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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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第17話(1)

 紫乃は、事務所に行くと、ついつい時間を見つけては、ロビーで煙草を吸う習慣がついている。

 以前は、良くこうして如月が来ないかと期待をしたものだ。

 ここで彼に会えるのが、事務所に来る楽しみだった。

 振られた直後などは逆に逃げたりもしたけれど、結局未だにこうしてここにいる習慣が抜けない。

(3ヶ月か……)

 振られてから、3ヶ月。

 まだ不安定ではあるけれど、大分落ち着きを取り戻してきたと思う。

 そんなことを思っていると、2階から当の如月が、階段を下りてきた。紫乃の姿を見つけて一瞬動きを止めると、「ちょっと待ってて」と短く言って階段を戻っていく。

「……?」

 ついどきどきしながら首を傾げていると、ややして戻ってきた如月は、片手にCDを持っていた。紫乃に差し出す。

「え」

「これ、広瀬、好きそうだから。今度会ったら貸してやろうと思ってスタジオに置いてたんだ」

 つい受け取りながら見上げると、如月は屈託のない微笑みを向けた。それから、恐らくは下りてきた目的だろう、煙草の自販機に足を向ける。

「あは……。ありがとぅですぅ……」

 残酷だな、と微かに思った。

 如月がどれほど恋愛沙汰に疎いかは、嫌と言うほどわかっている。きっと如月にとって紫乃の想いは過去のもので、未だその想いがくすぶり続けているなど想像もしていないのだろう。

 自分の仕草のひとつひとつが、紫乃にとってどれほど魅力的に映ってしまうかなど、考えたこともないに違いない。

 そういう無頓着なところも含めて好きだけれど……好き、だったけれど。

「これ、こないだ出たやつだー」

「うん。絶対広瀬に貸そうと思った」

 買ってきた煙草を片手で弄びながら戻って来ると、如月はそのまま階段の方へ足を向けた。

「M6おすすめ。そのうち適当に返してくれればいーから」

 そう言い残して階段を上がっていく姿が、完全に消えるまで見送る。

 それから、手にしたCDに視線を落とした。

(上出来じゃん? ヒロセ)

 飲み込まなくてはならないのは、涙ではなく胸の痛みだけになった。涙が込み上げてこないだけでも、大きな進歩だ。

 あと3ヶ月もすればきっと、胸の痛みも消えていくのだろう。……消さなくては。

 そう考えてから、きゅっと眉根を寄せた。顔が、歪んだ。

 そっと唇に指先を触れ、CDを抱え込むように、ソファに腰掛けたままで蹲る。

 全く、悩みと言うのは、尽きないものなのだろうか。ようやく如月への想いが突き落とそうとする狂気の淵から遠のいてきたと言うのに、それを待っていたかのように、別の悩みが紫乃を苛んでいた。

(どうして……カンちゃん……)

 もう神崎とのことは、終わったことなのだと思っていた。

 紫乃の中ではもちろんのこと、神崎の中でもまた、そうなのだろうと。

 なのに。

 ――戻って来てよ。

 つい先日、打ち合わせをする為に訪れたブレインの駐車場で、同乗していた紫乃に向かって神崎が言った言葉だった。

 ――俺、今でもお前のこと、忘れられてない。

 言っている意味が一瞬わからず、唖然としたままの紫乃を、神崎がぐいっと引き寄せた。

 そのまま重ねられた唇に、何が起こっているのかがわからなかった。

(答えなきゃ、駄目なのかな……?)

 指先で無意識に唇をなぞる。思いもかけないことが起こったことで、未だその衝撃から逃れられない。

 かつて何度も唇を重ねたとは言え、それが今も許される理由にはならない。キスには、心が伴わなければいけない。そして、今の紫乃の心は、神崎にはない。

 無言で車を降りた紫乃を、神崎は追わなかった。

 以降、紫乃も神崎も、仕事をする上では、何ごともなかったように振舞っている。

 けれど、このままにしておいて良いはずがなかった。紫乃は、神崎のことを大切に思っている。蔑ろにするような真似は、出来ない。

(でもッ……何であんな強引なこと、したんだよぉッ……)

 紫乃の気持ちを確かめもせずに強引な手段に出た神崎が、悔しかった。

 そんな人では、なかったはずなのに。

(……?)

 そう考えて、思考が止まる。

 そんな人ではないのに、らしくない強引な行動――なぜ?

(どうしたんだろう……)

 それに、別れてからずっと忘れていなかったと言うのであれば、なぜ『今』なのだろう。

 別に今でいけないわけはないし、たまたま今になったと言うことも考えられなくはないが、これだけ間を置いて、なぜ『今』……?

 ゆっくり紫乃を見守る意味で、何かのタイミングを待っていたと言うことは、紫乃の知る神崎の性格ではあり得る。けれど、だとすれば『今』のタイミングはあまりに中途半端のような気がする。

 考えかけて、軽く、頭を振った。

 そんなことは考えたって意味のないことだ。大事なのは時期の話ではない。紫乃が、神崎に対してどんな答えを用意すれば良いのかと言うことだ。

(神田くんは、寄り戻せって言うのかな……)

 まさか、本当にこんなことを悩む羽目になろうとは思いもしなかったのに。

 一矢が以前、「神崎と寄りを戻したほうがあんたの為」と言っていたことを思い出して、今度はソファの上で膝を抱える。

 ぷらんとした足をばたばたさせてサンダルを床に放り出すと、意味もなく裸足のつま先をじっと見つめた。

(戻しても、いーわけ?)

 胸の内で呟いてみれば、それは、どことなく悔し紛れのようなものになった。

(あたしのこと好きだつって、カンちゃんと、寄り戻していいって、どんなわけよ?)

 神崎の攻撃的な態度が原因で一矢の意見が翻ったことなど知らない紫乃は、『謎のストーン・ヘンジ男』のことをつらつらと思い返した。

(あいつ、今、何してんのかなあ)

 Grand Crossは、東京を離れてかれこれ2週間ほどは戻らないと聞いている。

 今どの辺りで何をしているかまでは、さすがに紫乃も聞いていないのでわからない。

(つまんないなー)

 遊んで欲しいなあ、と、何気なく思った。

 一矢といるのは、いつの間にか紫乃にとって、気分転換のひとつのようなものになっている。

 そばにいると、楽しい。多分気が合うのだろう。自然体でいられるし、一矢のそばで、確かに紫乃は少しずつ掬い上げられているのだ。

 もちろん、京子のことを忘れているわけではないのだけれど……。

(……)

 膝を抱えたまま、ちくんと胸が痛んだ。

 一矢が京子を泣かせたと言った。

 京子を心配していたのは確かだけれど、あれ以降紫乃は、京子と連絡を取っていない。

 はっきり言えば、どこか後ろめたい気持ちがある。

 何があるでもないとは言え、京子の気持ちを知りながら、一矢と2人で何度か会った。どころか、部屋に泊まってしまった。

 そして紫乃は、一矢の気持ちがどこを向いているのかも知っている。

 どんな顔をして京子と会えと言うのか。

(京子ちゃんて、今も神田くんのことが、好きなのかな……?)

 だとすれば、自分は彼女にとってひどく目障りな存在になる。

 と言って、紫乃にとっての一矢の存在が、「友達やーめた」と言えるほど軽くもなくなっている。

 特別な意味ではない。変な意味などないはずだ。けれど、失うのは……痛い。

 ――神田くん、あたしのこと好きだって言ってくれたじゃない? ……何で?

 ――……。

 ――何で、あたしなんか、好きになったの?

 ――……知らない。

 ――……。

 ――手を貸してやりたいって思った。泣くのが嫌だった。笑って欲しかった。だけど、多分、本当は……。

 ――本当は?

 ――俺に、あんたが、必要だったのかもしれない。

 紫乃は、一矢に何をしてやったわけじゃない。何もしてやっていない。逆だ、と思った。

 一矢の手を必要としているのは、自分の方だ。

 追い詰められた心を、何度、一矢が掬い上げてくれたのだろう。

 唇を噛みながら考え込んでいると、2階の方から華やかな笑い声が聞こえてきた。女の子の声……Opheriaの、飛鳥の声だ。

 どこかの会議室にでもいたのだろうか。話しているのは多分、如月だろう。2人は、恋人同士なのだから。

(お。へーきじゃん? 結構へーきそうじゃん?)

 へら……とひとりで笑ってみる。無理矢理の笑顔……けれど、どうやら涙は込み上げてこない。

 そのことに満足を覚えて笑いを顔から消していると、飛鳥の声が階段を下りてきた。如月の声はもう聞こえない。ひとりごととは考えにくいから、誰かと一緒なのだろう。

 そう思って上げた顔が、微かに引きつった。

「お、はよ……」

「あー、紫乃ちゃーん。おはよー」

「おはよう、紫乃ちゃん」

 軽快な足取りで、飛鳥が階段を下りてくる。その後を追うように、控えめな仕草で京子が紫乃に微笑みかけた。

 それを見て、罪悪感がずっしりと肩に圧し掛かった。

「久しぶりだねー、何か」

「う、うん」

「あ、そのCD」

 そばまで来た飛鳥が、紫乃の手元を覗き込むようにする。

 しまった、と一瞬焦ったが、良く考えれば焦るようなことでもないはずだ。曖昧な笑みを浮かべて、紫乃は口にした。

「はは……今さっき、如月さんが」

「うん。買う時から、『絶対広瀬に受けるはず』とか言って、すっごい貸す気満々だったみたい」

「……そ、そうですか?」

「そう。……あたし、ほら、あんまり音楽知らないし」

 はは、と少し自嘲するように微笑むと、飛鳥は体を翻して自動販売機の方へ歩いていった。如月とは違って、こちらは飲料の自販機だ。

 自動販売機と真剣に睨めっこをしている様子に微笑んでいると、同じようにそれを眺めていた京子がふと紫乃の方を向いた。

「紫乃ちゃん、前は、いろいろごめんね」

「……え、え、え、いいいや、そんな。あたしは別に、何も」

「ううん。愚痴とか相談とか聞いてくれたし」

「や、別に……」

 非常に、居心地が悪い。

 こんな時、自分はどうするべきなのだろう。

 あまり一矢の話に触れないでくれることを心の中で祈っていると、京子が何か言いたげに視線を逸らした。それから迷うように口を開きかけて、また紫乃に視線を戻す。

「あ、あのね」

「はははい」

「あの……し、紫乃ちゃん、前にいろいろ相談に乗ってくれたから、その、話すん、だけど……」

「……はい?」

「あのね、あのね、わたしね」

 言いながら、京子の顔が赤らんでいく。

 訝しく思いながら京子の顔を眺めて続きを待っていると、京子が小さな小さな声で、早口で、告げた。

「一矢と、付き合うことになったの」

「……」

 黙って目を見開く。

 紫乃の反応をどう受け止めたのか、京子はたどたどしく「ごめんなさいッ」と頭を下げた。一層混乱する。

「え、え? ごごめんなさいって……」

「だって、紫乃ちゃん、やめときなさいって言ったでしょう?」

「あ、ああ……それ……」

 そう言えば言った。

「せっかく心配してくれて忠告してくれたの、無駄にしちゃったって感じで……」

「ううん、それは、その、別に……そんな、気にしないで。気にするような、ことじゃない……」

「そう?」

「……うん」

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