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In The Mirror  作者: 市尾弘那
68/83

第18話(1)

 もうすぐ、4月も終わろうとしている。

 今週末から人によってはゴールデンウィークが始まるらしく、どことなく世の中の空気が浮かれ始めていた。

 日差しは暖かさの中に更なる熱と眩しさを含み始め、晴れた昼間などはうっすらと汗ばむ日も出てきている。

 とは言え、朝夜には冷気の名残もまだ残る――そんな、季節の移り変わりを感じる時期だ。

「一矢ッ」

 スタジオ終わりの足で京子と待ち合わせた渋谷駅前に辿り着くと、人込みの中から朗らかな声が一矢を呼んだ。

 長袖のシースルーカーディガンとフレアミニを爽やかに着こなした京子が、さらさらの髪を揺らして駆け寄ってくる。

 文句なしに愛らしく、けれど一矢は、微かな笑顔でそれに応えた。

「おつ」

「お疲れさま。……ね。見たいものがあるんだけど、付き合ってもらっても良い?」

「うん……何?」

 Grand Crossは来週に大型イベントの出演を控えて、忙しい。

 過去の資料を見る限りは、コアではあるものの、アマチュアに毛が生えたレベルのGrand Crossから見れば盛大と言って差し支えのないイベントで、メンバーも気合いが入っている。

 ついつい加熱しては深夜までスタジオに入ることもあって、京子とはそれほど会う回数を重ねていない。そのせいか、付き合い始めて1ヶ月近く経とうとしているが、以前と大して変化のない間柄だった。まだまだ、互いに距離を掴みかねている。

 紫乃とは、ずっと顔をあわせていない。

「あのね、一人暮らしを始めてみようかなと思ってるの」

 この季節なのに、繋いだ京子の指先はひんやりと冷たい。徹底的に冷え性なのだろう。

 にも関わらずミニスカートから覗く生足が、ありがたい反面不可解である。もちろん文句など露ほどもないが。

「一人暮らし? 何でまた」

 京子は実家暮らしだと聞いているが、実家がそもそも渋谷区内で便利な場所だ。

 だからと言って家を出てはいけない理由はないし、啓一郎なんかもその点は同様だったりもするが、何となく唐突のような気がして一矢は目を瞬いた。

「何でってほどの理由はないんだけど……ずっと実家に住んでると、わたし、一矢より家事が出来なさそうで悔しいんだもの」

 拗ねるように答えた京子は、唇を尖らせて上目遣いに一矢を見上げた。自信なさげに伺うような様子は、小動物のような頼りなさと可愛らしさがある。

「別に……俺と比べることないんじゃない?」

「だだって……」

 そのまま赤くなって言葉に詰まってしまう京子に小さく首を傾げ、人込みに視線を戻した。

 連休前の渋谷駅前は人でごった返していて、スクランブル交差点をセンター街の方へ渡ると、混雑は一層ひどい。

 地下鉄へ降りる階段付近にたまっているキャッチの男が、人目を惹く容姿の京子を名残惜しそうに眺めている。

「ま、いいけど……。てぇと、一人暮らしグッズが見たいって感じ? 家具とか?」

「そう。一矢の意見も聞かせてね」

「んー。あんまり参考になるかわからんけど……。物によっては、俺、あげられるかもしんないよ」

「わたしにあげちゃったら、一矢が困るんじゃないの?」

 困惑気味の京子を促し、何となくセンター街の奥にある大手生活雑貨店へ足を向けながら、一矢は苦笑いを覗かせた。

 先日明弘が連れて行ってくれた不動産屋では、確かに融通を利かせてくれた。

 三軒茶屋にある物件を、家賃値引きで斡旋してくれると言う。当初に払う礼金も、不問としてくれた。

 だが、敷金と最初の家賃――こればかりはいかんともしがたく、2〜3ヶ月であれば物件を保留にして待ってくれると言っている。甘えさせてもらうよりない。

 加えて問題の保証人制度だが、こちらもまた不問とはいかなかった。相手も商売である。世の中そう甘くはない。新たな住居へ移る為には、敷金と家賃そして保証人を最低3ヶ月以内にクリアしなければならないのである。

 更なる火急の問題は、現在の部屋の1ヶ月分の家賃だ。

 自分で稼いだ資金の残金、これから稼ぐ賃金、不要な諸々を売り払ってもまだ不足である。

 いずれにしても今の部屋を出てすぐに三軒茶屋に引っ越すことは不可能だから、当面どこかに転がり込む羽目になりそうである。当然、家具など持ってはいけない。

「困る物もあるけど……ソファとかはいらないから、良ければあげるよ。ってほどの財産はないれすが」

 一矢の部屋にあるソファも、元々はもらいものだ。売ったって大した額にはならなさそうだし、あげてしまっても良いかと思う。

 本来なら冷蔵庫だの洗濯機だのの実用的な物の方が良かろうが、一矢の部屋にあるそれらは一体型の備え付けで単独切り離してあげられるものでもない。

 京子が、物問いたげに顔を上げた。

「どうして? どうかしたの?」

「いや……引っ越すかもしんないからさ」

 曖昧に口ごもると、京子は先日の一矢と『父親』のやりとりを思い出したように口を「あ」の形にして、一瞬止まった。

「……ごめんね」

「いや、別に……」

 謝られると困ってしまう。苦笑いを浮かべて、話を戻した。

「上手く引っ越せても、広いところには住めないし。だから、もし処分する物で京子が欲しいものとか……」

「……に」

「え?」

 京子がぽつりと何かを言う。

 飲食店やカラオケの客引きの手をすり抜けて、気がつけば雑貨店はもう間近だ。真っ直ぐ歩けないほど混雑する狭い通りの喧噪に遮られて、京子の言葉は一矢の耳には、届かなかった。

「ごめん、何?」

「ううん。何でもない。じゃあ今日は、キッチン小物でも見ようかな」

「うん」

「後で、一矢の部屋に、行っても良い……?」

「ん? うん……」

 短く頷き、それでは余りにそっけないことに気がついて、一矢は笑みを浮かべた。言い直す。

「じゃあ、京子がキープするものでも選定しますか。だったらメシも俺ん家でいかがですか。お財布に木枯らしが吹き荒れているので。……とほほ〜ん」

 寂しげに呟いてみせると、京子が笑った。

「うん。じゃあ一緒に何か、作ろう?」

「……はは。うん、はい、そうですな……」

 どこか上滑りの会話、上滑りの心――目を逸らして踏み止まらなければ、すぐに引き戻されてしまう苦い痛み。

 心を掠るように浮かんで消えた笑顔に、一矢は京子から視線を逸らして苦い表情を飲み込んだ。

(どうして……)

 どうして、隣に――紫乃の笑顔を、探してしまうのだろう。

「キッチン小物ってぇと……3階かな。京子って料理するんだっけ」

 端から見れば、仲睦まじい立派なカップルだろう。

 手を繋ぎ、言葉を交わしながら階段を上がっていく。京子の顔からは、微笑みが絶えない。穏やかで、仲良く、もしかするとどこか初々しく。

「する……って言うほど、しないけど。だってね、言い訳して良い?」

「ん。言い訳?」

「実家だから、なかなかほら、その、ね……?」

「ああ。そうかもね……」

 京子は、可愛らしいと思う。

 女の子らしいとでも言うのだろうか。

 これまで、どちらかと言えば接するのを避けていたタイプだから、つまりは一矢の周囲に多いタイプではない。

 その分物珍しいのもあるだろうし、恥じらいながらも覗かせる『一矢のそばにいたい』と言う想いが、今では信じられる気がしている。

 それは一矢の心を温かくもするし、ありがたいとも思い、優しい気持ちにもさせる。優しくしてやりたいと思わせる。

「このマグカップ、可愛い。黄色いのとかないのかな……」

「黄色ねえ……これは駄目なの?」

「うーん。こういう黄色じゃなくて、もっと『黄色!!』って言う感じのないかな……」

「……もっと『黄色!!』って感じ?」

 目的のフロアに辿り着くと、京子ははしゃいだようにフロア内を見て回った。

 一矢は特にここでしたいことも見たいものもないので、何となくそれについて歩く。

 一矢と2人でキッチン小物などを見て回ると言うただそれだけのことが、京子をこれほどはしゃがせていると言うことにまで、一矢は気が回らない。

 ただ、こうして何気ない時間をこれほど嬉しそうに過ごしてくれることは、嬉しいとは思う。

 思うのだが。

「だって、このシリーズで色違いで集めたりしたら、可愛いじゃない。食器棚に並んでるところ、想像して」

「……う、うん……まあ、そうれすねえ……。で、この黄色じゃ駄目なんだ」

「こっちの緑と比べてインパクトが弱くない?」

「はあ……。でも、今買うわけじゃないんでしょ」

「ん? うん……そうか。そうね。もっといいのもあるかも」

 けれど反面、物足りない、のだろう。

 もう泣かせてはいけないと思い、傷つけてはいけないと思い……そこにある感情は、義務感に近かった。

 会いたい、と込み上げる衝動には……まだ、遠い。

 京子が満足するまで店内をぶらつき、閉店も間近に迫ってきた頃、店を後にする。

 一矢の部屋を向かう道を辿りながら、京子が幸せそうに微笑んだ。

「ふふ。……楽しい」

「そう? 本当は買い物したかったんじゃない? んで、山積みにした紙袋を俺が荷物持ち」

「ううん。まだ、いいの。部屋も見つかってるわけじゃないし」

「そか。買うにはちと気が早いか」

「うん。だから、本当に買う時には荷物持ちしてね」

 冗談めかして見上げる京子に、一矢は小さく笑って答えた。

「もちろんです、お嬢様」

「それじゃあ執事みたい。……でもね、ああいう小物を一矢と一緒に見て回るだけで、凄く楽しいの」

 無言で京子を見返すと、京子はもう一度幸せそうに微笑んでみせて、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。

「わたしね、ほら、付き合うの自体が初めてだし……『彼氏』と一緒にウィンドーショッピングしてるだけで幸せそうなコとか、羨ましかったもん。でも多分、今のわたしは誰より幸せ」

「……」

「並んで歩いてるだけでも、くすぐったい」

 そう照れ臭そうにくしゃりと相好を崩す京子に、息が詰まるような気がした。

 胸を突き飛ばされたような息苦しさを覚え、短く顔を歪める。……隣で幸せそうに微笑んでくれる彼女と、同じだけの幸せを感じてやることが出来ない。

「そっか……」

 優しさに甘えているだけでは、何も進まない。

 そしてこれは、彼女の優しさに甘えているだけだ。

 わかってはいる。けれど、どうすれば感情は理性の言いなりになってくれるのだろうか?

 自分で決めたことだ。勢いであったことを否定はしないが、それでも選択したのは自分自身で押し付けられたわけではない。

 なのに感情は、未だに紫乃の上へ残ったままだ。

「あ、そうだ。わたし、一矢にお願いしたいことがひとつあったんだけど……良いかな?」

 センター街を抜けて明治通りに辿り着いた辺りで、京子が思い出したように口を開いた。胸の奥の重石から視線を背けながら、首を傾げる。

「何?」

「あのね、一矢って……時々お店で料理作ったりしてるって前に言ってたじゃない?」

「ああ……うん」

 かつて京子が一矢の部屋に来た時に話したのだったか。

 良く覚えていないが、何らかの話の弾みで言ったのだろう。隠しているわけではないのだから、一矢はあっさり頷いた。

 しかし、続いた京子の言葉に、なぜか言葉に詰まった。

「一度、そのお店に行ってみたいなあ。……どこにあるの?」

「ああ、そう……?」

 どこかずれた答えを口にしながら、どうしたことか回答が出て来ない。

 答えを口にすることへの抵抗を感じ、自分に戸惑った。

「まあ、最近はそんなでもなくて……」

 曖昧な言葉で逸らしながら、自分に問いかける。

 京子は『彼女』だ。自分の隣を歩く特別な人として、受け入れた相手のはずである。

 確かに『listen』には、今まで女の子を連れて行ったことはほとんどない。踏み込んで欲しくない領域と思っている。けれど京子は違うだろう。……違う、はずだろう。

「あんまり行ってないんだ、今は。別のバイトもしてるし。女の子連れてくような綺麗なトコじゃないし」

 なのに、言い訳のように言葉を連ねる自分が、不可解だった。京子の顔から、笑みが消える。

「そう……?」

「うん。客も変なのばっかりだしさ。あんなとこ行かなくても、料理なら、京子の為だけにいつでも作るから」

「……わかった」

「じゃあ早速、今日は、何が食べたい?」

 どこか言い訳めいた言葉を口にしながら、一矢は強引に話を終わらせた。

 どうして京子に『listen』について触れられたくないのかなど、考えたくもなかった。


          ◆ ◇ ◆


 どうしてだろう。

 ポスター撮りを控えたスタジオで、自分の準備を終えた京子は足をぱたぱたさせながらパイプ椅子に腰を下ろしていた。

 一矢のことが好きで、もっと知りたいと思っている。

 不特定の女の子とふらふらしていた、特定の彼女なんて作るつもりがなさそうだった一矢が、どういう気紛れか京子を彼女と認めてくれた。

 嬉しいと思っている。

 最初は信じられなかったものの、以降、一矢は京子を彼女として扱ってくれているような気がするし、恐らくは女の子と遊び歩いている様子もなさそうだ。

 前よりぐっと縮まったはずの距離――なのに、なぜか近づけた気がしない。……遠い。

 昨日会ったばかりの一矢の笑顔を思い浮かべ、どきどきしながらも反面、寂しくなる。そう思ってから、ふと気がついた。

 寂しい……そうだ、一矢の笑みが、常にどこか寂しげに見えるのだ。






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