第19話(1)
無事『MUSIC CITY』と言う期待の大イベントを終えた成果は、一応それなりに上がっているようである。
取材の申し込みや、まだ始動出来ないほど儚いファンクラブへの入会者など、ささやかながら動きが見られたらしい。マネージャーの佐山はにこにこである。
次は5月下旬のワンマンライブへ向けて準備が始まっており、ファーストシングルの発売も当月内に控えているので、やはりGrand Crossはスタジオに閉じ籠もる日々が続いている。
一方で、一矢は仕事がない日や空いた時間を主に金を稼ぐことに費やしていた。レンタルショップの勤務がない日は『listen』にも行っているが、それだけでは限界がある。日雇いのバイトなども模索しなければならないだろう。ともかくも、それゆえにここ数日は京子と会うような余裕がない。メールがせいぜい、と言うところである。
「良かったやん。腹で」
一矢の働くレンタルショップに顔を出した武藤は、元従業員であるのを良いことにバックルームに入り込んでいた。
深夜帯の休憩時間を見計らっての訪問である。現在時刻は3時を回ったところだ。睡眠不足が祟って眠い。
神崎との一件について武藤は、あっさりとそんなふうに笑った。
「あーなーたーねえー……」
神崎に蹴りつけられた腹は、触れなくとも痛い。ずきずきと疼く痛みが痣の存在を主張している。
事務処理用に置かれているデスクの椅子に横向きに掛け、くわえ煙草で一矢は顰め面をしてみせた。床に直接あぐらをかいて座り込んだ武藤が笑う。
「ええなあ、『せーしゅーん』やん」
「『せーしゅん』ではなくてただの『暴行』ではなかろうかと思いますが」
「『暴行』の陰に『せーしゅん』が潜んでんねやな」
「あほなことをおっしゃらんで下さい」
「女挟んで殴り合いなんて、せぇへんもん」
「普通しねーし」
ぼそっと言ってから、一矢は渋い顔のままで付け足した。
「大体殴り『合って』おりませんので」
「何でや。殴り合うたら良かったのに」
「物騒なことを言わんで頂きたい。つか、あんたのツレだろが」
気楽に無責任な発言をする武藤を軽く足先で小突くと、武藤は笑いを浮かべたままでポンと手を叩いた。
「せやな。仕掛けたのは神崎やから殴り返すのは構わへんけど、顔と手はやめといてや。俺らが迷惑すんねん」
何を勝手な……である。
「神崎も一応そこら辺考慮したんちゃう? 一矢もミュージシャンやから」
「そーおーでーすーかーあー?」
確かに顔と手に支障がなかったのはありがたい。
一矢にとって最も大切なのはスティックを握る両手であり、ペダルを踏みしめる両足である。
もちろんドラムを叩くに当たって腹筋にも負担はかかるが、腕でガードをしてスティックを握れなくなるよりはましだと判断した。顔については、神崎は最初から攻撃を仕掛けていない。
それらが無事だったおかげで仕事上では全く問題がないのは確かだけれど、だからと言って感謝の念など露ほどにも浮かばない。当然である。
「……にしてもな。まさか一矢がなあ」
武藤は、あぐらをかいている自分の膝に頬杖をついて妙に感慨深げに言った。上から注ぐ抗議の視線は、完全に黙殺である。
「何ですかねぇ、ソレ」
「いやいや。一矢がねえ……紫乃ねえ……ぶほ」
次の瞬間、一矢が掛ける椅子の背もたれに引っかかっていたエプロンが、鮮やかに武藤の視界を遮った。
「何すんねや〜……」
ぶるぶると顔を振ってエプロンを振り落とすと、武藤は抗議の目線を向けた。素知らぬ顔でそっぽを向く。
「過去だよ過去ッ」
「ほお。過去のことで、つい5日前に殴り合うんや」
「殴り合ってない」
「いちいち突っ込むなやッ!」
「俺には彼女がいますんで! 紫乃も知ってるし!」
内心はいろいろと収拾がついていないとは言え、表だっては一矢の彼女は間違いなく京子である。
背もたれに頬杖をついてふてくされる一矢に、武藤がふうっと大きく息をついた。
「それや」
「は?」
意味を理解出来ずに目を瞬いていると、武藤は真っ直ぐな眼差しを向けたまま繰り返した。
「だから。それ、何なん?」
「……それ、と言われましても。どれでしょう」
「何で紫乃のことが好きやのに、他の女の子とつき合うてんのやっての」
「……」
痛い直球である。
正当性のある返事を見つけることが出来なかった。勢い、どん底に落ちた時にそこにいたから――いずれにしても正当性の欠片もない。
黙ったまま、煙草を灰皿に押しつける。続けてもう一本取り出して火をつける一矢の答えを、武藤が無言で待った。重圧である。
あくまで無言のまま煙草を吸っている間中、武藤は一矢を見つめ続けた。一本吸いきって根負けをした一矢は、武藤に嫌な顔を向けながら口を開いた。
「何れすか」
「質問しとんのは俺やもん。せやから返事待ってんねん」
「答える必要を感じません」
一矢の回答に、武藤は床に片手をついた。体重を預けるように後傾になる。
「まあな。答える義務はあらへんけど」
「うん」
休憩を終えるまでには、まだあと15分ある。
一矢は組んでいた足を解き、椅子の背もたれではなく背後の壁に深く寄り掛かった。
「あんさあ……」
「ん?」
「神崎と紫乃に何かあったん? ……って、聞いても良い?」
「……」
「知らないんなら別にいーけど。知ってても言えないなら、それもまたいーですが。何で自分が殴られにゃならんのか、よーわからんので」
神崎の言葉では、何だか良くわからなかった。ただわかったのは、神崎と紫乃は寄りを戻したわけではないのだろうと言うことと、神崎が何やら勘違いをしていそうだと言うことである。
先ほどとは逆に、今度は一矢が回答を待つ。武藤は視線を彷徨わせながら小さく「あ〜」と呟いた。
それから一矢に目を戻し、ぐしゃぐしゃと頭をかく。
「あんな」
「うん」
「俺も詳しいことはよう知らへんし、知ってても言うたらあかんことは言わへんけど」
「うん」
「神崎がお前を殴った理由を知りたい言うのはわかるし」
「うん」
「せやから、その……それについては、まあ、何や……あれやけど」
「……」
歯切れが悪い。
ぶちぶちと切れる言葉に律儀に頷きながらも視線を逸らさない一矢に、武藤の方が再び目を背けた。
そして勢い良く頭を下げた。
「悪いッ」
「は?」
「俺のせいもあんねんな、多分」
「はああ?」
壁から背中を起こし、目を丸くする。まさか武藤がけしかけたと言う意味ではなかろうが。
驚く一矢に、武藤はバツが悪そうに鼻の頭へ皺を寄せた。
「あんな、この前仕事ん時にな、渋谷の会議室行っててん」
「はあ」
「取材で、貸し会議室使うてて……ほんで、俺らがいつも使うてるスタジオも渋谷にあるやんか。近いやん」
「まあ……場所は良く知りませんけど」
同じ渋谷なのだから、いずれにしてもそれほど遠くはないのだろう。
そう判断して頷きながら、一矢はデスクの上のペットボトルに手を伸ばした。口をつける一矢を眺めたままで、武藤が頷く。
「近いんよ。歩いて……5分ちょいかな。そんくらいの場所やってん。で、そっちのスタジオから移動したんやけど、到着してから神崎が携帯忘れたー言うてスタジオに戻ってんねんな。せやから紫乃と2人で待っとってんけど」
「うん」
無駄に前置きが長い。
要するに、言いにくいのだろう。
そう思って敢えて追及せずに、武藤の話の続きを待つ。
「ほら、この前な、紫乃が夜連絡取れへんかったって神崎が気にしててん」
「……はあ?」
ほらと言われても知らないので首を傾げていると、武藤がやや俯き加減で上目遣いになった。男の上目遣いなどありがたくも何ともない。
「ほんで、思い出してんから聞いてみてん。俺が。神崎もおらへんし、『いついつどこか行っとってん?』って」
「はあ」
「したら、紫乃も迂闊さんやからぽろっと『その日は神田くん家に泊まってて』言うてん」
「…………………………」
椅子からずり落ちそうになった。
「多分何も深い意味あらへんから本人もぽろっと言うたんやろと思うねんけど、それだけ聞いとったら凄い内容やん?」
「……そうれすね」
「言うてから本人も気がついて『しまった』言う顔しとってんけど、今更口を塞いだかて出てった言葉は戻って来ぃへんし。ほんでそれ聞いとったんが俺だけやったら良かってんけど、ちょうどな……」
神崎が帰って来てん、と武藤は渋い顔で続けた。それを聞いて合点がいく。
そこだけ聞いたのならば、そこに壮絶なる誤解が生じても疑問はない。いや、生じない方が疑問である。
増してや神崎は紫乃のことが好きなのだし、一矢の気持ちも『同類の誼』で感じ取っていたのだろうから。
「しかもそれを神崎が紫乃に追及すれば誤解もなかったかもあらへんけど、そん時は俺も紫乃も神崎が聞いてたとは思てへんかってん。せやからその時はそのまんま話が打ち切りになって、何食わぬ顔で仕事して。神崎の耳に届いてた言うんは、後で聞いてん。それこそ、一矢とトラブった後に」
「は〜。さいでっか」
「俺があん時あんなこと聞かへんかったらこんなんならんかったかもしれんし、せやから責任感じてんねんで。これでも一応」
「別に武藤くんが悪いわけじゃないですが」
元を質せば結局のところ、紫乃を泊めた自分に責があるのだろう。
そこに結論付けて、一矢は再び壁に背中を預けた。
「そんで、神崎くんの誤解は無事に解けてるんですかねえ」
「さあなあ。俺は紫乃に『愚痴聞いてもらっただけ』って聞いとるし、俺もそやろと思っとるし、それも神崎に言うてんけど。神崎がどう思うてるかまでは知らへんし。それに多分……それだけやないんちゃう?」
「うん?」
「神崎、焦ってんのやないかなあって気ぃするわ」
あぐらを解いて足を真っ直ぐ投げ出しながら、武藤は手近なロッカーに背中を預けた。天井を仰ぐ。ロッカーがギギィと軋んだ音を立てた。
「焦ってる?」
「ん、まあそれについては、あんまし俺は言えへんけどな。何となくや、何となく」
それから武藤は、床に放り出してあった自分の上着を引き寄せた。ポケットを漁ってスティックの粒ガムを取り出すと、「いる?」と言う仕草を見せる。一矢が首を横に振って答えると、ひとつ自分の口に放り込んだ。
「俺、誰の味方でもありたいねん。こういうん」
その言葉の意図がわからずに黙って続きを待つ。
「八方美人で構へん。恋愛って誰が良い悪いちゃうやん。せやからみんな応援してやりたいし、誰の足も引っ張りたないねん。一矢が紫乃好きなんやったら頑張ればええと思うし、神崎も俺は同じように応援しとるし、紫乃は紫乃で自分が幸せになるよう自分で考えたらええねん。そう思うてん」
「ああ、うん」
「せやけどな」
ぼうっと頷く一矢に、武藤は念を押すように顔を上げた。
「せやけどそれは、自分の気持ちに向き合うてる人の話やねん」
「……」
「せやからさっき、聞いてん。何で紫乃が好きやのに、他に彼女おんねんって」
「ああ」
「それはそれで別に俺が責める筋合いちゃうし、答えなあかん理由もないねんけどな。でもなあ、好きやない人とつき合うてんのって自分がつらない?」
「……」
「相手もつらいんちゃう?」
それは痛い言葉だった。
そう……多分、京子も一矢の心が京子にないことはわかってはいるだろう。まだそれほど多くの時間を過ごしたわけではないけれど、時折寂しげな笑顔を覗かせる。
付き合い始めて以降の2人の関係は、手を繋ぐだけに留まっていた。
一矢が黙ったままなので、武藤が口を閉ざすと店の方の雑音が耳についた。BGMの合間にガサガサと聞こえる音は、フロアに出ているバイトが何かの作業をしているのだろう。
沈黙に痺れを切らしたように、武藤が再び口を開いた。
「好きな人おってもあかん時もあるし、自分のこと好きや言うてくれる人と付き合うてみんのも悪いとは言わへんよ。せやけど」
「うん」
「その前にちゃんと自分の気持ちに向き合うてみた?」
どういうことだろう。
良くわからないので無言でいると、武藤が言葉を探すように天井を睨んだ。
「俺も良うわからんのやけどー……何か一矢、幸せそうに見えへんやん?」
「聞かないで下さい」
「やって、そうなんやもん。時には強引に自分の気持ちに踏ん切り付けなあかんこともあるし、その為に自分の気持ちから目を背けなあかんこともあると思う。上手くいくことばっかりやないから。でもなあ」
真っ直ぐな眼差しで、武藤が懸命に言葉を続けた。
「紫乃の答えって、まだ出てへんのとちゃうん?」
思わず武藤を見返す。
それは確かに、その通りではある。一矢の気持ちを紫乃に伝えはしたけれど、それに対して一矢は答えを要求しなかった。紫乃の気持ちが当時どこを向いていたかは知っていたけれど、直接的に一矢は紫乃に振られたわけではない。
「せやったら、そこ確かめてからどうしてくか考えていくべきなんちゃうんかなあ?」
「……」
「駄目やって答えが出て、それで自分の気持ちにも区切りがつけられるもんやと思うし、そこからどうしていくか考えるのがスジなんちゃう? そこからまた自分の気持ちと向き合うて、どうやって上を向いていくか考えて、自分で決めて。それでやっと本当に他人を大事にすることにもなるんちゃうんかなあ」
『自分で決めて』――そう、確かに一矢は考えて京子と付き合い始めたわけではない。
武藤はそこまで知っているわけではないけれど、そもそもそこ自体が京子に失礼なのだと責められている気がする。
「自分に嘘ついとんのは、自分にも他人にも失礼や」
「わかってる」
わかっている……つもりだった。
だから付き合い始めてからは精一杯誠意を尽くしているつもりなのだ。
けれど胸の内にはまだ紫乃への想いが消えずにいる。消える様子など微塵もないままに。
――相手もつらいんちゃう?
「そうか? なら、ええねんけどな」
そばにいることが、却って京子を苦しめることになっているのだろうか。
◆ ◇ ◆
事務所の移籍と今後の仕事について広田との打ち合わせを控えた京子は、Opheriaの仕事を終えた会議室にひとり残っていた。
今日はGrand Crossも事務所へ呼び出されていると聞いており、連絡を取り合って一矢と会おうと言うことになっている。
1週間ぶりのデートに、心が弾んだ。早く会いたい。会えばまた寂しさを感じるのかもしれないけれど、それでも会えないよりはずっと良い。
広田を待つ間、携帯電話を取り出してメールを読み返す。一矢のメールは決して長いものではないけれど、マメにくれるし、短い中に京子への気遣いも感じられて嬉しい。電話の方が声を聞けるので嬉しいけれど、こればかりは時間が合わなければどうしようもない。何せ、一矢は深夜帯に働いていることも少なくないのだから。
(大丈夫だよね。大丈夫大丈夫……)
メールのページを次々に送りながら自分に言い聞かせる。儚い夢ではないかとの不安は、今も尚心の中に留まり続けていた。いや――紫乃のことが好きなのではと言う心配が過ぎってからは、一層。
けれど、一矢が今まで誰を好きだろうが何をしてようが、過去のことは過去のことだ。今は今で京子が彼女なのだから関係がない。ないはずだ。肝心なのはこれからどうしていくかであり、未来がどうなるかである。
紫乃のことが好きだったとしても……もしかすると今も好きなのだとしても、京子の存在が紫乃への気持ちを塗り替えれば済む話だ。
考え込んで眠れない夜には、そう言い聞かせた。それがそう簡単なことではないと言うこともわかってはいるけれど。
やがて広田が会議室に入ってきて、移籍を見越した今後の仕事についていくつか打ち合わせを済ませる。1時間ほどのミーティングを終えて広田が先に出て行くと、京子もバッグを掴んで立ち上がった。
会議室の電気を消し、廊下へ出る。メールをチェックすると一矢の方は既に手が空いているようで、ロビーか駐車場辺りにいるようだった。15分ほど前のことだ。
待たせてしまっては悪い。そう思いながらもつい足は化粧室へ向かう。一矢と会う時は、いつでも一番可愛い自分でいたい。鏡をチェックしないわけにはいかない。
2階の化粧室に寄って化粧を直すと、京子は弾んだ気分で階段を降りた。一週間経って、ひとり暮らしの話も少しずつだが動いている。どの辺りの物件にするかがほぼ決まったので、見に行ってみたい物件をいくつか雑誌から切り抜いてあった。そんな話も今日一矢にしてみよう。
「……ばれたじゃねえ。お前なあ。発言にはもうちょっと慎みってものを持ってだなあ」
軽い足取りで階段を降りていた京子は、突然耳に飛び込んできた声に足を止めた。下ではない。上からだ。
目を瞬いて、思わず振り仰ぐ。見えるのは3階に続く階段の裏側に当たる天井だけだが、降りてくる足音と近付いてくる声に京子は小さく息を飲んだ。
「だってー。事実だもん」
紫乃だ。
降りてくるのが一矢と紫乃であることに気がついて、京子はその場に固まったままになった。誰もいないと思っているのか、2人の会話が響いて来る。
「事実ですが! 一般の人はそこからこういろーんな想像が働くわけで、だなあ」
「じじはそんなことなかったしょ?」
「武藤くんはね。だがしかしそれゆえに俺は大変可哀想なことに……」
「可哀想? 何で?」
「いや、まあ、そこれはそれ、いろいろあるわけで」
「ごめん、言ってる意味がさっぱりわかんないよ」
「ですな。じゃねえ、何納得してんだ俺……」
京子の心臓がとくとくと音を立てていた。
なぜだろう。何かが凄く嫌だった。何か……何か?




