第2話(3)
最初こそ、紫乃に対して構えると言うか、一方的に気まずいような気がしなくもなかった。紫乃と仲の良い京子をかつてホテルに連れて行ったと言う気持ちがどこか後ろめたさを感じさせたのである。しかも、京子もこの事務所に所属しているとくれば尚更だ。
紫乃に何を言われる筋合いも、思われる筋合いもないとは言え……どこかきりっと潔癖に見える彼女が聞いたら嫌われそうだし、嫌われそうだと思う相手に腰が引けるのは道理だろう。
が、何も聞いていないのか気づいてないのかどうでも良いのか、紫乃は取り立てて一矢に対して屈託を持っているようには見えなかったし、とすれば軽い気質の一矢のこと、「ま、いっか」と言う気分になりつつある。実際問題、1年も前のことなのだし、そもそも一矢と京子に何があろうが紫乃に関係があるわけでもない。京子と遭遇してしまったことで、複雑怪奇な女性同士の友情を考えれば影で何を言われているか知れたものではないと言う気もしたが、どうやらそういう感じでもなさそうだ。であれば何の問題もない。
「はよー」
ドアを開けた一矢に、ソファに座っていた紫乃が振り返った。
「あ、おはようー」
一矢の挨拶に紫乃が笑顔を向ける。その口から上がる白い煙は寒さのせいではない。煙草だ。
「クロス、今日からだっけ?レコーディング」
「そう」
「楽しみだなあー。新しい曲とか作ってんの?」
「作ってない」
「えー、作ってよ。作んなよ」
紫乃は、かなり人懐こい性格のようである。一矢と啓一郎とは同い年だし、たかだか数回しか顔をあわせていないにも関わらず、すっかり気心知れてきた雰囲気だ。聞けば交友関係はかなり広範囲に渡っているらしい。納得である。
「啓一郎、来てた?」
「え?知らない。見てないよ」
「いよいよ俺様の時代が来たか……」
「……すみません。言ってる意味がわかんないんですけど」
どうやら1番乗りか?と思いつつ階段の方に足を向けかけた一矢の背中に、紫乃が不意に尋ねた。
「神田くんてさあ」
「はいはい」
「最初のうち、ヒロセのこと、避けてなかった?」
「……へッ!?お、俺!?まさか、何で?」
階段に掛けかけた足が、ずるっと的を外して足を滑らせる。振り返った一矢に、紫乃が細い目をしてにやーっと笑った。組んだ足に片肘をついて、指に挟んだ煙草からは煙が細く立ち昇っている。
「何となく。……ヒロセって怖かったですか」
「いやー……」
まさか京子をホテルに連れ込んだのを知ってるのか知らないのか読めなくて距離感がつかめなかったとは言えない。
「そういうわけじゃないですがー……」
「そうですか?ふうん?……あたしねえ、実は神田くんに聞きたいなあって思ってることがあるですけどー」
まさしく『ぎくーッ』である。
「は、はい?」
独特な言い回しで煙草を自立式の灰皿に放り込むと、紫乃は自分の膝の上に両手で頬杖をつきながらじっと一矢を見上げた。どことなく探るような視線。そうでなくても改めて「聞きたいことがある」などと言われるのは構えてしまうものなのに、そういう視線はやめて欲しい。
「……何でしょうか」
嫌な空気だ。京子が何か口にしたのだろうか。初めて事務所に来た時に京子にあんなふうに言ってしまったのは、失敗だったような気がする。
「神田くん、前に……」
紫乃が何か口を開きかけるのに被せるように、不意に事務所のドアが開いた。流れ込んでくる冷たい空気に振り返ると、和希がそこに立っていた。
「あ、おはよー」
「はよ」
ほっとする。天の助けだ。途端、ソファに座っていた紫乃ががたっと立ち上がった。
「か、和希さん、お、おはようございますうーー」
思わずその声を聞いて、がくりとコケそうになる。今し方のどこか探るような空気はどこへ行ったやら、いきなりそんな脳味噌溶けた声を出せる辺り、女は怖い。
「紫乃ちゃんも、おはよう。……何してるの?」
「いや、何も」
「ふうん?もう啓一郎来てる?」
「まだ行ってないから知らん」
「ああ、そう?じゃあ俺、先行ってるね。紫乃ちゃん、またね」
「はいぃぃぃ」
「……」
「……」
朝っぱらから爽やかに微笑を残して和希が階段を上っていくその背中を、溶けた笑顔の紫乃と共につい見送り、それからしらーっとした視線をそちらに向けた。
「……で、何だって」
「和希さん、かっこいいなぁ……」
「……」
そんなことは聞いていない。
「あんたも大概ミーハーだねぇ……」
身構えていたものがぶち壊されてぼやくように言うと、紫乃が噛み付くような顔をして見上げた。
「しょうがないでしょ!?ファンなの!!ファンなんです!!あ・た・し・は、和希さんのファンなんですよおおおだ」
「へぇへぇ」
和希が人気があるのは認めよう。紫乃が前からGrand Crossのライブに来ていたのも、和希のファンをやっていたからだとは前にも聞いた。
だがこの変貌は、ありなのか。
「意外と軽いなぁ……」
「ッ……」
構えていた気持ちが、逆に意地悪にさせる。舌を出しながら言った一矢に、紫乃が赤くなって言葉に詰まった。一矢を睨む。
「余計なお世話ですううう。神田くんに言われる筋合いじゃないと思うけどなッ」
「そうですかねぇ……」
「そうですッ。見ず知らずの女の子とホテル行く人ほど軽くないッ」
「なッ……」
「信っじらんないッ。しかもそれでそれっきりって、どういうッ……」
やっぱり京子から何か聞いているらしい。何をどう聞いているのかわからないが、売り言葉に買い言葉だとしてもそんな言い方をされて思わずこちらもムキになる。
「アナタに関係ないでしょー?」
「関係なくないッ。あんねえ、あの後京子ちゃんがどんだけッ……」
「おはようございまーす」
「……」
怒鳴る勢いそのままに口にしかけた紫乃の言葉を、またも遮るように入ってきたのはGrand Crossの最年少だった。あまり突っ込まれたくはないのは確かだが、そもそも紫乃に京子のことをうだうだ言われる筋合いではないのだからもうこのまま放っておこう。嫌われたなら嫌われたで知ったことか、という気分になる。
半ばふてくされたように武人の方に顔を向けた一矢は、そのままそっと目を見開いた。
「武人……どうした?」
「は?何がですか」
顔色が悪い。表情にもどこか元気がないように見える。黙って視線を向けた紫乃も、一矢にぎゃあぎゃあ言っている空気ではないのを察して言葉を飲み込んだ。
「武人くん、何か具合悪そうだよ」
「おはようございます。……そうですか?健康体ですよ。ちょっと寝不足なだけ」
健康体と言う顔色をしていない。青褪めていると言うのだろうか。どことなく白っぽい表情のまま武人は元気のない笑顔を浮かべた。
「一矢さん、スタジオ、行かないんですか?」
「ああ、うん……行く」
「んじゃ一緒に行きましょうよ」
「うん。……んじゃあね、紫乃ちゃん」
「あ、うん……」
武人の様子に微かに眉を顰めたまま、紫乃もぽかんと挨拶を返した。紫乃から逃れて武人と並んで階段を上がる。上がりながら、ちらりと視線を向ける。
「どした?」
「……」
「武人?」
「……俺、どうしよう」
「は?」
「……妃名さん、家出……」
階段を半ばまで上りきって紫乃の視界を外れた踊り場で、武人は青褪めた顔のままで立ち止まった。一矢を見上げる。
「家出!?」
ぎょっとして押さえた声で問い返した一矢に、武人がこくりと頷く。
「何だよ、何があったの」
「こないだ、一矢さんにいろいろ話したでしょ?俺」
「うん」
「……とにかく、どうしたらもっと妃名さんが納得するように出来るのかを話し合わなきゃしょうがないなって思ったんですよ」
「……うん」
それは全くその通りだ。武人がひとりで頭を悩ませていたところで何とかなる種類の話でもない。お互い我慢出来ることを我慢して、相手を思いやっていくのが恋愛なのだろうから。
「それで……俺は、彼女である妃名さんには俺が一生懸命やってる音楽ってのをわかって欲しくて、バンドを続ける前提で何とかしたくて……そんな、彼女が出来たら彼女に夢中でそっちのけにしちゃうようなそんな軽い気持ちでバンドやってるわけじゃないんだって……」
「うん」
「でも、全然会話にならなくて」
「やめろって?」
引き取った一矢の言葉に、武人は困ったような笑みを作って顔を上げた。
「俺もいい加減頭に来ちゃったんで、怒鳴っちゃったんですよ。俺のことがたがた言う前に自分の親を何とかしろって」
「……」
「最初は、我慢してましたよ。彼女の親だからって。だけど、妃名さんの成績がちょっと下がれば俺のせい、妃名さんの帰りがちょっと遅くても俺のせい、何でもかんでも俺のせいで、受け流すようにしてたけどそれがまた向こうの神経逆撫でするみたいで、かける電話でことごとく身に覚えのない説教される羽目になって、それで繋がらない電話は結局妃名さんにとっては俺のせい。俺にだって限度がある」
「……そりゃあ……そうでしょうねぇ……」
思っていたより武人が言われていた内容と言うのは、凄いものがありそうだ。階段の踊り場に足を止めたまま、一矢は武人の言葉を待った。
「バンドは辞めない、時間を作る努力はしてる、これからもする、だけど妃名さんの方でも親を説得するとか携帯を持つとか何かしてくれないとこれ以上俺には努力のしようがない、じゃなきゃもう別れるしかない、そう言ったら……」
「家出しちゃったの?」
「……」
やっていることが若すぎる。思わず眩暈がした。
「……一矢さんの言う通り、俺の言い方ってあんまり優しくないから、言い過ぎたかもしれないと思って、繋がるとは思えなかったけど昨日電話して、そしたら『一昨日娘が泣いて帰った』って。それから昨日……って言うか、今朝って言うのかな。2時頃俺の携帯に彼女の親から電話がかかってきて『娘が帰ってこない』って……『あんたのせいじゃないのか』って……」
「うわ〜ぉ……」
「心当たりを探し回ったけど、俺だってまだそれほど妃名さんのことを知ってるわけじゃない。心当たりなんかたかが知れてるんですよ。……で、見つからなくて」
「今も?」
無言で武人が首肯する。それでは寝不足になりもする。
「俺のせいだとは思うんです。だけど、家出して、何か妙なことに巻き込まれたり事故に遭ったりしてたら、どうしようかと思って……まさか自殺するってことはないと思うんですけど、そんなことまで考えちゃって……」
何と言って良いのかわからず、こつんと額を一矢の腕に持たせかける武人の頭をぽんぽんと軽く叩いてやる。
「多分俺、言い方が相当キツかったとも思うし、傷つけたんじゃないかと思うと……」
「だーいじょうぶだって。人間そう簡単に死にゃしないし、そうそう妙なことに巻き込まれることもないから」
根拠はないが、とりあえずそんな言葉をかけてやる。それでもちゃんとこうして時間にスタジオに来ている武人を偉いと思う。まだ16歳、恋愛にかまけて来なくたっておかしくない。が、ここまで憔悴している武人を見たことがない。放置は出来ない。
「ともかくさ、今日仕事終わったら、俺も一緒に探すから」
「一矢さん……」
「大丈夫だよ。武人に心配して欲しいだけでしょ、きっと。けろっとして見つかるから。……大丈夫だから」
言い聞かせるように繰り返す。
「……そうですよね」
一矢の言葉に、無言で顔を上げた武人は、やがて笑みに似た表情を作り上げて小さく頷いた。
◆ ◇ ◆
レコーディングの経験が、これまでにないわけではない。
今の時代、プロを目指すようなバンドがCDを作る手段なんかいくらだってある。
Grand Crossは今まで自分たちの手でCDを何枚か作っても来たし、AQUA MUSEの淳奈の紹介でインディーズ・レーベルからCDを出した経験もある。
が、である。
「ぬぉ〜……」
自分の録りを終えた一矢は、思わず小さく呻きながらレコスタ続きのリハスタに滑り込むように入った。一矢のレコーディング風景を見ていた和希が苦笑しながらそれに続く。きっちり防音扉が閉まったのを確認してからずるーっとその床に崩れ落ちる一矢に、中にいた啓一郎が手にしたヘッドフォンを床に置きながら目を瞬いた。
「おお。お疲れ」
疲れたどころの騒ぎではない。3時間近く叩きっ放し、しかもその間ぼろくそに言われ続けていれば精神的疲労も甚だしい。
床に崩れながらちらりと見ると、リハスタの壁に寄りかかってくてーっと眠っている武人の姿が見えた。彼女と付き合っている間にたまりたまったストレスもあるだろうし、肉体的に睡眠不足も否めないだろう。眠れる時に眠るに限る。今日もこの後見つからなければ妃名を探し回らなければならない。
「……凄く耳が良いんだよ、あの人多分。俺が聴いてて『あれ?今のちょっと違うんじゃない?』って音とか、絶対聞き逃さないし。俺が気がつかなかったようなところとかも多分バンバン聴こえてんじゃないかなあ……」
「へえ……」
「それにさ。扱い方うまいような気がするんだよね……」
床に転がったまま、プロデューサーである広田について話す和希と啓一郎の声を頭上に聞きながらころんと体の向きを変える。白い顔色のまま眠る武人が痛々しい。
(まーったくなー……)
彼女も、もう少し武人のことを考えてやれば良いものを、と思うのは、一矢が武人サイドの人間だからだろう。妃名にしてみれば妃名の言い分があるのだろうし、彼女の友達からすればまた同様だ。それを聞かないことには、一方的に妃名を責めるのは不平等のような気もするし、責めたところで武人も嬉しくはないだろうからその手合いのことは一切口にしないようにしている。
してはいるが、思うところはある。
「1時からベース録りするって言ってたよ。このまま昼メシにしちゃっていいって言ってたけど……どうする?」
「どうするって?」
「何か、弁当とかとっても良いけどって言ってたけど」
一旦『ドラム録り』について語り終えたらしい和希の言葉を引き取って、床に転がったまま一矢は啓一郎の問いに答えた。暇な時間を使って作詞でもしていたらしい啓一郎が散らばした譜面をまとめながら頷く。
「んじゃお願いしちゃおうか。……あ、あと和希、歌詞あげたから見といてよ、とりあえず」
「ああ、さんきゅ。じゃあ頼んでくる」
和希が再びレコスタのコントロールルームに戻っていく背中を見送って、一矢はのそのそのと転がっていた床から体を起こした。起こすのは可哀想だが、食事はしておいた方が良い。武人に近付く。
「武人、メシー」
「……うん……」
小さく声を上げて武人が薄目を開けた。ぼんやりと一矢に視線を彷徨わせる。
「ああ、一矢さん……どうしたんですか」
どうもこうもない。どうやら現在『レコーディング中である』と言う事実が吹っ飛んでいるようだ。
「じゃなくてメシだってば」
「あ、はい……」
ようやく現実認識が出来たらしい武人が壁から背中を起こすのを見ながら、その前にしゃがみこむ。
「次の録りはオマエさんですけど」
「あー……はい……」
「やれそう?」
「やるしかないでしょう」