第18話(5)
何食わぬ顔をして目線を伏せ、元の作業に戻ろうとするが、一矢の願い虚しく神崎は入り口から真っ直ぐにこちらへ向かって来た。まだ敵視しているのだろうか。付き合っているのならば、もう済んだことなのだから良いだろうと思いもするのだが。
気づかない振りで黙々と作業をしていると、レジカウンターの前に立った神崎が口を開いた。
「お疲れ」
「……お疲れさまです」
無視をするわけにもいかずに仕方なく顔を上げて答えると、神崎はどこか落ち着かない表情で一矢を見下ろして口早に言った。
「お前、バイト何時まで」
大して友好関係があるわけではない……いや、むしろ積極的に『ない』と言っても過言ではないのに『お前』呼ばわりは少々癪に障る。
けれどそこには触れずに、一矢は短く答えた。
「5時までですが」
「5時ぃ?」
「はあ」
そこを責められても困ると言うものである。
一矢の回答に顰め面をした神崎は、壁にかかった時計を睨んで眉根を寄せた。
「5時……朝だよな」
「……夕方の5時までの方が悲惨なんですけど」
「んなことは言ってねーだろ!!」
「何か用ですか」
こんなところで頑張られては、邪魔である。ついでに本人が宣伝塔になってD.N.A.のCDやDVDのプロモーションでもしてくれるのならば、話は別だが。
簡潔に尋ねる一矢に、神崎は一瞬言葉に詰まった。それから、ただでさえ鋭い目付きを一層鋭いものにして、頷いた。
「話があんだけど」
「俺にはありません」
「お前がなくてもこっちにはあるんだよ」
「心当たりがないんですけどね。……ここで話せないお話ですか」
「話せなくはないけど、話したいとは思わないな」
「所要時間は?」
「さあ。5分もあれば足りるんじゃねーの」
「……休憩ってのが、1時過ぎにありますが」
仕方がない。
何を話したいのかは知らないが、どうせ紫乃絡みのことだろう。
譲歩案を口にすると、神崎の視線がもう一度時計へ向いた。現在0時を回ったところ……残り1時間程度だ。
「じゃあ、その頃にまた来る。……ここに来ればいーのか?」
「この店と隣のコンビニの間の細い道を抜けた裏に駐車場がありますんで。出来ればそっち」
「了解」
短く回答すると、神崎は再び外へと出て行った。それを見送って、作業を再開しながら眉を顰める。
一体、何だろう。
神崎にこうして改めて絡まれるような覚えがないので、首を捻るばかりだ。
非常に不本意ながら、以降の時間は神崎のことで頭を占められて過ごし、ようやく迎えた休憩時間で一矢はバックルームに入った。
休憩の時間は、時間給が発生しない。
財布が寂しい身の上としては、休憩など挟まずにしっかり給料計上してくれと叫びたいのはやまやまであるが、拘束時間が7時間である以上労働基準法に則って45分以上の休憩が必要である。1時過ぎに15分、3時過ぎに30分の休憩が挟まるのがこの店のローテーションだ。
とりあえず、煙草を1本咥えて火をつけてみる。気になるには気になるが、気が進まないのもまた事実だ。なぜこんな深夜にバイト中の僅かな休憩時間で神崎と密会をしなければならないのか。
下らない考えにため息をついて、一矢は二口吸っただけの煙草を灰皿に押し付けた。仕方なくバックルームの内鍵を開けて、外に出た。
裏口は、隣のコンビニとの間にある路地に面している。そこから短い距離を真っ直ぐ歩けば、神崎に指定した駐車場だ。
駐車場に着いてみると、神崎は既に待っていた。隅のブロック塀に背中を預け、こちらに視線を向けている。渋谷とは言え繁華街のど真ん中にあるでもないこの辺りは、深夜ともなればそれなりに静かだった。一矢は、真っ直ぐ神崎の方へと足を向けた。
「お待たせ致しました。何でしょーか?」
不穏な匂いがするので、一定の距離を開けて足を止める。薄暗い街灯に照らされた神崎は、片目を眇めて顔を逸らした。
「お前のそういう話し方、鼻につく」
「それは失礼。まあ、仲良しになることはないでしょうから、余計なお世話って奴ですが」
いきなり絡まれて、少々喧嘩腰の回答になった。元々こちらも神崎に対して思うところがないではないのだから、尚更である。
「手短にお願いしますわ」
微かに顔を傾けて促す一矢に、神崎はブロック塀から背中を起こした。目を伏せて、ジーンズのポケットに両の親指を引っ掛ける。
「んじゃ手短に。……お前、紫乃に近付くなよ」
「……は」
余りに真っ向と言えば真っ向、時期がおかしいと言えばおかしく、面食らう。
言葉を失う一矢に、神崎が顔を上げた。
「それだけ。紫乃に、二度と近付くな。……5分もかかんなかったな。そんじゃあな」
低い声でそれだけ言うと、神崎が歩き出した。一矢の隣を通り過ぎる瞬間、思わず振り返る。
「……意味が、わからないんですが」
「わかんねーの? お前が、遊び半分で紫乃を振り回してるみたいに見えるから、釘刺してやろうかと思って」
『遊び半分』と言う言葉に、カチンと来た。
遊び半分ならば、あれほどに悩むものか。今だってこうして思い切れずに悩んでいる。言い返したい言葉はいろいろあったが、何より最も不可解なのは神崎自身で、それが一矢に反論を飲み込ませた。口をついて出たのは、別の言葉だった。
「……何で、今?」
神崎は、紫乃と寄りを戻したのではなかったのか。
事務所で見かけた2人のキスが脳裏に鮮やかに蘇り、目の前の神崎の態度と相まって激しい嫉妬を呼び起こす。
なぜ神崎にこんなことを言われなければならないのだろう。下らない嫉妬か? 彼女を取り戻したのなら、そんなことは不要のはずだ。
「はぁ?」
ぼそっと尋ねた一矢に、神崎が足を止めて振り返った。それから改めてこちらに向き直る。
「何だ? それ」
「俺が、あなたに今そんなことを言われねばならん理由が、よーわからんのですが」
「すっとぼけてんじゃねーよ」
今まで、どこか落ち着きと余裕を装っていたような神崎の態度が、一転する。尖った声に、一矢への敵対心があからさまに滲んだ。
「紫乃に、ちょっかい出してんだろ。Opheriaにもちょっかいかけてんだったか? 他にもごろごろいるんだろ」
「そうだとして、それをあなたにごちゃごちゃ言われる筋合いでもないんですけど」
「ああ、他の誰に手ぇ出そうが、知ったこっちゃねえよ。だけど、紫乃が入るなら話は別なんだよ」
どうも良くわからない。
言っていることはわからなくはないけれど、何かが咬み合っていないような気がして一矢は眉根を寄せた。
「あいつを、お前が適当に遊んできた奴なんかと一緒にすんな。軽い気持ちで傷つけて良い奴じゃない」
「……傷つけた覚えは……」
「振り回してんだろ!? 実際さあ」
咬み合っていないことを、神崎は一矢がとぼけていると受け止めたようだ。苛立ったように、少しだけ声を荒げた。ちょっと待ってくれ、である。
どう見ても、神崎は嫉妬心に振り回されているように見える。これでは立場が逆だ。……つまり、どういうことだ?
(紫乃と神崎って……付き合って、ない……?)
要するに、そういうことなのだろうか。
神崎は、未だに別れた紫乃のことを忘れられていない。
けれど紫乃とはなかなか復縁することが出来ず、一方で紫乃に近付く一矢が目に付いて牽制をかけている。ともすれば、紫乃が、一矢のことで何かを悩んでいる――……。
(……のか?)
まさか。
浮かんだ考えに自分で即突っ込みを入れつつ、しかしながらその考えが最も納得がいくような気がした。
都合の良い解釈だろうか。
けれど、そうでなければなぜ一矢より圧倒的有利な立場にいる神崎が、一矢に噛み付いてくる? 神崎は、何かに焦っているように思える。
わざわざこうして出向いて釘を刺すのは、事実はさておき神崎の中で一矢を脅威と感じているからだろう。でなければ、こんな面倒な真似をするはずはない。復縁していれば、脅威になろうはずもないだろう。
じゃあ、あのキスは、何だったのか。
(無理矢理……?)
そう思い至って、一瞬かっとした。
胸の内に沸騰するように沸きあがった苛立ちに呆然とする一矢へ、神崎が低く問いかける。
「何黙ってんだよ」
「……『軽い気持ち』とか、勝手に決めつけんで戴きたいんですが」
苛立ちが、一矢の声を低めさせた。対する神崎も、次第に自分で制御しきれなくなっていくように声に感情を滲ませていく。
「あいつをからかってんだろ」
「……」
「紫乃じゃなくたって、いんだろが」
「……れを……」
もしも今自分が考えたことが、間違っていないのであれば。
……彼女を諦めようと、京子と付き合い始めてしまった自分は何なのだろう。
「それを、あんたに決められる筋合いは、ない」
京子に責はない。紫乃にも責があるわけではない。わかっている。……キスシーンに衝撃を受けた自分の弱さが、全ての責だ。
あれさえなければと思うのは、責任転嫁と言うものだろう。けれど、苛立ちが神崎に向けられるのは必然だった。
「ただの、『元カレ』だろうが。決めんのは、紫乃じゃねーのか」
「てめえ……」
神崎が、動いた。
小柄な体で一矢の懐に入り、掴んだ胸倉でブロック塀に押し付ける。
「……ってぇ」
「ほざいてんじゃねーよッ。遊びで女を変えてくようなクズにごちゃごちゃ言われる筋合いじゃねえッ」
神崎の拳が、一矢の腹に憎悪の塊のように叩き込まれた。咄嗟に腹筋に力を込めたものの、真っ向からの威力は皆無になるはずもない。
咳き込んで前傾になる一矢に、神崎が激昂を残したような声で小さく笑った。
「うざってーんだよ。紫乃の周囲をちょろちょろしやがって」
「……」
「何か言い返せよ。あ? やり返せよ」
挑発するような言葉に、一矢は腹を抑えて俯いたまま、唇をきつく噛んだ。
体格で言えば、こちらの方が勝っている。数年のブランクがあるとは言え、正式に武道も習っていた。真っ当な生活をしていたわけではないから、喧嘩に巻き込まれたことも一度や二度ではない。
やり合えば、負ける気はしない。
けれど……。
「やり返さねーのかよッ」
無言の一矢に、神崎が蹴りを入れる。
それも甘んじて受けながら、一矢は自分を抑え付けていた。
どうしても、嫌だ。
どうしても、他人と揉めるのは嫌だ。
弱虫と嘲笑われても良い。……暴力は、どうしても、嫌なのだ。暴力の応酬では、解決にならない。
「近付かないって誓えよ」
「……嫌だ」
思わず本音が零れ出る。
神崎が、苛立ちをぶつけるように再び蹴りを繰り出した。
「ふざけんじゃねえよッ。あいつを振り回すなッ」
「……振り回してない」
「遊んでんだろッ?」
「違う……」
「近付くんじゃねえよッ」
「嫌だ……」
強硬に受け入れる姿勢を見せない一矢へ、神崎は言葉のたびに蹴りを叩き込む。壁に背中を預けたまま、一矢は意地で抵抗をしなかった。
やがて、神崎の方が疲れたように、数歩後退した。
「ちッ……意地張りやがって……」
「……」
「思いがけず時間食っちまったじゃねぇか……」
言われて、そう言えば休憩時間などとうに過ぎてしまったのではないかと気がついた。けれど、幾度も同じ場所に蹴りを食らった体が痛く、時計を見る気にもなれなかった。
「もう一度言っとくぞ。遊び半分で紫乃に手出しすんな。……もう相手にしてらんねえ」
やり返しては来ないくせに頑として神崎の言葉を受け入れなかった一矢の態度に、神崎の方が辟易するように言い捨てる。体をくの字に折ったままの一矢の視界で、神崎の足が踵を返した。視界から外れていく。
「遊びじゃ……ねーよ……」
小さく繰り返した言葉は、立ち去りつつある神崎の耳には届かなかっただろう。
足音が完全に遠のいていくと、一矢は息をつきながらその場にずるりと座り込んだ。
痛む腹は、多分明日には大きな痣になっているに違いない。
けれど気掛かりなのは、そんなことではなかった。
(俺、凄ぇ間違い、犯したのかなー……)
どうして神崎は、あれほどに一矢を目の敵にしたのだろう。
――あたしは、恋愛が下手みたい……
紫乃と神崎に、何があったのだろう。
(会いてぇ……)
紫乃の本心は……どこに、あるのだろう。