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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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第16話(5)

「お前と言う奴は……」

「出て行け次第、出て行く。もういっさいあんたの手は借りない。俺にも干渉しないでくれ」

「どこに……」

「どこに行こうが、知ったこっちゃないだろう? 二度とこんなことはごめんだ。俺があんたの言うことを今更聞くとは思わないでくれ」

「手に負えない性格は、母親似か?」

 嫌悪を浮かべた元春の顔に、父親らしさは感じられなかった。

 その言葉に、一矢は思わず失笑した。

「俺は俺。どっちでもねーよ。……さいなら。晴美たちによろしく」

 尚も何かを言いたそうに口を開きかけた元春は、やがて大きく息をつくと無言で一矢の脇を通り過ぎた。振り返ると殴りたくなる気がして、苦い思いだけを押し殺したまま、元春の気配が遠ざかっていくのを感じる。

 元春が一矢に振り込んでいた金の一部は、未だ、手を触れずに残っている。元々別に、豪遊がしたくて搾り取っていたわけではない。家賃や水道光熱費は自動的に消えていくものの、彼が生活費と称して振り込んでいた金は、最低限以外の金を適当に自分で稼いでいた一矢の手元に残っているのだ。

 ここを引き払うと同時に、それを元春の口座に叩き返してやろう。元春が振り込んでいるこちらの口座も、さっさと解約してしまおう。そう思いながらその場で動けずにいると、背中の方で軽い足音が聞こえた。

(何なんだよ、今日は……)

 そうでなくても、元々虫の居所が悪い。唇を噛んで閉じた瞳に、事務所の駐車場での光景がフラッシュバックする。

 苛々して、眩暈がした。畳み掛けるように、恋愛と夢、そして生活に足枷がはまっていくような気分がする。吐き気がする。……これで、辛うじて肉親と呼べる範囲にいた人間の全てを失う。

「一矢……?」

 単車のグリップを握り締めたままで立ち尽くす背中に、細い声が、投げられた。先ほど足音が聞こえたとは思ったが、自分の知人だとは思っていなかったので驚いた一矢は、その声に、顔を上げた。

「京子……」

 振り返る。一矢の視界に、純粋な心配の色を濃く浮かべた京子が立っているのが、見えた。

 先ほどの元春には……『父親と名乗る人間』には、微塵も読み取れなかった色だ。

「あの……」

「……いつから、いたの」

 掠れた声を押し出すと、こちらに向かいかけていた京子が迷うように足を止める。

「あの……」

「……」

「……15分、くらい、前から……」

「15分前?」

 では、一矢が戻って来る少し前と言うことになる。単車で通過してしまったから、気がつかなかったのだろう。

 問題はそこではない。ならば、京子は……。

「んじゃ、聞いてた?」

「……」

「さっきの」

 答えに迷うような顔つきをしていた京子は、ややして、躊躇いがちに頷いた。

「ごめんなさい……」

「べっつに。こんなとこで怒鳴りあってるこっちが悪い。気にしないで」

「……」

「……つっても、無理か」

 単車を片手で支え、苦笑いを浮かべながらくしゃくしゃと髪を掻き混ぜた。異性関係の揉め事や修羅場ならば乗り越える術を持っているものの、こんな場面の誤魔化し方を知らない。苦笑いを浮かべる以外になかった。

「お父さん?」

 それきり黙る一矢に、京子が遠慮がちに尋ねる。逸らしていた視線を京子に戻し、一矢は軽く肩を竦めた。

「本人はそう言ってますがね。まあ、ご覧の通り、うまくいっていないもので」

「……そう」

「こんなとこで立ち話も何なので、部屋にでも行きますか」

「あ、はい……」

「ちょっと待ってて。単車、置いてくる」

 何をしに来たのだか知らないが、ここに来たと言うことは何か一矢に用事があるのだろう。けれど、京子には悪いがどこかに出かける気分ではない。

 マンションの地下駐車場に下りて、単車を止める。先ほど込み上げた吐き気は、まだ胸の内を圧迫していた。

 わかっている。こんなものは、本当の吐き気などではない。ただの不安感が、形を変えてそう感じられるだけだ。

(ガキだな……)

 単車を停めたその場で、小さく自嘲した。

 成長過程の段階で、普通に存在するはずの家庭が崩壊しているせいで、恐らく大人な部分と子供の部分が、うまく融合できないままで乖離している。そのまま、年だけ成人してしまったのだろう。

 後ろ盾と言えるものが何もないと言う、不安感。

 通常ひとりで生活しているつもりの成人だって、故郷に帰れば笑顔で迎えてくれる家族がいる。何かあった時に自分の身を真に案じて、手を貸してくれる存在だ。

 それが、何もない。完全な孤独と言う奴だ。自分が死んだところで、葬式ひとつ挙げてくれる身内はいないだろう。……いや、今ならば、元春が世間体を考えて挙げざるを得ないかもしれない。晴美が泣くかもしれない。朋久が、手を貸してくれるかもしれない。

 けれど、それがこの先は、完全になくなる。例えて言うならば、そういうことだ。

 大きく息をついて、精神の安定を図る。

 それから、駐車場のエレベーターでマンションのロビーへ上がった。内側からドアを開け、京子を中に招じ入れる。

「お待たせしました」

「ううん……あの、いいの?」

「何が」

 今乗ってきたばかりのエレベーターに再び戻って、ボタンを押す。いつも思うが、エレベーターの扉が閉じると、やけに閉塞した気分になる。

「その……行っても」

「別に。そんなに散らかってるってこともないと思いますが」

「あ、うん……。……。……はい」

 気分が浮上しないので口を閉ざしたままの一矢と、やはり黙ったままの京子を乗せて、エレベーターが着いた。部屋の鍵を開けて中に入りながら、この先どうするか、考えた。

 この部屋から出て行く。

 勢いで口走ったこととは言え、そのことに異存はさしてなかった。

 もう、元春の顔を見たくない。自分の所在を掴めないようにしてしまいたい。そう願えばそれが最も確実だ。

 けれど、物理的にどういう手順を踏んでいけば良いかは、考えなければならないだろう。

(ビデオ屋のバイトだけじゃあ、心許ねぇなあ……)

 当たり前である。

(バイト、変えっかな……)

 もっと手っ取り早く稼げそうなものは、他にもありそうだ。

 知人ならば山のようにいるのだし、ろくでもない知識や経験を持ち合わせている奴らばかりだから、何か良い考えを授けてくれるかもしれない。

 退去するにあたって、契約書を見返してみなければならないかもしれない。まあ、すぐに引越しがどうにもならなくとも、居場所については何とでもなるだろう。元春の言うように異性のところに転がり込むつもりは今の一矢にはもうないが、『listen』でも『Release』でも、事情を話せばしばらく場所を借りることくらいは出来そうだ。誰かの家を転々とすることも可能だろう。

 部屋に上がりこんで無言のまま考え込んでいた一矢は、京子を連れて来たことを思い出してはっと顔を上げた。

「ごめん、京子?」

「はははい?」

「あ、いた」

 振り返ると、ぼんやりリビングに突っ立っている一矢に追従するように、京子もぼんやりとそこに立ち尽くしていた。突然声を上げた一矢に、驚いたように顔を跳ね上げる。

「とりあえず、その辺座れば? 何か飲む?」

 上着を脱いで床に適当に放り出しながら、キッチンへ向かう。京子が言われた通りにソファに腰を下ろしながら、「ううん」と返事をするのが聞こえた。

「まあ、そう言わず。付き合ってよ。ビールくらいしか、ないけど」

「うん……」

「安心なさって下さい。妙なちょっかいをかける気分じゃない」

 冷えた缶ビールを冷蔵庫から取り出して小さく笑うと、京子はまた、気遣うような色を瞳に浮かべた。

 彼女が、本気で自分を案じてくれているのが、今なら素直にわかる。素直に、受け入れられる。……現金なものだ。あの時は「そのテの同情が一番嫌いだ」と言っておきながら、同じところに安堵する自分がいる。

「ところで、今日は、どうなさいました?」

 缶ビールを差し出しながら近付くと、腕を伸ばしてそれを受け取りながら、京子が小首を傾げた。

「あのね、この前言ってたチケット、取れたから。教えようと思って電話をしたんだけど、出なかったし……。でも、早く教えてあげたいし、渋谷にいたから……行ってみようかなって思って……」

「あ、ほんと?」

 恐らく、単車に乗っている間だろう。携帯の振動など、単車の振動に比べれば可愛過ぎて気づく余地がない。

 携帯を引っ張り出してみると、確かに京子からの着信が残されていた。それから、啓一郎。

(あ、そうか……)

 それを見て、映画の試写会があったことを思い出す。

「どうしたの?」

「ん、いや、ウチのヴォーカルから電話があったみたいで。……ま、いっか」

「いーの?」

「うん。別に、連絡しなきゃらなんほどでもない。用件はわかってるし」

「そう?」

「今日さ、ウチの曲使ってる映画の試写会があって。それに行くかって確認の電話」

「え? い、行かなくていいの?」

 プルリングを引いていた京子が、慌てたように目を丸くした。どことなく大人びた空気を持つ京子がそんな表情を見せると、途端にあどけなく可愛らしく見える。

「いいんだ。……落ち着いて見れる心境じゃない」

 他のメンバーにとってそうであるように、一矢にとっても挿入歌となっている楽曲は大切なものだ。

 けれど、こんな精神状態で見に行った日には、曲を聴く度に今日の出来事を思い出しそうな気がして嫌だった。

 ファースト・シングルと言う大切な曲を聴く度に神崎と紫乃のキスシーンがフラッシュバックし、元春の顔が脳裏を過ぎるなど、考えただけでたまらない。

「そう……?」

「うん。……いつだっけ。それ。チケット」

「あ、ええとね、まだチケット取れたよって連絡だけで現物が届いているわけじゃないんだけど……。えぇと、4月。4月の6日」

「ふうん? じゃあ、予定空けとく。仕事にも強硬に抵抗する」

 京子の隣ではなく、やや斜向かいの床に直接腰を下ろしながら笑ってみせると、京子もようやくほっとしたように白い歯を覗かせた。

「ふふ。でも、無理しないでね」

「無理する」

「そ、そう? う、うん、じゃあまあ……止めないけど」

「誰にも俺は止められない」

 言い張る一矢に、京子が破顔した。今日、初めて京子の笑顔を見たような気がして、嬉しくなる。

「ん。じゃあ、楽しみにしててね」

「うん」

「良かった……」

「うん?」

「やっと、笑顔が、見れた」

 考えたことと同じことを言われ、笑いを飲み込む。優しく細めた京子の目に、一矢を想う気持ちがちらついている。

「あ……」

「うん?」

「……いや。その……ありがとう」

「え?」

「心配、かけたみたいで……」

 たどたどしく言うと、京子がまた優しく微笑んだ。そこに安堵を覚え、揺れる自分に呆れるしかない。

 自分の弱さとずるさを、痛感する。

 かつて面倒臭いと思った彼女の一途さと優しさが、今、確かに自分を掬い上げてくれているのだ。

 誰もいないと言う吐き気のような不安感の中、一矢を想ってくれる京子の気持ちが、確かに癒してくれているのだ。

「わたしが勝手に心配になっちゃうだけ。気に、しないでね……」

「……」

「一矢が少しでも元気になってくれたら嬉しいもの。わたしで出来ることがあったらするし、もしも話を聞けるなら……」

「……」

「……あ、ず、図々しいかもしれないけど。かか彼女なわけじゃないんだし、そんな出来ることなんか何もないかもしれな……」

 たどたどしく、一矢に合わせて自分の気持ちを押し殺そうと慌てる京子の姿が、切ない気持ちにさせた。

 いつもそうだ……自分は、京子に、どれだけ自分を押し殺すことを強いているのだろう。

 頼んだ覚えはないとは言え、京子は一矢の負担にならないように、自分の気持ちをストレートに表現することさえ押さえつけている。

 そう思えば、申し訳ない気持ちになった。彼女を傷つけることしかしない自分を、精一杯思い遣ってくれていると言うのに。

「……いいよ」

「え?」

「京子が、彼女でも」

「……え?」

 あたふたしていた京子が、凍りつく。

 目を見開いて一矢を見つめる京子に、一矢も黙って見返した。

「何……?」

「何って?」

「今、何……どういう意味?」

「……」

「わたしと……付き合ってくれるって、言ってるの?」

 脳裏にこびりついたリアゲートガラスの向こう。

 一矢の背中越しの向こうで、唇を重ね合わせていた紫乃と、神崎の姿。

 自分は、ずるい。

 そして、弱い。

 京子のことを好きになれると思っているわけではないのに、その優しさが欲しくなっている。

 その場凌ぎでも何でも良い。縋れるものが、欲しい。

「うん。……いーよ」

 痛い思いを飲み下しながら精一杯作った笑顔は、どこか、泣き笑いのようになったような気が、した。











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