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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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第18話(3)

「便利って……」

 つい苦笑した京子は、続けて紫乃が何気なく言った言葉に凍り付いた。

「おいしーもん食べさせてもらえそうだし」

(……え?)

 思わず紫乃を見つめるが、紫乃は何も気がつかなかったようだ。京子は、疑問を口にした。

「一矢が料理得意って……知ってるんだ」

「え? あー……」

 京子の疑問に、紫乃は一瞬だけ強ばった表情を見せた。けれどすぐに、曖昧な笑みに変える。

「ほら。バーで作ったりしてるじゃない? 下北沢の」

 取り繕うように言った言葉は、一層京子の心に陰を落とした。京子は一矢が働くと言う店に行ったことはない。どころか、曖昧に濁されたばかりだ。場所が下北沢と言うことさえ、今初めて知ったのだから。

 京子が知らないことを紫乃が知っていると言うことは、京子のプライドに傷をつけた。知らないとは、言えなかった。

「うん……」

 頷く京子に、紫乃がほっとしたように笑みを見せた。

「そこで、見ちゃったもんだから。びっくりしたです」

「そう……。紫乃ちゃんは、行ったことがあるんだ」

 掠れた声で尋ねると、紫乃の顔から笑みが消えた。

「あー……と……その……京子ちゃんも、あるんじゃ、ないの?」

 おずおずと尋ねる様子に、京子はどんな顔をして良いのかわからず元気なく笑った。

「まだ……」

「でもきっと言えばすぐ……」

「誤魔化されちゃった」

「……へッ!?」

 紫乃が頓狂な声を上げる。京子は儚い笑みを張り付かせたまま、繰り返した。

「誤魔化されちゃった。行きたいって言ったら。……そっかー。紫乃ちゃんは、行ったことあるんだー」

 紫乃が言葉に詰まった。

 つまらないこと……わかっている。大したことじゃない。気にするほどじゃない。タイミングの問題だ。

 けれど――どういうことなのだろう?

「あの、ウチのメンバーのひとりが、神田くんとわりと仲良くて」

 紫乃がぼそりと付け足した。

「それで、その……じじがね、行ったことがあって」

「……うん」

「男友達のたまり場みたいな感じなのかもよ。神田くんにとって」

 フォローしようとしている。

 紫乃の顔を見て、彼女が焦っていることがわかった。

 紫乃は、咄嗟に上手い嘘やごまかしが出てくるタイプじゃない。必死になっているのが、顔にでている。

「あたしはさ、じじが知ってたから、その……たまたまってゆーかさ」

「……うん。そうだね」

 紫乃の言う通りなのかもしれない。

 男の子には、彼女に踏み込まれたくない部分が、あるのかもしれない。

 けれど……。

(一矢の心に、誰がいるの?)

 きっと、誰かがいる。

(わたしの前では、誰にでも見せているのと同じ顔しか、見せてない?)

 紫乃が言うような一矢の姿を見たことがないのは、なぜだろう。

 もしかすると、一矢の心にいるのは。

(紫乃ちゃん……?)


          ◆ ◇ ◆


 暦の上でゴールデンウィークに入ったその2日目。

 Grand Crossは兄貴分であるマネージャー佐山に引き連れられて、新木場の会場を訪れていた。

 ライブイベント『MUSIC CITY』である。

 『MUSIC CITY』は、新木場にある巨大なイベントスペースを借り切って、その中にあるホールの3ステージに加え、野外に特設ステージを設けた4ステージでタイムスケジュールに則ったライブが行われる。

 基本的にはインディーズレーベルのアーティストを国内外問わず招聘しょうへいしており、メジャー事務所に所属するGrand Crossはその概念からはやや外れる。

 けれど、たまたま事務所が決まる前にインディーズレーベルでCDを作っていたことがあり、それが幸いして今回の話が決まった。感謝すべきは、マネージメントをフォローしてくれている藤野のロードランナーである。

「うーん。屋台の香りが俺を誘う」

 イベント会場には、屋台が出ていた。

 さすがに花火大会などには及ばないが、うどんやカレー、シシカバブなど幾種類か出店しており、会場間の狭いスペースは食べ物の匂いと人でごった返している。

「何か食いたいね。まだ早いかな」

 せっかく出演者パスを持っているのだから、ライブを見ない手はない。

 たまたま同じ方向のステージへ向かう和希と歩きながら鼻をひくつかせると、和希もつられたように辺りを見回した。

「裏でもケータ、あるって言ってたよ」

「ふうん? 何あんのかな」

「わかんないけど、弁当とかじゃなさそう。鍋とかあったから、セルフサービスの軽食コーナーみたいな感じ。生ビールとかも置いてるみたいだよ」

「いーね。そっちの方が安そうだな……」

「まあ……出演者やスタッフ用のケータリングだからね……」

 和希が見に行くつもりのバンドと、一矢が見るつもりのバンドのステージは、それぞれ同じ建物の中の別のフロアで行われる。入り口から中に入って別れると、一矢は目的である小さなホールの方へ足を向けた。

 まだステージは始まっていなかったが、ホールの中は結構な混雑だ。出入り口はステージを正面にした最奥に位置しており、人の間をすり抜けて一矢は壁際へと移動した。

 間もなく始まったステージに、ギャラリーが大きく沸く。

 上手いと聞いたから覗きに来ただけで、さして大きな感慨は受けずに一矢はぼんやりとステージを眺めていた。何かが空虚だった。

 いや、ステージが悪いわけではない。そうではない。一矢自身がここしばらく、こんな調子を引きずっているだけのことだ。

 もう、京子とつき合うことに決めた。決めたのだから、後はどうやって彼女との関係を築いていくかだ。

 紫乃のことは考えない。考えても仕方がない。積極的に連絡を取ろうとしなければこうも会わないものかと感動的なくらい、見かけることさえないのだから、忘れられるはずだ。……ひとりではなく、京子がそばにいてくれるのだから。

 焦らなくて良い。いつか、京子の笑顔を自分の幸せと思えるようになるはずだ。

 紫乃に、笑っていて欲しいと、思えたように。……思って、いるように。

 ステージのバンドは確かに上手いが、一矢の心の表面をなぞって通り過ぎていくだけだった。

 とりとめのないことに頭を巡らせながらドラムのリズムを耳で追っていると、突然背中をツンとつつかれる。混み合っているライブスペースではぶつかることもあろうが、意図的なものを感じて振り返ると、佐山だった。

「さーちゃん」

 と言ったところで、聞こえはしまい。

 佐山もにこにこしただけで特には何も言わず、ステージに視線を向ける。一矢も黙って、ライブへ目を戻した。

 1バンドの持ち時間は、およそ30分から40分だ。余り感動を引き起こさないままのライブが終わり、客電が点ると、佐山が改めて一矢を見上げた。

「一矢くんもこれ、見に来たんだ」

「ん? うん、まあ」

「知り合い?」

 ミュージシャンの糸は、一体どこで絡まっているかわかったものではない。その辺りを熟知しての発言だろう佐山に、一矢は笑った。

「いんや。知らない。だけど友達が昔対バンしたことがあるって言ってて。上手いって話だったから、せっかくだしと思って」

「ああ、そうなんだ」

 会場内は、人々の大移動が行われている。ステージが終わったのだからと出て行く者や、逆に入って来る者、そのまま居座る者や、居座る気だが場所を変わろうとする者。

「さーちゃんは? 何でここに? それこそ知り合い?」

 年若くとも、音楽業界歴はそこそこある。仕事絡みで知っていてもおかしくはない。そう思って尋ねると、佐山は反して苦笑いを浮かべた。

「や、知らない。だけど、知り合いが彼らのレコーディングやってるって話だから。俺も、せっかくだしと思って。それにほら、いつか君らと仕事の絡みでもあるかもしれない」

 その言葉に、今度は一矢が苦笑を浮かべる番だった。会場を見回す。

 それなりに広いキャパ、先ほどは、満場だった。

「どうかね」

「今の客入りは、アテになんないよ。俺らみたいに『ついでに』って人だって結構いるはずなんだから。この後に控えてる自分の好きなアーティストを見るために今から場所取りで居座り続ける人だっているんだし」

 そこまで言ってから、「でもまぁ……」と続ける。

「独力ではないにしても、これだけ見て貰えれば効果は絶大だよね」

「ああ。そうだね」

「君らだってそういう意味では、かなりのビッグチャンスなんだからね。野外なんて意図しなくたって見ちゃうんだから」

 頑張ってくれよ、と転換中のステージに視線を向ける佐山に、感謝の念が湧いた。

「君らは、上に行ける。こんな会場、すぐに一杯にするようになる」

 そう信じなければやっていられない仕事かもしれないが、嬉しかった。言葉ではなく、そこから滲み出る真摯な気持ちが、だ。

「……うん」

 なし崩しでしばらく佐山とそこのステージを眺め、物販の様子を見に行くと言う佐山と一緒に会場を出る。

 イベント会場の敷地内には一カ所物販ブース専用のスペースがあり、そのすぐ先が関係者用の建物だ。そちらへ戻る一矢も、佐山と並んで歩き出す。

「どう? 引越しの目処はつきそう?」

「……ん? うん……しばらくは、ちょっとわかんないかな」

 佐山の言葉に、一矢は曖昧な笑みを覗かせた。

 現在の住居の危機的家賃徴収……5月に入った現在、とりあえずのところ乗り越えることが出来た。協力者がいたからである。――今隣を歩いている、佐山だ。

 家賃の支払を4月末に控え、どう努力しても足りない数万をどう工面するかで頭を悩ませていた一矢に手を貸してくれたのは、彼だった。

 事務所のマネージャーとしてではなく、個人として。

 今回の住居にまつわるごたごたで、彼の今後の所在について関わることであるし、メンバーにはとりあえず状況を告げないままに、佐山にだけ全てを話した。

 家庭環境は元より、父親とのトラブルや資金不足についても全て。

 最初は、馬鹿だと叱られるのかと思った。父親に頭を下げろと言うのが、大人の分別だろうと言う気もしたからだ。そうすれば、引っ越す必要もなければ、資金を自分で調達する必要もなくなる。

 けれど佐山の対応は、予想外だった。しばらく黙って考え込んでいた彼は、やがてため息をつきながら口を開いた。

「俺が個人的に手を貸すよ。どうすれば良い?」

 佐山は、仕事関係の人間だ。まさかプライベートな部分に手を貸してくれるとは考えられず、思わず一矢の方が絶句した。

 けれど佐山は、小さく笑ってこう言った。

「これも俺には仕事の内。君らとちゃんとした人間関係を築きたいと思ってるんだ。相談に乗れることがあれば相談に乗る。力になれることがあれば、力になる。叱る必要があれば遠慮なく叱るし、殴る必要があるなら俺は殴る」

 そして、こう付け足すことも忘れなかったが。

「ただし、こういうことは今回だけ。切羽詰って妙なことをされても困るし、信頼してるから手を貸すんだ」

 全く、人の良い人物だ。

 けれど、ただ人が良いだけではこの仕事をこなせはしないだろうから、彼は恐らく絶対の自信を持っているのだろう。自分の目に。

 そう思えば、彼の信頼に値する人間でありたいと思う。生憎と、彼の信頼を逆手に取るような真似をするほど歪んでいない。多分そこまで読まれている。心の底から、頭が下がった。

 尤も、一矢の懐に今後流れる金の出所を押さえているから気楽に貸す、と言うのもなくはないだろうが。

「あんまり変なところに引っ越さないでよ。それから、住所不定ってのもやめて」

「うーん、保証出来ない」

 問題の保証人については、一矢との契約が続行している範囲内で事務所が保証人としてつくことを承諾してくれた。もちろんこれは、慈善事業ではない。一矢の身柄は、ブレインに抑えられたこととなる。下手な真似をすれば、事務所から切られるだけではなく住居からも追い出されるわけだ。とほほである。

 どちらにしても、新住居に関する費用は、身を粉にしてでも独力で搾り出さなければ。

「俺に返すのはいつでも良いから、とりあえずちゃんとしたところに住むことを優先的に……ああ、危なっかしいなあ。俺もどっか良いところないか探してみるよ……」

 ぼそぼそとぼやく佐山に、小さく吹き出す。自分から苦労を背負い込むようなところがあるのかもしれない。苦労性と言う奴だ。

「さーちゃんって……」

「何?」

「何でもない……」

「……あのねえ、君ねえ、そう小馬鹿にしてないで俺に感謝した方が良いと思うよ?」

「小馬鹿にはしてないっしょー? 嫌だわ、そんな誤解」

 心遣いには本当に感謝をしているつもりだ。

 くすくす笑う一矢をどこか不服げに見上げた佐山は、それから視線を腕時計に落とした。

「他のメンバー、どうしてるのかなー」

「和希なんかはもう戻ってるんでないの」

「和希くんは心配してないけどねー。後の2人がどこで何やらかしてるか……」

 手のかかる息子を持った母親のような口振りに、苦笑が漏れる。

 啓一郎は鉄砲玉のようなところは確かにあるし、武人は年齢を考えれば大人びているものの、若干16歳に過ぎないと言うのは確かに佐山を心配させるに十分な要素だろう。

「和希くんか一矢くんがついてれば、まあ何とかって気もするけど……」

 言いかけながら、佐山は携帯を取り出した。着信があったらしい。

「はいはい、おつです……」






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