって一矢は、京子と話している時よりもずっと。
「2人の声が聞こえたから、待っちゃった」
ずっと……楽しそうだ……。
ささやかな会話だけれど声音でわかる。紫乃と会話をする声は、彼の好きなミュージシャンの話をしている時と同じような声に聞こえた。顔を見ないで声だけを聞いていたから、尚更かもしれない。
ぎこちなく笑う京子に、一瞬表情を消した一矢がにこやかな表情を浮かべ直して再び足を動かした。
「そう? 何もこんなハンパな場所で」
「ん……そうだね……」
2人は3階で何をしていたのだろう? 偶然会ったのだろうか。つまらないことが気にかかる。
「ど、どうしたの? 2人揃って」
何気なさを装いながら尋ねてみると、紫乃が一矢に続いて階段を降りながら、一矢の背中を指差した。
「上のスタジオ使ってたら、コレがクレームをつけに……あ。神田くん、クレーマーぽい」
「わけのわかんねえことを決め付けてんじゃねえ。何がクレーマーだよ。つーか誰がコレだよ」
「神田くん以外にいないですけど……」
「何申し訳なさそうに言ってんだよお前……」
紫乃に言い返してから、一矢が京子の頭を撫でた。
「悪いね。お待たせ」
「う、ううん。待たせたのはわたしの方だもの……」
「いいえー。ちょうどこいつにクレームつけたかったんで良かったですわ」
「こいつとか言うな。そんな態度ばっかりしてたら京子ちゃんに捨てられちゃうかんね」
「余計なお世話だっつの」
紫乃の言葉に儚い笑みを浮かべながら、京子はそっと俯いて唇を噛んだ。
なぜだろう。なぜ彼女である自分が、邪魔をしてしまったような気分にならなければならないのだろう。
「ク、クレームって何?」
屈辱感を堪えながら笑顔で尋ねる。京子の背中を、一矢の温かい手がポンと促した。
「行きませう。……いや、ちょっとこのアホスケがつまらん御託をD.N.A.の武藤くんに……」
「だーかーら。ついだってば、つい。深い意味がないからこそでしょ?」
「何? 何を言ったの?」
階段を降りながら繰り返し尋ねる京子に、一矢も紫乃も一瞬黙った。それから顔を見合わせると、無言のまま京子の顔を見つめる。
「え?」
「いや……気にせんで。本当、つまらんことなんで」
取り成すように、一矢が再び京子の頭を軽く撫でた。紫乃も話す様子はなく、それが一層疎外感を感じさせた。
今ここにいてはいけないのは、自分ではないのか? ……そんな馬鹿な。
階段を降りる自分の隣には一矢がいて、紫乃はやや遠慮するように京子の後方を降りてくる。けれど、耐え難い居心地の悪さがあった。なぜかなど考えなくてもわかる。一矢と京子の空気より、一矢と紫乃のそれの方が近しいのだ。
「そんじゃあな」
1階について自動販売機の付近まで来ると、一矢が紫乃を振り返った。紫乃はまだ事務所に残るらしい。ポケットから財布を取り出している。
「あ、うん。んじゃあ京子ちゃん、またね」
「まだ仕事?」
「うん。もちっとスタジオで曲作りやってこと思ってるから」
「そう。じゃあ、お疲れさま」
一矢は既に出入り口のところで、ドアを開けてこちらを振り返っている。踵を返して一矢に駆け寄りかけた京子は、一矢の顔に目を向けて一際鼓動が大きくなった。
(――?)
今の表情は、何だ?
ごくごく一瞬の出来事だ。けれど、苦さと切なさの混じったような表情を浮かべ、その視線の先にいたのは紫乃ではなかったか?
確かめる間もなく、一矢は背中を向けて外へ出て行った。慌ててその後を追って事務所の外へ出た京子は、その意味を考えて泣き出しそうになった。
(ねえ……)
誰を見てるの?
誰を想っているの?
わたしじゃないよね。ねえ……紫乃ちゃん?
「一矢」
ちゃりちゃりと単車のキーを鳴らしながら駐車場へ足を向ける一矢の背中に呼びかける。
一矢が振り返ると、京子はほとんど何も考えずに口走っていた。
「待ってて。ちょっとわたし、紫乃ちゃんに言いそびれたことがあるから」
「へ?」
振り返ったままきょとんと足を止めた一矢は、ややして小首を傾げながら頷いた。
「そう? んじゃあ単車んトコおりますわ」
「ん。ごめんね」
身を翻して、再び事務所へ戻る。2人でいる姿を見れば、不安感が増すだけだった。紫乃に「一矢と付き合っている」と打ち明けた時の違和感は、勘違いなんかではない。一矢は確かに、京子の前では見せない姿を紫乃に見せているのだ。
(嫌……)
失いたくない。
その思いで胸がいっぱいになる。
事務所の扉を再び開けると、紫乃の姿はまだロビーにあった。いつものソファに腰を下ろし、手元の煙草からは煙が立ち昇っている。
「京子ちゃん」
今し方出て行ったばかりの京子が戻ってきたことに、紫乃は驚いたようだ。立ち上がりこそしなかったものの、大きな目を丸くしてこちらを見つめていた。
「どうしたの? 忘れ物……」
「紫乃ちゃん」
視界の隅で、すぐそこにある事務室内に誰もいないことを見て取る。
別段恋愛の禁止をされてはいないものの、同じ事務所に所属している人間同士、付き合っていることがバレるのは面倒ごとになるかもしれない。そう判断してのことだ。
「お願い」
「え? あたし?」
「……一矢に、近付かないで」
かたかたと体が震えた。涙声だった。紫乃が怖い。紫乃の存在が怖い。
掠れた声で唐突に言った京子に、紫乃はひどく驚いたようだった。身動きをせず、目を見開いたままで京子を見つめている。
それから作ったような笑顔を浮かべて、言葉を押し出した。
「へ……? な、何……」
「お願い。ごめんなさい。だけどお願い。……一矢に近付かないで」
紫乃の顔を見ることが出来ない。勝手な自分は承知の上だ。わけがわからないことも理解している。事実上、誰に何を言われたわけではないのだから。
けれど京子にとっては切実だった。先ほどの2人の空気感だけで、恐れを感じるには十分だった。紫乃がそばにいる限り、一矢が本当にこちらを向くことはないのではないかと言う強い思いこみに駆られていた。
笑われるかもしれない。
ぽかんとした紫乃の顔を見てそう思う。
一矢に確かめてさえいないのだ。紫乃にすれば、さっぱり意味がわからないだろう。そう思えば、顔が赤らむような気がして俯いた。
しかし、紫乃の反応は京子の予想とは異なった。
「あ……」
掠れた声に顔を上げる。紫乃が強ばった顔でこちらを見ていた。
「ど、どうしたの、突然」
「突然って言うか、その……」
その紫乃の顔つきにどこか違和感を覚えながらも、その理由を考える余裕がなかった。しどろもどろになり、ため息をつく。
「突然だよね……」
「う、うん。あの……」
なぜか紫乃もどこか余裕がない。
「神田くんが、何か……言ったの?」
恐る恐ると言う様子に首を傾げながら、京子は否定した。
「ううん。そうじゃないの。そうじゃ……ないけど……」
まさか、一矢が紫乃のことを好きなのだと思っているとは言えない。結局曖昧に笑う。
「はは……そうだよね。変、だよ、ね」
「あ、ううん! そういうわけじゃあないんだけど。そうじゃないけど、たださ、どうしたのかなあってびっくりしただけ」
そこまで言って、紫乃はようやく落ち着きを少し取り戻したように煙草の灰を落とした。
沈黙が訪れる。
「ごめんね」
やがて紫乃が、大きくふうっと息をついた。顔を上げると、大きな瞳には悲しげな色が浮かんでいる。不思議と、綺麗に見える神秘的な表情だった。
「あたし、慣れ慣れしいよね」
「そんな」
「ううん。ごめん、わかってるつもりで気をつけてるつもりだけど、足りないみたい。『つもり』じゃ意味ない」
京子におもねっているのではなく本心のような呟きが、京子の胸に刺さった。思う以上に傷つけた気がした。――なぜだろう? なぜ?
「彼女の前で慣れ慣れしかったら不愉快だよね。あ、いや、裏なら良いってことじゃないけど、もちろん」
「うん。わかってる」
「はは。あたしほら、男の子に女扱いされないこと多いし。女ぽくないから」
「そんなことは……」
「ううん。そうなの。だからさ、何て言うか……どっちも同性の感覚みたいについなっちゃうて言うか……。でも、彼女にしたら嫌なのもわかってるつもり」
「……」
「ごめんね。本当に。気をつける」
頷くのは躊躇われた。けれど、気にしないでとも言えなかった。心が狭い自分を感じて、唇を噛む。なのにやはり言葉が出ない。
「あのさ、でもさ」
黙ったままのこちらを気遣うように、紫乃がぎこちない笑みを浮かべた。
「神田くん、京子ちゃんのこと大事にしてるみたいじゃん?」
「……」
「あの、余計だってわかってるんだけど、その……精一杯大事にしてるんだと思うな。だからさ、だから……」
「……」
「……大丈夫だからさ」
はは、と笑ってみせた紫乃の顔はなぜか痛々しかった。けれど、京子の不安を感じて励まそうとしてくれているのはわかる。それは感じる。
ようやく京子も笑みを作り上げた。
紫乃は京子と友達だ。もし一矢が京子の懸念するように紫乃へ何らかの想いを抱いているのだとしても、どうなるはずもない。そう信じる。
「神田くん、待ってるんじゃん?」
「あ、うん。そうだね。……あの、それじゃあ」
「うん」
再び事務所の出入り口へ向かいかけた京子は、途中で一度紫乃を振り返った。
「紫乃ちゃん。わけのわかんないこと言って、ごめんね」
京子を見返す紫乃は、苦笑を浮かべて顔を横に振った。
「ううん。……気をつけてね」
なぜかその笑顔を胸の中に残しながら、改めて事務所を出る。一矢は既に単車を事務所の前に回し、アイドリングをして待っていた。出て来た京子の姿に、単車に跨ったままで片手をひらひらと振る。
「終了?」
「ん、うん……」
「どしたん? 平気?」
「うん」
シールドを押し上げたヘルメットから覗く京子を見る目は、優しい色をしている。
手渡されたヘルメットを受け取りながら、京子はそれに微笑みで答えた。
今日は、ジーンズだ。タンデムシートに跨って一矢の体に腕を回すと、洋服越しに一矢の温もりが伝わってくる。京子とは違う、堅く締まった体にどきどきする。
「ちゃんと掴まってねん。……ま、荒い運転はしない予定ですが」
「うん。安全運転でね」
「へい」
言葉の通り、ゆっくりと単車が動き出す。
二人乗りを良いことに、京子は回した腕でぎゅっと一矢の体を抱き締めた。背中に寄せた頬が温かく、微かにコロンの香りがする。遊んでいただけあって、一矢は京子から見てもファッションセンスなどが良かった。派手すぎず、地味すぎず、金を掛けられない分センスで勝負してるようなフシがある。好んでつけているらしいムスク系の仄かなコロンの香りも、京子には好みだ。一矢に合っていると思う。街で時折この匂いがすると、一矢を感じて心が騒ぐ。
どこにも行かないで。
そんな願いを込めて、回した腕に更に力を込めた。
単車を降りてしまえば、こうして触れられない。まだ、触れられる距離にない。なぜだろう。付き合う前の方が近かったような気がする。
触れてその存在を感じることで、京子の中の想いが昂ぶった。触れることが想いを深めるのだと言うことを、京子は一矢に出会って初めて知った。
遠くで見ているだけではわからないことがある。こうして手を触れてみないと、感じ取れないことがある。
ならば……もっと深く触れ合えば、お互いにもっと感じることがあるのではないだろうか。
「京子ちゃん」
「はい」
「ウチでいーの?」
信号待ちで、一矢が振り返った。不安と昂ぶる想いで微かに潤んだ目で見上げ、京子は笑顔で頷いた。
「うん」
こんなことを考える自分は、恥ずかしいのだろうか。
(だけど、一矢……)
あなたが好きだから――あなたの腕に抱かれたい……。
「それでね、ほら、今まで飛鳥ちゃんがヴォーカルだったでしょ……」
「うん」
「だからわたしはちゃんとしたヴォーカルレッスンとか受けてたわけじゃないし……」
一矢の部屋について、キッチンでタマネギの微塵切りをしながら京子が懸命に話している。
その後ろで折り畳みの椅子を引っ張り出し、一矢は備え付けの可動式キッチンカウンターに頬杖をついていた。
何せ、恐ろしいくらいに金がない。
身動きすらままならない貧乏彼氏では、デートと言ったって出来ることなどたかだか知れている。
しかしながら、元モデルで現アイドルミュージシャンの彼女はそんな彼氏に不平一つ漏らすことなく、こうしてキッチンに立って甲斐甲斐しく夕食の支度をしてくれていた。全く……文句を言ったらバチがあたる。
そんなことを思いながらぼんやりとその背中を眺めていると、真剣にタマネギと向き合っていた京子が振り返った。
「一矢」
「はい?」
「普通にこねちゃって良いの?」
「ん? うん。まだ普通にハンバーグの生地を作ってくらさい」
「はーい」
正直に言えば、料理の腕は一矢の方が圧倒的に上である。
けれどどちらかと言えば尽くす型である京子にしてみれば、それは堪らないらしい。その為、一矢に教わりながら覚えていくと言うので、一矢は後ろでぼけっと眺めているというわけだ。
本日のメニューはハンバーグと言うことで、京子が張り切ってキッチンに立っている。一矢は、必要以上に口を挟まないことに決めていた。「教わる」と言っていたって、実際に余り横から口を出せば薀蓄男だと思われて鬱陶しがられるのがオチである。気になる点はないでもないが、女の子に何かを教える時は聞かれた時だけ答えるのがベストだと思う。聞かれてもいない知識をひけらかすのは、基本的にはタブーだ。
相変わらず小細工思考の消えない自分に呆れつつ、タマネギをフライパンで炒める京子を眺めた。彼女はまだ一生懸命先ほどの話の続きを語っている。
(紫乃に話って、何だったんだろ)
半ば無意識に腹の辺りをさする。痛みは引いて来たとは言え、まだうっすらと痣が残る辺りだ。
まあ、元々紫乃と京子は一矢と無関係に友人同士なのだから他愛のないことだろう。京子の話に相槌を返しながら何気なくリビングに目を向けると、暗い窓の向こうが滲んでいた。いつの間にか、雨が降り始めていたらしい。
「そうしたらそのいしざき先生って人がね……一矢?」
窓の外に目を向けている一矢に気がついたらしい。京子の声に、顔を戻す。
「どうしたの?」
「や、ごめん。雨が降り始めた」
「え、やだ。本当?」
部屋の中には、換気扇を回しても尚タマネギを炒める香ばしい香りが微かに広がる。そして窓の向こうでは空から降り注ぐ雨が、線のような軌跡を次第に増やしていった。
なぜだか、二人とも無言で窓の外に視線を向けていた。フライパンから上がるジューっと言う音だけが、部屋の中を支配する。
窓を濡らしていく雨を眺めながら、一矢はぼんやりと紫乃のことを考えていた。まだ事務所に残っているのだろうか。どうやって帰るのだろう。少なくとも先ほどスタジオにいたのは紫乃だけだった。それはもちろん、電話一本かければ神崎なり武藤なりが迎えに飛んでは行くだろうが。
遠征から帰った直後に会った時は、なぜかそこはかとない気まずさが流れた。
けれど、『MUSIC CITY』で会った時にはその気まずさは払拭されてしまった気がする。
そして今日、京子を待つ間に紫乃がいるスタジオを訪れたことで、完全に消え去った。……元通りだ。悲しいぐらいに、紫乃との関係はつかず離れずを繰り返す。
いっそ遠くなれば良いものをなかなかそうはならず、しかしながら今の自分はこんなふうに思うことさえ過ち……。
「一矢」
ぽつんと京子が呼んだ。
意識を引き戻されてはっと顔を上げると、京子がどこか寂しい顔でこちらを見つめていた。
「え、ごめん、何? 何か話してた?」
「……」
「京子?」
「ううん」
短く答えると、京子は再びタマネギを炒め始めた。微塵切りを焦がさず飴色にじっくり炒めるのは結構手間がかかる。
背中を向けてしまった京子の心理が読めず、一矢は何か悪いことをしただろうかと戸惑った。ぼんやりしていたのが悪いと言えばそれまでではあるが。
しかし、一矢が口を開きかけるより先に京子が振り返った。