第17話(3)
どうしても車の中の風景が目に焼きついて離れず、追い討ちをかけるような元春の来訪に、畳み掛けるように京子へと踏み誤った自分の行動と、考えれば考えるほどにきりきりと心が痛むばかりだ。せめて東京を離れている遠征中くらいは考えるのをやめたいと思うものの、生憎そう簡単に意識の切り替えが出来る性格ではない。
宿を出たところで、右と左のどちらへ行こうかと一瞬足を止めて迷っていると、右の先から和希が戻ってくるのが見えた。片手に持った丸めた雑誌で、軽く肩を叩いている。
「一矢。どっか行くの?」
「コンビニ、その辺にありませんでした?」
「あったあった。この道の先。左に折れたらすぐわかる」
「またヲタ雑誌買ってきたの?」
「そういう誤解を招く言い方はやめようよ、どいつもこいつも……」
顰め面で間近まで来て足を止めると、和希はぱらっとページを開いた。
「いや、知ってる人が載ってたからさー。つい買っちゃった」
「知ってる人?」
「ん。紫乃ちゃん」
「……」
罪のない顔で何気なく言いながら和希が開いたページには、寄りによってD.N.A.のフルメンバーが掲載されていた。見開きカラー、2ページのインタビューである。記事の合間に、笑いながら楽しそうな取材の様子の写真が掲載されている。
「あ、そう……」
「何かさ、わけのわかんないインディーズ誌とかだったら知ってる人載ってることも結構あったけど……コンビニで売ってるようなのに載ってるって面白いよね」
「……あんたも案外ミーハーですな」
「俺はミーハーだよ?」
和希と別れて言われた通りにコンビニへ続く道を辿りながら、頭の中がこんがらがりそうだった。
自分で、自分の矛盾を指摘できる。
京子を泣かせるのが嫌だと思い、彼女の気持ちが真摯なものであると感じ始めればこそ遠ざけなければいけないと思いもした。けれど彼女の目に映る自分の言動に矛盾が生じるような気がして、どうすべきか躊躇った。躊躇いながら、突き放せなかった。そして結局のところ、一番近い立場に引きずり込んでしまった。
これを矛盾と言わずして、何と言えば良いだろう?
自分の中のずるさと弱さで傷つくのは、また京子だ。なぜなら、自分は未だ、紫乃のことが好きなのだから。
けれど、紫乃が落ち着くところに落ち着いてしまうのだとすれば、一矢が何を悩んだところで出る幕などどこにもない。だったらもういっそ、追い込んでしまった環境に甘んじてしまうのもひとつの手ではある。
今もまだ、「人はいつか裏切るだろう」と思う気持ちは拭えない。
拭えてはいないけれど、反面、「信じてみても良いのかな」と思い始めている部分もある。
コンビニについて、中に入る。
それから、当初の目的に反して雑誌コーナーに足を向けた。和希が先ほど手にしていた雑誌が、ブックラックに並んでいる。
ぱらぱらとページを捲った。誌面の中で笑う紫乃と、写真でさえそっけない顔つきの神崎の姿に、共に過ごす時間の長さを思った。
今自分がGrand Crossのメンバーと過ごす時間に匹敵する時間、距離。そしてそれ以上の長さを持つ歴史。どうしたってそれは覆せないもので、『仲間』で『同士』が『最愛の人』であるならそれに越したことはないのだろうと思わざるを得ない。
(何でなんだろうな……)
どうして、特定の誰かでなければ、嫌なのだろう。
ずっと、ひとりの夜を埋められれば誰でも良い生活をしてきた。
けれどそれだけでは満たしきれなかった空白が胸の中にあるからこそ、孤独感が拭いきれずにいたのだろう。
紫乃が、虚構の世界を壊してくれる存在だと思った。少なくとも、自分に必要と思えた。
なぜそれが、紫乃でなければならなかったのだろう。
孤独感を拭い去ってくれる存在ならば、如月に想いを寄せたままの紫乃より……こちらを向くとは思えそうにない彼女より、自分を押し殺すほど一矢を想ってくれる京子に求めた方が遥かに現実的だとわかっているのに。
今、自分で追い込んでしまった状況に素直に甘んじてしまえば、最も楽になれるだろうと思うのに。
なのに。
(会いてぇなー……)
どうにもならないと知っているのに、未だ心の奥底が、紫乃の姿を探し求めている。
◆ ◇ ◆
2週間の遠征を終えて東京に戻って来た頃には、4月に入っていた。
この先は、Grand Crossはしばらく東京での活動になる。
出演が決定しているライブイベント『MUSIC CITY』は5月の頭だし、ファーストシングルが発売される5月末を迎える前に都内でのワンマンライブもある。
その為のゲネプロなどを含め、スタジオに入る日が増えることだろう。
京子とライブもどきのドラムセミナーに行く約束をしたその日、一矢は西新宿の事務所に立ち寄っていた。
2週間の遠征に出る時に事務所に単車を置き去りにし、帰宅する際はそのまま車で帰ってしまったので、単車を引き取りに来たのである。
真っ直ぐ駐車場に向かいかけ、京子と約束した時間にはまだ余裕があるので何となく事務所に入ってみる。佐山でもいればと言う軽い気持ちだったのだが、入ってすぐのソファのところに紫乃の姿を見つけ、後悔した。
「……おはよぉ、ございます〜……」
表面的なことを言えば、紫乃とは『listen』でオムライスを作ってやり、家に送ってやったあれが最後である。
気まずくなる理由はどこにもないのに、非常に気まずい。
一矢の方がそう感じる理由としては、もちろん神崎とのキスシーンを目撃してしまったせいもあるし、「紫乃一筋の生活を送っている」などとぬかした舌の根も乾かぬうちに、つい京子と付き合うことになってしまったせいもある。
もちろん紫乃は、一矢の気持ちを知っているとは言っても事実上何かの関係があるわけではないのだから、責められる筋合いではない。ないけれど、彼女のことが今でも好きで、それを伝えている手前、何やら後ろ暗い気がするのも仕方がないだろう。
けれど、それらの全てはあくまでも一矢の一方的な事情である。紫乃には、関係がない。だから、紫乃の方が何か妙な態度になる理由は、ない。
……はずである。
「おはよ……」
だが、対する紫乃の反応も、どことなく不自然な気まずさを孕んだものだった。
(……?)
愛想のない掠れた声で応え、それきり視線を逸らして黙ってしまう紫乃に、内心眉を顰める。沈黙の中、紫乃の手から立ち昇る煙草の煙だけが、ゆらゆらと揺れる。
どうしたのだろう。
咄嗟に、尋ねてみたい衝動に駆られた。
けれど、紫乃の顔を見るのがつらい。何にしても精神的に安定していない今の状態では、気楽に言葉を交わすことなど出来そうになかった。万が一、紫乃の口から止めでも刺されようものなら立ち直りに時間がかかりそうだ。
言葉を飲み込むと、咄嗟に自販機で煙草を購入し、そのまま事務所の外に出る。元々、何をしに入ったわけではないのだから、佐山のところへ遊びに覗くなどと言う気楽な気持ちは一瞬で消え失せた。
紫乃の、何か物問いたげな……どこか悲しげな目線が、心に絡みつく。
(何だっけ?)
何か、しただろうか。
単車のエンジンをかけながら、しばし考える。
何か、一矢に言いたいことがありそうに見えた。けれど、口にすることを躊躇っているような。
それはまた一矢も向こうから見ればそうだったかもしれないが、こちらの事情には心当たりがあるものの、向こうの事情に心当たりが見つけられない。
事務所の方を振り返って、逡巡する。聞いてみたい衝動が、込み上げる。
けれど、その衝動を押し殺して、一矢は単車を発進させた。後ろ髪が引かれるような思いで、京子と待ち合わせた東京テレポートまで走る。ライブセミナーが行われるのは、お台場にあるスタンディングキャパ2500人程度のコヤだ。
とりあえずヴィーナスフォートの駐車場に単車を入れ、外に下りていく。まだ少し時間があるので、何となくその周囲を歩いてみた。
(カップルばっかでやんの……)
お台場と言う場所柄だろうか。
通りに面した手近なベンチに腰を下ろし、ぼんやりと頬杖をついた。
付き合う、と言うことは、紫乃に好意を持つ前のような生活をするわけにはいかないと言うことだ。
(彼女って認めたんだから……出来る限り大事にすんのがスジだよな……)
意外なことに、一矢はこれまで交際関係と言える相手が出来た時には、浮気などの不貞行為をしたことがない。
別に、複数の異性と関係を持つことについて何らの倫理観があるわけではないが、それなら特定の人間を決めずに不特定と遊んでいれば良いだろうと思っている。事実、そうして来た。
けれど、特定の誰かに定めた上で複数の異性に手を出すことは、悪質に相手を騙すことになると思っている。
簡単なことだ。自分がされたくないから、したくない。自分がすることならば、相手がしても文句は言えない。
尤も、誰かと付き合いながら複数の相手に手出しするほどの長期間付き合ったことがないと言うのも、あるだろうが。
(あ、そろそろ来てるかな……)
ベンチから立ち上がって、東京テレポート駅の方へと道を戻る。
果たして自分に、京子だけを大切にするなどと言うことが、出来るだろうか。
何よりまず、紫乃への想いを昇華することが、出来るのだろうか。
(出来るか、じゃなくてしなきゃなんねーだろ……)
もう少し心が落ち着けば、紫乃の口から神崎との復縁を聞かされたとしても、笑みを覗かせられるかもしれない。
東京テレポート駅まで戻って来ると、エスカレーターを上ったところに立っていた京子が、一矢に駆け寄ってきた。お洒落なパンツスタイルに決めている京子は、客観的に見てもやはり綺麗だ。
(文句ねーじゃん……こんだけ綺麗な人が彼女になってくれるってんだから)
「一矢。もしかして、待たせちゃった?」
どこか心配そうに、京子が尋ねてくる。顔を横に振って、再びライブハウスの方へと道を戻り始めながら、笑ってみせた。
「や。俺が暇だっただけ」
「そう? ごめんね」
「いぃえぇ」
歩き出す一矢に従いながら、京子が何か言いたげに一瞬手を伸ばす。それから躊躇うように引っ込めると、赤くなった顔で首を傾げた。
「あの……手、繋いだら、駄目……?」
「……」
恥じらい、思い切って口にしたような様子に、目を丸くする。
以前、渋谷で散歩と称して歩いた時、半ば強引に手を繋いできたのは、やはり相当無理をしていたのだろうと言う気がした。
本来の彼女の姿にそぐわない……強気でいるよう、自分で、強いていたのだろう。
男性にリードされるに任せるのが、恐らく自然な彼女の姿だ。
「手、繋ごうよ」
足を止めて、片手を差し出す。
言い直してやることで、彼女の申告を許諾したのではなく、こちらが求めたもののような印象に変わるはずだ。その方が、京子の気持ちを楽にしてやれるはずだった。
京子が、嬉しそうに笑う。
差し出した手に手を絡める笑顔に、優しい気持ちになる。
「久しぶりに東京に戻って来るとさぁ、『ここってやっぱ都会なのね』って気がする」
「え? そう?」
「うん。ずっと地方いるとさ、20時頃に既に人の気配が絶えてたりしない?」
「あは。うん、そうだね」
思えば、彼女とも不思議な縁だ。
「『いやいやまだ宵の口っしょ!?』とか思うじゃん? 俺なんか住んでるのが渋谷だったりするし、深夜に人気が少なくなるっつったってゼロになることは100パない場所じゃない?」
「うん」
「夜に自販機探しに出たりすると、『この町壊滅かよ!?』って叫びたくなる」
元を質せば数年前、たまたま出演していたアマバンイベントで、たまたま彼女が見に来ていた。たまたまひとりで泥酔していた彼女を、たまたま通りがかった一矢が介抱した。
それだけの縁――再会さえしなければ、あのまま記憶の奥底に忘れられる程度の出来事だったのに。
「そうだね……。遠征、どうだった?」
「うーん。最終日が最悪だった」
「え? 最悪?」
「うん。啓一郎の喉は潰れるわ、打ち込みいれてるMTRがステージ上で壊れるわ……ライブ後の楽屋のどよ〜んとした空気ときたらアナタ……」
「えええ? 大丈夫だった?」
「まあ何とか生還しました」
適度に京子を笑わせながら歩く一矢の隣で、京子が小さく首を傾げて一矢を見つめた。
何か言いたそうに口を開き、言葉を飲み込んで、再び口を開く。
「……? 何?」
「わたし、彼女、なんだよね」
「……」
あんな出会い方をし、以降もいい加減で傷つけてばかりの自分を、それでも想ってくれる彼女の存在は、身に余る幸福だ。
そんなことは、わかっている。
……わかって、いる。
「うん……彼女、だよ」
だったらもう、これ以上、傷つけないように……。